夜--。

 夕餉を済ませた蔵人は風呂を使っていた。

 熱い湯に裸体を浸し、旅の疲れを洗い流す。

 この規模の小さな旅籠には入浴施設がないのが普通だが、ここは老舗という事もあって珍しく小さな湯船が備わっていた。最も、沸かすのは久しぶりという話だったが。

「ん?」

 ふと、気配を感じた蔵人は右目を閉じて、振り返る。

「入るよ」

 蔵人が返答する前に、お涼が入ってきた。

 裸だった。

 滑らかで精妙な、曲面の組み合わせ。まだ未熟さを残す膨らみかけの乳房と、適度な張りを持ちながらも細い腰。

 真白い肌の中で、頬だけがほんのり薄紅うすべに色に染まっている。

「……何だ?」

「あ、あのさ。よかったら、背中流そうか?」

「不要だ。風呂は、ひとりでゆっくり浸かりたいんでね」

 蔵人はあっさりと断る。それでも、お涼は立ち去らない。

「傷でもあるんじゃないかと思ってたけど、そうじゃないんだね。ますますいい男だよ」

 風呂場だから、さすがに鍔の眼帯も外している。

 ただ閉ざされているだけで、蔵人の顔は綺麗なものだ。

 ただ、引き締まった身体には無数の傷跡があった。肩、腕、胸、腿--いずれも古く、そして命に関わるような深手の跡ではない。

 修練の中で刻まれたものだというのは、お涼にも推測できた。

 蔵人の端整な顔に、拗ねたような困ったような色が滲む。そのまま顔を背けたが、お涼は割り込むように湯船の中に入ってきた。

 狭さに押され、自然に身体が密着する。

 蔵人の背に、柔らかいものが押し当てられた。

「何のつもりだ?」

 静かな声が、問う。

「よかったら……その……抱いておくれよ」

 湯以上に熱く、潤んだ声が、後ろから耳に囁きかける。

「色仕掛けならよしな。金でも情でも、用心棒を受けるつもりはねえ。あくまで俺の勝手気ままで動くだけだ」

「そうじゃないよ! あたしが……惚れたって事さ。これは……そう、あたしの勝手気ままだよ」

「生憎だが、それでもお断りだ。抱く気はねえよ」

未通女おぼこは、面倒くさい?」

「お前なぁ。そんなのは言われなきゃわかんなかったって」

 お涼の告白に、蔵人は苦笑いを浮かべた。

「お前だからって訳じゃない。相手が誰でも、俺は抱かない。万一にも、子が残るような真似はしたくねえのさ」

「無宿渡世の割には真面目なんだね。そんなの、気にしなくていいのに」

 お涼の指が筋肉の肩から背中を、そっとなぞった。筋肉に満ち、皮膚がピンと張り詰めた男の身体だった。

「そんな立派な考えじゃねえよ。俺の血を引く子なんてのが、嫌なのさ」

「……あ……」

 思い当たり、お涼もそれきり口を噤んだ。

 医学の未熟な時代である。

 事実以上の病が、親から子に受け継がれると考えられていた。

 故郷を離れ無宿になる理由は、罪科だけとは限らない。業病を背負った者が逐われる事もあるのだ。

「いいよ……。あたしは、それでも」

 決意を込め、小さな声で告げる。

 だが、蔵人はふっと笑った。

「気持ちは嬉しいけどな。多分、あんたの考えてるような事情いきさつじゃねえよ。もっと単純な、俺の身勝手さ」

「それならそれでいいよ。気持ちが堅いなら、もう抱いてとは言わない。けどさ。少しだけ……こんな風にしていたい」

 蔵人の背に、身体を預ける。肩に、頬を乗せる。

「その程度なら、勝手にしな」

「嬉しいよ。あんたがあたしの、勝手を許してくれて」

 勝手--その言葉が蔵人にとって価値あるものだと、お涼も察していた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る