雪女

鷲峰すがお

雪女

想像の中で暖炉にくべた半生の焚き木が爆ぜた。誘惑の炎が皮膚をジリジリと刺激する。結城一郎は体温の火照りを実感として意識した。低体温症による矛盾脱衣。遭難した登山者がまれに着衣を脱いだ裸の凍死体で発見されるという。体温低下を阻止すべく体内から温めようとする働きが逆に熱い場所にいると錯覚を起こさせるのだ。山歴四年の一郎にもそれくらいの知識はあった。いよいよまずいな。グローブ越しにもはや感覚の薄れた両手を擦りながら一郎は陰鬱な気持ちになった。ビバーク用の小さなツェルトは高速道路の吹き流しのようにばたばたと暴れている。ツェルトを支えるために中から広げた傘までも何処かへ飛んで行ってしまいそうだ。一郎は不安を抑え込もうと傘の骨を強く握った。生地を隔てた外側では風が鳴き吹雪いている。山全体が吠えているようだ。まるで魔王だな、

音楽の授業で聞いたシューベルトの歌曲が頭に浮かんだ。吹雪が魔王で子供は俺か? それとも……。とりとめのない妄想に浸りながら一郎は隣りで休憩中の恩田直幸を一瞥した。  

夜が明けてからも一向に止まない吹雪を見て、一郎と直之は体力温存のため二時間ごとに交代で休憩をとることにした。小さなツェルトの中で二人は肩を寄せあっている。体育座りの格好で直之は微かな寝息を立てている。


学生生活のほとんどを一郎は直之と過ごした。来年の春には二人とも卒業し社会人になる。毎日のように顔を逢わせて過ごした日々ももう終りだ。卒業前に最後の南アルプスを満喫しよう、そう直之から誘われ一郎は二もなく同意した。この試練も後に冒険憚として自慢話にできたらな、一郎は淡い希望を何度も反芻した。それが難しいことは直之の顔色――実際のところ白を通り越して水色になっていた――を見ればそろそろ山登り中級者に差し掛かった一郎にも瞭然だった。


前日の昼食前の出来事だった。それまでの穏やかな気候が嘘のように暗雲立ち始めた。吹雪の兆候が全方角から見てとれた。コースの再検討のため地図をリュックから取り出し片手で掲げた刹那、一郎は突風に煽られ足を踏み外した。直之が咄嗟に腕を伸ばし掴んだため、二人同時に小さな崖を数メートル転がり落ちた。一郎が唸り声を上げながらやっとの思いで身体を起こして見たものは有り得ない方向に捻じ曲がった直之の右脚だった。それ以来二人はビバークしてやり過ごしている。かれこれ二四時間が過ぎた。そろそろ決断しなければならない。


語学クラス、ゼミ、山岳サークルと一郎と直之は一緒だった。一番の親友同士といっていいだろう。いつも一緒にいるので他の仲間からホモの疑いを掛けられたこともあった。 

優男風の外見からは想像できないが直之は元々山育ちで高校時代からワンゲル部に所属していた山男だった。都立高校出身の一郎にとって対極の趣味だったが直之の熱心な勧誘に乗ることにした。山登りにさして興味はなかったが、雪山にはひとかたならぬ想いがあった。いつか群馬水上の雪山を闊歩しなければならぬ、そのために山登りを学ばなくてはならない。入学してからずっとそのことが頭を支配していた一郎にとって直之の誘いは渡りに船だった。

山岳サークルで一郎は登山の基礎を学び、体力を付け、徐々に山に慣れて行った。

一郎と直之はサークル以外でも馬があった。直之は見かけが色白の優男――歌舞伎の女型が似合いそう――なので女子によくモテた。語学クラスの女子や学内のサークルにやってくる他校の生徒から誘われることの多かった直之のおこぼれを貰うような形で一郎も多数の女子と関わりを持った。街に繰り出せば直之が率先して一郎の相手までナンパしてきた。直之のおかげで経験人数だけは人並み以上になってしまった。その反動でお互い特定の彼女をつくることはなかった。一郎に特別な好意を持って近づく女が現れると直之が遊びに誘って来た。一郎にとっても特別恋人が欲しいと思っていたわけではないので好都合でもあった。

ある時女遊びが原因で一郎は性病にかかった。始めての経験だったので直之に相談すると評判の良い泌尿器科の先生を紹介してくれた。どうやら直之は常連らしい。それ以来二人はプライベートに関わることまで明け広げに語り合う仲になった。ただ一つの例外を除いて。


一郎には他人に語ることのできない秘密があった。それは他人とは共有できない大切なものだった。直之さへも例外ではない。秘密を打ち明けることで一郎の身に降りかかった魔法の効力が壊れてしまうのではないか? そう、お伽噺話に登場する砂の城のように。一郎は他人に馬鹿にされることより、何よりもそれを恐れた。他人に話したら最後という罰則よりも。


一段と山の咆哮が激しくなってきた。暴風に混じって貝殻を耳に当てた時に聞こえる潮騒の音が辺りに充満している。きっと雪がツェルトを叩く音だろう。魔王が近づいてくる。だが俺には味方がいる。守護者と呼んでいいだろう。俺が約束を守る限り。


高校三年生時の出来事だ。クラスの仲間数人で卒業旅行と称し群馬の水上ヘスーノーボードをしにいった。数回目ということもあり調子にのった一郎は一人で一番山頂近くにある上級者用のゲレンデまで登って行った。視界ゼロメートルの吹雪に見舞われた一郎はコースを誤り崖下へ転落した。下から雪を搔き分けて自分の立ち位置を確認したが、どこがゲレンデなのか全くわからない。横殴りの雪で視界一面灰色になった世界を見て一郎は絶望とともに気絶した。

水中から見上げる空のように何もかもが揺れる世界の出来事だった。意識が回復した時に何処かの山小屋で寝かされている自分に気がついた。六畳ほどの小さなロッジで真中の囲炉裏から優しい炎が揺れていた。身体を起こそうとしたが意識と神経が寸断されているようで首が多少動かせるくらいだった。

視界の隅から白い和服姿の女が顔を覗かせた。長い髪が一郎の鼻先をくすぐった。切れ長で涼しげな目元が微かに微笑んだように見えた。口を開け声の出ない咽を震わせようとすると、女は小さく首を横に振った。指で一郎の唇をなぞり、口づけた。

女はするりと服を脱ぎ布団の中に入ってきた。一郎は自分の下半身が熱く固くなるのを意識した。女が無言で一郎のペニスを自分のヴァギナにあてがった。下から見上げる女は瞳を閉じて微かに息を荒くしていた。女の腰が蛇のような滑らかさで回転を早めた。一郎はものの数分で爆ぜた。

三日間、一郎は女に看病をしてもらった。二日目には身体を起こすくらいはできるようになっていた。女の名前はユキ。年齢は二十歳くらいだろうか。顔つきは大人っぽいが肌がきめ細かく透き通るようだった。

「あなたは回復した。もう帰りなさい。明日の朝、東の方向、太陽へ向かって真っすぐ歩けば元の世界へ帰れるわ」三日目の夜、ユキは諭すように伝えた。

「厭だ。俺はユキとずっとここにいる。ユキがいれば何もいらない」

「ダメよ。あなたにも分かってるだろうけどここは違う世界なの。ここにずっといてはあなたは駄目になる。元の世界で成長して大人になって社会に出て結婚して子供を育てなさい。でもあなたのために魔法を掛けてあげる。私が必要な時は強く願いなさい。あなたの前に現れるから」

一郎は涙汲みながら頷いた。

「その代わりに約束して頂戴。この場所で私と出会ったこと、私との営み、私がかけた魔法のことを他人に話しては絶対に駄目。そのときが一郎の最後になってしまう」

「わかったよ。誰にも話さない。約束だ。そうすればユキとまた会えるんだね?」

ユキは答えずに頬笑みを浮かべ口づけを求めてきた。


 ユキの話は嘘ではなかった。ユキを強く求める、それは就寝前に下半身裸になって自慰行為にふけることと同義だった。ユキとの営みを思い出しながらペニスに手を添えればいつのまにかその指はユキの細長く美しい指へと変化した。興奮するにつれおぼろげなユキの像が徐々に実感を伴っていき、現実と変わらぬ快感に身を浸すことができた。傍に他人がいない夜は必ずユキとともに過ごした。

 バーチャルのユキは性行為で一郎の望むがまま全てを受け入れてくれた。ときには想像するより先に、進んでユキのほうから導いてくれた。生理期間中なのだろうか、月に一週間ほどは挿入を断られることがあった。そんなときは手コキかアナルセックスで一郎のいきり立ったペニスを収めた。ユキのアナルはきつく、ねっとりと纏わりつくような感触と快感の熱をペニスに与えてくれた。バーチャルのユキは一郎を手ほどきし、どのようにして快感を高め合うか学ばせてくれた。


ユキ、俺は今強く君を求めている、ユキ、前みたいに助けてくれないのか、ユキ、俺の前に現れてくれ。一郎は目を瞑り強く願った。手を股間に当てて擦ってもみた。それでもユキは表れてくれなかった。どうしてだ? やっぱり一人じゃないからなのか? 直之が隣にいるからなのか? 直之は俺の親友だ。ユキが俺の守護者なら直之も守ってくれよ。直之は怪我してるんだ。顔つきをみると低体温症になってるかもしれない。それは俺も同じだ。ユキが助けてくれないと俺たち二人とも終わりかもしれない。どうして目の前に現れてくれない。ユキは昔約束したじゃないか、強く願えば傍に現れるって。今傍にいるのは直之だけだ。ユキではなくて直之、ナオユキ、ユキ、そうか、そうだったのか! 何故今まで気づかなかった? ユキは隠れて見守ってくれてたんだ。あの後すぐに直之が俺の前に現れた。それからこの四年、俺と一緒に女遊びをしているようで実は俺に正式な恋人ができないよう邪魔してきたのではないか。自分でも特定の恋人は持たず、ナンパの時しか異性と接触しない。直之のおかげで成功したナンパは沢山あったが、申告通りお持ち帰りしたかどうか確かめたことはない。一度だけお互いパートナーを連れてスキー旅行に行った時、宿泊した部屋は隣りだったが、その時は飲みすぎて役に立たなかったと翌朝に笑い話にしていた。女側から交渉がなかったことについて言及されることを恐れたのではないか。そうだ、恩田直之はいつも俺の傍にいた。ああ! オンダナオユキ! アナグラムじゃないか! 雪女だお! 決まりだ!

「直之! 起きろ! ユキ!」

直之がけだるそうに顔を上げる。

「直之、お前だったのか?」

「何がだ?」

「しらばっくれるのは止してくれ。嘘や誤魔化しは無しだ。お前はいつも俺を見守ってくれてた。お前がユキなんだろ?」

「いきなり、なんの話だ?」

「俺が風邪をひいて寝込んだ時、自分のデートよりも俺の看病を優先してくれただろう?俺が苦手にしている講義で単位を落としそうになったとき補講のレポートを手伝ってくれたよな。いくら友人でもそこまでするか? 特別な理由があるんだろう?」一郎は直之の襟もとを絞り上げる。近づいた直之の顔に微かな赤みが差したのを一郎は見逃さなかった。直之は恥ずかしそうに顔を伏せる。

「ふん。やっと俺の気持ちに気づいたのか。こんなときじゃないとわからないなんて鈍感な男だよ。お前は。まあそんなところに惚れちまったのかもしれないけどな」

「なんでもっと早く言ってくれなかった?」

「お前は普通だろ? 嫌われたくなかったのさ。傍にいれれば十分だった」

「普通とか普通じゃないとか関係ない。俺が彼女を作らなかったのはいつもユキが俺の心の底に住んでいたからなんだ。俺はあの日以来ずっとユキの虜だったんだ。ずっとユキを夢みていたんだ」

「本当か? こんなときだがら最後の優しさをくれているのか?」直之が涙汲む。

「優しさのためじゃない。本気でお前を求めているんだ!」

 二人が初めての口づけを交わす。冷たくなった身体にゆっくりと血の巡りが戻る。お互いの身体を激しく求めあう。

「群馬の水上でユキに始めて出会ったときからずっと幻影を追い求めてきた。あのときはありがとう。君が抱いてくれなければ死んでいた。それから毎日のように世話になってきた。最後に君に気付けて良かった。愛してる」一郎は直之の耳元で囁いた。極限状態だからか、愛する者の言葉だからか全ては甘く響き直之の心へと沁み渡った。二人は急くように裸になった。

「始めてだから優しくしてくれよ」

「分かってる。そのために手ほどきを受けたんじゃないか」

一郎は掌にありったけの唾液を垂らし潤滑油として性器に擦りつけた。そのまま手を添えて直之の尻穴へと導く。最大値の抵抗が過ぎたところで亀頭がぬるりとめり込んだ。

「熱い、ユキの中はとても熱い、全身が火照るようだ!」

「ァアッー! もっと! 激しく突いて!」怪我した足の苦痛からか、初めて味わう刺激からか、念願の愛が成就した喜びからか、低体温症による意識障害からか、または目前に迫った凍死の恐怖からか、苦悶の表情で叫ぶ直之を見て、興奮した一郎はより激しく腰を動かした。


* 


 白い和服姿の女が二人の行為をツェルトの生地越しに見つめている。胸元には一輪の薔薇の模様がタトゥーのように描かれ、女の芯の強さを表現しているようだ。その模様を片手で絞るように握り込んだ刹那、一陣の風が顎下から吹きあがり、腰まである長い髪が千手観音の腕のごとく舞った。強く噛んだ下唇から一筋の赤い血が流れ、瞳から溢れた一粒の涙がキラリと光って結晶へと変化した。



(了)


注 *はアスタリスクです。菊門ではありません。




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雪女 鷲峰すがお @bobby315

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