一
徳川の天下も代を重ねて四代将軍家綱の治世ともなれば、戦国の蛮風は鎮まり、世の形も落ち着き、整ってくる。
形が整う時にははみ出しは削られ、
世の仕組みが強固になるにつれ、そこから外れた者たちが澱み、集い、陰の秩序を形づくっていく。
それは例えば、町や村に根付いて縄張りとして支配するやくざ者の存在であり、更にはひとつところに留まらず流浪する、無宿の渡世人たちである。
この頃整備が進められている宗門人別改帖により、民はいずれかの寺の門徒とされる。これによって管理され、制約を受けると同時に、身元が保証されるのだ。
だが、何らかの理由で正規の手続きを経ずに住地を離れる者もいる。
飢えや貧しさから土地を捨てる者。罪を犯し逃走する者。勘当され追放された者。
彼らは人別帳からも除外され、故郷から切り離され、何にも属さぬ無権の人間として扱われた。
それが、無宿者だ。
峠道の半ば、山越えをする者が息を継ぐ小さな宿場街。
この程度のささやかな規模でも、人と金と物が行き交う場所だ。むしろささやかなればこそ、役人の目も手も及ばない。
日も中天を過ぎた頃、小さな宿屋の軒先で桶が蹴転がされた。
水をばらまきながら音はどんどん軽くなる。
「何すんだよ!」
「おおっと。悪いな、お
お涼と呼ばれた若い女の怒声を、斜に構えた風体の
「おいおい。お前ら、可哀想じゃあねえか。こんな先のねえ旅籠に迷惑かけたりしてよ」
「……勘兵衛……」
更に五人の手下を引き連れ、芝居がかった形ばかりの鷹揚さで現れた壮年を、お涼は鋭い眼差しで睨む。
「お涼。そろそろ考え直せ。こんな小さな宿場に旅籠はそうそういらねえだろ? どうせ客もいねえんだし」
「うちに客が来ないのは、あんたらが強引にかっさらってるからじゃないか!」
お涼が反論する。
「そりゃ負け惜しみってもんだぜ。貧乏宿無理に支えてるより、勘兵衛の旦那のところで飯盛女やった方が稼げるぜ」
下卑た笑みを浮かべた破落戸が強引に顔を寄せた。
お涼は眉根を寄せて振り払う。
ちょっとした騒ぎに人が集まるものの、誰も関わろうとはしない。ただ遠巻きに眺めているだけだ。
「何じろじろ見てやがんだ!」
ひそひそと話す者には、勘兵衛の手下が怒鳴りつける。
だが--。
「見られて困るなら、昼間っから往来の真ん中で大声立てる事ぁないだろ?」
不意の声に、人々の視線が集まる。
三度笠に縞合羽に覆われているので人相風体は判らない。だが、声音と所作で若い事だけは窺える男だった。
「余所者が、余計な口を挟むんじゃねえ!」
「おやおや。宿場にとっちゃあ余所者ってのは飯の種じゃあないのかい?」
からかう口調で、男は大げさに肩を竦めた。
「どうやらあんたのところは旅籠らしいな。風呂はあるかい?」
「は、はい!」
「そいつぁありがたい。じゃ、今夜泊めさせてもらうぜ」
頷くお涼に、三度笠は
「止しな、兄さん。宿なら、勘兵衛の旦那のところにしなよ。飯も美味いし女だって世話できる。風呂だって広い」
「俺は、風呂は狭い方が好きなんでね」
「そう言うなって!」
桶を蹴った
しかし、男はするりと滑るような動きで躱すと、
ただ倒れるのではない。
蹴られた
「おおっと、すまないな。どうもこの道は躓きやすいみてえだ」
ひゅう、と三度笠の内から口笛が響く。
「てめえっ!」
腰の脇差し、懐に呑んでいた匕首。得物は様々だ。
「やれやれ。無駄な喧嘩は御免被りたいんだがな」
苦笑しつつ、三度笠を投げる。
露わになったのは、異相。
顔立ちは端整だ。旅暮らしとは思えぬほど色白で彫りが深く、役者になっても食っていけるだろう。癖のある髪は、
だが、右目が塞がれていた。
古い安物の鍔を、眼帯にしているのだ。
「独眼竜か? それとも柳生
「誰だ、そりゃ? 俺は
隻眼の有名人の名を勘兵衛が挙げたが、神無迅の蔵人は僅かに眉を動かしただけだ。
「神無迅? 変な通り名だな。蔵人ってのも、無宿にしちゃあ仰々しい。まあ、この際名前なんぞどうでもいい。やれ!」
「へい!」
一歩退いた勘兵衛を除き、五人に囲まれても蔵人は長ドスを抜かない。
顔の高さに半開きの両手を掲げ、小刻みに跳ねる足取りを繰り返すだけだ。
「なんだぁ、そりゃ? 踊りかよ!」
嘲りながら、最初の
ぱんっ!
蔵人は、手の甲で素早く白刃を払いのけた。
上体を逸らし気味に右脚を繰り出し、
膝の骨が粉砕される、耳障りな響き。
「ぐはぁっ!」
脚を押さえて倒れる男の手から零れたドスを、蔵人は遠くへと蹴った。
ふたり目、三人目が匕首を腰だめに前後から迫る。
その挟撃も、蔵人の滑らかな
踏み出して前の男の腹に左の蹴りを叩き込み、そのまま右脚を軸に独楽の如く身体を翻して後方の襲撃者の顔を足刀で横殴り。
破落戸は、どちらも倒れた。
顔面に一撃を受けたものは白目を剥いたまま。腹を蹴られた方は嘔吐きながら身を震わせている。
「……
眉根を寄せつつ、勘兵衛が訊ねる。
武芸は弓槍刀ばかりではない。投げや当て身など素手で戦うための
しかしいずれも、学ぶ機会さえほとんどないものだ。
刀の類ならば見よう見まねで振り回すだけでも、刃物自体の威力で殺傷できる。己の肉体そのものを駆使する技は、ある意味では剣術以上に難しいものなのだ。
「柔術でも唐手でもねえよ。そうだな。山ん中で天狗から教わったって言ったら、信じるかい?」
小刻みな動きのまま、蔵人は微笑する。
「ふざけた口を……」
「ははっ。本当は親父から教わったんだけどな」
蔵人が間合いを詰めると、残ったふたりの
「ど、どうしましょう、旦那?」
「てめえらじゃ敵わねえ。今は、退くぞ」
勘兵衛に命じられ、無事なふたりは刃を収めた。倒れている仲間に気付けし、動けぬ者には肩を貸し、そそくさと逃げ去っていく。
「あ、ありがとうございました」
間近で戦いを見つめていたお涼が、振り分け荷物を差し出しながら頭を下げた。
「例を言われる筋合いはねえよ。俺が、気紛れでぶっ飛ばしただけだ」
三度笠を拾う蔵人の
「それじゃあせめて、宿代をまけさせてください。何の恩も返さなきゃ、あたしの女が廃ります」
「そいつもご免だ。別に助けるつもりじゃねえ。俺の気ままが、たまたまあんたの都合とかみ合っただけだ。勘定はきっちり払う」
「は、はい。お客さんがそう言うなら」
一瞬で真顔になった蔵人に、お涼は頷くしかできなかった。
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