料理部の女王。鯖の缶詰。

@tokiokaharuto

第1話

 僕の場合、誰かを殺すとき、必ず用意するものが三つある。

 拳銃、罪、鯖の缶詰。

 この三つだ。

 僕は自分自身を殺人には向かない性格だと評価しているし、これは直りそうもない。だから少しでも殺しの成功率を上げるために、僕はこの三つを必ず用意している。

 一つ目の拳銃は、殺しの道具だ。これで標的の心臓と額をそれぞれ一回ずつ撃ち抜くのは僕のスタイルだ。そうしないと殺した気にならない。銃弾は二度撃ちこむ。

 拳銃は、この地球がある世界では、とても有り触れた武器だが、僕がいる日本では珍しい。そして僕が属している異世界のルーン公国でも、これを使う奴は珍しい。何故かと言えば、これがルーン公国から見れば敵国である正世界、国連側の武器だから。

 つまり僕はルーン公国師団の中にあって異端だ。そう望んだわけじゃない。理由がある。これはしょうがないことだ。

 次に行こう。二つ目だ。僕が二つ目に必要とするのは罪。

 これは殺す標的となる人間の罪だ。

 僕は本来、とても気弱で控えめな性格だ。友達は少ないし、親友もいない。恋人も同じだし、ついでに両親もいない。寂しいけれど、自分よりも早く死んでしまうことを考えるとペットを飼う気にもならないし、誰かに迷惑を掛けたくないから、日々極力脇役でいることを望んでいる。そんな人間だ。

 だから出来れば、あんまり誰かの命を奪うような真似をしたくはない。けど、バイラドさんの頼みは断れないので、こうして今夜も初めて会う人間の命を奪おうとしている。

「吉野博文さん。ただこの名は亡命した正世界での名前。異世界の中央帝都ルーン公国での名前は、ジルディア・ホール。上級政務官で、各地方国家の要職にもついていた政治屋さんですね」

「お前は誰だ?」

 椅子に縛りつけられた吉野博文さん、本名ジルディア・ホールさんは言った。顔をあまり見たくない。顔が恐怖で満たされている。それを見てしまうと、僕は罪悪感で頭が一杯になる。なるべく彼の腰から下を見るように心がけて、自己紹介をした。

「僕は黒田太郎です。両親は地球人。正世界の生まれで、正世界育ち。ただ理由があって、異世界の中央帝都ルーン公国にある隠月師団に所属するスパイです。あなたの逆です」

 ジルディアさんは異世界生まれだけど、亡命して正世界の国連軍で働いている。本部はジュネーブ。NYは戦争で壊滅したから、今はそっちに全てがある。

 僕は正世界の生まれだけど、訳あって異世界の隠月師団に所属するスパイ。本部はルーン公国。

「だから、拳銃か――」とジルディアさんの馬鹿にしたような口調。

「あなたと同じです。僕には魔法の才能がなかった」

 任務に就いたとき、ジルディアさんのプロフィールには目を通した。この人は政治屋で、魔導師ではない。だから魔法は使えない。そういう意味では僕ら地球人と同じだ。たぶんだけど、だから亡命にも踏み切れたのだろう。

「私を殺すのか?」

「殺します」

 悪いけど、これには即答だった。「だから罪を教えて欲しい。あなたが今まで犯した最大の罪を教えてくれませんか?」

 これが二つ目の罪。少しでも罪悪感を減らすために、相手の悪い面を見ようと心がける。この人は殺すに値するクズだ、と自分に言い聞かせるためだ。

「どうして、そんなことを――」と拒否するジルディアさん。

 大きな一軒家の書斎。角部屋だった。どうせ国連政府から支給されたものだろう。外灯の光がカーテンの隙間から差し込む。今夜は雨だ。嫌だな。時刻は二十三時を回った。毎晩午前十二時には寝るように心がけている。

「話して下さい」

 こういう時は暴力しかない。気は進まないけど、罪が欲しい。机の上にあるペーパーナイフを太腿に突き刺した。思わず目を瞑る。ジルディアさんの悲鳴だ。耳も塞げばよかった、といつも後悔する。

「わかった。話す。話す」

 息が荒い。「私、私が犯した最大の罪を話す。話すから」

「どうぞ」

 僕は右手で握っている拳銃の引き金に指をかけた。まだ銃口は下を向いたままだ。

「私には――、十七歳になる娘がいる。名前は吉野優衣。死んだ妻の連れ子で、私が亡命したのは、まだ優衣が二歳かそこらだ。あの子は自分がルーン人だとは知らない」

「僕と同じ高校に通っています」

 吉野優衣。名前を知ったのは、つい最近だ。つまりこの仕事に取りかかるときに知った。

「優衣は美人だ。死んだ妻によく似ている」

「なるほど」と相槌。

「私は優衣を犯している。この世界で言う性的虐待という奴だ。昨日の夜も犯したし、今朝もだ。たぶん君が来なければ今夜も同じ過ちを犯していただろう」

「なるほど」と相槌。「ありがとうございました」

 充分だ。殺すに値する罪だ。

 僕は銃口を向けた。ドイツ製、ヘッケラー&コッホ45口径のコンパクトタイプ。ネジ切り込みの入った延長バレルの先にはサイレンサーがついている。

「あたなを殺す銃弾は45ACP弾です。初速が音速に達しないので、サイレンサーをつけると非常に音が小さくなる銃弾で、まさに暗殺向きです。もちろん45口径なので、弾自体は比較的大きく殺傷能力はあります」

「許してくれ――」

 ジルディアさんの声は震えていた。

「皆、そう言います。悪かった、亡命は間違いだった。許してくれ、と」

 血の繋がりのない娘を犯す。最低だと思う。これで僕も少し強気に出れる。

「僕はまず、あなたの左胸を撃ち、それからすぐ額も撃つ。二度撃つので、必ず死にます。何かの間違いで生き残り、障害が残ることはまずない。異世界の魔導師の場合は、さらに首を落とす必要がありますが、あなたはただの政治屋だ。二発で済む」

 安心だ。首を落とすのは本当に骨が折れる。

「お願いだ――。何でもする。国連にかけ合って、情報部隊に入隊させてある程度の地位と報酬も保証する。私はこちらの世界でも要職についている重要人物だ。大丈夫だ、悪いようにはしないから。な? 私を助けてくれ。亡命にも手を貸す。新しい身分も住まいも用意するから。証人保護プログラムを適応しよう。お願いだ、殺さないでくれ」

 無様だとは思わない。僕もきっと殺されそうになったら、同じように命乞いをすると思う。ジルディアさんは泣いているが、鼻水を出していないだけ立派だ。僕なら鼻水をだらだら流して、必死に許しを乞うだろう。

「ごめんなさい」

 まず左胸。白いシャツに赤い血が浮かぶ上がる。それから額。目を見開いたまま、ジルディアさんの顔が傾いた。僕はそっと瞼を閉じてやった。

 殺すに値する人間だった。そう自分に言い聞かる。

 そして三つ目の鯖の缶詰。

 僕はポケットから鯖の缶詰と十徳ナイフを取り出す。机の上に鯖の缶詰を置いて、蓋を開けた。マイ箸も持ち歩いている。箸入れから抜く。少々行儀が悪いが、そのまま机の上に腰掛けて、僕は鯖の缶詰を食べた。

 誰かを殺した後に、必ず鯖の缶詰を食べるようにしている。そうすると心が落ち着く。命を奪って高揚している心が、とても休まる。

 最初の殺人がこうだった。

あの時も、僕はあいつを殺した後、鯖の缶詰を食べた。だからあの時と同じものを食べると、本当に落ち着く。あの時――、最初に人を殺した時と一緒じゃないか――、そう思えると、心が楽になる。負担が減る。

 僕は鯖の缶詰を食べながら、ジルディアさんのPCを立ち上げ、USBメモリを差した。USBメモリから自動でプログラムが立ち上がり、ジルディアさんのPCの情報をコピーしていく。

 煌々と光る液晶画面を眺めながら、作業が終わるまでの間、僕は黙々と鯖の缶詰を食べた。



「何してるの?」



 書斎の扉が開いていた。

 丁度、僕が鯖の缶詰を食べ終えた頃だ。USBメモリを抜き、ポケットに仕舞った。

 吉野優衣だ。資料で見た写真の通りの顔だった。色素の薄い茶色の髪に白い肌。二重の瞼と細く薄い唇。痩せた身体と僕よりも低い身長。

「パパ、死んでるの?」

「死んでる」

 ごめん。僕が殺した。喉まで出て来たが、言うのを止めた。僕はそんな風に軽口を叩いて、困難をスマートに回避できるスキルはない。

 僕はスパイに向いていない男だ。だから、殺しのルールを作っている。銃を持ち、罪を聞き、鯖の缶詰を食べる。そうして精神を安定させなきゃ、この仕事をこなすことも出来ない弱い人間だ。

「そうなの」と吉野優衣。

 僕はいつかこうなると思っていた。

 いつかヘマをして、自分の悪事が露見する日が来る、と。僕みたいな奴が隠月師団の一員となって、政治亡命者やその他、ルーン公国にとって邪魔になる人間を始末出来るなんて奇跡に等しい。

「そうだよ」

 ただ睡眠薬で寝ているはずの吉野優衣が起きているのを見ると、ヘマをしたのは下級の工作員たちだろう。彼らの仕事が甘かった。薬の分量を間違えたのか、それとも覚醒剤でも入れたのかはわからないけど。

「あなたが殺したの?」

「うん」と僕。「僕が殺した」

 そのまま机に置いていた拳銃を握った。目撃者は始末しなくてはいけない。仕事が増えるのはしょうがない。罪を聞いて、僕自身の心の準備を整える時間はないだろう。鯖の缶詰は始末してから、コンビニに買いに行けばいい。

「ありがとう」

 意外な反応だ。

 泣いている。

 僕は思考を止めてしまった。

「ごめん」

 僕は書斎の窓を開けて、物置の上へと飛び降りた。それからさらに庭に降り、吉野優衣の家を出る。

 外は雨だ。まだ日付は変わっていない。

 八月三十一日。

 夏休みの最終日の夜は雨。

 僕は気弱で控えめな性格だ。

 泣いている女の子を殺すなんて出来ない。

 彼女は僕と同じだ。



 コンビニで傘を買った。そのまま歩いて、自分の部屋があるアパートに帰る。部屋の鍵は開いていた。バイラドさんがいるのはわかっている。僕を待ってくれているのだ。

「ただいま」

 畳んだ傘を玄関の隅に立てて、靴を脱いだ。これでビニール傘は四本目になった。そろそろ捨てなくちゃ。

「おかえり」

 バイラドさんが奥の部屋から顔を出した。「濡れました?」

「はい。先にシャワーを浴びます」

「USBメモリ、貰っていい?」

「あ、どうぞ。こちらです」

 バイラドさんが小走りで駆け寄ってくる。背は僕よりも低い。見た目も幼い。髪の毛は茶色いし、目の色は青い。日本で言うところの外国の子供と言った容姿なのだが、胸は大きい。

「ありがとうございます」

 USBメモリを両手で受け取ったバイラドさんはペコリとお辞儀。小学生みたいにも見えるが、異世界のルーン人だ。この日本にいるべき者ではない、他の世界の住人。

「いえ」

 僕はそのまま浴室に向かいシャワーを浴びた。



 シャワーを終えてリビングに向かうと、缶ビールが三本開いていた。寿司の出前も取ったらしい。

「僕のカードですか?」と僕。ビニール袋を広げて、空き缶を放り込んでいく。

「そうです」とバイラドさん。

 異世界と正世界の戦争はゼロ年代と変わった。九八年から十年続いた大規模な戦闘はもうない。一〇年代は、お互いがお互いの手の内を探り、僕のようなスパイが暗躍する時代だ。異世界のルーン公国のスパイは僕だけじゃない。日本政府にもアメリカ合衆国にもいるし、この正世界と中心となった共同体、国連政府にもスパイは潜んでいる。

「予算委員会に目を付けられます」

「交際費ですよ、黒田」

 僕の生活費は全てルーン公国から出ている。高校生の癖に独り暮らしをして、その割に結構大きな部屋に住んでいるのは、両親が海外赴任で家を留守にしているからという設定の為だ。

「羽目を外しすぎです」

「私はこの世界の食べ物が好きなのです。寿司、トンカツ、カレー、ステーキ、ラーメン、パスタ、チョコレートクッキー」

「アルコールもでしょう」

「その通りです。黒田は賢いですね」

「いいんですか、聖十偉人と言われているあなたがこんな体たらくで」

 バイラドさんはルーン公国の隠月師団の幹部で、聖十偉人と呼ばれている。つまり尊敬と畏怖の対象。

「私は決して亡命をしません。どんなにこの世界の食べ物に舌鼓を打っても、リリィ様への忠誠とルーンの誓いを破棄することはないのです。だから大丈夫なのです」

 バイラドさんが得意そうにポケットから赤い宝石のついた指輪を取りだした。もちろん床に落とす。酔っ払いだ。「おっとっと」とそれを拾い上げ改めて「これが誓いの指輪です。リリィ様に貰ったのです」と見せびらかしてきた。うん。酔っ払いだ。

「そうですか」

「裏切り者の始末と亡命者のリスト、ご苦労様でした」

 こうやって唐突に話を変えるところを見ると、もう家に帰らした方が良いだろう。

「ありがとうございます」

 僕は両膝をついて、右手を左胸に置き、礼をした。ルーン公国のあらゆる騎士が行う正式なお辞儀の方法だ。

「よろしい。立ちたまえ」

「ありがとうございます」

 解除の許しが出たので、立ち上がり、部屋を片付ける。

「何も問題はなかったのですか? 黒田」

「えぇ。滞りなく」

 もちろん吉野優衣のことが浮かんだ。何が滞りなくだろうか。僕はとてつもないヘマをやらかしている。

 ここで正直に吉野優衣のことを告げれば、事態はシンプルに収まる。吉野優衣は二度と朝日を見れなくなる。それだけ。僕が行くか、他の人が行くかはわからない。もしかしたらバイラドさん自ら彼女を殺しに行くかもしれない。もちろん僕は殺人現場を抑えられた責任があり、その場で吉野優衣を始末しなかったことは裁かれるだろう。だが今回で言えば発端は工作員のミスに違いない。彼らが吉野優衣を眠らせなかったことが全ての始まりだ。

 だから僕がここで正直に殺人現場を抑えられたことをバイラドさんに告げても、自分自身にはそれほど大きな処罰は下らないだろう。

 正直に全てを話すなら今だ。いや、普通ならそうする。

「本当ですか?」

「はい。そうです」

 だけど僕はしなかった。嘘を吐いた。心臓が飛び出そうだ。相変わらずの小心者だ。

「さすが黒田ですね。私が育てた最高傑作です」

「どうも」

 身寄りがいなかった僕をここまで育ててくれたのは、他でもないバイラドさんだ。彼女の容姿は小学生みたいなもんけど、実は六百歳という噂だ。

「それでは、私はそろそろ帰ります」

 バイラドさんもまた僕と同じく、この日本に潜入し工作活動をしている。今は指揮するマネージャーとしての立場であり、僕の上司。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ。ちゃんとウコンの力を飲んで来ましたから」

「送りましょうか?」

 僕は巨乳が好きだ。だからバイラドさんが好きだ。

「いえ。結構です。秘密保持の為です。知らない情報は吐けませんからね」

「そうですか」

 こうしてバイラドさんは帰り仕度を始め、玄関に向かう。

「本当に御苦労でした、黒田。亡命者のリストが手に入ったので、これを基にまた新しい任務が来ることでしょう」

 玄関から外に出ると、バイラドさんは僕に言った。「それではお休みなさい。黒田」

「お休みなさい」

 夜が終わった。



 朝。九月一日。二学期の始まりだ。

 僕は体力維持の為、六時に起きて十キロほどジョギングをした。それからバナナとリンゴを食べて、八時半の始業に間に合うように登校。

「おはよー」

「おはよう」

「おはー」

「オッスー」

 席について、周りのみんなと挨拶。僕は教室の中で下から数えたほうが早いカーストに位置する人間だ。中心となる活発なグループに憧れたこともないし、自分の性格では無理だと思う。気弱で控えめな僕が、例えばクラスで一番話しが上手で、彼女もいる佐藤君のように振る舞うことなど、絶対に不可能なのだ。人間には出来ることと出来ないことがある。僕は集団の中心でリーダーのようにみんなと接することなど出来ない人間なのだ。

「黒田、お前、夏休み何してた?」

 隣の席の鈴木君が僕に聞いてきた。ラジコンが好きな僕の友人だ。僕はそちらを向く。僕らは高校三年生だ。夏期講習と嘘を吐こうと決めていた。

「あ――」と振り向いてから僕。

「何だよ」

「あ――、いや――」

「どうした?」

 驚いた。

「鯖の缶詰。好きなんでしょ?」

 吉野優衣だった。

 下級生の彼女が僕の教室に突っ立っていた。

 鯖の缶詰を持っている。水煮タイプだ。

「嫌いだったの?」と吉野優衣は続ける。

 唖然とするのは僕だけじゃない。

 教室のみんながそうだ。

 ここは三年生の教室で、二年生がいるべき場所じゃない。それなのに、とてつもなく堂々とした態度で鯖の缶詰を持ち、僕の顔にグイグイ近づけてくる。

「嫌いなはずないよね? 黒田」

 え、呼び捨て?

「好き、だけど」

 控えめに答えた。

「じゃこれ。プレゼント・フォー・ユー」

 吉野優衣は思い切りよく机の上に鯖の缶詰を置いた。

 カーン、と音が響く。

「どうも」と僕。

「放課後、家庭科で待ってるから。家庭科準備室じゃないから。家庭科室。絶対に来るのよ」

「え?」

 僕は戸惑う。

「黒田、あなたに選択肢はないはず。でしょ?」

「どうして?」

 すると吉野優衣が、僕の耳に口を近づけて囁いた。

「昨日のこと全部バラすからよ。黒田の馬鹿」

 豹変だ。

 呼び捨て+馬鹿と言っている。

 昨晩、静かに泣いていた姿はもうない。

「わかった?」

 僕の耳から口を離して仁王立ちする吉野優衣。「返事は?」

「わかった」と僕。

「よし。じゃ放課後に待ってるから」

 吉野優衣は「ちょっと邪魔よ」と他のクラスメイトを押しのけながら、教室から出て行った。

 教室中の誰もが僕を見ていた。友人の鈴木君も口を半開きのまま、僕を見ている。

 穴があったら入りたい。耐えられない視線の集中。目のやり場に困って、僕は机の上に残された鯖の缶詰を確認した。

 やっぱり鯖の缶詰だ。水煮タイプ。

 何の変哲もない。



 二学期の初日だから、まだ通常授業は始まっていない。始業式、ホームルーム、何だか謎の待ち時間もあって、午後十二時半には放課後だった。

 ファミレスとかカラオケとか友達の家とか部活とか。午後の予定は人それぞれで、僕も部活以外は無難にこなしてきた。

 担任の先生が話を終えて、「今日は解散」と言うと、一気に動き始める。僕も控えめに移動を開始した。

 もちろん行き先は一つ。

 家庭科室だ。



 家庭科室はB館の端っこ、三階に位置する。各クラスの教室が並ぶA館とは別の建物で、僕が主に生息している三年四組からは結構遠い。

「のろま」

 開口一番、これだ。確かに早いとは思わないけど、あんまりだとも思う。

「吉野優衣さん、ですよね?」と僕。

「そうよ」

 家庭科室の大きな料理用の机の上に座っている。腕と足を組んで、つまりとても偉そうだ。組んだ両足の隙間から、赤と白のストライプのパンティが見えていることは黙っておこう。僕は控えめな男だ。それに馬鹿でもない。

「どうして僕を呼んだの?」

「優衣でいい。優衣って呼んで」

 どうやらこっちの話は聞いていないらしい。唯我独尊タイプだ。

「下の名前で呼ぶの?」

「そうよ。黒田、あなたの下の名前は?」

「太郎」

「じゃ太郎って呼ぶから」

「え、けど、ほら――」

「なに」

 なんで睨むんだろう。

「男と女で下の名前で呼び合うと、色々誤解とかあるし」

 僕は言った。「付き合ってるとか噂されるかも」

「言っとくけど、あたしは太郎が好きなの。これからは恋人同士で毎日会うの」

「え?」

「そんな驚いた顔しないでよ。太郎だって、あたしとセックスしたいでしょ?」

 足を組み換えた。もっと大胆にパンティが見える。思わず唾を飲み込んだ。

「吉野さん――」と僕。

「優衣。そう呼んでって言ったでしょ?」

「あ、ごめん」

「謝らないで」

「これは告白なの?」

 まさに青春真っ只中なのか。

「そうよ」

「わかった」

「わかったってなに? あたしの愛を受け止めてくれるってこと?」

「いや、あの状況。状況だよ」

「そう。残念ね。あたしのこと嫌いなの?」

「違う」

「じゃどうして? 断ったら、パパを殺したことをバラすわ」

 脅迫じゃないか。「この殺人鬼」

「わかった」と僕。

「わかったって、だからなに?」

「付き合う」

「うふふ」

 笑った。「じゃこれにサインして」

 一枚の紙を差し出された。

 婚姻届けか? と思って身構えたら、そんなことはない。

「入部届け」

 僕は呟いていた。「どうして?」

「料理部を作ったからよ」

「料理?」

 好きなのか?

「太郎に美味しい料理を食べて貰いたいし、あたしも太郎が作った美味しい料理を食べたいからよ」

「なにそれ」

「昨日の夜、太郎が鯖の缶詰を食べてるの見て思ったの。きっとあなたって碌なもん食ってないって。だからあたしがまず太郎に出来る幸せなことって料理だと思ったのよ」

「それで料理部?」

「そう。今日作った」

「顧問は? あと部員。優衣と僕で二人だけど、部を作るには三人必要でしょ?」

 そういう規則のはずだった。

「顧問もあと一人の部員も目処はついてる」

「誰?」

「一年生の神楽頭美智子。今日は奇跡的に学校に来てるらしいから、今から救出に行くわよ。ほら、さっさと入部届けにサインして」

「拒否権は?」

 高校三年間。これまで一度も部に所属したことはなかった。このまま最後まで帰宅部として通すつもりだったのに。

「太郎、愛する恋人のあたしが頼んでいるのよ。もちろん断ったら、パパを殺したことを大々的に発表させて貰うわ。ツイッターにフェイスブック、まとめサイトにユーチューブとニコニコ動画、あらゆる媒体を使って拡散していくつもりだから」

「わかった。わかったよ」

 吉野優衣。いや優衣には謎の凄味がある。僕も一応、裏の人間だ。これまで幾つかの修羅場はあったし、控えめに見ても同世代より経験値はあると思う。だからわかる。優衣はやると言ったらやる女だし、やらないと言ったこともやってしまう女だ。つまり取扱注意の危険女子。

 ここは大人しく従うべきだろう。

 僕は入部届けにサインをした。

「よし。これでオッケー。それじゃ神楽頭美智子を救出に行くわよ」

 机からぴょんと降りると、優衣は家庭科室を出て行った。

 僕は追いかけることになる。



 神楽頭美智子はちょっとした有名人だ。

「あれは大人よね、やっぱり」

 一年八組の教室に来た。神楽頭美智子は放課後となってしばらく経っているにも関わらず席に座っていた。

 足元は水浸しで、黒いロングの髪も夏用の白いブラウスも濡れている。机の上には、切り刻まれてた教科書があり、少し離れたところからクラスメイトの不良っぽい男が、彼女を的にして紙飛行機を投げるように飛ばして遊んでいた。

「二十歳とか?」

「そう」

 お酒の飲める年齢だ。元々十七歳のときに入学してきて、それから留年を繰り返した。

学校には来ないことのほうが多い。来てもこうやって壮絶な苛めに遭っている。それが神楽頭美智子。有名なのは良い意味ではなく、完全に悪い意味。あぁいう人生を送りたくないな、の象徴。

 学校に一日いたら一日中苛められている稀代の苛められっ子。

「助けてきて。恩を売って部員にする」

 優衣と僕は廊下から一年生の教室を覗く、ちょっとした不審人物だ。

「ほんとに?」

「太郎なら出来るでしょ。うちのパパを殺したじゃん」

「確かにそうだけど――」

 人を殺すのと、学校で苛められっ子を助けるのとじゃ訳が違う。まず僕がここで生活しているという点。僕は明日も明後日も学校に来る。そんな場所で苛められっ子なんて助けたら、一躍注目の的だ。僕は気弱で控えめな性格。そんな生活は望まないし、きっと耐えられないだろう。

 そして第二に、あの苛めっ子たち。僕の下級生だけど、正直怖い。僕の通っている学校はそこそこの進学校だから、あの苛めっ子たちは馬鹿じゃない。勉強は出来る。だけど不良という中途半端な奴ら。これは一番悪質なパターンだ。頭が良いのに悪いことしている人間というのは碌なもんじゃない。報復とか怖いし、キレる若者の代表格に違いない。だから出来れば相手にしたくないし、関わりたくもない。

「太郎、早く助けて来なさい」と優衣。「命令よ」

「命令って」

 バイラドさんの命令しか受けたくない。

「じゃなきゃ、わかるでしょ? 言わせるつもり?」

 優衣はほほ笑む。かつてこのような恋人関係があったのだろうか。

 僕は心当たりがない。

「助けてくる」と渋々承諾して、一年生の教室に入って行った。



「君たち、止めなさい。苛めは良くない」

 こう言うしかないだろう。

 椅子にふんぞり返って、神楽頭さんを苛める下級生の男の子に近寄った。

 下級生は僕を見て、うわ、今時ヒーロー気取りかよ、だせぇ、みたいな嘲笑をして、無視。今度は消しカスを濡れた神楽頭さん目がけて投げ始めた。

 僕は教室の扉を見る。優衣が仁王立ちしていた。

「神楽頭さんは泣いてるよ。やめなよ」ともう一度言ってみる。

 だが無視。

 結局、暴力で解決した。



 僕はルーン公国の隠月師団に所属するスパイだ。

 弱いはずがない。



 不良気取りの下級生が土下座をして謝るまで、五分も必要なかった。

「もう止めて下さい。助けて下さい。このとーりです」と不良。

 本当はこんなことはしたくなかったが、しょうがない。僕も別に謝罪を求めてやったわけではないし、すぐに頭を上げさせた。

「神楽頭さん。それではこれにサインを」

 優衣が現れて、席に腰掛けたままの神楽頭さんに早速迫った。

「え? ど、どういうことですか?」

 困惑する神楽頭さん。

 それもそうだ。新学期早々、苛められていると思ったら、突然目の前で苛めっ子をボコボコにされ、何の説明もないまま正体不明の部活への入部届けを書けと強要されているのだ。誰だって混乱する。

「料理部を作ったから、あなたに是非入って欲しいの。不登校気味だし、どうせ帰宅部でしょ。それに苛めっ子から救出してあげたんだから、恩がある。今こそ恩を返す時よ」

 どうしてそんなに自信満々でいられるのだろうか、というくらい優衣は自信に充ち溢れていた。一点の澱みなく言葉を喋り、相手に訳のわからない要求を突き立てている。

「なに?」

 まだ混乱している神楽頭さんに優衣が迫る。

「あの、お名前は?」

「そうね。自己紹介がまだよね。あたしは吉野優衣。二年三組、出席番号は三十五番。そこに突っ立って、下級生をボコボコにしたのは太郎。フルネームは黒田太郎で、あたしの彼氏兼婚約者、つまり未来の旦那」

「え? 旦那?」

 今度は僕が困惑する番だ。

「遊びなの?」と優衣。「あたしの身体が目当てなの?」

「いや、僕は違う。巨乳が好みだし」

 僕は比較的凹凸の少ない優衣の胸を見た。

「最低!」

 音速のビンタだ。「スーパーモデルがみんな貧乳だって知らないの?」

 左の頬が痛い。

「ごめんよ」

「素直さは評価するわ」

 優衣は続ける。「二度とあたしの前で巨乳が好きとか言わないように」

「ふふふ」

 神楽頭さんが笑っていることに気付いた。「お二人って面白いんですね」

「昨日会ったばかりよ」

 優衣は言った。

 だから何故そんなどうでもいいような台詞を自信満々で腰に手を当てて言うのだろうか。

「太郎をボディーガードに雇う報酬を払うつもりで、あたしの作ったスーパー料理部に入部しなさい。少しでも楽しい学校生活を送りたいでしょ?」

 スーパー料理部って。もう。ただ僕は控えめな性格だ。こういう強気の人の会話にカットインできる度胸もスキルもない。流れに任せて、何も言わないでおこう。

「わかりました。入部します」

「よろしい。部長はあたし。副部長はいないわ。太郎と神楽頭さんの二人は平等に部員待遇よ」

「わかりました」

「じゃこれにサインを」

「はい」

 こうして神楽頭さんが仲間になった。

 ちなみに神楽頭さんは巨乳だ。

 僕としても大歓迎だけど、それは黙っておこう。僕だけの秘密だ。



「顧問の先生に会いに行くわ」

 僕と神楽頭さんはそう言う優衣に着いて歩いた。構内の廊下を三人で進む。新学期初日の放課後なので人は少ない。

「顧問は誰?」と言ったのは僕。

 一歩進む度に前を歩いている優衣のポニーテールが揺れた。

「体育の十階堂先生」

「あ、あの」

 女性の体育教師だ。従って僕は十階堂先生の授業を受けたことがない。

「そう。あの十階堂先生よ。去年の暮れの合唱コンクールで、担任を受け持っているクラスから、婚約おめでとうの歌をサプライズプレゼントされながらも、年明けに土壇場の婚約破棄で、一部の男性生徒から地獄修行僧と称される十階堂先生よ」

「そんなことがあったんですか?」

 神楽頭さんが言った。

「ちゃんと学校に来なさい。婚約破棄された翌日の授業は最悪だったわ。あたし受けてたんだけど、十階堂先生は明らかに酒臭いし、校庭を三十周も走らされたんだもの。ほとんどの女子が吐いちゃって、ほんと地獄絵図だったわ」

 そう話しているうちに職員室についた。

「話はしてあるの?」

 僕は聞いた。

「ない」

 優衣は扉の前に立つ。

「そんなことだろうと思った」

「行き当たりばったりよ」

 堂々としている。「それこそ人生」

「ちょっと話が――」と僕。

 言い終わる前に優衣は職員室の扉を開く。

「十階堂先生、いますか? 婚約破棄された体育教師なんですけど」

 そんな呼び方があるだろうか。僕は怖くてしょうがない。神楽頭さんは俯いているじゃないか。優衣の顔を見る。自分の言葉に一つの疑問も持っていないようだ。

 あらゆる教員が僕らを見ていた。なんてことを言うんだ、クソガキが、というメッセージつきの目線だとわかる。

「ここは職員室ですよ、言葉を慎みたまえ」

 教頭先生が優衣を嗜める。

「うるさい、ハゲ。お前がカツラだってわかってんだよ」

「な、なんだと」

 教頭先生は勢いよく立ちあがり、近づいてくる。が、途中でコードに引っ掛かり、ずっこけた。「私はカツラではないし、ハゲでもない」

 ヅラが前後ひっくり返っていた。

「これをどうぞ」

 優衣はスマートフォンで教頭先生を撮影すると、その頭を本人に見せた。すぐに教頭先生は職員室から出て行った。

 どうしてそこまでする必要があるのだろうか。一体、教頭先生にどんな罪があったのだろうか。僕にはわからない。だけど指摘も出来ない。

「十階堂先生はどこですか?」と再び優衣は言った。

「あたしはここです」

 僕らの後ろだった。丁度、教頭先生が出て行った扉に上はTシャツ、下はジャージの十階堂先生が立っていた。ショートカットの黒い髪で、ちょっと日焼けした健康的な肌。首にはホイッスルを下げている。切れ長の目は何だか和風という感じだが、少しきつい印象もある。「なんですか?」

「スーパー料理部の顧問になってください」

 優衣は言った。

 単刀直入だ。

 戸惑う十階堂先生に優衣は続ける。

「先生は婚約破棄された後、精神的ショックから、それまで続けていた陸上部の顧問を降りましたね。今はどの部の顧問もしていないはずです。だからあたしの作ったスーパー料理部の顧問になって下さい」

「けど、私、料理とか出来ないよ」

「いいんです。あたしも同じです。これから恋人の太郎に美味しい料理を作るために子の部を作ったんです。部員はあたしも含めて三人揃えました。太郎と神楽頭さんがそうです。あとは顧問だけなんです。先生、料理上手になって世の男を魅了しましょう。知ってますよ、婚約破棄の理由。男をイタリア料理の女性シェフに取られたんですよね?」

「うぅ――」

 十階堂先生の反応を見る限り、どうやら図星のようだ。

「料理には料理で対抗ですよ!」

 グッと拳を握る優衣。「ほら、あんたたちもやるのよ」

「え? 僕らも」

「私もですか?」

「もちろんよ!」

 というわけで、僕と神楽頭さんもグッと拳を握る。

 これがどういう効果を齎したのかはわからないが、十階堂先生としても料理にはコンプレックスがあったのだろう。

 結果から言えば、十階堂先生は顧問になった。

「わかった。そうだよね。いつまでも料理に苦手意識持ってちゃダメだね。女が料理とかそういうの古いし嫌いだけど、あの女シェフに負けたままじゃ悔しいから、先生、料理部の顧問になる」

「ありがとうございます!」

 満面の笑みを作った後、優衣は頭を下げた。

 世の中、意外に簡単だ。



 こうしてスーパー料理部は誕生した。

「一日で作れてよかった。明日から活動だからね。放課後は毎日、家庭科室に集合よ」

「わかりました」

 神楽頭さんは結構素直に返事をする。

「太郎、返事は?」

「わかった」

「よろしい」

 学校から出てからすぐの交差点だった。僕と優衣は自転車。神楽頭さんはここまで徒歩だった。信号はまだ赤。僕と優衣は自転車を並べて、青になるのを待っている。

「じゃまた明日ね」

「はい。さようなら」

 少し俯き加減で手を振る神楽頭さんと別れた。彼女はこれから、すぐそこの停留所でバスに乗るという。

「太郎、明日は何が食べたい?」

 部活の話だ。「記念すべき、スーパー料理部にとっての初料理は何を作ろうか?」

「カレーとかいいと思うけど――」と僕。

 何度も自分で作ったことがあった。失敗はしないはずだ。

「なかなか家庭的なチョイスね」

「駄目かな?」

「いいわよ。じゃ、あらゆるは買い出し頼んだわ」

「そういうことか」

 こんなことだろうと思っていた。

 信号が青に変わる。途中までは優衣と一緒の道だろう。

 漕ぎだそうとした時、スマートフォンが鳴った。メッセージを受信したらしい。見ると、バイラドさんからだった。

「なに?」

 優衣が訊いてくる。

「友達から」と僕は本能的に誤魔化した。

 メッセージを開いて確認する。


――吉野優衣が殺害対象となった。詳細は追って連絡する。


 短いメッセージだった。

「なに?」

 もう一度、優衣が訊いてくる。

「大丈夫」

 僕は言って、自転車を漕ぎ始める。

 どうしてそんなことを言ったのか、僕にはわからなかった。

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