雨の歌
七野青葉
雨は、止まない。
雨の魔法使いのあなたが消えてしまってもう何日になるだろう。
わたしとあなたの1日はいつも雨で始まる。
しとしと、ぽたぽた。
窓の外から漏れる透明なうす青い世界が目の前に広がる。先に起きたわたしは、あなたの白く透き通る肌と長いまつげをゆっくりと見つめている。
しばらくすると、まだ眠たげな底暗い蒼の瞳がわたしにおはようを言う。穏やかで暖かい海のような色。あなたの瞳は切れ長で、目を細めるととても素敵だった。わたしが黙って微笑むと、あなたは白く滑らかな指先でわたしの頭をなでた。こらこら耳を触るのはおやめなさい。
あなたは、窓の雫ががうっすらと影を落とす白いベッドから出て、白いシャツ、黒のズボンに着替え始める。わたしはそれをシーツにくるまって見つめるのが好きだった。
しとしとしと。ぽたぽたぽた。
世界は、わたしとあなたで二人きり。
黒のマントをはおったあなたは、わたしに言う。出かけようか。
わたしたちに傘は必要なかった。あなたは雨の魔法使いだったし、わたしは雨なんてへっちゃらだったから。少し歩いて庭につくと、水滴でキラキラ光るハーブが香っていた。ブルーミント、ガラス草、ミズイロシズク……。わたしたちは鬱蒼と茂るたくさんのハーブに名前をつけた。パチン、パチン、パチン。あなたがハサミを使って摘んでいき、それをわたしが受け取る。しめやかな朝だ。
今日は風の魔法使いのために風邪薬でも作ろうか。あなたが言った。まるで言葉遊びみたいねえ。わたしはくすくす笑った。帰り際、あなたは必ず庭のすみっこにひっそりと咲く紫陽花を見に行った。あなたは、うすむらさきと水色のその花が本当に好きだった。
うん、今日もいい天気だ。うす暗い空を見上げてにっこりと笑う。あなたの短い黒髪からぽたりぽたりと雫が落ちた。雨はすべての命を育むから、僕は雨が大好きなんだ。
知ってるわ。わたしもにっこりとほほえんだ。
夕方になると、二人で育てた新鮮な野菜を使って料理を作る。コトコトコト。大きな鍋の中で野菜が煮詰まる音がする。
料理ができるまでの間、わたしたちは静かに本を読んで過ごした。ぱらぱらぱら。あなたはわたしと比べて本を読むのがとても速かった。わたしがひそかに対抗心を燃やしていたこと、あなたは気づいていただろうか。
あなたはあつあつのシチューが大好きだった。あなたとは長い付き合いだけれど、わたし、それだけは理解できなかったなあ。熱が冷めるまで食べるのをおあずけにされたわたしの姿を見ると、あなたはいたずらっぽく笑った。
熱いお湯をためたお風呂に入った後は、てきぱきと明日の準備をして同じベッドにもぐりこむ。まるでこの世界から隠れるみたいに、二人だけの秘密のように。
ある日、雨が止んでしまった。
朝起きると隣にあなたはいなかった。急いで身を起こすと、もう着替え終えたあなたはあの蒼暗い目を窓の外へ向けていた。どうしたのかしら。わたしは言った。わたしの頭を柔らかくなでで、出かけようか、といつも通りのあなたは言った。
ハーブは1日で枯れていた。すみっこの紫陽花もしおれていた。命あるものが、みな終わりに近づいていた。どうしたらいいのかしら。わたしは言った。あなたは黙ったまま何かを考えていた。長いこと考えていた。深い蒼の瞳は揺れていなかった。
僕がなんとかしないといけないなあ。あなたは言った。
次の日、大雨が降った。
朝起きると隣にあなたはいなかった。急いで身を起こしたけれど、もう、どこにもいなかった。ざあざあ、びゅうびゅう。どしゃぶりの中、あなたを探した。ねえ、雨の魔法使いはどこに行ってしまったの。遠い風の魔法使いのところにも訪ねた。それでも見つからなかった。びしょぬれのまま、わたしは走った。もしかしたら家に帰ってきているかもしれないと思ったけれど、やっぱりあなたはいなかった。もう、どこにもいなかった。
雨の魔法使いのあなたが消えてしまってもう何日になるだろう。
わたしはいつの間にか疲れて眠ってしまっていた。
しとしと、ぽたぽた。
あなたの夢を見た。あなたはわたしをぎゅっと抱きしめたけれど、わたしはその胸をひっかき、するりと逃げた。わたしはどうしようもなく怒っていた。どうして、何も言わずにいってしまったの。どうして、わたしを置いていったりしたの。わたしを拾った日から、ずっと一緒だって言ったくせに。嘘つき。
見つめる蒼い瞳はどこまでも優しかった。嘘じゃないよ。白く細い手がわたしの頭をなでた。ずっと一緒だよと、間違いなく言った。
あなたは最後に何かをささやいた。
しとしと、ぽたぽた。どこかで、細く柔らかな雨の音がした。
しとしと、ぽたぽた。
しくしく、ぽたぽた。
しくしく、ぽたぽた。
一人きりのうす暗い部屋、わたしは目を覚ました。
「わたしも。わたしも、あなたのことが世界で一番大好き」
あなたを想って、わたしはにゃあんと一声、泣いた。
ぽたり。庭の紫陽花が、静かに涙を零した。側を歩く黒い猫を包み込むように、しとしとと雨は降り続ける。その雨は、きっと誰よりも彼女のことを大切に思っていた誰かに、とてもよく似ていた。穏やかで優しい涙の音は、命を育んでいく。柔らかい新緑の芽吹きがまた一つ、また一つ。
雨は、止まない。
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