そして、また春が来る

前を向いて

 藤原千尋、高校三年の春がやって来た。

 いつものように屋上でスケッチブックを片手に景色を眺めていると、後方から何やら声が聞こえて振り返る。


「あ、あの、藤原先輩」


 もじもじと恥ずかしそうに近づいてくるのは女子。おそらく新しく入ってきた一年の子だ。

 千尋が黙って様子を見ていると、その子は意を決したのか顔を真っ赤にして頭を下げた。


「その……っ、付き合って下さい!」


 他に誰もいない屋上に女子の緊張で上擦った声が響き渡る。

 千尋は頭を下げたまま微動だにしない女子を静かに見ていたが、ふいと視線を風景の方に逸らせた。


「ごめん」


 深く穏やかな声音だが、それでいてはっきりとした拒絶の言葉に、頭を下げていた女子はびくりと体を強張らせた。そして、一礼してから、何も言わずに走って校舎の方に去っていく。女子生徒が校舎内に戻り、屋上の扉が閉まると、風が吹いた。

 千尋は鉛筆を手に眼前の風景を模写しながら、ぽつりと呟いた。


「この前までモテたことなんてなかったのに」


 今の子で何人目だろうか。あの冬の日以降、千尋は妙にモテるようになり、ひっきりなしに告白されるようになっていた。

 鉛筆がスケッチブックに線を描く音と、吹き抜ける風の音、そして時折聞こえてくる鳶の鳴き声だけが耳に入ってくる。美大に進む気はないが、こうやって手を動かしていると、やはり落ち着く。

 そのとき、少し強めの風が吹いて、鉛筆を落としてしまった。そして、スケッチブックのページも捲れる。ちょうど一年ほど前に書いた絵が出てきて、千尋は不意に胸が締め付けられた。


『今度、私を描いてくれよ』


 人物画は苦手だと何度言っても、最後には必ずそう言っていた。結局、描いてあげることはなかった。

 転がった鉛筆を拾うことも忘れ、千尋は無言でその絵を見つめていた。



 ***


「千尋君達が組合に来なくなってもう三ヶ月になるのね」


 デスクで書類整理をしていた美里が呟くと、荘司は手に持った文庫本から顔を上げた。


「そうだねぇ……俺たちは、これを望んでいたはずなのに、どうしてこんなに微妙な気分なのか」

「千尋君と千景君の様子はどうなの?」

「んー? この間、お店に行ったら店番しててね。ちょうど春休みだったからか、二人とも揃っててさ。ちょっと話はしてきたよ。千景君はすっかり元通り……というか、順応してた。ただ、千尋君はね」

「……まだ立ち直れていないの?」

「ああ。だいぶ拗らせてるみたいだ。雰囲気もかなり変わってしまっていたよ」

「ショックからなのか、後遺症なのか……」

「両方でしょ」

「そうよね……」


 あの日、桜緋は璃桜を倒すため、自らと双子を結んでいた因果の力を利用した。しかも、桜緋は自らを璃桜と融合させ、半ば一人の精霊となった状態で、それを実行した。桜緋と璃桜……桜の精霊は、永い時を超えてきた強力な因果のエネルギーに身を委ねて、消滅した。

 璃桜だけを倒せば、それで良かったのではないかとも思われた。桜緋の犠牲は必要だったのかという点については、今も疑問は残る。けれど、死んでしまった者に問うことはできない。だが、考察することはできる。

 まず、桜緋は璃桜を早くに仕留めなかった自らの不始末をずっと責め続けていた。その責任を取ったと考えられる。また、桜緋は桜の精霊だが、陽気のみを司る精霊だった。そして、璃桜は桜の陰気を司る精霊。片方だけが消えたら、自然界に何らかの影響が出るかもしれない。その危険を考慮して、自らも消えることを選んだか。

 どっちにしても、桜緋と璃桜の二人が死んだ。残された事実はこれだけだ。

 また、桜の精霊との因果が消えたため、双子はただの人間に戻った。並外れた霊力も、精霊化した肉体も、全てが元に戻った。けれど、深く関わっていただけに、因果を失ったことで、双子は――主に千尋は、不安定になった。千景は霊力を失ったことに、最初は違和感を覚えていたようだが、今では普通の高校生である自分を好意的に受け入れて暮らしている。

 ただ、千尋は重症だった。因果という要素が人間にどのような影響をもたらすのか、それは解析不能で誰にもわからない。けれど、千尋の憔悴しきった姿は、因果という存在の大きさを物語っていた。さらに、千尋は一時的にでも完全に精霊化してしまった。その後遺症もあって、千尋の性格は大きく変わってしまった。

 荘司は徐にテーブルに置いてあったカップを手にしてコーヒーを啜った。


「……友人を失ったんだ。それだけでも十分辛い」

「さらに、因果の消失や精霊化による後遺症。……性格が変わっただけで済んでいるのは奇跡かもしれないわね」

「本来、俺達は彼らを、こちらとは無縁な普通の人間にしてあげたかったはずなのに……皮肉なものだ」


 二人は組合に協力する意思を持っていたため結局話さなかったが、組合の一部では、何らかの術を行使して彼らと桜との因果を断ち切るといった話も出ていた。精霊との前世から結ばれた因果という得体の知れないものを此の世から消そうという考えが組合内には確かにあったのだ。荘司はそれをやるなら自分がやろうと思っていたし、美里もそれに異を唱えることはなかった。

 もし、桜緋や千尋達が組合に反するような動きがあれば、それは実行されていただろう。


「彼女との因果さえなければ、彼らは普通の人間だった。……この考え方自体が間違いだったのかもしれない」

「因果は立派な運命だった、か」


 ***


 放課後、家に帰ろうと校門につながる道を歩いていたとき、何やら校門前が騒がしいことに気づいた。


「おい、あれってこの間、卒業した……」

「なんでいるんだ?」

「うわ、私服姿も超可愛いじゃん。あれが毎日見れるなら、俺も同じ大学目指そうかな」


 行き交う生徒達が小声で言葉を交わしている。千尋は自分には関係ないと目を向けることもなく立ち去ろうとした。

 すると、不機嫌そうな声とともに腕を掴まれた。


「ちょっと、どれだけ性格が捻じ曲がったのよ。私のこと堂々と無視して帰ろうとするなんて」


 顔を上げると、元学校のマドンナが挑戦的に微笑んでいた。


「志摩先輩」

「久し振り。酷い顔してるわね」

「先輩こそ、相変わらずの怪力ですね」


 千尋の憎まれ口を聞いた和葉は目を丸くし、そして声を上げて笑った。


「あっはっはっ……藤原君、随分と言うようになったわねぇ」


 その目は全く笑っていなかった。

 その後、千尋は和葉に先輩に対する非礼を詫びろと半ば強引に駅前まで連行され、手ごろな喫茶店に連れ込まれた。そこでの勘定は全額千尋持ちだ。

 和葉は日替わりのケーキセットを頼み、千尋はコーヒー一杯だけだ。運ばれてきたタルトを即食べ始める和葉を見て千尋は苦笑した。


「何?」

「いえ。写真撮ったりしないんだなと思っただけです」

「美味しいものは早く食べたいじゃない。写真撮ってたら時間が勿体ないわ。そんな待てない」

「先輩らしいです」


 静かにコーヒーカップに口をつけている千尋を見て、和葉は表情を硬くした。以前とは全く異なる雰囲気。霊気も以前のものとは変質している。これはどう考えても、精霊化による後遺症だ。けれど、憎まれ口を叩いたり、可愛げのない態度をとったりする点については、少し思うところがあった。


「……この前の」


 和葉も紅茶を口にしつつ、本題を切り出した。


「あの戦い。あれが藤原君にとって辛いものだったのはわかる。でもね、だからって、いつまでも拗ねていても何も変わらないのよ」

「僕、拗ねてるように見えますか」

「ええ。……だって、まだ桜緋が消えたこと、受け止め切れていないでしょう」


 そこで千尋の表情から余裕が消えた。叩かれたような顔をして、目を逸らす。

 和葉は溜息を吐いた。そして、事実を突き付ける。


「桜緋は死んだ。これは変わらない。貴方がどんなに後悔しようと、懺悔しようと、それは変わらないのよ」

「……」

「それに、私からしてみれば、貴方が後悔や懺悔する理由がわからないわ。桜緋は自分の意思で、責任で、死を選んだ。貴方がどうこう言える立場じゃないのは明白でしょう」

「けどっ」


 千尋は目元を両手で覆った。泣き顔を見られたくなかったし、何よりも外で泣く自分が情けなかった。

 和葉は気づいているが、店員や他の客は千尋が泣いていることには気づいていない。店の中を流れるバラードが、ますます涙を溢れさせる。

 わかっていた。桜緋が死んだのは彼女自身の意思であって、自分には何の責任もない。けれど、もう彼女がいないという事実を受け止めたくなかった。そして、自分とは何の関係もないということも、考えたくなかった。彼女を失って、日に日に自分が変わっていって、もうどうすればよいか……

 和葉は黙ってバッグからタオルハンカチを取り出して、千尋の前に置いた。千尋は小声で、すみませんと詫びてからそれで涙を拭った。


「……事実は、変わらないわ」


 そう言って和葉は立ち上がった。いつの間に食べたのかタルトの皿は空だ。


「その涙に免じて今日は奢ってあげる。……時間をかけてもいいけど、いつか事実を受け止めなきゃダメよ。人間として生きられなくなるから。精霊に縛られすぎると」


 それは私も同じ。だけど、貴方はもう精霊から解き放たれた。普通の人間としての人生を、歩まなければならないのよ。

 和葉が立ち去ってからも、しばらく千尋は席を立つことができなかった。


 ***


 それから数日経った夜。千尋は普段通り床に就いた。


「……ここは」


 闇の中。だが、街灯のような光が所々に浮いている。蛍に似た黄緑色の光がぼんやりと辺りを照らしている。足を動かすと、さくりと音がした。何かが足元に敷き詰められている。膝をついて、それを拾い上げてみた。妙に現実味のある夢だ。

 足元を覆っているものは花弁だった。それも、桜の。


「っ、まさか……」


 すると、後ろから、かさりと花弁を踏み締める音がした。反射的に振り返る。

 そこには、細い人影があった。大きな布のようなものを頭から被っていて、口元しか見えない。薄い唇に浮かんでいるのは微苦笑だった。

 顔がきちんと見えないが、千尋は闇の奥から歩いてきた人物が誰であるかわかっていた。震える声で名を呼ぶ。


「桜緋……」


 呼ばれても、桜緋はその場から動かなかった。ただ、一言。


「久しいな」


 と言っただけだった。

 これは都合のいい夢なのか。千尋が痺れを切らして駆け寄ろうとするも、足が地面に縫い付けられたように動かせない。

 悔しさに歯噛みしていると、桜緋がそっと口を開いた。


「何故、私がここにいるか、わかるか?」


 千尋が顔を上げて桜緋の口元を凝視する。微苦笑を浮かべた唇からは何も読み取れない。けれど、確認したいことはあった。


「本物、なのか?」

「そうだな。この私は本物なのか、偽物なのか。そもそもが怪しい。お前の夢が作り出した妄想の産物かもしれん」


 面白そうに、おちょくってくる桜緋に確信する。この桜緋は本物だ。

 そして、桜緋からの問いについて考える。何故、夢に現れたのか。なんとなく、わかるような気がした。


「……おちおち成仏してられなかった?」

「まあ、及第点だな」


 桜緋は被っていた布を外して素顔を晒した。生前と全く変わらない桜緋の整った顔が現れる。


「私は死んだ。そして、何も残らず消えるはずだった。こんな亡霊になってまで、お前と話をする予定はなかった」

「桜緋、俺は」

「私は死ぬことを受け容れた。死ななければならないと思ったからな。お前が精霊になったことなど、関係なく。私は死ぬ運命だった」


 千尋を精霊から人間に戻す。それも確かに、死を選んだ理由に含まれる。けれど、それを告げれば、千尋は永遠に前に進めなくなるだろう。

 桜緋は迷子の子供のような顔をしている千尋を真っすぐ見つめた。新たな桜の精霊が、どこかで既に誕生している。もう、自分が生きる理由はない。だから、千尋がどんなに情けない顔をしようと、また共に生きることはできない。それに、千尋は精霊との縁が切れた。もう、千尋は普通の人間、人の子だ。その人生を歩まねばならない。

 千尋の抱く未練と後悔。それが桜緋の消滅を阻んでいた。璃桜はとっくの昔に無に帰したというのに。


「私はもうすぐ消える。完全にな」

「……こうやって夢で会うこともないってこと?」

「私に依存するな。お前は人だ。人としての生を歩め」

「でも、僕は桜緋の大切な人と同じ魂を持ってて」

「その因果は既に切れた。私とお前は他人だ」


 それに、と桜緋は付け加える。


「義行とて、璃桜に襲撃されて以降は死ぬ間際まで私と会うことはなかった」


 自分と関わることで義行の身は危険に晒される。そう思って、義行と距離を取った。


「そうしたら、彼奴は人として生きた。私はそれが嬉しかった」


 人と関わることを不得手としていた友人が、女を愛し、子に恵まれ、晩年まで幸せそうに生きていた。自分と関わらないことで、彼は幸せな人生を全うできた。だから。


「千尋から、幸せを奪いたくない」


 その未練は、ここで振り切ってくれ。


「千尋には幸せな人生を送ってほしい」


 その後悔は、もう捨てていい。


「私を乗り超えてくれ」


 そうすれば、私は安心して眠ることができる。


「千尋」


 桜緋が千尋に近づき、その頬に触れた。


「戸惑いながらも、私の友になってくれたこと、感謝している。これまでの日々、とても楽しかった。転生というしがらみに縛り付けてしまい、すまなかった。もう、これからは自由に……幸せに、なってくれ」


 轟音とともに暴風が吹き荒れた。地面を覆っていた花弁が舞い上がり、桜緋の姿を隠す。千尋は目に塵が入り、目を開けていられなくなった。顔にぶつかる花弁を振り払いながら叫ぶ。もう、これが最後だから。


「桜緋が、ここに来た理由!」


 桜緋が風の中こちらを振り返っているような気がする。


「励ましに来てくれたんだろう⁉ 前を向いて、精一杯、生きろって!」


 桜緋が笑ったような気がした。そして。


「ああ!」


 その言葉を最後に、その夢は終わった。

 千尋は、それを機に変わった。以前よりも雰囲気が明るくなった。進路について真剣に悩み、告白してくれる女の子に真っすぐ向き合った。

 ある日、久々に魁斗が皆でピクニックでもしようと言い出し、久里浜はなの国に行くこととなった。親子連れやカップルが多い中、千尋と魁斗、魁斗の妹の千歳はベンチに座ってサンドイッチを食べている。この幼馴染組で集まるのは久しぶりのことだ。


「お前、この一年でいろいろあったみたいだな」

「気を遣わせたのは悪いと思ってる」

「桜緋さん、いなくなってしまったの?」

「うん」


 近くにある桜の木には新緑が萌えて、太陽の光にキラキラと輝いている。千尋はそれを見て、自然と顔を綻ばせた。


「彼女はいなくなったけど、僕は前に進まないと」

「前みたいに、いちいちウジウジしてたら怒られそうだよな」

「それもある。けど、何より」


 千尋の笑顔から逞しさを感じて、兄妹は目を丸くした。以前では見られない類の明るく、真っ新な、清々しい笑みだった。


「僕は、精一杯生きるって決めたから」


 若者は、これからも長い生を一生懸命に力強く、歩み続ける。

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桜花繚乱 土御門 響 @hibiku1017_scarlet

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