第42話 邪念の朝

 朝日を浴びて目覚める時、最初に何を考えるだろうか。

 恋する若者であれば想い人のことかもしれない。

 もっと単純に、今日は何を食べようかというものでもよい。

 なんにしろ、だいたいは浮世離れしたことではあるまい。寝起きではっきりしない頭などそんなものだ。

 寝台から身を起こしてから、実家の自室だと理解するのに時間がかかった。

「もう朝か」

 おはようを言う相手はいない。

 甥が騎士学校の寮へ移り住んで以来、マーカス家の屋敷は空家も同然である。

 処分できぬままずるずると時間が経ち、少なくない額の税を払って何年も維持したままだ。

 月に何度か清掃を依頼しているが、どれほど清潔にしても淀んだ空気と死に向かう家であることは覆せない。

 人の住まない屋敷は、死んだものと同じだ。

 顔を洗って着替えを済ませたら、今日は馴染の食事屋に行こう。

 ベイル・マーカスがいなくとも帝都に変わりは無い。

 一等法務官ですら巨大な帝国には代わりがいる。

 帝都の秋は過ごしやすい。あと一月もすれば寒くなり、慌ただしく過ごしている内に年の瀬を迎えることになる。

 料理屋に入ると、久方ぶりの来店に店主は快く迎えてくれた。

 安い店ではないが、静かに食べられる。奥の席に行き、スープとパン、それに温野菜のサラダを頼む。

 美味い。繊細な帝都の味だ。トリアナンでこの味は再現できまい。

 腹がくちくなり、食後の茶に口をつける。

 トリアナンと違って、異常な熱さは帝都では好まれない。アリスに任せると、茶葉を台無しにして淹れるが、トリアナンではそれが普通だ。

「売ってしまうか」

 ふんぎりがついた。

 実家の邸宅に住むことも無い。それに、良い区切りである。

 故郷など、とうの昔に失っていたと今になって気づいた。



 バスタル先輩、いや、バスタル一等法務官と二年ぶりに会えば、マドレ・ドーレン侯爵家に仕えることになったとかで忙しい様子である。

 マドレ侯爵家に椿事ちんじありとは小耳に挟んでいたが、筆者がトリアナンで動いている間にバスタル先輩はそちらにかかりきりであったようだ。

 一等法務官が皇帝陛下の手であるのに間違いは無い。我々は最高権力者の思いのままに動かざるを得ない手でしかないのだ。

 故に、平伏して御成りを待つ筆者はただの役人である。何も特別なものは無い。

「ベイル・マーカス、おもてを上げよ」

「ははっ」

 形式に沿った長い挨拶、そして返答、さらに直言の許しまでを終えるのに、長い時間を要した。

 これが一番の無駄である。だが、神に等しき皇帝陛下のご尊顔を拝謁するには必要なことだ。

「トリアナンにおける働き、大義であった」

 筆者の行いは陛下の目である細作により伝えられている。

「有難きお言葉。恐悦至極にございます」

「ベイル・マーカス、卿は引き続きトリアナンに詰めよ。マドレ・ドーレンのことは知っておるな」

「帝都に戻り、仔細は確認しております」

「彼の地は揺れる。ドーレンに隣接するトリアナンもまた影響を受けよう。卿にはその抑えとなってもらう。トリアナンめも承知のことよ」

「謹んでお受け致します」

「うむ、朕も報告書を読んだ。卿には期待しておる」

 驚きで開きそうになった口を、なんとか閉じることができた。

 やんごとなき御方が、まさか陛下であったとは。

 報告書のことは公にはできないためこの場での発言は無い。しかし、口ぶりから察するに満足して頂けているようだ。

 最後に形式に沿った挨拶があり、その後に陛下は去った。

 解放されて、筆者も帰途につく。

 皇宮より出てから、口元に笑みが浮いた。

 陛下があれを読むか。不敬な言葉をあえて用いた。下衆なことも書いた。そして、その根底に反骨心があることを隠してもいない。

 この仕事をして長く生きれるとは思っていない。

 いやに可笑しくなって、大通りの辻で笑ってしまった。

 夕暮れの辻には怪しきものが出るというが、今の筆者がまさにそれだろう。通り過ぎる人々が奇異の目で見る。

「さて、行くか」

 帝都にはしばらく戻れまい。それどころか、トリアナンに骨を埋めることになるかも知れない。

 土地売買の契約は滞りなく済んだ。



 ◆


 書き物に疲れ、石のようになった体を解すために伸びをした。

 年齢のせいというよりは、事務仕事のために身体が思うように動かないのだと思う。

 誰にも見せることのない報告書を書き上げたところだ。

 小説風の報告書というのは、なんとも面白いものだ。自分の思惑を、自分が思うよりもずっと深くまで楽に吐露できる。

 トリアナン庁舎の執務室も、腰を据えてみれば悪くない。

 実家を手放したのは正解だったな、と一抹の寂しさと共に思う。

「ダンナ、お茶ですよ」

 屋敷にいても暇だというので庁舎で小間使いとして働いているアリスが、熱い茶を持ってくる。

 秋の盛りを過ぎて、急速に肌寒くなってきた。トリアナンの秋は毎年こんなものらしいが、こうなると熱すぎる茶というのも悪くない。

 味は二の次だが、体の芯に残った寒さと冷たさを追い払える。

「アリス、服は作ったか?」

「え、なんですか」

 首を傾げるアリス。

 あ、そうか。金も渡していなければ、説明もしていなかった。

「今度の結婚式に、キミも招待されている。まだ時間はあるから、どこかで仕立てて貰いなさい」

 もちろん、この結婚式というのはシャルルと元聖女ミントのものだ。

 天道教会の聖堂を借り切った祭りになる。

「え、わ、わたしもいいんですか」

「シャルルの世話をしていただろう。あいつは気の利くヤツだから、キミも招待客リストに載ってる」

 金庫から金貨を三枚取り出して渡してやると、「こんな大金は」とアリスは言う。

「みすぼらしい格好をされると、俺が恥をかくんだ。気にせず買ってきなさい」

「は、はい。ありがとうございます」

 皇帝陛下からの報奨と家を売った金で懐は温かい。

 アリスを見捨てられない訳も分かった。

 あれくらいの年ごろの、アリスはエルフであるため実年齢はほど遠いが、姪のレリアを連想させられる子供を見捨てられない。

 レリアを見過ごした罪悪感である。

 もしも、あの時にレリアを助けられていたなら、彼女はどんな女性になっていただろうか。義姉に似て美しく成長しただろうか。

 人形の祠からシルセン子爵家へと調査は移り変わり、ここまでたどり着いたのもまた、レリアと同じ年頃の少女が犠牲になっていたからだ。それがなければ、幽霊にだけ目がいってこうなることもなかった。

 肩を回してみると、重く節々が痛む。腰は漬物石にでもなったかのようだ。

 少し、歩くか。

 庁舎を出て、トリアナンの街並みを歩く。

 そこかしこから聞こえてくるのは、シャルルとミントの結婚式の話題ばかりだ。

 悪魔を滅ぼした際の絵姿もよく売れている。観光資源として、彼らが美しい間はまだまだ使えるだろう。

 昼日中のトリアナンは賑やかだ。

 流しの宅師が声をかけてくるが、馬車には乗らず歩いてシルセン子爵家へ向かった。

 門までたどり着けば、職人たちの威勢の良い掛け声が響いてきた。

「うむ、見違えるな」

 繁るに任せていた庭木が手入れされて、陰鬱な印象はすっかり消え失せていた。

 敷地に入ると職人たちが頭を下げてきたが、作業責任者には気にしないでくれと言っておいた。

 私は悪魔を恐れない騎士として、妙な一目置かれ方をしていた。

 荒れ果てた屋敷は取り払われて、今は地下室と霊廟の改修工事が進んでいる。教会が言うには、霊廟は移動ができない状態にあるそうだ。建築的なものか、はたまた霊的なものかは知らない。

 霊的なものがどこまで人に実害を及ぼすのか、それは筆者にも分からない。だから、移動できない理由というものについては触れないでおいた。

 しばらく様子を見てから、隣の邸宅を見上げる。

 オズマ・カーディアスの生家だ。こちらも古い歴史を持つ立派な邸宅である。

「オズマはどうなったかな」

 つい昨日、彼の死亡届を受理して公的に死んだことにした。

 裏切りはあったが、約束は果たさねばならない。

 オズマは城門の外へと消えた。挨拶をする時間はなかったが、それなりの金と幾つかの伝手を紹介してある。

 魔の眷属ではなく、教会の刺客から逃げ延びることができれば、オズマはミコという亜人と添い遂げることができるだろう。

「望み薄ではあるな」

 独り言は、オズマへの手向けだ。

 誰からも顧みられることなく、オズマは愛に生きた。裏切ってくれたとはいえ、それだけは男として尊敬できる。女のために命をかけるなど、並の男に出来ることではない。

 心にちくりとした痛みがある。

 私はいつの間にか孤独に慣れきっていた。

 廃材置き場に火が焚かれていて、板切れが燃されている。

「ちょうどいいな」

 懐に入れてあった報告書の最後の章を取り出した。

 少し迷ったが、火にくべる。

 想像したよりもそれはあっさりとしたもので、決して表に出せない記録は炎に舐めつくされて灰となり、秋の空に吸い込まれる。行方を目で追ってみたが、やがて消えた。

「おい、ベイル・マーカス、戻っていたのか」

 声をかけられて振り向けば、ミランダがいた。

 薄汚れた騎士装束で馬に跨って私を見下ろしている。

「ああ、つい昨日戻った。相変わらず元気そうだね」

「そんなに長い間でもあるまい。……どうした、元気が無いな」

「旅疲れだよ」

 小さく笑えば、ミランダは訝しげな顔だ。

「辛いことがあったという顔だぞ。お前はもっとふてぶてしい顔をしろ。我らを田舎者と見下しているほうが、らしいぞ」

 そんな顔をしていたかな。

「帝都もトリアナンも、人間は同じだよ。何も変わらない」

「ふん、よく分からんな。庁舎まで行くなら送ろう。乗れ」

 ミランダは馬上から手招きする。確かに後ろには乗れるが、小娘の後ろに乗るというのは外聞が悪い。

「……キミの後ろに乗るのか」

「他のどこに乗る?」

 女の後ろに乗るというのも恥ずかしいものだ。

 どうせ断ったら面倒なことになる。諦めて後ろに乗った。

「気分が晴れない時は馬に乗るのが良いぞ、ベイル。どうだ、帰ったらたまには剣でも振るか」

「結婚式の件で仕上げる書類がある。帰ったら続きをするよ」

「ベイル・マーカス、ここはトリアナンだ。帝都ではないぞ」

 ミランダは返事をする前に馬を走らせた。

 都市内を走るには些か早すぎる速度で走らせる。

 風と共に、ミランダの匂いが鼻をくすぐる。若い女の香りがした。

 平常心だ。

 頭の中で恐ろしげな怪物を連想して、邪念を追い払う。

「ベイル・マーカスっ、この度のこと、感謝しているぞっ」

「えっ、なんだ」

「もう言わんっ」

 聞こえていたが、聞こえていないフリをした。

 雅の欠片も無い。実に、辺境らしい返礼ではないか。

「ははは、そうか。それでいいよ」

「貴様っ、からかいおって」

 街中を馬で走るなど、帝都では許されないことだ。

 なかなかどうして、楽しいものである。







 ◆


 義姉を訪ねるのは、勇気のいることだった。

 夜半だというのに義姉は快く迎え入れてくれた。

 裕福な義姉の邸宅は、マーカス家の何倍も大きい。

 最後に会ってから何年も経つというのに、時が止まったように義姉は変わらず美しいままだ。二人並べば、筆者が年上に見えるだろう。

 夕食を共にして、思い出話に華が咲く。

 あれから再婚もせず、義姉は実家に篭りきりである。

 共に採る食事は、暖かなものだった。

「明日には帝都を発って、トリアナンへ帰ることになります」

 義姉上は『帰る』という言葉に眉を顰めた。

「もう、会えないかもしれませんね」

「義姉上、私の記憶にあるあなたは、ずっと美しいままです。今も、変わらずお美しい」

「……あなたは、変わったわ」

「はは、歳を食いました」

「初めて会った時、あなたは幼さが残る人でした。あのひとと仲が悪いのはすぐに分かりましたけれど、わたくしを嫌うことはなかった」

 赤ワインの苦さには、いつも辟易とさせられる。

 酒はあまり好きではない。

「兄には勿体ないと、そう思いましたよ」

「ふふ、そんなことを言ってくれるのね」

 見つめ合えば、分かることがある。

 筆者が惹かれていたように、義姉もまた……。

 愚にもつかないとはこのことだな。

「今日はお泊りになって」

「お言葉に甘えさせて頂きます。義姉上」

 兄はもういない。

 義姉上と呼ぶ必要は無い。どころか、名前で呼んでもいいのかもしれない。

 食後は客間へ通された。

 しばらく考え込んでいると、女中から風呂の準備が出来たと伝えられる。

 急な来訪だというのに、風呂まで用意してくれるというのは有難い限りだ。ただ、歓待という意味で女が風呂を用意するのは、夜を承諾していると取られる。

 湯船に浸かり、ふと息を吐く。

 義姉が入ってきやしないかとひやひやしたが、そんなことはなかった。

 まんじりともしない夜を過ごす。

 夜半、尿意に目を覚ます。

 手水場へ行くため部屋を出て帰る時に、ランプを手にした義姉と会った。

「あら、こんな夜半にどうしたの」

はばかりを拝借しておりました。義姉上は、夜の散歩ですか」

「ええ、そんなところです」

 手に持ったランプの灯りに照らされた義姉上は、闇の中にぽっかりと浮かびあがっている。やはり、美しい女性ひとだ。

 何か言おうとしたが、言葉にならない。

「では、戻ります」

 背を向けたところで、手を握られた。

 柔らかくて暖かい、女の手だ。

「ベイル様、手が、昔と変わってないわ。あなたたち兄弟が並んだときに、手があんまりに違うから……」

 義姉は筆者の背中にしなだれかかった、顔を埋めているのが分かる。

「あなたの手を初めて見たとき、ほっそりした長い指に綺麗な爪で、そればかり目に残ったわ。あなたの手は悪い手よ。今も、あの時と変わらない女を泣かせる悪い手……」

 振り返って彼女を抱きしめるか逡巡したその時、目に痛みが走った。

 暗闇の中で、何かがこちらを見ている。

「義姉上、足をもつれさせるなんて悪い酔い方ですよ。私が飲ませ過ぎたのがいけなかったのかもしれない。部屋まで送りますよ」

 義姉と手を握ったまま、子供のように手を繋いで歩く。

 部屋までたどり着いて、扉を閉めるというところでようやく手を放してくれた。

「おやすみなさい、義姉上」

「おやすみなさい、ベイル様」

 義姉は声を出さずに、口だけを『待ってる』と動かした。

 そうか、そうだろうな。

 昔なら、あの降霊会の日なら、きっと誘いに乗っていただろう。閉じられたあの部屋で、獣のように交合しただろう。

 今となっては、遅すぎる。

 客間へ戻り、寝台に横になった。

「分かっている。いや、分かっていたことだ」

 闇の中の気配に、そう言った。

 きっと、これは超常的なものではない。

 筆者の心が見せている後悔だ。

 闇の中、目を瞑り、眠る。




 肌寒さに目覚めてみれば、朝日の昇る時間である。

 いやに早く目覚めた。

 身支度を整えて、昨日は見ることの叶わなかった庭園へ向かった。

 義姉の庭いじりは趣味としては度の過ぎたものだ。

「これは見事な……」

 夏の間は花が咲き乱れたであろう庭園は、秋の深まりと共に落ち着いた風景へと変じていた。そこにある寂しさは、芸術に疎い筆者に感嘆のため息をつかせるほどである。

 理屈では無く心を打つ寂しさがあった。

「おはようございます。ベイル様」

 テラスに義姉がいた。

 じっ、と最後に残ったカトレヤの花を見つめている。

「不思議でしょう、あの花だけ落ちないの。きっと、あの子が好きだったからね」

「義姉上、この庭園は水晶宮でも噂ですよ。再婚はお考えなさらないので」

「ふふふ、あはははは」

 義姉は笑う。

「いけずなひと。あなたのことを最初から……いいえ、あなたがわたしをあんなに見つめるから、わたしも」

 ずっと、気づいていて目を逸らしていたことだ。

 これは筆者の罪だろう。

 最初から引っ掛かりを感じていて、見ないふりをしていた。クラウディアという少女にかつて起きた事件が、それを分からせてくれた。

 神は人を隠さない。人が隠して出来上がるのが、神隠しという怪異である。

「義姉上、墓守として生きる必要ありませんよ。あなたの、義姉上の前で法務官を気取るには遅すぎる」

「そう。いまさらここに来て、あなたは」

 義姉上の声は震えてもいなければ、くぐもってもいない。ただ、言葉にならないというだけで、その心は揺れてもいない。

「兄は、レリアを愛しすぎていたのでしょう。行き過ぎた、まともではない愛です。私は、目を逸らしてしまった」

 義姉の口元が笑みに引き攣れる。

「子供は嫌いよ。うるさいもの。あのひとが可愛がるの。そうしたら、あの子、わたしに勝ち誇るのよ。あなたは二番目よって」

「……」

 筆者は何も言えない。

 相談されたとしても、嫡男でもなくただの二等法務官でしかなかった当時の筆者になにができたであろうか。

「この庭園は、レリアの墓なのですね。全ては神隠しとして片付いた。これを知る可能性があったのは私だけだ」

「あなたは、どうするの?」

 義姉上は、子供のような顔で筆者を見る。それは、感情の抜け落ちた悦びの顔だ。

「どうもしませんよ。マーカス家の椿事を、いまさら公にする気はありません。義姉上を罪に問う気もない。だから、あなたは」

 筆者はなんとかそこで口を閉じた。

 自分で言うのもなんだが、小器用に生きてきたつもりだ。法務官であるからこそ、法は悪と戦うための剣で無いと知る。

「母親のフリを続ける必要はない。ただの女として生きればよいのです」

「ふふ、うふふふ、どうして、そんなひどいことを言うの」

 まなじりに涙を溜めて、泣き笑いの顔で彼女は言う。

 罪を咎めないことに喜び、女を否定された痛みで哭く。

「レリアを想うのなら、墓の一つでも建てられるといい。義姉上、もう会うこともありません。おさらばです」

 これ以上、彼女を見たくなかった。

 女は魔物であると、歴史に名を遺した男たちは言った。

 義姉の顔は、笑い般若という魔そのものである。

 魔は人が生み、人に憑くものだ。

 邸宅を出て、振り返れば義姉が手を振っていた。手招きなのか別れの挨拶なのか、どちらともいえない。

 帰る場所を捨て、偽りの安息地を失った。いや、最初からそんなものは無かったのかも知れない。

『ベイルおじさま』

 レリアの声が聞こえた気がした。

 目を閉じれば、彼女の小さな手が筆者の指を握っているような気がする。

「トリアナンに帰ろう」

 筆者の手をつかむものなど無い。

 もしも、今の言葉が真に霊のものであるとしたら、レリアのふりをしたおころも様だろう。口の裂けた子供と手を繋いで歩いていると想像したら、笑えてきた。

「はは、ははは」

 人形の祠についての調査はこれを以て終了とする。





 一等法務官ベイル・マーカス、辺境の地トリアナンへ帰る。

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法務官ベイル・マーカスの怪奇記録 『人形の祠』 海老 @lobster

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