「この旅籠、今はあたしひとりだけど、元はお父っつぁんが仕切ってたんだ。ここらじゃいちばん古顔で、旅籠屋仲間の纏め役だった」

 旅籠の客間で茶を供しながら、お涼は蔵人に説明する。

 あちこち古びた印象は否めぬ建物で畳もかなり日に焼けてはいるが、掃除はきちんと行き届いていた。

 旅慣れた者であれば、苦境の中でも客を迎える準備を怠らず、部屋の手入れに心を尽くしているのが窺えただろう。

「勘兵衛の奴は、元々はちゃんとした主持ちの侍だったって噂でね」

「それでか。何だか、変な名前とか言葉とか、いろいろ知ってるみたいだったな……うん。上手い。腹が癒える」

 暖かい茶を含み、蔵人は頷いた。

 むず痒いのか。眼帯にした鍔の周りを、一本指でこりこりと掻く。

「それが国元で何か不始末をやらかした末に、ここに流れてきたらしい。どこの縄張りでもない小さな町なのをいい事に一家を立てて、仕切ろうとしてんだ。町の利権だけじゃない。いかさま賭場まで開いて、旅の人の身ぐるみ全部巻き上げようって腹さ」

「そいつぁ、宜しくねぇな。間抜けの所行だ」

「だろ? お父っつぁんも言ってた。素人がヤクザの真似事しようとしてるだけだって」

 蔵人の言葉に、お涼も頷く。

「もっとでかい、人や金が始終行き交う宿場ならいざ知らず、小さな町で根こそぎ攫うようなやり方をしても、ただ枯れ果てるのが早まるだけだろうによ」

 嘲笑混じりで、蔵人は呟いた。

 旅から旅の無宿渡世と異なり、ヤクザは縄張りを持ち、その土地に根ざしてこそ。利益の源となる地元の堅気や旅人を食いつぶしては生きていけるものではない。

「けど、業突く張りの勘兵衛は納得しなかった。半年くらい前、破落戸ごろつきを集めるようになって、お父っつあんも死んで……」

「勘兵衛が、やったのか?」

「あたしはそう思ってる。表向きは、夜中に川に落ちて溺れたって事になってるけど……」

 お涼は、目を伏せた。

「それからさ。連中のやり口が荒っぽくなったのは。役人も鼻薬かがされてるのか見て見ぬふり」

 それでも勘兵衛のやり口にお涼が屈していないので、町の皆は向こうになびかず様子見をしていると、お涼は付け加えた。

「……そうか」

 それっきり、蔵人は黙り込む。

 気まずいとも言えない、空虚な沈黙の時が流れた。

 空の湯飲みに残っていた温もりも完全に冷めきる頃、ようやくお涼が口を開いた。

「ねえ。あんた、渡世人なんだよね?」

「その言葉は、あまり好きじゃねえ。どうせなら無宿って言ってくれ」

 返答に、お涼は小首を傾げた。

 むしろ柔案詞にゅあんすとしては無宿の方が蔑称。粋がった自称が渡世人というのは、宿を営む中で感じ取っている。

生国うまれは、どこ?」

「訊いてどうする?」

「うちは堅気だけどさ。渡世人同士って仁義切ったりするでしょ?『お控えなすって。手前生国と発しますは』とかって」

 冗談めかした戯けた口調で、お涼は笑う。

 人別帳に載らぬ渡世人でも、例えば捕縛された際など身元を確かめねばならぬ事もある。本人は無宿になっていても故郷に家族や昔なじみが残っていれば、最低限の証を立てる便よすがにはなる。

「ああ、あれか。俺は、あの手の作法は大嫌いでな。義理だの何だのってのはご免だ。どこかに草鞋預ける気もない。好き勝手に、流れながれて生きている」

 考えてみれば、無宿者なら普通は土地の親分である勘兵衛に挨拶し、向こうの世話になるのが自然だ。宿で正規の料金を払うより路銀が節約できるし、無駄な揉め事も避けられる。

 蔵人が変わり者だからこそ、お涼は救われたとも言えるのだ。

「そうだな……。俺の生国は、天下だ。この空の下、どこでも構わない」

「何なの、それ? 可笑しい。ずっと旅してるなら、大坂に行った事はあるの? お江戸は?」

「……まだだが、そのうちにな」

 お涼への返答ではない。

 唄うように、蔵人は独りごちた。

「行く当てがないなら、うちの用心棒になってくれない?」

「生憎だが、お断りだ」

「どうしてよ? どうせ勘兵衛一味とはやり合う事になっちゃったんだし。守ってくれるなら、飯や寝床の面倒くらいみさせてもらうよ」

「義理だの人情だのしがらみだのってのは苦手でね。俺の勝手で嫌いな奴には遠慮無く喧嘩を売るが、役目に縛られるってのはまっぴらだ。どこへでも、好きなところへ好きなように旅する」

「……そう。それなら、仕方ないね。無理強いはできないし、一度助けてもらっただけでも御の字」

「だから助けたんじゃねえよ。俺の、喧嘩だ。連中が気にくわないってだけさ」

 蔵人は、苦笑して天井を見上げた。

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