結
死ノ涯ノ光
午前八時といえど、八月初旬の空気はすでに十分な熱を含んでいる。
世間一般では、小学生から高校生は待ちに待った夏休みシーズン。しかしそれは、大学受験を控えた高校三年生には、ほとんど無関係のイベントであった。
少女は鏡の前で少しだけ前髪を整えた。カバンの中を見て、忘れ物がないことがわかると部屋を出る。
「行ってきまーす」
台所で洗い物をする母に一声かけながら靴を履く。
「あっ、ねえ! 今日お弁当用意できなかったんだけど———」
「大丈夫! 購買で何か買うよ。あと部活のあとに友達の家行くから、少し遅くなるかも」
慌てたように台所から顔をのぞかせた母にそう告げると、「あんまり遅くならないようにねー」と軽い調子で言葉を返された。そんな母に、少女は少し悪戯めいた笑みを見せた。
「じゃあ、行ってきます、ミユウちゃん」
「もう、お母さんて言いなさい!」
ドアを開け、炎天の下に出る。日焼け止めは塗っていないが、あまり気にしない。そういえば時間がギリギリであったことを思い出し、急ぎ足で学校へと向かう。
*
自分が「夕希」であることを自覚したのは、もう随分と前のことだ。
「夕希」として生きていたころの記憶はまだ断片的で、今でもたまに、ふとした瞬間に思い出すことはあるが、とはいえ覚えているのは死ぬ少し前からの記憶と、かつて自分が自分のために生きること恐れていたという、感情の残滓。そして死後に目覚めた地獄という世界と、執念にまみれた人々、遥か遠くに見える糸を目指す旅路。
遠い遠い昔の出来事のように感じられるが、確かに自分はまた「夕希」として生まれてきたのだと感じられる。
そして、今を謳歌している、と思う。
心を開ける友人がいる。目指したい夢のために、必死になれる。思い通りにいかないこともあるが、応援してくれる親もいる。自分の中の「夕希」を自覚してからはより一層、毎日の幸せを噛み締めるようになった。
「————」
心の底から、幸せで自由だと思える。
だが、ひとつだけ、少女はどうしても思い出せないことがあった。
ちらり、と公園を見る。ラジオ体操の時間はもうとっくに過ぎていて、まだこの時間は夏休みを満喫する子供たちの姿も見えない。人っ子一人いない公園を一瞥して、少女はまた歩き出した。
——はやく、来ないかな。
誰が、かは分からない。
だが、少女は、「夕希」は、誰かを待っていなければいけない気がしていた。
おぞましい鬼、亡者。それら全てを凌駕するほどの力を持つ、欲の塊のようなひとたち。誰もかれもが自分のことしか考えていない険しい地獄の中で、その人物は確かに「夕希」の救いで、希望で、生きる理由だったのだ。
一番大切で、思い出したい記憶が思い出せない自分自身に苦笑し、少女は水を飲もうと鞄から水筒を取り出そうとした。
と、そこで少女は腕を止めた。いや、正確には止められた。そして歩む足も止めた。
後ろから突然誰かに掴まれたのだ。手首を握る手は細く小さく、少女はぎょっとして勢いよく振り向いた。
小学校中学年くらいだろうか。キャップを目深にかぶった男の子と思しき子供が、ぎゅっと少女の腕を掴んでいた。不気味に思い、恐る恐る男の子の顔を覗き込む。
「……えっ」
少女は——「夕希」は、目を見開いて硬直した。その顔はごくごく普通の男の子で、全く見覚えはなく、知らない子だった。それでもしかし、彼を確かに知っているのだ。
「夕希」は、その射るようにまっすぐ見つめる目を、不敵な微笑を、知っている。
「い、いつから」
「お前が気づくまで、しばらく様子見てようと思ったんだが……俺は待つのは向いてないみたいだ」
相変わらず不遜で、強気で、冷めているようで、だがほんの少しだけ優しさを含ませ、彼は満足そうに笑っている。
「久しぶりだな」
「……うん」
雲ひとつない蒼穹は遥か遠く高く、光はどこまでも眩しく二人を照らす。
心地よく乾いた一陣の風が吹き抜け、陽炎の熱をさらっていった。
了
カシシャ 〜蜘蛛ノ糸争奪放浪譚〜 ニル @HerSun
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