魔法使いのいない家

 いつの日も、夢を見る。


 黒猫の主人は消えてしまった。猫は使い魔、主人は雨をつかさどる魔法いであった。すでに、彼が消えて713の日が昇って、隠れ、そしてまた昇ろうとしていた。


 雨とともにうすい光が窓から射し込むよりも前、まだ青い世界。一匹の猫は、白いシーツにもぐりこみ、うとうとと、つかの間の夢路へと旅にでる。


 夢と現実の境目は、あいまいなものだ。ぽたり、ぽたりと滴の落ちる音がしている。

 猫はこれが夢だと分かると、ただ静かに、いつもと同じように、またシーツにくるまっていた。

 夢の中は、何も変わらぬ、なんてことはない、同じ白い部屋。

 なのになぜ。なぜ、今と変わらぬ無言の日々だというのに、幸福だと思えるのか。一言も言葉をかわさないのに、心がやすらぐのか。光る雨粒も、影を落とすカーテンの色も、壁の白さも、日常に見慣れたそれらを、なぜ、すべて美しいと思えるのか。

 その人の、穏やかな寝息が聞こえてくる。

 どんどん、本物になる。

 ああ、できればいつまでも、いつまでも。またもうつらうつらしていると、

「おはよう」

 そこには、蒼い瞳があった。ほんのついさっきは寝息をたてていたのに、その白い指が猫のあたまにそっとふれた。魔法使いの指だ。

「おはよう」

 猫は一呼吸遅れて、返事をする。その頃にはもう彼はベッドから降りて、白いシャツに着替えて、黒いズボンをはいて立っている。いつも魔法のように、早業なのだ。猫はいつも感心していた。

 窓の外では、しとしと、ぽたぽた、優しい音色が流れている。一人と一匹は、雨音に合わせて歌を歌いながら外へ駆け出る。

 濡れそぼつ青い庭が広がっている。鬱蒼と茂るハーブの匂いがたちこめている。紫陽花が滴を葉に落としてはきらきらと光る。明るい緑は水の重みに絶えず頭を垂れ、またもたげた。魔法使いの黒い髪の毛から滴る雨が、とても美しい、こんなことってないのだと、猫は心を動かされていた。魔法使いに語りかける。

「ねえ、わたし、この庭だいすきよ」

「うん、僕も。他にもあるから、いつか見せてあげる」

 風の吹かない、やわらかな細い雨の降る庭。それは、雨の魔法使いの宝の一部だったという。名高い魔法使いの一人だったのにも関わらず、彼はぬけているところがあった。よく泥の道を歩いては転んでいた。

「どうして同じところで転ぶの?」

「どうしてだろうね、僕も不思議なんだ」

 いくら力があると言ってもあんな貧弱者のどこがいいのかと、他の使い魔たちはよく笑っていた。あんまりにもさげすむものだから、怒った猫は飛びかかって噛みついておいた。

「あんなに素敵な人に気づけないなんて、あの子たち、見る目がなさすぎよ」

 睨みをきかせて他の使い魔たちを追い払うと、彼は笑っていた。

「他の魔法使いのところへ行く? あなたはとても優秀な使い魔だから」

「いやよ。あなたが世界で一番よ。あなたほどの人など、どこにも」

 彼は、目を細めて猫を撫でる。かつて捨てられていた自分を見つけてくれたその瞬間から、夢中なのだ。あなたに見合う者になりたい。

 彼が本を読むのなら、わたしも本を読もう。猫はそう思った。

 誰にだって、情けない使い魔を持った情けない魔法使いだなんて言わせはしない。あなたに似合うわたしがいい。あなたをすきなわたしごと、すべてをすきにさせてくれたのはあなただ。

「あれ。読むの、はやくなったね。もしかして、この前ばかにしたの怒ってる?」

「……別に」

 いや、単にあなたに負けたくないだけかもしれない。

 彼はすこし笑って、本をぱたりと閉じた。全部きっとお見通しなのだ。熱いハーブティーを淹れる。湯気の立ちのぼるテーブル、ガラスに光る琥珀色。窓を穏やかに打つ、濡れた粒の音。クッキーをかじりながら、明日の話をする。寝る準備を整えると、白いシーツにもぐりこんで、古き良き絵本を眺める。

 いにしえの言葉で魔法の祈りを捧げ終わると、彼は窓の外を見た。わたしは、その顔を覗き込んだ。

「一生一緒じゃないと、いや」

「あなたは、いやとばかり言う人だなあ」

「本気だからよ」

 雨の音は次第に激しくなってくる。そして騒々しいほどの雨に包まれた部屋の静けさが、露わになる。彼の声がいやに静かだった。  

「ねえ」

 同じ夢を何度も見る。それは、わたしの願いだ。その魔法使いは、わたしと周りのすべての命を保つために、自らの姿を雨に変えた。

 彼は、決まって最後に言う。

「一緒に、死んでくれる?」

 急速に、夢が崩れ去っていく、その一歩手前。彼は、わたしを求める。蒼の瞳は、これっぽっちもわたしを試してなどいない。そこにあるのは、求愛と寂寥だけだ。

 わたしの、答えはずっと前から決まっている。

「もちろん」

 一緒になら、どこへでも行こう。求められるなんて、誰がなんと言おうと、幸福な終わり方だ。出会った時から、首ったけなのだ。盲目だというなら、それでもかまわない。一生夢を見て、過ごしていたい。

 話したいことはたくさんあった。ともに沈黙を味わう時間もたくさんほしかった。

 いつまでも、どこまでも、ありとあらゆる同じ時間を共有していたい。

 わたしは、よくばりだ。

 一人と一匹は、笑いあって、顔を合わせて、白いシーツの中でしずかに瞳を閉じる。夢が終わる。

 夢の中で何度も彼と出会う。何度も幸福な終末を迎える。


 そうして、猫は、また今日も目覚めた。

 一人と一匹、一緒になら死ねたかもしれない。けれどここにいるのは一匹だけだ。だから、終末に焦がれるのは、夢の中だけだ。夢と生きる世界は、違う。願うことはあっても、そうすることはしない。それはただの願望の一つだ。

「ねえ」

 何度夢の中で会えたとしても、何度でも猫は思った。

「死んだら、あなたのことを覚えているものが、だれもいなくなる。その時、あなたはきっと二度目に死ぬ。わたしは、あなたを二度と消さない」

 それは、ひどく惜しいことのように思えた。

 それに、猫には、終わりを迎えることよりももっと強い、もう一つの願望があった。  

「あなたの育てた他の庭が見たい」

 夢に見た生活の断片を思い出して、幸せそうにまた鳴いた。記憶の中で、幸福がきらきらと輝いていた。

 ああ、すきだ。すきだ、世界で一番、この世で存在したもの、するものの中で一番にすきだ。あなたは、生きる気力をくれたのだ。わたしに世界をくれたのだ。

 この世に存在する、彼があいした、ありとあらゆるものを見つけるまで、消えることはできないと思った。彼が隠したもの、彼がいなくなったことで、隠れてしまった、美しいものすべてを見たい。見たい、知りたい、彼のすべてがほしい。彼の心を動かしたもの、そこに彼の思想がやどっているものを知り尽くしたい。

 

 やわらかな光の筋に照らされた猫は、魔法使いのいない家で、伸びをする。

 雨だれが彼女を呼んでいる。器用に窓を開けて、庭に飛び降りる。

 紫陽花の咲き乱れる、青き花園で、雨とともにかつての歓びの歌を合唱をはじめる。


 猫は、いつの日も、夢を見る。

 いつかその声が、誰かに届くこともきっとあるだろう。

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雨の歌 七野青葉 @nananoaoba

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