愛する者たちへ

 桜の舞い散る世界で、千尋は微睡んでいた。ここにいると、不思議と眠くなってくる。抗い難い心地良さが全身を包んでいた。

 少し離れたところでは、それに抵抗しようと藻掻いている者もいたが、もうそれが誰なのかすら、千尋はどうでも良くなっていた。


「そう。それでいい、千尋。私に全てを委ねろ。お前は安心して眠るといい。私の腕の中で」


 耳元で優しく囁いてくるのが誰かくらいはわかる。千尋は辛うじて瞼を持ち上げた。


「桜緋……」


 桜緋は目の前で優しく微笑んでいた。

 千尋は仰向けに寝転んでいる。千尋を押し倒す体勢になっている桜緋。その髪が幾筋か顔に垂れてきて影を生み、微笑んでいる桜緋の目元が少し暗く見えた。よく見えないその目元が濡れているような気がして、千尋は緩慢な手つきでそこへ手を伸ばす。目のわき辺りを親指で軽く拭ってやると、桜緋は驚いたように瞬きした。そして、苦笑を零す。


「ありがとう」


 何故、そんなにも寂しげなのか。

 その時、眠気が強くなった。目を開けていられない。何故か、今眠ったら後悔するような気がする。けれど、猛烈な眠気はあっという間に千尋の意識を攫っていった。

 押し倒すのをやめ、傍に正座した桜緋が眠り始めた千尋の頭を優しく撫でている。その動きはどこか機械的で、それなのに表情に浮かんでいる慈しみは本物だった。


「姉さん……分身まで作って、ほんと、何する気……」


 地面に倒れて喘いでいた璃桜が上空で舞い続けている姉に問う。

 すると、千尋の傍らにいた桜緋の姿が花弁となって消えていった。本物の桜緋は、ずっと宙で霊力を放出しながら舞っている。

 桜緋は話しかけてくる弟をちらりと見て、舞うのを止めた。そして、その頭上に移動する。璃桜の両脇に手を差し入れ、仰向けに寝かせ直す。

 璃桜は屈辱に顔を歪めたが、桜緋の表情は極めて冷静だった。仰向けになった璃桜の頬に触れ、微かに顔を曇らせる。


「この戦いに心を寄せる者達の祈りを以てしても、お前の魂は浄化できないのか……」

「精霊は願いと祈りの具現、か。なるほど、節操なしに祈りの力を吸い上げて、こんな真似ができたってわけ」

「私は、もうこれ以上先延ばしにはしない。どんな方法を用いても、陰に染まり切ったお前を倒す」

「やって……みろ」


 悪態をつくが、かなり消耗していることは明らかだった。桜緋の霊力に璃桜が影響されている。桜緋は困ったような顔で璃桜を見下ろした。その顔が妙に馴れ馴れしく感じ、璃桜は不快感を露にした。


「なんだよ、その顔……」

「お前、自覚がないのか」

「何の、ことだ……」

「私の霊気に触れていて、自分の性質が変質してきていることに」

「なっ……」

「抗おうなどと思うなよ。それはできないし、させない」


 桜緋は再び舞い上がり、空中から眠っている千尋を見下ろした。


「どんな方法であろうとも……」


 穏やかな顔で眠っている千尋を見ると、その覚悟が揺らぐ。自分のやろうとしていることは、そういうことだ。けれど、この方法でなければ、もう璃桜を倒すことはできないだろう。


「ごめんな」


 私は、お前を利用する。

 桜緋は右手を掲げた。掌に白い球体が現れる。霊力の塊だ。そして、それを天井に向かって放った。

 霊力は結界にぶつかり、空間が大きくたわむ。結界中に降り積もっていた桜の花弁が轟音を立てて一気に舞い上がった。大量の花弁が、たわんだ一点に集中して白煙を上げる。しばらくすると、耐えきれなくなった結界にひびが入り、欠けた部分から花弁に変わっていく。その時、もう結界は崩壊していた。外の声も聞こえる。


彼奴あやつめ……わっちらの結界を自らの霊力に変換しおった!」


 梅妃の憤る声に桜緋は苦笑する。今度会ったら詫びねばなるまい。きっと、ねちねちと嫌味を言われることだろう。

 白い球体だった結界は内部から破られ、その破片は残すことなく桜の花弁へと変わっていく。璃桜と千尋の体は桜緋の近くに浮いていた。そして、桜緋は手を振り、璃桜の体だけ遠くに追いやる。


「何する気だ、姉さん!」

「言っただろう。お前を倒す、と」


 その声に応じて、辺りに舞っていた大量の花弁が音を立てて集まった。それらは渦となり、璃桜の体を飲み込む。


「お前を変質させたのは桜の強力な陰気。なら、強力な陽気で捻じ曲げれば良いだけのこと!」


 その叫びに千景を抱きかかえていた荘司が眉を寄せた。その程度のことで済むなら、これほどの戦いなどする必要がなかった。それができないから、真っ向勝負を挑んだというのに。けれど、桜緋が悲しそうな目をして自分の傍に浮いている千尋を見ているのに気づき、胸がざわついた。桜緋は何かとんでもないことを実行しようとしている。直感だった。


「待て、桜緋! 何をする気だ!」


 桜緋は何も答えなかった。行動で示すといわんばかりに腕を振る。

 すると、桜緋の肉体から新たに大量の花弁が現れ、荘司目がけて突っ込んできた。さらに、花弁は周囲にいた魑魅魍魎もまとめて飲み込み、一瞬で浄化してしまった。その場にいた皆が桜緋を見上げる。唯一、荘司は花弁に飲まれ、それができなかったが。


「っ、一体何を……」

「わっ」

「千景君⁉ まさか……!」


 花弁が去っていった後には、荘司の膝の上で体を休めていたはずの千景が消えている。やはり、桜緋の狙いは千景の体だったか。花弁は桜緋の元に戻り、霧散した。その中から意識を失った千景が現れる。千景は千尋と同様、桜緋の傍に浮かされていた。


「これで用意はできた……」


 桜緋は呟き、全身から比べようもないほどの花弁を出現させた。皆の視界を荒ぶる桜が奪う。


「っ、兄さん!」


 悠司に桜を退けるよう頼むも、それは叶わなかった。花弁は触れた者の精気を吸い上げ、意識を奪っていった。荘司は自身の視界が暗転する直前に桜緋の声を聞いた。花弁が吹き荒れる轟音の中でも、その声は嫌にはっきりと耳に届いた。


「……見ていれば、止めるだろうからな。お前達は」


 そこで、荘司の意識は途絶えた。


 ***


 桜緋の花弁は莫大な量で、それらだけで一種の結界を生んでしまった。花弁が散り積もり、天からはまた花弁が降ってくる。美しい花の盛りだった。

 桜緋は花弁の上にへたり込んでいた。ここまで来るのに十分すぎるほどの無茶をした。いつ完全に霊力を使い切って自分が消えるかわからなかった。もう、一切の保身をしていない。自分の生命活動維持に必要な霊力も全て注いでこれを成している。


「……っ、さすがにきついな」


 息を細く吐き出して、どうにか平静を保つ。均衡を失えば、自分の存在ごとこの結界は瓦解するだろう。

 桜緋が顔を上げると、近くに璃桜が転がっていた。桜緋の霊力で魂の性質が揺らぎ、消耗したのか、完全に意識を手放している。その体からは邪悪な陰気が未だに漏れ出ていた。その反対側には千尋と千景が横たわり、双子らしく息ぴったりに静かな寝息を立てていた。


「始めるとするか」


 桜緋は膝に力を入れて立ち上がり、璃桜の体を抱き上げた。自分と大して変わらない体格をしているため、担ぎにくい。赤子を抱っこするように正面から抱きかかえて、どうにかバランスをとった。すると、桜緋の魂を感じたのか、璃桜の体がびくりと痙攣した。じわじわと、その体から陰気が溢れてくる。本能的に、陽気の性質を持つ桜緋を侵食しようとしているのだ。璃桜はかなり弱っている。生き延びるために手近な生命力を侵し、貪ろうとする。

 璃桜から溢れる陰気が肌を刺すと、火箸で突かれるような鋭い痛みを感じたが、あくまでじっと耐える。反撃はしない。

 陰気がじっくりと時間をかけて肉体を侵食していく。艶やかで健康的な色の肌が陰気に汚染された部分は灰色に染まる。手や肩から侵され、しばらくすると首や頬も変色した。胸や腹も冷たくなってきて、それと同時に胸の奥に激痛が走る。


「ぐっ……」


 陰気が桜緋の中枢に到達しようとしている。このままにすれば、魂も貪りつくされ、やがて肉体は形を失い、璃桜の一部となる。桜緋は、決してそうなるつもりはない。


「ここまで融合すれば……」


 璃桜の陰気が桜緋を侵食し、喰らおうとしている。これは融合と変わらない現象だ。今の桜緋は璃桜と一つになりかけているといった状態。この状態になれば、桜緋が考えている璃桜の打倒方法を実行できる。

 桜緋は激痛を耐えながら、眠っている双子に目をやった。彼らの存在は、これから行う方法に必須だ。けれど、失敗すれば彼らは命を落とすだろう。

 双子の傍に向かおうとしたとき、頭を殴られたような衝撃が走った。璃桜を抱いたまま、桜緋が転倒する。


「急がないと、私の方が先に呑まれる……!」


 璃桜を抱き締めて、桜緋は地面を這う。もう起き上がる力もなかった。すると、胸の中から囁くような声が聞こえた。


「姉、上……」

「しまった……!」


 桜緋を侵食したことで回復し、璃桜の意識が戻ってしまった。しかし、その声に桜緋は違和感を覚える。先程までの邪悪さがない。

 まさかと思い、桜緋は胸に抱いた弟分の顔を見る。そこには邪な笑みを浮かべた元精霊ではなく、本来の姿を取り戻した自らの片割れがいた。


「璃桜……」

「姉上、ただいま……戻りました」


 そう言って見せる無邪気な微笑みは、かつて失われた笑顔そのものだ。

 これは奇跡か何かかと桜緋は思った。それとも、璃桜という器を生き長らえさせるための闇による罠か。

 璃桜は自身が永いこと、どのような状態にあったか把握しているらしく、酷く傷ついたような顔をしている。けれど、璃桜の意思は桜緋と同じらしい。桜緋から離れないことがその証拠だった。


「俺は、精霊でありながら陰に呑まれ、闇の傀儡へと堕ちました。もう、これ以上の生き恥を晒し、罪を重ねていきたくはありません。俺の行ってきたことを清算するには、姉上が今なさろうとしている方法のほかない、かと」

「璃桜……」

「姉上、急いでください。俺の正気がいつまで保てるかわかりません」

「しかし」

「……その方法なら、そこにいる姉上のご友人もきっと救えます。姉上も、そう思って、この方法を選んだのでしょう?」


 璃桜は目を閉じて、静かに告げる。


「俺を殺して、彼らを解き放ってください」


 桜緋は頷いた。けれど、璃桜の言葉には少し誤りがある。


「何を言っている。死なば諸共だろう」


 呆れた口調で言い返すと、璃桜の顔が歪んだ。自分のせいで、と言わんばかりな表情に桜緋は釘を刺した。


「言っておくが、お前との蹴りをつけるときは必ず相討ちと前から決めていたんだ」

「姉上……」

「謝るな」


 桜緋はもう黙れと、璃桜を睨みつける。


「時間がないんだろう? なら、早くやってしまわないとな」

「……姉上、怖くはないのですか」

「ああ」


 永い時間を生きてきた。だから満足とも思わない。ただ、生への執着を放棄した。それだけだ。

 桜緋は大人しくなった璃桜と二人で地面を這い、双子の傍に横になる。桜緋が手を振るうと、双子の体が強く輝いた。

 白い光が辺りを覆う。舞い散る花弁も、降り積もった花も、すべてを白が染める。そして、四人の姿すら光に隠れて見えなくなった。


 ***


 奇妙な浮遊感があった。無重力というのは、このような感覚なのだろうか。宇宙に行ったことがないので、これが無重力というものなのかわからない。ふわふわと漂う。塵のように。

 そして、次に身を裂かれるような痛みが走った。痛かった。けれど、眠りは終わらない。無理に眠らされているのか。どんなに痛くても、それを感じるだけで、眠りから目覚めて原因を知るということができない。

 だが、匂いは感じていた。甘い匂いがしていた。菓子のような濃厚な甘さではなく、微かに香る花のそれ。

 花。それは、よく知っているものだ。この、花の匂いは。


「桜……」


 千尋が目を開けると、闇があった。自分の体が白く光っていて、傍には千景も寝ている。二人とも、宙に浮いていた。

 不意に、桜の匂いが強くなった。抱き締められているような温もりと傍にいるような強い香りが身を包む。姿は見えないが、確実にいる。

 千尋は自分を抱き締めているであろう者の名を呼ぶ。


「桜緋?」


 隠形しているのかと思ったが、そうでもないらしい。桜緋はいつものように姿を見せない。ただ、その存在だけが感じられた。

 千尋の声に桜緋は答えない。しばらく温もりを感じていたが、次第にそれは離れていく。それに従って、千尋と千景の体が光を失っていった。

 力が失われていると、千尋は理解した。自らの身に宿る力が桜緋が去るのに合わせて消えていく。

 璃桜を倒したのだろうか。それも違うような気がした。

 だが、光が消え、闇だけが残ったとき、ふと千尋は察した。

 桜緋はもう二度と、自分の前には現れないだろう、と。

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