翌日は、空一面が煙ったような薄曇りだった。

 光は弱いが雨の気配も遠い。そんな曖昧な天気。

 まだ朝も早いうちから、お涼の旅籠の前には男たちが集まっていた。

「おや、わざわざそっちからお出ましたぁ、手間が省けたな」

 玄関からお涼を伴って現れた蔵人は、縞合羽姿--ただし、三度笠と振分荷物はお涼の手にある。

「てめえがそのまま勝ち逃げしちゃあ、こっちの面目が立たねえんでな。ほれ、もう旅支度済ませてるじゃねえか」

 手下を率いる勘兵衛が、挑発する。

「俺の方から殴り込みかけるつもりだったのさ。別に何の義理もねえからこの街を離れたって構わねえんだが、てめえみたいな屑を残しておくと、何日か寝覚めが悪くなるんでな」

「……その程度の理由で、俺とやろうってのか?」

「ああ。ぐっすり眠れてすっきり目覚める。旅暮らしにゃあ大切な事だぜ」

 片眉をつり上げる勘兵衛に、蔵人は口元だけで笑う。

「昨日と同じと思うなよ。先生、お願いします!」

 呼びかけながら、官兵衛自身は退いた。

 群がる破落戸ごろつきが左右に割れ、長身痩躯の着流し姿が現れる。

「昨日はいなかったな。あんたが、こいつらの用心棒か?」

「赤岩康之介。浪人だ」

 浪人。その一語を特に強める。

 主もなく、身を持ち崩してはいるが士分であると誇示するように。

「た、頼んますよ、先生。何しろあいつ、見た事もない技使いますからね」

 昨日蔵人にのされ、しかし傷の浅かった破落戸ごろつきのひとりが訴える。

「ならば、まず貴様らがかかっていけ」

「へ?」

 康之介の言葉に、破落戸はぽかんと口を開いた。

「見知らぬ技で手強いのなら、貴様らが見本の捨て石になれ」

 鞘ごとで破落戸ごろつきの背を突き、蔵人へ向けて押し出す。

「そ、そんな! あんた、用心棒なんだろ?」

「俺を雇ってるのは勘兵衛の旦那だ。貴様らを大切にする道理などない」

 破落戸は泣きそうな顔で振り返るが、勘兵衛は無言で頷くだけだ。

「ははっ! 用心棒の先生も屑で助かったぜ。心置きなくぶっ倒せる」

「ほざけ。勝つためにはあらゆる手を尽くす。それが兵法というものだ。そちらが無手の技でも油断はせん」

 康之介は、枯れた声で告げる。

「それじゃあ昨日と同じじゃない。あんたに合わせて剣の腕で、しっかり勝ってやるよ」

 宣言すると、蔵人は眼帯を外した。

 閉ざしていた瞼が滑らかに開く。

 瞳があった。

 それも、鮮やかに透き通る碧い瞳が。

「……その目……」

 お涼は、息を呑む。

「技を天狗から教わったってのも、親父から学んだってのも、どっちも本当でな。要するに親父が天狗扱いされてたのさ」

「南蛮人って訳か……」

 指摘したのは、勘兵衛だ。

 三代家光の定めた法により、西洋との交流は厳しく制限されている。阿蘭陀おらんだ一国が長崎出島での交易を許されているのみ。

 しかし四方が海だ。港はともかく、全ての岸や浜に常に見張りが立っている訳でもない。

 漂着や密入国などが絶無かと問われれば、誰にも保証などできない。

「蔵人ってのも、親父がつけた名だ。おかしなもんでな。親父の国でも男にクロードって名前を使うんだとよ」

 鞘を、捨てる。

 蔵人の構えは、奇妙だった。

 右手一本でドスを突き出した半身の構えで、左手は縞合羽の裾をつかんで広げている。胸を開くのは、本邦のいかなる武術の定石にも当てはまらない。

「さて、捨て石の子分ども。用心棒の先生が後から言い訳できねえよう、しっかり試しの相手を務めてもらうぜ」

「こ、このぉっ!」

 挑発を受けて、破落戸ごろつきのひとりがドスを振りかぶって飛びかかる。

 ひらり!

 合羽を翻して敵の視界を惑わし、攻撃を繰り出す。

 斬りつけるのではない。

 肘の伸縮と手首の返しを巧みに使い、最短の軌道をたどる神速の突き。

 手の甲、肩、太股。

 瞬時に三箇所を傷つけられ、破落戸は屈みこんだ。

「野郎っ!」

 勘兵衛の手下は、蔵人が何をしたのか理解できない。

 だから正しく怯える事ができず、闇雲に襲いかかっていく。

 三人、四人。

 数を増やして取り囲んでも無駄だ。

 縞合羽が軽やかに踊る。男たちの刃が蔵人に触れる事はなく、ただ正確な刺突の連撃を受け、即座に倒されていく。

「……な、何だ? その技は……?」

 文官崩れとはいえ、元侍だ。勘兵衛には、蔵人の剣術の異様さが理解できた。

「合羽ってのは元々西洋の言葉なんだとよ。国によってカッパとかケェプだとか少し呼び名は変わるが、こんな風に外套を使う剣術もあるって事さ。徒手の捌当さばっとと一緒に、親父から教わった技さ」

 左右色違いの目を細め、蔵人は笑う。

 既に、立っている破落戸ごろつきはいない。

 全員が蔵人の技の前に打ち倒されていた。

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