第四話 兄と、妹のirony
土曜日の今日は、午前中に不動産屋に行っていた。
不動産屋から条件に見合ったものを三件ほどピックアップされたので、一つ一つ見に回っていたのだけれど、何となくどこも良さそうな気はしなかった。
生まれてこの方引っ越しなんて一度もしていないので、全く家具が置かれていない部屋が珍しく感じられた。それと同時に、空虚さが僕の精神を襲った。
もちろん引っ越しをして家具を置き、物を充実させる事で新しい自分の住処として受け入れられるかもしれない。だけど今の僕には、それが想像できなかった。
それだけで酷く疲れた気分だったので、午後は夕飯の時刻になるまでずっと昼寝していた。ここまで寝ていたのは久しぶりかもしれない。
頭がスッキリしたのは、風呂から上がった後だ。
「ふう……」
椅子に座り落ち着いたところで、溜まっていた不快な空気を吐き出すかのようにため息が出る。
考えた上で一人暮らしを決めたはずなのに、それがうまくやっていけるか今になって徐々に不安になってきている。
「……それだけじゃないよな」
この不安は、これから先の事に対してだけではない。これまでの事を解決しないで巣立つ事に対してもだ。
愛理の事情を知らないままにこの家から出て行こうとしている。早見から言われた事もあって、どうしてもそれが引っ掛かってしまっている。もし早見の言っていた事が事実なら、僕は元の仲に戻る機会を自ら手放そうとしている事になる。
「どうするかな――」
思わず言葉が漏れ出た、その時だった。
僕の部屋のドアから乾いた打音が聞こえてくる。ノックだなんて珍しいけど、誰だ?
「兄さん、まだ起きてる?」
「っ!?」
心臓が跳ねた。まさか愛理が僕の部屋に訪ねてくるなんて思わなかったからだ。
「え、愛理?」
「……話が、ある。入っていい?」
「う、うん、大丈夫。今開けるから」
声がうわずってしまう。今まで体験した事のないシチュエーションと想定外の事態が、僕を焦らせる。落ち着け、相手は愛理だ。やましいものだって無い……一応、部屋の見える所には。
一応部屋を確認してから、ドアを開ける。愛理はパジャマ姿だった。夕飯後は僕も愛理も部屋に引きこもっているから、愛理のこの姿を見るのはいつ以来になるだろうか。
そんな事を考えつつ、愛理をベッドに座らせた。
「話って、何かな?」
「えっ、と……」
珍しいな、愛理が言葉を詰まらせるなんて。そんなに話しにくい事なのかな……って、僕と話そうとしてる時点で話しにくいか。
「話しにくいなら、気持ちが落ち着いた時でもいいから――」
「待って、待って。大丈夫だから」
どうも愛理の様子がおかしい、気がする。表面上はいつも通りに見えるけど、言葉を詰まらせたり節々に焦っているような感じがしたり、いつもの愛理じゃないみたいだ。
僕にとって愛理が部屋を訪れるのは初めてだけど、考えてみれば愛理にとっても同じ事が言える。だから緊張でもしているのだろうか。
ともあれ愛理が「大丈夫」と言ったので僕は待つ事にしたけど、そのまま沈黙が部屋を支配する。
「……単刀直入に、言う」
何分経ったかわからないけど、ようやく愛理が口を開いた。
「一人暮らしは、しなくていい。する必要がない」
二人の間に緊張が走った、感じがする。
今、愛理は何て言った? 一人暮らしはしなくていい?
「そ、それはどういう意味?」
僕にはその真意が全くつかめない。なんで愛理はそんな事を言い出したんだ。
「兄さんは、勘違いしてる。私は、別に兄さんの事を嫌ってなんていない」
「え、えっ?」
ちょっと待って、今何が起きてるんだ。意外な言葉が連続して出てきて、僕の処理能力が追いつかない。
「私が兄さんの事を嫌ってると思ってるから、一人暮らしするんでしょう? だったら、私が嫌ってないってわかれば、一人暮らしはやめるよね」
「そう……なのか?」
「なのか、って、自分の事じゃないの」
確かに自分の事なんだけど、原因である当の本人に言われると逆に自信が無くなる。
「だ、だけど、それって本当か?」
「本当だけど」
愛理に変な目で見られている。何か変な事を言ってしまっただろうか。それとも愛理の言っている事が嘘で、本当は嫌だけど何らかの事情で僕が一人暮らしするのを認めたくない気持ちがにじみ出ているのだろうか。
「……疑っているの?」
「えっ!? い、いや、その……」
愛理の目つきがますます険しくなる。いつもの見慣れた表情に戻ってきてるように見えるけど、やっぱり何か違う。
「……兄さん、こっちに来て」
「はい?」
愛理が自分の隣に来るように促してきた。何だろう、と思うと同時にいいのだろうか、という気持ちも出てくる。別に罠を張っているというわけではないと思うけど、躊躇してしまう。
だけどこのままじゃいけない。意を決して愛理の隣に座った。
「っ!?」
僕の腕に圧がかかる。愛理が寄りかかってきたからだ。しかも身体はややこちらを向いている。
「え、愛理?」
「昔はこうして、話をしてたよね」
そういえば、愛理が冷たくなる前はこうやって僕にくっついてきていた。そしてその日にあった事を話してくれたり、一緒にゲームをしたりした。
「さすがに今はこうするのは恥ずかしいけど……でもまたいろんな事を話したい」
愛理の顔が赤くなってる。本人が言っているとおり、こうしているのが恥ずかしいのだろう。僕だって恥ずかしい。愛理に聞こえそうなくらい、鼓動が早く大きくなっている。
「だから一人暮らしされると、私が困るの」
「そう、だったんだ」
きっと本当の事なんだろう。ここまで全部演技だったら、愛理は女優の才能がある。
「僕もずっと愛理と元の関係に戻りたかった」
だから僕も本音を愛理に打ち明けた。
「また毎日、私の話を聞いてくれる?」
「いいよ。何だったらメールでも大丈夫だから」
「同じ屋根の下に住んでるんだから、直接話したい」
「わかった」
愛理の表情がほころぶ。僕もつられて口角が上がる。
ずっと僕達はすれ違っていたんだ。だけど今ようやく元に戻る、そんな気がする。
「……そういえば、どうして僕に冷たくしていたの?」
ずっと気になってた事だ。これがわからなかったから、僕は一人暮らしをするなんて結論を出してしまった。
「それは、恥ずかし――っ!?」
突然、愛理が僕から離れた。顔がさっき以上に真っ赤になっている。そして何故か自分を抱えるかのように両腕を掴んでいる。
「え、愛理?」
「……兄さんの、馬鹿。変態」
僕への罵倒を残して、愛理はそそくさと部屋を出て行ってしまった。
「って、ええ……?」
全く意味がわからない。何でいきなり僕に悪口を言ったんだ? 冷たくされていた時すら出て来なかったのに、どうして突然。
結局、愛理が冷たくなった理由はわからず終いになってしまった。後で話を聞く事は……出来ないだろうなあ。
*
愛理と仲直り――一応、仲直りが出来てから三日が経った。
今日もまた帰りの時間に合わせたかのように雨が降っている。もちろん傘は手元にない。いい加減学習しよう、僕。
「先輩、俺コンビニで傘買ってきます」
「わかった、僕はここで待ってるよ」
早見もまた学習していない。彼の家にはきっと幾つものビニール傘が傘立てに入っているのだろう。もっとも人の事を言えないから、そんな指摘をするつもりはないけれど。
そして僕は駅舎で一人、早見ともう一人を待っている。
「お待たせしました。先輩はまた傘待ちッスか?」
「まあね」
噂をすれば影が差す。右手側から愛理が来た。
「お帰りなさい、兄さん」
「ありがとう、愛理」
微笑む愛理から傘を受け取る。前と同じシチュエーションの時とは違って、僕の心は穏やかだ。
「……先輩、妹さんと仲直りしたんスか」
そんな様子を見て変化があったと悟ったようで、早見がにやついている。
「まあね」
「俺のアドバイスが役に立ったという事ッスね!」
「それは違う」
早見と話した僕がまごまごしているうちに愛理が行動したのだから、早見の手柄はどこにもない。これも指摘しないけれども。
「今日の夕飯は何だっけ」
「カレイの煮付けだって」
家路の途中、僕達の間には他愛のない会話があった。三日前にはとても考えられなかった状況だ。何を話してもキツい言葉しか返ってこなかった以前とは違う。
他人にとっては何でもないような事かもしれないけど、今の僕にとっては嬉しい出来事だ。
「……兄さん、顔がにやけてる」
「えっ」
心境が思わず表情に出てしまってたらしい。愛理が怪訝な顔で僕を見ている。ただし呆れているだけで、軽蔑や嫌悪感は見られない。
「ごめん、愛理とこうして話をしながら帰れるのが嬉しくてさ」
「……そんな歯の浮きそうな事を口にしないでよ、恥ずかしい」
ああ、愛理がそっぽを向いてしまった。
思ってる事が表情に出たり、ついそのまま口にしてしまったり、僕はどうもそういう癖があるようだ。
「今度から注意するよ」
「その歳で出ているようなら、ずっと直らないと思うけど」
手厳しい。
「何か冷たくない、愛理?」
やられっぱなしも悔しいので、ちょっと反撃してみる。
「このくらいは普通の兄妹として当然じゃない?」
敵わなかった。至極当然の反論にぐうの音も出ない。単に僕の考えが浅いだけかもしれないけど。
「さっきから表情がコロコロ変わって、変な兄さん」
うう、笑われてしまった。
でもそれでいい。こんな他愛のない会話が出来る事が嬉しいのだから。
いつか離れる時は来るだろうけど、それまではこの何でもない時間を満喫したい。
「兄さん、またにやけてる」
「うぅ……」
でもこの癖だけはやっぱり直そう。
どこにでもいるような兄妹の、どこにでもあるような話 紅羽根 @BraveFive
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