昨日のかみさま

オカワダアキナ

昨日のかみさま

 リボンちゃんの脇の下から糸が出ていた。シャツがほつれたのだ。リベルタンゴは振りが激しい。

「ほんとだ、切って」

 リボンちゃんは腕を上げて、ねだった。薄手のシャツの糸は硬い。びるるるるるるるるる、引っ張ったら白い糸はどこまでもほどけた。

「脇毛みたい」

「おれの脇毛は白くないよ」

 知ってる。リボンちゃんには脇毛がない。チン毛もない。さっき見て驚いた。よんじゅうろくさいときいているけど、大人のおとこのひとにもいろいろある。

「毎日降ったりやんだりだな」

 秋雨前線だ。ひと雨ごとに涼しくなって、夏はどんどん過去になる。湿気で床の滑りが悪いから、リボンちゃんがベビーパウダーをまいてくれた。長年ダンスをしているからいろいろな裏技を知っている。ふわっと粉が舞い、赤ん坊のにおい。産まれたのはあたしだ。リボンちゃんの脇の下から産まれた、そういうことにしよう。それならいろいろやりすごせるかもしれない。糸はけっきょく歯で切った。発表会は明日。くるみちゃんは元気だろうか。くるみちゃんはどんなにおいだったっけ。



 社交ダンスの教室に通い始めたのはくるみちゃんに誘われたからで、べつに踊りたいわけではなかった。くるみちゃんは同じマンションの友だちで、四つ歳上の高校生だ。いずれ競技ダンスの大会に出たいのだと言っていた。海辺の町。マンションはコバルトブルーの瓦葺きで、ざわめく波だ。潮風に曝され壁には錆びが垂れ、自転車もすぐだめになる。くるみちゃんはうっすら灼けて、しかし腕も足もなめらかだ。

 ダンス教室はビルの二階で、通りの向かい側にはクラスの子たちが大勢通う学習塾が見える。ときどき目が合う(ような気がする)。あたしはいっそう背すじを伸ばす。学校のことは好きじゃない。

 ワルツ、タンゴ、ジルバ……社交ダンスにはいろいろな踊りがあるけど、いずれも男女が手を取り合うことを前提にした振り付けだ。レッスンに通っているのはおばさんやおばあさんばかり。初めての発表会、あたしはくるみちゃんとペアをやらせてもらえることになった。

 曲はリベルタンゴ。くるみちゃんよりあたしのほうがちょっとだけ背が高いから、あたしが男役をやることにした。宝塚みたいとくるみちゃんは笑った。

 くるみちゃんの手はつめたくてしっとりしている。まるっこいショートヘアがふるっと揺れる。こっそりピアスを開けているから不良かもしれない。あたしもやってみたいけど、やっぱりこわい。

 でも、くるみちゃんはあたしと同じで子どもだった。お父さんとお母さんが離婚してあっというまに引っ越してしまった。夏休みの終わりとともに、ろくにあいさつもできないままペアは解消。引っ越し先の東京都ナントカ区はべつの国のように思えた。言葉が異なり、時差もある(ような気がする)。

 先生は言った。

「大丈夫よ、最高の代役を連れてきてあげるから」

 

 

「あのなあ、笑っちゃ台無し。タンゴなんだから凛々しい顔してよ」

 無茶言うな。くるみちゃんのはずが中年おとこになってしまったのに。タンゴは深く腕を組む。背中の真ん中に手を添えるから、抱き合うみたい。男の人とこんなにくっつくのは初めてだ。

「タンゴは低い姿勢をキープするからほかのダンスと全然ちがうね。おれの位置取り、踏みにくくないか? バレエだと一人で立っちゃう癖がついてるからな」

 リボンちゃんは先生の知り合いで、むかしはバレエダンサーだったという。社交ダンスの人ではない。「彼は何やらせても上手だし、子どもに教えるのも慣れてるから」とのことだったけど、つまりテキトーな助っ人じゃないか。ときどき先生に頼まれ〝リボンちゃん〟のバイトをするらしい。

 スタジオの鏡に映る自分はうすっぺらに見えた。蛍光灯が明るすぎる。振り付けのメモを眺めていたリボンちゃんが言う。

「やっぱりきみが男役にしようか」

「えっ?」

「だって、もともとそっちを練習し始めてたんだろ。おれはすぐ覚えられるし、女の振りだって踊れる」

「いいんですか。それってヘンじゃないですか」

 リボンちゃんはゆっくり二回まばたいた。

「全然」

 じゃあ決まり、せっかくだからおれはハイヒール履こう、リボンちゃんは笑った。

 スロー、スロー、クイッククイック、スロー。くるみちゃんの手とはちがう。節くれだってかさついている。でもとても身体が柔らかい。リボンちゃんはきれいに身体を反らせた。あたしよりずっと背が高いのに、腰を支えたらとても軽い。

「……コンチネンタルタンゴは」

 リボンちゃんが言う。

「戦場で、死んだ女の人の身体を使って踊ったのが始まりらしいよ」

「死体と踊ったってこと?」

「そう。さみしい男が、死んだ人を生きてるみたいに扱う踊り」

 だから女役は首ががくんと揺れなきゃなんないし、支えたり振り向かせたりするからお互い膝の力が抜けていたほうがいい。リボンちゃんが言う。にゅうっと細長い身体は中身が透けそうに白い。よんじゅうろくさいだからあちこち皺が寄る。タンゴの距離だからよく見えた。

「身体斜めのまま進行方向から目線はずさないで。そう、上手」

 〝リボンちゃん〟というのは、ダンスパーティーでお客が踊りにあぶれてしまわないように用意される踊り手のことで、胸にリボンをつけているからそう呼ばれる。ダンス関係のイベントはどこも女性客が多い、男性の助っ人は欠かせない。バイトであちこちのパーティーへ招かれるらしい。

 だからリボンちゃんというのはパン屋さんとかコックさんと同じで役割の呼び名だけれど、そう呼んだらとても喜んだ。

「やってることの名前で呼んでもらえるのって、嬉しいもんだよ」

 くるみちゃんの代役、あたしを壁の花にしないために先生が用意してくれた白いリボンのおじさん。リボンちゃん。

 さっきあんなに軽かったのは、体重のかけ方だろう。よんじゅうろくねん生きているから死んだふりもできる。


 

 社交ダンスの定義


・パートナーチェンジの思想……相手を変えても踊ることができる。

・ノーシークエンス思想……振付がなくても、即興のリードとフォ  

 ローで踊ることができる。

・オリジナルミュージック思想……初めて聴く曲でも、テンポの遅    

 早があっても、踊ることができる。

・日常生活の延長線上思想……場所や衣装や靴が、特別のものでな

 くても踊ることができる。


 

 教室はべつのレッスンが入っているからいつも使えるわけではない。リボンちゃんが秘密の場所を教えてくれた。海岸近くの教会だ。掃除は行き届いているけどぼろい。

「日曜以外とくに何もやってないから、好きに使っていいってさ」

「雨が降ったら海まで流されちゃいそうだよ」

「そしたら船になるね」

 管理しているという外国人の牧師さんは愛想がよかった。リボンちゃんの友だちだそうで、日本語がペラペラだ。練習を覗きに来てはひゅうっと口笛を吹いて冷やかす。クラスの男子だったらぜったいに許さないけど、牧師さんは外国人だからしょうがないかなと思った。おやつを差し入れしてくれたし、たぶんいい人なのだろう。ほかにも外国の人が幾人も出入りしていた。平日の昼間なのに。

「きみ、お兄さんいるだろ」

 練習の合間、ストレッチをしながらリボンちゃんが言う。靴も靴下も脱いで、はだしになっていた。教会の中は小暗い。

「どうして?」

「中学生のくせに歳上の扱いに慣れてる」

 リボンちゃんは笑うとたれ目が糸になり、おとこでもおんなでもない何かの顔だ。窓の向こうは白っぽくひかって見えた。曇り空も薄暗い場所から見れば明るい。

「あたし、一人っ子です」

 リボンちゃんは見る目がない。きょうだいがいないから、歳上のひとと話すのが面白いのに。

「ふーん、あるいは歳の離れた恋人でもいるのかと」

「いません」

「好きな人とかいないの」

 教会は木の床で、リボンちゃんはあぐらをかいて足首をくるくるまわす。首をこてんと倒す。開脚する。バレエのひとの動きだなあと思う。肩がすっと開いて、なんとなくインドのお寺のかみさまみたいだ。いやインドのことは知らないし、ここは教会だから、かみさまだとしたらめちゃくちゃなんだけど。

「きみを見ていると、生意気で勇敢な十三歳だった子のことを思い出すよ。視線と背骨がまっすぐでね」

 よんじゅうろくねん生きている足は白くて骨が浮いている。あたしにとっては、よんじゅうろくねんも永遠も等しい。どれくらいの時間を踊っているのだろう。どれほどの床を、舞台を踏んでいるのだろう。

「もう何年も前の話だ。生きているといろんなことがある。理不尽に死んじゃうひともいる」

 リボンちゃんは小さく小さく笑った。それから遠くを見た。その子はもういないのだろうか。いないからタンゴを? リボンちゃんは有言実行でハイヒールを用意した。天井が高いから、靴音がよく響く。くるみちゃんは今なにをしているだろう。ここにいないということは、どこにもいないに等しい。かみさま。

「……嫌いな人ならいます」



 くるみちゃんはお母さんと引っ越してしまったけど、マンションにはくるみちゃんのお父さんとお兄さんが残っている。お兄さんはぬうっと背中が大きい。いつも家にいる。ほそく開けた六階の窓から銃口を突き出して撃つ。モデルガンだ。青い瓦にBB弾がぱんぱん鳴る。きっと波は傷だらけ。きちがいだと思う。そういうことを口にしてはいけないとうちのお母さんは言う。エレベーターにはずっと前から「モデルガン禁止」の貼り紙がしてある。乱射以外は物静かな人だ。マンションの階段でたばこを吸っているのを見かける。いつもチェ・ゲバラのTシャツを着ている。お互いあいさつはしない。されないからしないのか、こっちがしないからされないのか、わからない。くるみちゃんはお兄さんのことをあまり話したがらなかった。ときどき怪我をしていた。オレンジ色の弾は道に散らばり、いつのまにかどこかへ消えてゆく。潮風によって?


 

 やはり雨だった。出がけにくるみちゃんのお兄さんとすれちがった。革命家の視線がまぶたの裏にべっとり貼りつき、気分は下降した。発表は明日だ。チェ・ゲバラが何をした人なのか本当はよく知らない。キューバ革命の人とお母さんにきいただけ。

 教会のドアを開けたら、リボンちゃんが真っ裸で踊っていた。

「わ」

 何も身につけていない。全裸だ。大人のおとこのひとのハダカ、もろもろぶらさがるものを初めて見た。むかしお父さんと一緒にお風呂に入ったのは、ノーカウント。

「なんだ、早いね」

 リボンちゃんは平然としている。あわててドアを閉めた。

「ヘンタイ」

 あるいはきちがい? まぶたの裏側でまた、ゲバラが睨む。いざというとき悲鳴が出ないのは、あたしが悲鳴を上げたことがないからだろうか。みんなそうなのだろうか。 

「人聞き悪いなあ。おれ、何も着ないほうが動きやカタチを確認しやすいから好きなんだよ」

 ドアの向こうでリボンちゃんが言う。

「でも、ヘンタイ」

 アタマのおかしいひとなのかもしれない。どこにでもヘンなひとはいる。コバルトブルーの瓦を乱射するひととだって、同じマンションの壁を共有している。

 牧師さんに立ち会ってもらうことにした。ふたたびドアを開けたとき、リボンちゃんときたらやっとパンツを穿くところだった。

「ひとを驚かせるのはよくないよ」

 牧師さんはたしなめた。

「気持ちはわかる。ハダカって気持ちいい。でも突然何も着ていなかったら、みんなびっくりする」

「たしかに。でもおれには自然だし、やりやすいんだけどな」

 リボンちゃんはちっとも悪びれない。牧師さんは片眉を上げて笑った。

「自然かな? ぜんぶ毛を剃ってるくせに?」

 ああそれだ。つるつるだった。さっき余計にぎょっとした理由がわかった。

「やっぱりヘンタイ」

 思い切り怒りたかったのになぜだか笑ってしまっていた。くるみちゃんならどうするだろう。リボンちゃんが言う。

「まあそうかもしれない。それはきみが決めていい。でもジュース買ってあげるからケーサツに言わないで。あと先生にもヒミツな」

 力の抜ける言い草だ。だから意味のないことばしか出てこなかった。

「……どうしてぜんぶ剃ってるの?」

「見る?」

「さっき見たからいいです」

「ないほうが好きなだけだよ」

 言いながら、リボンちゃんはシャツのボタンをゆっくり留めてゆく。ヘンなひとだ。いや、ひとではないのかも。ますますお寺のかみさまめいて見えた。

 牧師さんが言った。

「さて、仲直りできそう?」

 雨は弱い。空は曇りの日と変わらない白色だ。

「べつにケンカしてない」

「べつにケンカはしてないです」

 ほとんど同時に言葉を発し、つまりあたしとリボンちゃんは上手にタンゴを踊れている。社交ダンスの定義にのっとっている。



 発表会は公民館でおこなわれた。おばさんたちはみなドレス姿で花束みたいに見える。リボンちゃんは細身のパンツにつるっとしたシャツ。今日は糸は出ていない。

「きみはそういうのが似合うね。とてもきれいだよ」

 あたしは迷ったけどパンツとブラウス。好きなドレスにしていいわよと先生は言ったし、なんでも着たいものを着ればいいとリボンちゃんも言った。だから青いブラウスにした。

 出番はもうすぐ。公民館の入り口でウォーミングアップした。雨足が強く暗いため、ガラスが鏡になった。控え目な分身とは視線が合わない。

 リボンちゃんが言った。

「大丈夫、きみは世界で二番目に美しい」

「一番はリボンちゃん?」

「ちがうよ。一番はおれの初恋のひと」

 リボンちゃんはすっと目を細めた。たぶん笑った。

「一番になるのは難しい。誰かの神さまであったり恋であったりするものを押しのけるのはとても大変だし、けっこうつらい。そしておれの一番はきみにとって一番じゃない。別。わかる?」

 廊下はコーヒーのにおいがした。いくつもの部屋で知らない誰かが何かの集まりをしている。あたしたちが踊るのを知らない。あたしはくるみちゃんがどこで何をしているのか知らない。何があったのかを知ることはない。

「誰がナンバーワンかは人それぞれってこと?」

 リボンちゃんはうなずいた。

「だからね、きみにとって一番のひとのことを考えて踊りなさい。そうしたら世界で二番目に美しいんだ。少なくともおれにとってはそうで、きみはとても素敵だよ」

「もしかして、励ましてくれてる?」

「もちろん」

 リボンちゃんはにっこり笑い、首をこてんと倒す。きのうのハダカを思い出す。きのう、かみさまだったリボンちゃん。今日はひとの言葉をしゃべろうとしている(ような気がする)。

「オーバーですよ、こんなちいちゃな発表会で」

「でもきみはちゃんと緊張しているし、ちゃんと踊ろうとしてる。立派なことだし、おれにはそれがとても嬉しい」

 時間まで、リボンちゃんの好きなプリマドンナの話をしてもらった。きゅうじゅうにさいのバレリーナ。アリシア・アロンソ。

「キューバの人。彼女の若い頃のジゼルは素晴らしかった。目がみえないんだけどね」

「それってチェ・ゲバラと同じ国の人?」

「そうだね。よく知ってる。今時の中学生は賢いんだな」

 リボンちゃんは入り口の手すりをバーの代わりにして足を上げた。バレエの動きだけどヒールが鳴る。ここまで来ればモデルガンの音はきこえない。

「きみに似ていた十三歳の子も勉強熱心だった。ヒミツだけどさ、おれの恋人だったんだぜ」

 がくんと首を反らせた。死んだひとと踊るタンゴ。

「……その子、どこへ行ってしまったの。もしかして死んでしまったの?」

「え? 死んでない」

 リボンちゃんが目をまるくする。

「かつて中学生だったのが、今は大学生になったってこと。死んでないし別れてない。時間は流れてひとは歳をとる。おれの言い方、ヘンか?」

「すごくわかりにくい」

 あたしはため息をついてみせた。ガラスの向こうの分身もそうした。雨と靴とが銃声をかき消し、船はひびの入った波をゆく。

「仕方ないだろ、おれは人間の言葉がうまくないんだ」


 

 リベルタンゴは振りが激しい。あたしたちは笑わずにスタッカートを踏むだろう。きのうのベビーパウダーがよみがえる。

「キューバ革命について教えて」

「ぜんぜんわからない。戦争も闘争もこわい」

 リボンちゃんは肩をすくめた。

 あたしもBB弾がこわい。こわいから、抱き合って踊ろう。きのうのかみさまと手をつなぎ、あしたのかみさまに会いにゆく。どこかにいるはずの、くるみちゃん。

 かみさまのにおいを思い出したよ。


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