第3話 エクゼキュート

 正確な時間を指示されたわけではなかったので、とりあえず間をとって8時に研究室を訪れた。静華さんはひとりで机に向かっていた。


 ニチアサタイムというのは、日曜日の朝の子供向け特撮やアニメを放送している時間帯のことで、教授の方針でこの学生室にはテレビを見れる環境がないため、学生がみんな揃って家で子供向け番組を見るので、この時間帯は人がいないというのが、静華さんの説明だった。


「静華さんは見ないんですか?」


「録画しているから大丈夫。今日は実況できないのが残念だけど」


「はあ。見るんですか」


「見るわよ。熱いもの」


 大学生というのがよくわからなくなってきたが、みんなが見ているということは、大学生くらいになると改めて特撮のよさが分かるようになるのかもしれない。


「熱いですか」


「だってさー、少年。今って、時代劇をテレビでやってないでしょ?」


「時代劇?」


「水戸黄門とか大岡越前とかよ。知らない?」


「名前くらいは聞いたことあります」


「そうなのよねぇ、そういう『お約束』の番組がすっかり減っちゃって、安心して見れるのがむしろ特撮っていうの、何か面白くない?」


「それってマンネリじゃないですか」


「そう思うでしょ? でもあいつら、お約束を続けながら、色々ぶっこんでくるのよ。それがまた面白くって、ね」


 静華さんが言うところの「ぶっこむ」というのが、僕にはよく分からなかった。僕と母さんは最近医療ドラマにはまっていて、そっちのほうが特撮よりもスリリングなように思えたというのもあるのかもしれない。


 だからといって、僕と母さんのほうが知的かといえば、大学で最先端の研究をしている静華さんたちのほうがおそらく知的であるはずなので、何が知的なのかが難しい。あと気になるのは、ニチアサタイムを見ているメンバーに父さんが含まれているのかどうかだけれど、少なくとも家では見ていない。録画していないという保証はないけれど。


「静華さんは、今日は何をするんですか?」


「推論よ」


「昨日の続きですか」


「昨日思いついたアイデアをさっくりと作ってみましたよー」


「そんな簡単に作れるものなんですか」


「徹夜モードって言ったでしょ? 寝てないわ。自慢じゃないけれど、寝てないわー」


「静華さん、変なテンションになっていますね」


「徹夜明けだからね。少年も大学生になると分かるわよ。これがまた、肌質にどかんと来るのよ」


「そうなんですか」


「少年も女子になると分かるわよ」


「なれませんよ」


「まあね」


 そんな軽口を叩きながら、静華さんは準備をしていく。机の横の評価基板のスイッチを切り替え、端末上のウインドウをあちこちと移動してなにやら操作をしている。


 魔法のようにすら見える。新しい魔術を作り上げた魔法使いが、魔方陣を書きながら実験の準備をしているみたいだ。


「静華さんは、15cm先に行こうとしているんですか?」


「さあてねー」


「静華さんは、15cm先に行こうと頑張る人のことは気になりますか?」


「さあてねー」


「静華さんは、僕も15cm先を目指したいって言ったら、どう思いますか?」


「さあてねー……ん? いや、いいんじゃない。目指すのは大切よ。もっと前に、もっと先に、もっと上に」


「でも上には上があるって言うじゃないですか。先にも先があるんじゃ」


「そうでもないわ、少年。君がちゃんと勉強して、ちゃんと大学に入って、ちゃんとした先生について勉強して、研究していたら、きっとすごい仲間ができて、その仲間ってのは世界でトップクラスの仲間に違いない。上には上っていうけれど、一番上は案外手に届くものよ。そこから上は、歴史を作るひとになれるかどうかってところね」


「そんなこと言われても、実感ないです」


「でしょうね。私も少年くらいの年齢の頃は、そんなの夢にも思わなかったもの」


「じゃあどうして、そんな話するんです?」


「立ち止まって欲しくないもの。本当に走り続ける人は、上とか前とか見ていないの。どこも見ていなくて、多分ただひたすらに走ることだけを考えているんじゃないかって気がする」


「マラソン選手みたいに?」


「マラソン選手の気持ちは、私には分からないけれど、スポーツ選手ってもしかしたらそんな感じなのかもしれないって思う時はあるわ」


 静華さんはそこで手を止めて、椅子から立ち上がった。左手を画面に向けながら、ゆっくりとおじぎをした。


「さて、お客様、いらっしゃいませ。今日の実験……デモンストレーション? にようこそ。このFPGA評価ボードは、500MHzで動いているそこそこの性能の評価ボードです。ですが、FPGA自体の速度はあまり問題ではありません。CPUの機能に推論エンジンを連結させ、『なんでも推論しちゃうよマシン』ができました」


「なんでも?」


「そ。なんでも。まあ細かな仕組みは説明しないけれど、やってみたらできちゃった感じ? でも予想した性能が出るかはこれからの実験次第ってとこ」


「動かしていないんですか?」


「単体試験はやってあるけれど、機能試験はこれからね……それがこの実験」


 どう反応すればいいのか困ってしまって僕が黙っていると、静華さんは笑いながら話を進めた。


「細かなことは気にしないで。君は実験の証人になってくれればいいから」


「見てればいいんですか?」


「そう、私のやることと、その結果を見ていてくれればいいわ。……ひとりでやるのは、少し寂しかったから」


「はい。見てます。ちゃんと見てます」


 静華さんは椅子に座り、キーボードに手を置いた。僕は画面を覗き込む。父さんの言葉を思い出し、あまり接近するのは悪い気がして、15cmくらいの距離を保つ。


 端末に入力するコマンド、ウインドウの遷移、コンパイルと転送——そして実行。


 実行のエンターキーを押した数秒後——静華さんは消えた。


 消えたとしか表現しようがなくて、実際に消えたのだ。椅子に座っていたはずの静華さんが、それ以外のものを全部残して、すっきりさっぱりと消えてしまった。


 消滅。


 完全なる、消滅。


 最初は何かの冗談かと思った。机の下、部屋の中、廊下に出たりして、静華さんの姿を探した。


 しかし、研究室とその近辺にはいなかった。瞬時にそれ以上の範囲に移動するなんてことはできないはずだ。


 彼女は本当に消えてしまったのだ。


 助けを求めるべきだったのかもしれない。


 警察に連絡するべきだったのかもしれない。


 だけど僕は、怖くなって、そのまま家に帰り、自分の部屋に閉じこもってしまったのだった。


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