肉まんとミルクティー
道半駒子
肉まんとミルクティー
午後十一時。携帯電話がメッセージの受信を知らせてくる。俺は部屋の勉強机から立ち上がり、ベッドに転がっていたそれを拾った。内容を確認する。
『起きてる?』
もう何度も繰り返したやり取りだ。すぐに返信ボタンを押して、返事を送る。
『うん。コンビニ行く?』
『行く』
黒い雲に覆われて星一つない夜空を見上げながら、俺は近所のコンビニへと歩く。受験勉強の合間のひと休み。恋人の
秋保と付き合うことになったのは、まったくの偶然からだった。
一学期の定期テストの後に学校で三者面談があった。高校卒業後の進路について話し合う、大事な面談だ。にもかかわらず、俺の親は約束の時間に間に合わなかった。
『ごめん。お昼急にお客さんの依頼が入っちゃって』
「わかった」
両親とも、年中仕事で多忙な日を送っているのがわかっている俺は、こういう事態に慣れっこだった。親が担任の先生へきちんと時間変更の連絡を入れたということを確認できたら、後は大あくびをして、自分の席で居眠りを始めた。
それからどのくらいの時間が経ったのだろう、ふと気配を感じて目を開けた俺は、視線の先に秋保の顔を認めた。机の上に鞄を置いて、それを枕にしていただけで寝心地なんてよかったはずないのに、俺はまだ夢の中だと思い込んだ。
そして、寝ぼけた俺は目の前の秋保の身体へ手を伸ばした。体重を預けたという方が正しかったかもしれない。高校三年で初めて同じクラスになってからずっと、俺は友人である彼に恋をしていたのだ。たった今見た夢の続きだと思って軽い気持ちでくっついた身体が、あり得ない現実感を持って俺を抱き返してきたとき、脳は一気に覚醒した。
「あきほ……!」
血の気が引いた。けれど秋保は慌てる俺を離さなかった。
「シマ、いっこ教えて」
「秋保、ごめ、」
「聞けって」
秋保の腕に力がこもる。
「今お前が何考えてるか、教えて」
「…………」
後から聞いた話では、俺は寝言に秋保の名前を呼んでいたらしい。彼曰く、とても甘ったるい声で。……今思い出すだけでも恥ずかしく、恐ろしいことだ。
誰もいない教室。三者面談は俺が最後だったはずだ。みんな帰ったと思っていたのに。確かに秋保も今日三者面談で、俺より前の時間だったから、それまでは一緒に話をしていたけれど。
「……俺、シマのこと好きだよ」
「…………」
「教えてよ」
向かい合って話をしているとき、きらきら光る秋保の瞳にいつも釘付けだった。唐突にそんなことが思い出される。授業中、休み時間、放課後。いつでも秋保を見ると目が合って、小首を傾げて何かと問う表情に心を躍らせていた。
「……おれ、も」
「うん?」
心臓がこれ以上ないほど激しく鼓動を打つ。痛い。喉がつっかえて、上手く声が出ない。
「……俺も、好きだ」
人生でこれ以上の幸運があるのだろうか、と今でも思う。好きな人がいて、けれどその人は同性で。絶対叶うはずがなかったのに、俺は何の苦労もなく、ただ寝ぼけていただけでその人を手に入れることができたのだ。きっと前世でとてつもない徳を積んでいたに違いない。
その後の三者面談は最後までうわの空だった。
ただし恋愛は、成就してからが大変なのだ。そのときの俺は、今のような事態になることをまったく想像していなかった。誰もそんなこと、俺に教えてくれなかったし。
別にお互いの気持ちが続かなかったとか、喧嘩したとか、そういうことではない。教室では一緒に話をしたりご飯を食べたり、放課後は一緒に帰ったりする。ただの友人より少し踏み込んだ関係性を保って、日々は過ぎていった。
その関係性がそのまま、何も変わらず、もう半年も続いているのである。
元々彼と友人関係だったことが一番のネックなのだろう。
昨日まで友人だった相手に、付き合うことになったからといって突然恋人として振る舞うことができるか? 俺はできなかった。そもそも今まで恋人自体できたことがないので、なおさらその辺りの感覚がわかるわけがない。
異性であれば、何かしら恋人としてのステップへ移ろうと自然と意識が切り替わるのだろうか。わからない。けれどとにかく、俺たちは同じ男同士で。友人としての振る舞いがしみついている上に、人前では当然そのように振舞わなければならない。結果として俺と秋保の関係性は友人の域をほとんど出なかったのである。
当然、付き合うきっかけになったあの日以来、いわゆるスキンシップというものは一切なかった。手をつなぐことはおろか、キスだって。ましてセックスなんて口にした日には、俺は恥ずかしさといたたまれなさに秋保の前から逃げ出してしまうだろう。好きだと言ったのもあのとき一度きりだ。
付き合い始めて数ヶ月後、全国統一模試に向けて、初めて秋保の家で勉強会をしたときも。
彼の部屋で二人きり。けれど、まったく、何もなかった。唯一触れ合ったといえるのは、彼の部屋に招き入れられたとき、背中に触れられた瞬間だけだった。俺が抱えるその種の緊張は、秋保の方はまったくないらしく、にこやかにクッションをすすめ、テーブルの向かいに腰掛けたのである。
恋人の部屋で二人きりという状況に緊張しないわけがない。例えそれが受験勉強のためであっても。俺の方はそう思っていたのに、秋保は俺が内心うろたえるほどいつも通りだった。秋保がいつも通りである以上、俺が何か働きかけることができるわけがない。一事が万事、そうなのだった。
俺がもう少し図々しければ、「受験勉強の息抜きに」とか言ってデートに誘うことが(そしてあわよくば手でもつなぐことが)できたかもしれない。
俺がもう少しざっくばらんな性格だったら、秋保の部屋で「もし志望大学が違ってたら、今のとこ捨てて、お前と同じ大学受けるつもりだった」なんて女々しい本音を言って、少しは恋人らしい空気を作れたのかもしれない。あるいは逆に俺が女子だったら言えたかもしれない。「女」なのだから。
……わかっている。それでもできない。
怖いのだ。少しでも女々しい言動や恋人らしい態度を秋保の前で見せてしまったとき、彼がどんな反応をするのか。気持ち悪いと思われるのではないか、軽蔑されてしまうのではないか、と。それくらい俺と彼との関係は、完璧なまでに完璧な友人関係にとどまっていた。秋保と恋人になれたことがあり得ないほどのラッキーだったから、何かの間違いでそれが壊れたときを想像するだけで恐ろしかった。
あのときの「好き」という言葉でさえ、俺と彼とでは意味が違っていたのかもしれないと今では思える。俺は、悩んでいた。
街灯が並ぶ住宅街の道を進み、大通りに差しかかる。コンビニの看板が見えたところで、秋保が歩道の隅に立っていた。
「おう」
「お疲れ」
お互いの白い息が闇に溶けていく。そのまま二人で店内に入り、俺はピザまん、秋保は肉まんとミルクティーを買った。店の駐車場の車止めに座る。大通り沿いのコンビニは車の出入りも多いけれど、駐車場も広い。駐車するには店に近い場所ばかり好まれるから、隅っこに座る分には誰の迷惑にもならないのだった。
「模試、A判定取れたよ」
腰を落ち着けた途端、秋保がそう報告してきた。
「マジ? よかったじゃん」
そう言うと、彼はうれしそうににっこりと笑う。その屈託のない笑顔に俺もうれしくなるけれど、同時に少し淋しさを感じる。
秋保は、今の関係をどう思っているのだろう。
今は受験勉強に集中すべき時期だから、そういった恋愛云々のことは控えようと思っているのか。それとも同性である俺に対して、そもそもそういう欲望など抱くことがないのか。いずれにしても俺にはあまり喜ばしいことではない。
……というか、俺の方がおかしいのかなあ。
将来を見据えた大事な時期に、目の前の秋保のことばかり追いかけている。そればかりか恋人としての距離を縮めようとしない彼に対して、少なからず失望に近い感情を育てつつある。……相手を責めるくらいなら自分から働きかければいいだけのことなのに。それができるなら、こうして悩むことはない。
だから、せめて。
こうして夜会う時は、彼が買うものと違う種類の肉まんを選んで。半分をねだる。そして彼には俺の買ったものの半分を押しつけるのだ。少しでも彼のものが欲しいから。そして彼には自分のものを渡したいから。かえって女々しいことになっているとは言わないでほしい。彼もコンビニの店員さんも、ちっともそんなことに気づいてはいないのだから。
「あっつ、」
「あーやっぱ肉まん最高。なんだかんだでこれが一番だわ」
「じゃあなんでピザまん買うんだよ」秋保が笑い混じりに言う。
「……いいだろ別に」
こっちの気も知らないで。眩しい笑顔向けてくるんじゃねえよ。
声を立てず秋保が笑ったのが、白い息ののぼる様子でわかった。
その横顔を盗み見る。唐突に、心が縮こまってしまったような感覚に襲われた。いつでも俺が秋保を見れば、彼もこちらを振り向いていたのに。最近は目を交わす回数も激減した気がする。目が合っても、ぎこちなくそらされる。
縮こまった心のうちでは聞こえないことをいいことに、俺の一番情けない部分がヒステリックに叫んでいる。
――恋人! 恋人だってさ! この車止めの一メートル弱の距離を離れて座るのが恋人なんだってよ! 秋保はそう思ってるんだってさ!
なんて女々しい、浅ましい俺。首を振ってその声を打ち消す。そもそも、深夜とはいえ外で男同士、一つの車止めにくっついて座るわけにもいかないだろう。
「……シマ、なんか元気ない?」
秋保がそっと声をかけてくる。
元気ないよ、お前のせいで。お前のことで悩んでんだよ。……なんて言えるわけもない。
「別に、普通」
もしかして、秋保はもう、俺のことを恋人だと思っていないのかもしれない。根拠のない考えが頭の中を浸食していく。どうして。何を考えているのだ。そんなこと秋保から一言も言われていないのに。
「勉強、行き詰まってんの」
「そういうわけじゃない」
「ミルクティー、いる?」
「……いる」
差し出された温かいペットボトルを受け取る。甘ったるい匂いと味に少しだけ慰められた。返そうとすると秋保が自分の腹を指差す。
「コートん中入れてみ。めっちゃあったかいから」
俺は大人しく言われた通りにしてみた。ぽかぽかと温かくて、寒さに固まっていた全身がほっと緩む。秋保を見るとにっこり笑っていた。縮こまっていた心が跳ねる。秋保って、本当に、本当にもう――
肉まんを食べ終わった後も、しばらくお互い黙って大通りを眺めていた。時折走る大型トラックのヘッドライトが、暗い視界を割いて通り過ぎていく。
「今日は帰ろっか」
黙ったまま何も言わない俺に対処法なしと思ったのか、秋保はそう言って立ち上がった。ジーンズの尻をはたく。当然だ。俺だってこんな俺を持て余している。解決法だってわかっているのに踏み出せない。今も、ひどく理不尽な仕打ちを受けたように心が淋しさに覆われていくのがわかる。
帰りたくないなら、そう言えばいいだけなのに。
けれど、俺はひとつうなずいて、立ち上がる。まだ温かいペットボトルを秋保へ返す。
どうしてそれが言えなかったのかと、後悔するのは家に帰ってからだ。いつも。わかっているのに。俺は、できないのだ。
「……あのさ」
秋保が唐突に話し始めて、俺ははっと顔を上げた。
「受験勉強きついしさ、本当やめたいって何回も思うけど。俺、けっこう今が好きなんだ」
十数メートル離れたコンビニの明かりが、薄くかすかに彼へ届いている。その表情はとてもうれしそうな笑みをたたえていた。それが俺の殺伐とした心のうちとあまりにも違う彩りを持っていて困惑する。好き、という言葉にどきりとした。
「シマと二人でさ、こんな風に同じ大学目指して頑張れるなんて思ってなかったから」
「え……」
「一緒に勉強したり、こうやって夜二人で会ったりできて、俺が妄想してたことがどんどん現実になっててさ」
笑って歩き出す秋保。
「あんときお前待っててよかったー、勇気出して言ってみてよかったーって改めて思った」
「…………」
勇気。
勇気を出して――
突然、後頭部を殴られたようなショックを受けた。
秋保が言ってくれたのだ。
――俺、シマのこと好きだよ
ただのアクシデントで終わるはずだったあの三者面談の日の出来事を、意味のあるものにしたのは秋保だった。とっさに離れようとする俺を意思を持って抱きしめた。それはどれだけリスクがある行為だったろう。寝ぼけて自分の名前を呼んだからといって、逆の立場だったら俺にできるか。嫌われたり、不審に思われるのが怖くてできやしない。だって、俺も秋保も男だ。できるわけがない。
なのに、秋保は行動した。
なのに、俺は。
縮こまった心が暴れ出す。ずきずきと痛みが走る。自分でもよくわからない温かく瑞々しい流れが、急速に身体の中を巡っていくのがわかった。ごくりと唾を飲み込む。
「…………」
俺は意を決して、前を行く秋保に手を伸ばした。目測を誤って、コートの端を掴んでしまう。慌てて手を滑らせる。
彼と手をつなぐために。
「あきほ、」
「あ」
ひやりと冷たい、けれどすぐに熱がともる指先。そのとき俺はわかったのだ。
振り返った秋保はこらえきれなくなったというようにくしゃりと笑った。
「やられた」
「え……」
「A判定取ったら、俺から手つなごうと思ってたのに」
「シマ、俺より頭いいからさ。同じ大学行こうと思ったらマジで勉強しないとまずいって思ってた。恋人にうつつ抜かして受験失敗したら、かっこわるいどころじゃないし」
「…………」
「だからA判定取れたら、って思ってた。最初は大学合格したら、って思ってたけど……さすがにそこまで我慢できない」
やっとわかった。秋保も俺も同じように考えて、今このひとときを噛みしめていたことを。色が沈んだ夜の視界ではわからないけれど、彼も俺も熱くなった頰で今、向き合っていることを。
目の前の、照れて微笑むその顔がこの世の何よりも貴重である気がして、けれどそれをどうすればいいのかわからない。いとおしい、という言葉を俺は知らなかった。
「恋人って……おれ?」
代わりに俺は言うまいと長いこと思い続けていた女々しい言葉を、あっさり口にしてしまった。
「秋保、好きだって言ってくれたよな。……それって、俺のこと、」
「シマは、俺の恋人だよ」
手を引かれて、抱きしめられる。あっと思った次の瞬間には、秋保の顔が近づいて、唇が重なった。突然のことに俺は頭が真っ白になった。言葉にならない声を発してとっさに離れようとする俺の身体を、意外な強引さで離さず、秋保は口づけを続ける。熱い息がもれ、舌で唇を舐められ、甘噛みされる。理解が追いついていかない。夢中で応じながら、かろうじて自分の身体を支えていた。
何度も彼の腕を叩くと、ようやく離れてくれた。目を閉じて大きく息をついている。身体の中の衝動を、抑え込もうとしているように見えた。
「……あき、ほ、」
「好きだよ」
わかった? とでも訊くように小首を傾げてみせる。抗議しようとして、今の行為がずっと望んでいたことだったことを思い出して、俺はますます赤くなる。
「わ、わかった」
秋保の手が伸びて、俺の手を取る。
「シマを不安にさせてたんだな。悪かった」
声が出ず、俺は首を左右にぶんぶん振った。
「付き合うとかそういう距離感のこと、あんまり気にしてないように見えたから」もう一度俺は首を左右に振る。そっか、ごめんと秋保は言ったけれど、表情はうれしそうに笑っている。
「……欲しいのは、俺だけだと思ってたから」
「……俺だって、」
ようやく声を上げると、秋保は笑みを深くしてまた小首を傾げた。
「俺だって……秋保が好きだよ」
とんとん、と秋保が人差し指で自分の唇を示してみせる。俺が恥ずかしがっている姿を面白がっているとしか思えない。けれど、欲しいと言えと言われてもそんな言葉が口にできるはずがなかった。何しろ秋保は初めての恋人なのだ。
俺はごくりと唾を飲み込み、何度もためらった後、目の前の男に口づけをした。
――たったこれだけのことに、俺は半年もくすぶっていたのだ。気がつけば縮こまった心はいつのまにか元に戻っている。肩から力が抜けて、自然と声が出た。
「……だいたい秋保、全然そんな感じ見せなかったじゃん」
「そりゃ見せられないって」
秋保は苦笑して俺を見る。
「シマ、恋人できたことないって言うし。家来たときもすげえガチガチに緊張してたし。ちょっとでも触ったら逃げんじゃないかって思ったんだよ」
言葉に詰まる。自覚していたことだったけれど、改めて言われると恥ずかしい。
「でもよかった」秋保の手が俺の頬に触れる。「どうやって攻略しようか、結構悩んでたからさ。シマがムッツリなら大歓迎」
「はあ!?」
頭から蒸気がふき上がりそうになる。よりによって俺が、む――
「大歓迎って言ってんじゃん。なに怖い顔してんの」
思わず秋保の手を払いのけると、彼は大きな口を開けて笑った。そのまま歩き出すので、俺は小走りになって追いかける。
「だいたい、男なんだし、そういうのは当たり前だろ!」
「だから大歓迎って言ったじゃん」
そのまま数メートル歩いて、秋保が足を止める。ちょうど行きで落ち合った歩道だ。うれしそうに、感情にあふれた笑みをこぼす。
「もう大丈夫」
「な、なに」
対する俺の方は言うまでもなく、真っ赤で情けない顔になっているはずだった。
「シマを不安にさせたりしない。嫌って言われない限り、何でもするから」
「何でもって何」
「お前が望むこと何でもだよ」
またしても返答に困るようなことを言われ、顔が熱くなる。その言葉一つで、馬鹿正直な俺の頭は、いとも簡単にありったけの原色の想像をはじけさせる。それは目の前の現実とあまりにもかけ離れている映像で、俺は顔を上げられなくなってしまった。
「……べつに、そんな、」
「はいはい。とりあえず、『うんよろしく』って言ってみ。後でいくら取り消したっていいからさ」
俺の心のうちで大音量のわめき声が響く。羞恥の叫びだ。けれど一方では「もういっそ飛び込んじまえ」と後先も考えず煽ってくる部分もある。口を開こうとすると、そういえば唇がべたつく。それが何を意味するかわかって、耳の後ろがじわりとしびれる。ああ、もう。
「…………よろし、く……」
ようやく声を絞り出す。にっこり笑った秋保が、俺の頬に口づけた。
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