第4話 プリフェッチ
消えてしまった。静華さんが消えてしまった。
忽然と、そして跡形もなく、消えてしまった。
僕は部屋のベッドで布団をかぶる。
やがて眠くなる。そして眠る。起きて朝食を食べて学校に行って、帰って布団に潜る。
夕食に呼ばれて夕食を食べて、布団に潜る。そしてまた眠る。
それを三回くらい繰り替えしているうちに、父さんが話すのが聞こえてきた。
「学生のひとりが、姿を見せないんだよ。友達の何人かは気配は感じるっていう、曖昧なことを言うのだけれど、そんな曖昧なことを言われてもね。子供じゃないから病気なら自分で病院に行けるだろうけれど」
そうじゃない、そうじゃないんだ。静華さんは病気じゃないんだ。どこかに消えてしまったんだ。
誰も知らない。消える現場を見ていたのは、僕だけだ。
父さんに言ったほうがいいんだろうか? でも何て言えばいい?
消えました。理由は分かりません。
そんなの信用してもらえるはずがないし、そもそも大学の先生なんていう人種が、理由が分からないという説明を許してくれるはずもない。
更に二回くらい布団に潜る生活を繰り替えしていたけれど、僕の頭からは静華さんのことが離れなくて、しかしこの時になってようやく「彼女はどこに行ったのだろう」というシンプルな問いと向き合えるようになってきた。
消えたということは、どこかに行ったということだ。
それも、彼女のコンピュータを動かした、その数秒後にだ。
彼女の消失はコンピュータと関係しているのは、おそらく間違いない。
静華さんは何って言っていただろう……推論……なんでも推論……15cm先に行きたい……15cmってのはコンピュータの1クロック……。
どうにもおかしい。
彼女は消えたのだろうか?
彼女はどこかに行ってしまったのだろうか?
だとしたらどこに?
彼女が行きたい場所……15cmの先……?
僕は部屋を出て、父さんの書斎をノックした。
「どうした」
「姿を見せない学生って、静華さんのこと?」
「そうだが」
「静華さんのコンピュータは?」
「ん? ああ……彼女の実験環境はそのままにしてある。一応中は見たけれど、全命令に推論エンジンがついているという、無茶苦茶なものだったよ。あれはよく動いているな」
「父さん、静華さんの使っているボードよりも、少しでも早い評価ボードある?」
「お前が使うのか? ……というか使えるのか?」
「大丈夫。静華さんがやること、見てたから」
「それなら、用意できると思うが」
「静華さんの机に置いておいて」
「彼女の環境を壊すなよ」
「壊さないよ。僕は、彼女を探しに行くんだ」
「……そうか」
父さんの返事はそれだけだった。それで十分だ。父さんが探しに行けないから、僕が行く。それだけのことなんだから。
僕は部屋に戻って計算を始めた。予測では数字はもっと小さくなるはずだった。15cmなんていう長い距離じゃなくて、もっともっと短い、ほんの少しの短い距離と、ほんの少しの短い時間。
時間と距離は等価。ちょっとだけ手を前に伸ばせば、届くはずなんだ。
翌日の夜になって、父さんが僕の部屋をノックした。
「FPGAの評価ボードのアップデート版を、桐生さんの机に置いておいた。それでいいか」
「うん。ありがとう。……あのね、父さん。父さんは、15cm先に行きたい人?」
「15cm? なんだいそれは」
「2GHzは15cm」
「うん? ……ああ、光速度cで計算した場合だな。でも2GHzということはシリコンダイだろう? それだとすると、」
「ああ、うん。分かってる。ちゃんと計算したよ。それでもね、静華さんは、父さんが2GHzの1クロックでも先に行きたがっている人だって言ってた。そうなの?」
「1クロック先という表現はよいな。彼女らしい。……先には行きたいものだな。うん、行きたい。だけど、父さんはもう無理だ。そういう1クロックみたいなちょっとしたものを、ぴょんと飛び越えることができなくなってしまった」
「どうして?」
「重たくなったからだろうな」
「重い?」
「ああ、重いな。父さんは、もう重い。桐生さんみたいな若者なら、ぴょんと飛び越えたりするんだろうな。……そうだな、もしかしたら彼女は飛び越えてどこかに行ってしまったのかもしれない」
そうだよと言おうと思ったけれど、黙っていた。父さんには教えてあげない。僕と静華さんの秘密だ。
父さんが重いってのが、体重のせいなのか、年齢のせいなのか、肩書きのせいなのか、家庭のせいなのか、それとも全部ひっくるめて身動きがしづらいとかいう愚痴なのかは分からない。
ただはっきり言えることは、僕は重くないってことだ。
父さんが飛べないないなら、かわりに僕が彼女を探すために飛びに行く。
作戦実行は、日曜日のニチアサタイム。研究室から人が消える時間。
僕は研究室に行き、静華さんの机の前に立った。新しい評価ボードは、父さんが用意してくれていた。念のため別系統の電源タップを探して電源に接続し、静華さんのコンピュータと評価ボードとも接続する。
手順は簡単。静華さんのプログラムと同じものをFPGA上で構成して動かせばいいだけだ。
一週間前に見た手順を、僕ははっきりと覚えていた。
大丈夫、再現できる。
新しいFPGA用に再度コンパイルして、転送して、テストプログラムを送り込み、そして実行。
最後のエンターキーの前で手が止まる。
これでいいのかと、もう一度考えてみるが、他の可能性を思いつかなかった。
僕の予測はこうだ。
静華さんはすべての命令に推論エンジンを接続した。その結果、すべての命令が実行結果を推論するようになり、実行結果があらかじめ予測できるようになってしまった。そして彼女の推論エンジンは、驚異的な的中率を達成し、実質的に「常にひとつ先の命令を実行している」状態になった。
つまり、彼女のプロセッサは、1クロック未来を実行するようになったのだ。
その影響で、彼女自身も1クロック未来を生きるようになった。15cm先の未来だ。
「でも実際は15cmじゃない」
モニタに向かってつぶやく。
真空中を光が移動する速度であり、物理定数のひとつである、光速度cだが、半導体を構成するシリコンの中を電子が移動する速度は光速度には到底及ばない。ましてや、彼女が使っているFPGAは500MHzという動作速度だ。
ざっくりと計算すると、1クロックで電子が移動できるのは0.2mmになる。
彼女は電子の移動速度にして、0.2mm先に飛び出したに過ぎない。だから、ふとした拍子に彼女の気配を感じる人もいるのだろうし、実際彼女はすぐそこにいるのだろう。
だから僕は、彼女を追いかける。15cm飛び越えたつもりになっていて、実は0.2mmしか先を走っていない彼女を、追いかけて行く。
呼吸を止めて、エンターを叩いた。
プロセッサが始動する。やがて僕の世界も、前に進む。
ちょっとちょっと、ほんのちょっと。
ギガヘルツにも到達しない、ほんのちょっと先に。
走れ走れ、飛び越えろ。彼女のところにジャンプしろ。
それが、そのことが唯一の手段——。
「静華さん!」
「え?」
彼女は振り向いた。心底驚いた顔をしていた。
「どうしたの?」
「追いつきました」
「え? え? どういうこと? 君も同じことをしたの?」
「そうです。ちょっとだけ速いプロセッサを使ったんです。だから追いつけました」
「追いついた……。君が……自力で……」
「そうですよ。ちゃんと追いつけました」
「なんか、びっくりだわ」
「そうですね。びっくりでしょう。予想外でしょう。僕もこんなにうまくいくとは思いませんでした」
「ね」
「だから……これで終わりです」
ふっと、世界が元に戻った。研究室の、静華さんの机の前だ。
「そっか。予想外の出来事で、推論エンジンの推論が完全に外れちゃったのね」
「そういうことです。プロセッサの実行は止まって、静華さんは元の時間に戻りました。静華さんを戻すには、予想外の出来事を介入させればいいと思って……うまくいき過ぎたのは想定外で、結果的に僕のプロセッサも止まっちゃいましたけど」
「危ないことするねえ」
僕は静華さんの手をとる。
「ねえ、静華さん。僕なら15cmよりも近づけますよ」
彼女はにっこりと、包み込むような微笑みかたをして、僕の手にもう片方の手を重ねたかと思うと、僕の頬に顔を近づけた。
触れるか、触れないか。
「それこそ0.2mmくらい、とか言うの? ねえ、少年」
「そ、そうです」
「考えておくわ」
彼女は手を離し、研究室を出ようとする。僕はあわてて追いかける。その距離は15cmどころじゃない。彼女は僕のずっと先を歩き出す。
敵わないなあ。そんなことを思った。
多分彼女は、相当に手強いのだ。
ギガヘルツの、ちょっと先 木本雅彦 @kmtmshk
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