第2話
「明日、BBQに行くんです」
僕はバイラドさんと国道沿いのステーキハウスにいた。育ち盛りの僕が頼んだのは、醤油ガーリックステーキの250g。カレーとサラダ、あとゼリーやスープが食べ放題のセットで一三六〇円。この手のバイキング方式の店にしては安い。激安ではないが、体感で一〇〇円くらいは安い。
「吉野優衣とですか?」
バイラドさんが頼んだのはチーズハンバーグ180gのセット。一二六〇円。
「そうです」
鉄板の上の醤油ガーリックステーキがなかなか切れない。
「黒田は馬鹿です」とバイラドさん。
「確かに僕は利口じゃないですけど、そんな風に言わなくても」
「ここのような安いステーキバイキングでは、ハンバーグ系を頼むのが鉄則なのです」
「なぜ?」
ステーキのほうがおいしそうじゃないか。ステーキハウスに来たわけだし、ステーキを食べたい。
「こういう安い店では筋が多い肉が出てくるものなのです。その肉、なかなか切れないでしょ?」
「あ、確かに」
さっきから筋が邪魔でしょうがない。口に入れても噛み切れない。
「その点、ハンバーグはそもそもひき肉だから、焼く前にひと加工されて出てきます。筋が多く切りづらいなんてこともないのです。だから価格差での味や触感の差がそれほど出ない。安定して美味しい食べ物なのです」
「バイラドさん、さすがですね」
僕も次からはハンバーグを頼もう。素直に思った。
「それでBBQの話ですが、それは黒田の所属したスーパー料理部に関係があるのですか?」
「あ、そうです」
僕らは優衣の殺害について、打ち合わせをする為に、ここに来ていた。
「なるほど。対象物に近づく口実が多いのは有利でもあります」
それからバイラドさんはチーズハンバーグを口いっぱいに頬張った。とても幸せそうにもぐもぐと顎を上下させている。
「吉野優衣を本当に殺す必要があるのでしょうか?」
思い切って訊いてみた。
「珍しいことを聞きますね」
口にチーズハンバーグを入れたままで、もごもご喋るバイラドさん。
「いや、工作員が睡眠薬を入れ忘れただけと聞いたので」
ルーン公国の従者は正直者が多いのか、睡眠薬の混入に失敗した工作員は自分のミスを報告したらしい。
「黒田の殺人自体は目撃されていないでしょう。黒田の言うことを信じれば」
「目撃――ですか。されてないですよ」と僕。白々しい嘘だ。
「だけど吉野優衣は何らかの可能性に気づいたかもしれないのです。あなたが吉野邸に侵入し、ジルディアを殺したとき、吉野優衣は部屋で起きていた。寝ていたかもしれませんけど、たぶん起きていたでしょう。だとしたら、物音は我々の思いもよらないような何かに気づいていても何ら不思議ではない」
「だから消すんですね」
「現在このおいしいハンバーグのある世界と我々の世界は冷戦中なのです。危ういバランスの上に、このハンバーグは給仕されています。わかりますか? バランスなのです」
「わかります。もし一方が傾けば、両者ともに崩れることだって有り得る」
「崩壊のきっかけは小さな罅割れかもしれないのですよ、黒田。だからこそ我々のようなルーンの夜鴉から祝福を受けた隠密の騎士が暗躍する時代となったのです」
「とはいえ、やはり異例のことだとは思います。今までにこんなことはなかった。吉野優衣自体は物心着く前の亡命ですし、彼女に罪はないし、具体的に警察や国連政府に証言をしたという証拠だってしてないわけですよね?」
「罪のない人間を殺したくないのですね」
「え、まぁ。僕は気が弱いですし、罪がないと、仕事が捗りません」
罪は必要だ。殺害対象に喋って貰わなくては、僕の気が晴れない。いや、それよりも僕は優衣を殺すということ自体に気が進まない。なんとなく、理由はわかっている。それは僕の『過去』だ。鯖の缶詰を殺人の後に食べるきっかけとなった、あの『過去』のせいだ。だから僕はあの晩、彼女を殺せなかった。
「黒田の言うこともわからなくはありません。今回の殺害指令は少し強硬な部類でしょう。だが私の言ったことが完全に間違っていると思いますか?」
「吉野優衣という綻びがきっかけで、バランスが崩壊する」
「そうです」
「ないとは言い切れませんね」
「殺せば済む問題なのですよ」
「そんなもんですか」と僕。
「そうですよ。その鉄板の上にある筋が厄介なステーキと同じです。胃に入れば問題ない」
「はぁ」
自分でもわかるくらいに気のない返事。
「黒田、少しおかしいですよ。もしかして吉野優衣に惚れましたか?」
「あ、いえ。そ、そんなんじゃ、ないです!」
「はぁ~」とバイラドさんはため息。「そんな返答じゃ、信じていいか、迷います。とにかく上からの命令は絶対ですので。もし失敗したら、わかりますよね?」
「わかってます」
そうだ。結局、僕はこの正世界に住んでた両親から生まれた、この正世界の住人。
使い捨てなんだ。
「明日のBBQで吉野優衣を殺害して下さい」とバイラドさんは言った。
「紫色のベンツ、かっこいいでしょ?」
ハンドルを握る十階堂先生は自分の車をそう評した。まさか格好悪いとは言えない。もちろん僕なら言えないという話だ。つまり優衣は言う。
「最高にダサいですよ」
後部座席に乗る優衣。助手席にいる僕は、もちろん何かを言うことはない。そんなだから、優衣と一緒に後部座席に居る神楽頭さんも同じだ。何か言葉を足したりしない。
僕らは十階堂先生が運転する車に乗って、千葉にあるキャンプ場を目指していた。現在、高速道路を移動中。休日を利用した部活動、という名目でのBBQだ。
運転をする十階堂先生は「そんなこと言わないでよー」と冗談っぽく言葉を絞り出していたのだが、車はグイグイと加速していく。
メーターを見ると百七○キロ出していた。
何か話題を変えたいと思いラジオをつけてみる。
――先ほど、都庁ビルに爆破物を仕掛けた容疑で拘束され、千葉にある第二級異人収容所に護送中の政治犯二名が、護送車の事故をきっかけに逃走。現在も行方がわからず、千葉東部を中心に、捜索が続けられています――。
ラジオからは、どうにも重苦しいニュースが飛び込んできた。
「怖いね。異世界の犯罪者がそのへんをうろついてるなんて」と十階堂先生。
これが一般市民、この世界に住む人間のごくごく普通の意見。
「そうですね」
僕は話を合わせながら、チャンネルを変えた。異世界には良い人がたくさんいる。反論したい気持ちを抑えたのは、僕が賢いからじゃなく、気弱で控えめな性格だからだ。
護送車の事故が影響したのか、途中から少しの渋滞に引っ掛かった。到着予定の一時は過ぎてキャンプ場には、午後三時の到着となった。
「このキャンプ場いいでしょ?」
外に出るなり、優衣が伸びをしながら言った。
「区画を割り当てるタイプではないんですね」と神楽頭さん。
「あの大きい木の下には、バーもあるんだって」と十階堂先生。
ここは広大な原っぱだ。好きに車を止めて、好きに使っていい。とにかく広いから誰かと領地問題で被る心配はない。さすがに、水道の近くは人気だが、ちょっと奥に行けば、人が少なくなって、伸び伸びとキャンプが出来る。
十階堂先生の言った通り、テレビCMに出てきそうな大きな木の下には小さなログハウスがあった。そこは夜十一時まで開店しているバーだという。昼下がりの今は、外に卓球台が出ている。
「大人向けのキャンプって感じですかね」と僕。
パンフレットを見ると、よくある虫採りや魚釣り企画、アスレチックに、レストランなどの施設が全くない。広大な原っぱとバーしかないのだ。
「飲んで語って、みたいなのが楽しい年齢向けのキャンプだね」
九月の二週目なのに、そこそこ人が入っているのはそういう理由もあるのだろう。
「よし! それではスーパー料理部の皆さん、ここで部活動を始めますよ!」
優衣が青空に向けて、拳を突き立てた。
「あの――」
神楽頭さんが手を上げた。元気よくじゃなく、病み上がりっぽくゆっくりとだ。
「なに?」と優衣。
「食材はどこですか?」
「え? ないの?」
優衣が僕を見る。
「僕は何も買ってないよ」
「私はてっきり太郎が用意してるのかと思った」
それから優衣は続ける。「あらゆる買い出しは太郎の役目って言ったじゃん」
僕らは間抜けだった。
食材がない。
僕と十階堂先生で近くの大型スーパーまで買い出しに行くことになった。近くと言っても五〇キロほど離れている。
「あの二人でテント作れるかな」
人参を握る十階堂先生が言った。テントは先生のもので、残った優衣と神楽頭さんは、小さなときに一度だけキャンプをしたことがあると言ったが、経験はそれだけ。
スーパーには休日なので家族連れが多い。先生は僕の押しているカートに人参を三本入れる。
「無理かもしれませんね。けど、その時は僕らが戻って手伝いましょう」
「うん。そうよね」
僕と優衣が残ってテントを設置するほうが効率的に違いない。だけど、僕がそれを避けた。優衣と二人っきりになりたくなかった。少しでも殺害のチャンスを自分から離しておきたい気持ちのせいだ。優衣を殺す自体は簡単だ。だけど、出来れば――。うまく説明出来ないけど、僕は自分の『過去』を優衣に重ねて、同情してしまっている。
「けど、みんな元気そうでよかった」と十階堂先生。
それにしても大きなスーパーだ。このカートだって、普通サイズよりも大きい気がする。
「神楽頭さんですか?」
「そうね。彼女、ほら成人してるでしょ? それに学校も来たり来なかったりで、今年駄目なら、色々話し合いが必要だったし」
「話してると、なんかちょっとシャイなだけって感じです」
僕は言った。だが、おどおどした態度で留年を何度もしていれば苛めもされるだろう。高校生の教室っていうのは大人が考えてるほど甘くない。
「こんなこと私が言っていいかわからないけど、彼女、中学生の時に事故でご両親をなくしてるの。成田空港であった立て篭もり事件、覚えてる?」
「あ、あの事件ですね」
ルーン公国の過激派が、成田空港の第二ターミナルの一部を占拠した事件だ。世界的に見ても近年、僕らの異世界とこの世界の緊張が高まったのは、あの時が一番だと思う。僕も、大規模な戦争に備えて、拳銃を隠し持ち、霞ヶ関で待機をさせられた。
「神楽頭さんのご両親は、そこで亡くなったの」
「そうだったんですか」
神楽頭さんにも色々あるのか。そりゃそうか。こうしてスーパーに買い出しに来れる家族が大勢いるけど、今、僕らは戦争中なのだ。冷戦と呼ばれる小康状態にあるだけで、今日もどこかで誰かは死んでいる。この世界か異世界かはわからないけど。
「それ以来みたい――。だから、こうしてみんなでキャンプとか来れるようになって本当に良かった。あと吉野さんも」
「優衣も?」
学校で何か問題を抱えていたのか。
「彼女、ちょっと個性が強いでしょ。苛められたらやり返すタイプだから、そういうのはないんだけどね。だから、みんな腫れものに触るみたいに接してて、孤立気味だったみたい」
「じゃ先生は、もしかして」と僕。
先生は「まぁね」と言いながら、ジャガイモをカートに入れた。
「問題を抱えてる二人の生徒が救われるなら、顧問になるのも悪くないなって。それに料理も上手くなりたかったし」
なるほど。婚約を台無しにされたことへの復讐のためだけじゃなかったわけだ。
十階堂先生は、あの日の職員室で、しっかり優衣と神楽頭さんのことを考えて顧問になっていた。
「あ、カレールー、買わなきゃね」
レトルトコーナーに移動する。
「見て、花火あるよ」
十階堂先生が言った。レトルトコーナーに向かう途中の特売コーナーに山盛りになっている。「三〇%割引だって」
「夏休みが終わったからですかね」
僕は言った。
「少し買って行こうか」
反論する理由はない。十階堂先生は花火をカートに突っ込んだ。
僕はカート係なのだ。
ルーン公国から、上限なしのクレジットカードを支給されている。もちろん予算管理委員会があって、支出額に用途はチェックされているし、そもそも不正クレカだ。だから支払いは、公務員である十階堂先生に任せて、僕は荷物持ちとなる。
食材は手に持ち、花火はリュックに突っ込んだ。スーパーを出て、駐車場。ここにきてわかった事の一つに、紫色のベンツは黒と白の車が並ぶ駐車場にあって、とても見つけやすいということだ。
僕らは夕方の五時前にはキャンプ場に戻れた。料理を始めるにはよい時間だと思う。
「吉野さんは?」
紫色のベンツでキャンプ場に戻ると、意外なことにテントはばっちり出来ていた。だが優衣の姿が見えない。十階堂先生が神楽頭さんに尋ねると、「テントを作り終えてから、トイレに行くと言って、そのまま」と答える。
「じゃ料理始めちゃおっか」
十階堂先生が言う。少し心配だったが、騒ぐは怪しいかもしれない。本当にトイレに行っただけのほうが可能性は高いわけだし。
折りたたみのテーブルを広げて、その上に簡易まな板と敷いた。僕と神楽頭さん、十階堂先生で料理を始める。
「部長不在でいいんですかね」
僕はジャガイモの皮を処理する係となった。
「わかりません」と神楽頭さん。
それから一時間経っても優衣は戻ってこなかった。
これはさすがにおかしい。
「トイレにはいませんでした」
神楽頭さんは今にも泣きそうな顔をしていた。彼女の言うことに嘘はないだろう。メリットがない。
「どこに行ったのかしら」
十階堂先生はスマホで何度も優衣と連絡を取ろうとするが、留守番電話に繋がるだけで音沙汰なしだという。今だって電話を掛けながらだ。
「神楽頭さん。優衣は何か言ってませんでしたか? 二人でテントを張ってる間に」
「え。えっと――」
「何でもいいんです。何か心当たりとかあれば」
僕には心当たりがある。ルーン公国の工作員による誘拐だ。
「あ、そうだ」
「なんですか?」
「休憩中に二人でパンフレットを見ていたんですけど、この奥、キャンプ場の敷地の向こうに川のイラストがあって、あるなら見に行きたい、とか言ってました」
「そんなことを言ってたの」
十階堂先生は呆れる。そのリアクションから察するに、優衣が一人で川を目指したものと思っているのだろう。
「雪山でコース外を走るスノーボーダーですね」
僕はリュックを背負う。
「どこに行くの? 黒田君」
十階堂先生が言った。
「探しに行きます」
川に向かったか、誘拐されたか。今はわからないが、このまま放っておくわけにもいかない。殺害対象である以上、死亡は確認しなくてはいけないし――。
「ここは警察に連絡した方がいいと思う」
「そんなことしたら先生の責任問題になりますよ。大丈夫です。まず僕が探しに行きます。僕は駄目なら戻ってきます。ミイラ取りがミイラになることはないですから安心して下さい」
リュックにはサイレンサー付きのH&Kが入っている。
もし優衣を見つけて、二人きりになったら僕はどうするつもりなのだろうか。
殺すのか――。生きていたら、そうするしかない。僕はスパイだ。組織の人間だ。だけど――。
自分の気持ちに決心がつけられないまま、僕は歩き出した。
山の中。都会と違って外灯が一つもない。午後七時二十五分。まだまだ明るいはずの時間帯だが、ここでは真っ暗だ。
スマホの電波は入っている。携帯会社の努力はすごいと思う。こんな山の中でも電波は届いているのだ。
「おーい」
声を掛ける。スマホで確認したグーグルマップによれば、そろそろ川が見えてもいい頃だ。人を捜すのにが本当に楽でよかった。
「おーい。いないのかー」
声は響いた。生活音のない山中だ。視界を遮るくらいにまで伸びた雑草を掻きわけて進む。
「おーい」
都心から一時間半でこんな風になるなんて、想像もしていなかった。普段歩いている所とは違う未舗装の山道だ。移動のペースは非常に遅い。
「おーい」
「ここよー」
優衣の声だ。
「そこにいるのぉ?」と僕は力いっぱい叫んだ。
「太郎ぉ?」と向こうも叫んでいる。
「そうだよぉ。今行くー」
スマホの地図を眺めながら、雑草を突っ込むようにして掻き分けて進んだ。
「ちょっと待ってぇ」
優衣はそう言ってくれたのだが、少し遅かった。視界を遮る雑草を掻きわけて進むと、突然足場がなくなった。
崖だ。
気づいたときは止まれない。これは車も人間も同じらしい。地面があると思い込んで一歩を力強く踏み込んだものだがら、落下は必然だった。僕はやっぱり間抜け。
「うわ」
受け身を取る余裕もなかった。そのまま前のめりに転がって、気づいたら夜空を見上げていた。
頭ががんがんする。身体の節々も痛んだ。
「夜空が綺麗でしょ」
優衣が僕を覗き込んでいる。頬に擦り傷のある
「うん。そうだね」
「あたしも落っこちたの。グーグルマップじゃ高低差とか分からないから」
優衣はスマホを僕に寄こした。僕の物だ。崖から落ちてくるとき、手から放したのは憶えている。画面が割れ、ホームボタンを押しても起動しない。壊れている。
「君のは?」と僕。
「充電切れ」
ポケットから出して見てくれた。どこを押しても反応なし。画面は黒く光らない。
「絶望的だ」
連絡が出来ない状況に陥ったわけだ。
「怪我はなかった?」
僕は聞く。
「足を挫いたみたいな感じ。あとは結構、所々に擦り傷とか切り傷とか」と優衣。
優衣の言葉を聞きながら上体を起こした。腰を打ったようだ。
「あいてててて」
思わず声が漏れた。情けない。一応、訓練は積んでいるのだけど――。
「立てる?」
「鞭打つね。出来ればもう十五分くらいこうしていたいんだけど」
「太郎、あたし誰かに追われてる気がするの。だから早く動きたいの」
「誰かに追われてる?」
ルーン公国のスパイか。僕以外にも動いていたのかもしれない。バイラドさんは上司であって友達ではないから、保険を掛けてもう一班を稼働させているのも理解できる。
「立てる」と僕。それを聞いたら動かないといけない。
「肩貸そうか」
「いや、大丈夫。そこまでじゃない。ちょっと重傷ぶっただけだよ」
立ち上がる。
崖はかなり急で険しい。正直、昇れそうにもない。目の前には二十メートル幅くらいのそこそこ大きな川が流れている。
川の向こうには林があった。そちらの方が隠れる場所は多そうだ。僕らがいる岸は幅が十五メートルくらいで小石が多く、見通しが良い。
「とりあえず川を下ろう。ここは日本だから下流に向かえば必ず町があるし、たぶんそれよりも前に橋とか道に出会えるはず」
「わかった」
僕らは歩きだす。
「それで追われてる気がするって?」
僕は聞いた。
川っぺりの小石は邪魔でしかない。暗い足元ではそれを認識するのも苦労する。とにかく歩きづらい。
夜空に輝く星々の明かりは確かに綺麗だけど、実用性は皆無だ。人工的な外灯が欲しい。
「わからない。けど『誰か』がいるの。さっき目が合った。あたしはこっち側で、その『誰か』は向こうの林の中にいた。ここは、ほら山の中で明りがないから、暗くてよくわからないのはあるけど、確かに人間だった」
「襲ってきたりは?」
「まだ。すぐに林の奥に行っちゃった」
「そうか。じゃ、これから襲われるかもしれないってことか」
「太郎はそう思うの?」
僕は優衣からのこの質問に驚く。自分が、普通の高校生とは大いに違う存在だと気づかされたからだ。林の中に『誰か』がいる? 気のせいだよ、そんな言葉すら出てこないばかりか、すぐにそいつは襲ってくると考えている。
「そう思うよ」と僕。「たぶんその『誰か』は、僕らを襲ってくる」
僕の見立てが正しければの話だ。
「それてって、太郎やパパに関係のあること?」
どうしようか。悩む。本当のことを告げるべきだろうか。君はルーン公国に暗殺される運命にある、と。僕が殺すかもしれないし、その『誰か』が殺すかもしれない。
僕が黙っていると、優衣が手を握ってきた。
僕は思春期の男の子だ。女子に手なんて握られたら――。優しくするしかない。残酷な言葉を口から言う訳にはいかなかった。いつもは唯我独尊タイプなのに。こういうときだけ、上手くやる。天性の小悪魔危険人物体質だ。
「雨――?」
それからしばらく黙って歩いていると、優衣が掌を上に向けた。空を見る。いつの間にか星が隠れていた。
「雨だ」
すぐにハッキリと分かるほどの雨粒が降ってきた。「本降りだ」
「太郎と二人っきりになれたのに、ついてない」
優衣が言った。
「確かについてない」と僕も言った。けど八月三十一日と同じだ。もちろんそんな気障な台詞は言わない。「今日はここで野営しよう。リュックにレインコートがある。何か石を積んででもいいし、簡易的なテントを作って、レインコートを屋根にすれば、雨は多少マシになると思うよ」
「太郎って色々詳しいんだね」
「あ、まぁね」
僕らは石を並べ始める。二人が寝ころんで収まるくらいでいい。高さも膝くらいで十分だ。Uの字に石を並べて、積み重ねていく。もちろんただ重ねるだけじゃ不安定なので、山のような感じで重ねるのがポイントだ。
「やっと出来たね」
たぶん小一時間くらいかかっただろう。学校の校庭で作れば半分の時間で済んだかもしれないけど、慣れない場所で痛む身体に悪い足場での作業は、とにかく時間を食った。
「サバイバルって感じ」
優衣は何故か楽しそうだ。
お互い雨でずぶ濡れた。体力と体温が奪われているはずなのに。
「レインコートを被せて、石で止めれば完成」
僕はリュックを開いて、レインコートをひっこ抜く。一緒に中身も飛び出してきた。
花火と拳銃に僕の財布とポケットテッシュ。重要なのは花火と拳銃で、優衣に見てほしくなかったのは、もちろん後者だ。拳銃。
「銃だね」
「そうだよ」
僕は握った。
そして、それを撃った。
サイレンサー付きのH&Kから放たれた銃弾。雨音にも助けて貰って、銃声はほとんどない。暗いから分かるのだけど、一瞬だけ火花のようなものが散った。
「撃ったの?」
だから優衣はこんな感じで聞いてきた。
「撃った」
撃ったのは優衣じゃない。その奥にいた男だ。「たぶん『誰か』だと思う」
優衣は振り返る。
男が倒れていた。
「見てくる」
僕は二度撃つ。左胸と額だ。少し距離があったし、『誰か』の倒れ方からして、弾は狙いの左胸でなく、腰あたりに抜いていると思う。近づいてもう一発だ。息の根を止めなくては。
近づき、仰向けの男に銃口を向けた。
「あんたは誰だ」と男は言った。
僕は『誰か』を見る。
「こっちの台詞だ」と僕。
「あんたは警察なのか?」
彫りが深く、目は青い。鼻が鷲の嘴のように大きく、肌の色は白い。白人か、もしくは異世界から来たルーン人。
「違う。僕はルーン公国の隠月師団の者だ。こっちに潜入してるスパイだよ。階級は月光。ルーンの夜鴉から殺人許可証と祝福を貰ってる」
後ろに優衣がいるのはわかっていた。だが彼女には僕が何を話しているかなんてわからないだろう。僕が今、この『誰か』と話しているのは、ルーン公国の公用語だ。
「私はルーン公国、第七十八師団のヴォルドーです。階級は勿忘草」
僕より下の階級だ。ルーン公国の兵士には、それぞれ自然物の名を冠した階級が割り当てわれている。異世界は、科学的に解明すると、この世界のパラレルワールドなので、言語体系や動植物、それに纏わる名称などが良く似ていることもある。異人と人間が、ほぼ同じ生物なのもそういう関係だからだ。
「日本語は?」
「いや、無理です」とルーン語でヴォルドーが言った。少しイントネーションに訛りがある。地方の出身か。
バイラドさんを始めとする僕ら隠月師団は、スパイ活動という性質上、バイリンガルであることが必須だが、他の師団はそうでないことが多い。二十以下の連番が降られている師団は、まずルーンの公用語しか喋れない。
「助けて下さい。私は都庁を爆破しようとして捕まったのです。さっき我々を乗せた車が事故に遭い、逃げてきました」
そうか。あのニュースの容疑者か。
「爆破は上からの命令か?」と僕。
「いえ。私たち第七十八師団の者で画策しました。ルーンの祝福は受けておりません。私たちは罪を犯したのです」
「罪か」
「誤射はしょうがないです。聞いて下さい。私には故郷に妻と子供がいます。命令外での任務については二度と行いません。どうか私を助けて下さい」
「我々と言ったが、仲間は?」
ニュースだと二名逃亡したはずだ。
「仲間はまだ林の中に潜んでいます。私は偵察係として、周囲の安全を見廻ってました。私が戻らないと仲間は、きっとあなた方を敵と認識するでしょう。あなた方の存在は報告済みです。私を仲間のところまで連れて行って下さい。お願いです」
階級が下だから、言葉遣いは丁寧だけど、言ってることは脅しに近い。
「お願いです。助けて下さい」
「いや、無理だ」
僕は撃った。殺した。
「殺したの?」
後ろにいた優衣が訊いてくる。
「そうだね。殺した」
「何を話していたの?」
「彼のことだよ」
「そう」
それ以上を優衣は聞こうとしない。
「もう一人、始末しなくちゃいけない奴がいる」
罪は訊けたけど、鯖の缶詰がない。心がどこか落ち着かなかった。
「まだやるの?」と優衣。
「控えめに見積もっても、僕と君は追い詰められてる」
もし僕が殺したヴォルドーの仲間が、無事にルーン公国に戻れた時を考えよう。仮にその男がAとする。その場合、Aは「仲間のヴォルドーは偵察に行ったきり戻ってこなかった。もしかしたら、殺されたのかもしれない。潜んでいた林の近くに川があり、そこで若い男女がいて、ヴォルドーはその二人を監視していた」と報告するだろう。情報が渡れば後は早い。その川の近くにあるキャンプ場に隠月師団の僕がいたこと、殺害対象の吉野優衣がいたこと、その二人が遭難していたこと、なんてのはすぐわかる。ルーン公国の上層部は、僕がヴォルドーを殺したことに気づくかもしれない。殺害対象の吉野優衣を殺しもせず、純粋なるルーン公国の民を殺したのだ。
事態は重い。今度は僕が殺害対象となるだろうし、優衣も殺される。
仲間Aが日本の警察に捕まっても同じことだ。結局、ルーン公国は行方の知れないもう一人、僕が殺したヴォルドーを捜す。その過程で僕が浮かび上がって来る可能性はある。事情聴取は免れない。最悪、僕がヴォルドーを殺したことが露見するだろう。
僕は死にたくない。もちろん優衣にも。
だから僕はヴォルドーの仲間Aを始末して、この事態をルーン公国に報告されることを阻止しなくてはいけない。警察よりも早く見つけ出し、殺す必要がある。
「太郎のこと、話してよ」
石で作った簡易テントの中から優衣の声がした。僕はその前に立っている。「一体、何者なの。スーパー料理部の部員以外にはどんな活動をしてたの」
「僕は異世界のスパイなんだ。君のお父さんを殺したのはその任務の一環だよ」
言ってしまうと意外に呆気ない。ずっと誰にも話したことがなかった秘密だ。
「それじゃこの世界の人じゃないの?」
「えっと。僕はこの世界の人間だよ。だけど異世界にあるルーン公国のスパイとして働いている」
「どうして?」
「それは――」
僕の『過去』が関係している。あの『過去』のせいで、僕は優衣を殺すことを躊躇い続けて、こんな事態にまで巻き込まれた。
「僕は君と同じだった」と言った。「父親から虐待を受けていた。母親の再婚相手で、つまり、それが君と同じという意味なんだけど」
「そうなんだ」
雨が冷たい。
「それだけじゃスパイになる理由を説明してないよね」
自分でもわかる。論理的に喋れていない。感情が先に行ってしまう。よくないな。「僕がスパイになったのは、僕が父親を殺したからなんだ。最初の殺人だよ。五歳の時だった。最低でしょ?」
「あたしもパパを何度も殺そうと思った」
「僕は殺した。お腹が空いていたんだ。三日以上、何も食べさせて貰えずに、放置された。とにかく食べかたかった。けど勝手に冷蔵庫を開けたり、台所に行ったりしたら、父親は僕に暴力を振るう。隠れて食べることは出来ない。ワンルームの小さな部屋だからすぐに見つかる。だから殺して食べるしかなかった。キッチンに行って、殴られる前に包丁を取って、無我夢中で突き刺した」
返事が来なくなった。
「何を食べたと思う?」と優衣に訊いた。
「わからない」
「鯖の缶詰だよ」
だから僕は今でも誰かの命を奪った後は、必ず鯖の缶詰を食べるようにしている。そうすると、その殺しが、最低な父親を殺した過去と繋がって、正当化された気分になるからだ。
「そうだったんだ。ごめん。あたし何も知らずに」
「別に謝る必要なんてないよ」
雨が強くなる。「母親はとっくに行方不明。だから孤児になった僕は施設に預けられた。運よくすぐ里親が見つかったんだけど、その女性がルーン公国のスパイだった。僕はそれから自分を育ててくれた、その女性の恩に報いる為、スパイになった」
その女性はバイラドさんだ。彼女が僕を育ててくれた。だから僕はバイラドさんにこの仕事を勧められても断ることはしなかった。彼女から貰った愛情に報いたかった。
「パパは、パパはどうして殺されたの?」
「あいつは亡命者だ。君は国連軍に勤めているお父さんしか知らないだろうけど、あいつは元々ルーン公国の政治家で上級政務官っていう偉い役職だったんだよ。政治亡命して、こっちの情報を国連軍に流していた。あと、亡命の斡旋や亡命者たちの生活を管理する仕事もしていた。あいつのアカウントには亡命者のリストがある。それも狙いの一つだった」
「パパが異世界の異人だった」
「君のママもそうだよ」
「じゃあたしも?」
「そう。僕と君はそういう意味でも同じだよ。僕はこの世界の生まれなのに、ルーン公国に仕え、君はルーン公国の生まれだけど、この世界に属している。お互いあべこべの世界に属してしまった。そして虐待を受けていた――」
「あたしを殺さなかったのは、だからなの?」
「殺されると思ったの? あの最初の夜だよね」
「うん。たぶん、目の前に居る男の子がパパを殺して、あたしも殺されるんだろうって思った」
「君は逃げなかった」
「太郎が逃げたもんね」
あの時、躊躇わずに優衣を殺していたら、こんな大それたことしないで済んだのに。僕は気弱で控えめな性格なのに、今は秘密裏にルーン公国を裏切ろうとしている。
「同情しちゃったんだ。自分と同じに見えて、殺せなかった――」
殺人指令が出ていることは伏せておこう。余計な心配はさせたくないし、僕はそこまで悪魔になれない。無理だ。
「それにしても、なかなか来ないね」と優衣。
「いや、必ず来るよ」
迎えのことじゃない。ヴォルドーの仲間Aだ。
ヴォルドーが戻ってこないとなると、必ず様子を伺いに出てくるはずだ。僕らが川辺にいることはわかっている。川は一本。辿れば絶対に僕らと出会う。
とにかく動いて仲間Aを捜したい。そう思うが、論理的に考えると、ここで待つほうが仲間Aに会う確率は高いはずだ。たぶんだけど。
「ここでじっとしてくれよ」
僕は優衣に確認する。
「わかった」と優衣。「間違っても動いたりしないから安心して」
「あ、誰か来たみたいだ」
前から人影が近づいてくる。
雨の中で視界は不鮮明だが、あれは確かに人間だろうし、神楽頭さんでも十階堂先生でもない。
あれはたぶん仲間Aだ。
僕は銃口を向けた。
問答無用で発砲。
先手必勝だ。
「なにあれ?」
優衣の声。驚いてる。
軌道はばっちりのはずだったが、何かに弾かれた。透明な壁のようなもの。仲間Aが近づいてくる。
髪の毛と眉毛がない。痩せていて、漂わせる雰囲気は不気味だ。腕に刺青のような紋章がある。ルーン人で身体に紋章が浮かぶ奴らは、そう多くない。だが、どういう奴らかはハッキリしてる。
仲間Aは魔導師だ。魔法を使う。
「お前、撃ったな」
仲間Aが言った。お互いの距離は五メートルほどだろう。
向こうはほほ笑んでいる。僕が拳銃を撃ってきたのが可笑しいのだろう。魔導師にとってみれば、こんなちんけな銃は蚊とか蟻とかと同じくらいに弱い存在だ。
「お前、何者だ。警察官か?」
仲間Aは日本語を話す。第七十八師団にしては、優秀だ。
「僕は隠月師団の者だ。スパイだよ。階級は月光。ルーンの夜鴉から殺人許可証と祝福を貰ってる」
「私が第七十八師団に降格する前は隠月師団にいた。階級もお前と同じ月光だ。元スパイだよ」
同僚か。やり辛い。「遠い人の変わったスパイがいると噂があったが、それがお前か」
「たぶんね」
遠い人。ルーン人が正世界の人間を侮蔑的に表現するときに使う単語だ。
「どうして撃った」
「あんたには死んで貰わなくちゃいけない」
「私は魔導師だ。そいつじゃ無理だよ。異世界と対峙するときは解魔弾を使わなくちゃな」
さすがに詳しいな。「それでまず異世界の魔力を無力化してから、殺さなくちゃいけない」
右腕に激痛。仲間Aの指先から雷撃が飛んで来ていた。拳銃を落とす。あまりの痛さに右手を抑えて、跪いてしまった。
「太郎!」
優衣が言った。
「大丈夫」と僕。
わかった。確信した。完全に気づいた。僕は死ぬ。殺される。とても怖い。死にたくない。今まで散々命を奪ってきた。その度に、いつか自分も、と思って覚悟は出来ているはずだった。なのにいざなってみると、立ち向かう気力すらない。やっぱり僕は気弱で控えめなただの高校生だ。所詮、魔導師には敵わない。誰かを殺す時、拳銃、罪、鯖の缶詰の三つが必要だった。けど自分が殺されるとき、一体何が必要だろう。わからない。このまま死ぬのに、どうしていいかさっぱりだ。情けない。
雷撃、その二。
僕は声を荒げた。「やめてくれ――」
「あそこにあるのはヴォルドーの死体か?」
「そうだよ」
見込みが余ったとか言えない。駄目だ。意識が霞んでいく。呼吸が辛い。二度目の電撃は相当だった。
「そうか」
三度目の電撃。「私の仲間を殺したのか――。お前、やっぱり二重スパイか」
死ぬ――。もう無理だ。
「もうやめて、太郎が死んじゃう」
優衣が出て来た。確かに僕は死んじゃう。けど君まで出てくる必要はない。全くない。僕のことなんてほっといて、どっかへ行くべきだ。
「優衣、逃げろ」
走って遠くに行ってくれ。
「太郎、死なないで――。せっかくあたしを救ってくれたのに!」
「たまたまだよ」
もう喋りたくもない。辛い。
「女、どけ。まずはその男から殺す。二重スパイだ。そいつの首を手土産にして、ルーン公国に戻る。多少の恩赦は期待できるだろう」
あーもう、こいつクズだ。
「駄目。絶対に太郎を殺させない」
優衣の言葉が聞こえる。身体が温かくなってきた。どうしてだろうか。優衣の健気な言葉のせいか。死ぬ時ってこんなにメルヘンな感じなのか。優衣の顔が見たい。瞼を開いた。優衣――。
あ、あれ。
優衣の左頬から首筋にかけて、刺青のような紋章が――。何度も見たことのある模様。ルーン公国の国旗にもある。不死鳥の紋章だ。
「女、お前、その紋章は?」
仲間Aが言った。
身体に紋章を浮かび上がらせた優衣は何も答えない。ただ仲間Aを見つめている。
「クソ! クソ! 熱い! 熱いぃ! やめ――ろ――」
叫び声。
仲間Aを見ると、燃えていた。不死鳥が生命と焔の象徴。ルーン公国の守り神。
そしてその紋章を身体に宿す者は、リリィ様の血縁者、つまり『王族』のみ。
仲間Aは火を消そうと、川に飛び込んだ、
だが、それも無駄なことだとすぐわかった。
飛び込んだ川が焔の熱で蒸発したのだ。
優衣の焔で、だ。
それから仲間Aは断末魔を残して、絶命した。
「優衣」
僕が名前を呼ぶと、彼女は笑った。
「あとで花火しようね」
優衣は僕に覆い被さる形で、パタっと倒れた。
雨はますます強くなっていた。
優衣が『王族』の血縁者――。
強引だった優衣の殺害命令には、たぶん裏がある。
いくら控えめの僕でもそれには気づいた。
料理部の女王。鯖の缶詰。 @tokiokaharuto
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