どこにでもいるような兄妹の、どこにでもあるような話
紅羽根
兄と、妹のirony
第一話 兄のmelancholy
駅舎の中から見る景色は憂鬱なものだった。
季節は夏、梅雨も明けて暑さが日増しに強くなる日々が続いている、いや、続いていた。今日は気温が下がっている。暑さの小休止と言いたい所だけど、理由は単純だ。
曇天の夜空から降り注ぐ雨。夕立によって今日の気温は三十度を下回っている。だけど全然涼しくない。夕立のせいで湿度が上がっており、不快感が非常に増しているからだ。
クールビズのおかげで半袖のワイシャツというまだマシな格好でいるものの、それでもまとわりつくような湿気は辛い。ましてや個々は無数の人々が行き交う駅舎だ、更に不快指数が増している。
「先輩、俺そこのコンビニで傘買ってきますけど」
後輩の
別にそんな細かい事で僕の許可を待たなくてもいいのに、とは思うが、会社での行動がすっかり身に染み付いているのだろう。
「ああ、行っていいよ。僕はここで待ってるから」
僕がそう言うと早見はそそくさとコンビニに入っていった。
しかし僕が待つのは早見だけではない。会社を出る前に雨に気付き、傘を持ってきていなかったから母さんにケータイで傘を持ってきてほしいと頼んでいた。返事はなかったけど、既読の印はついていたから承知はしているだろう。
「買ってきました」
「早いね」
ちょっと考え事をしていたら、早見がビニール傘を携えてすぐに戻ってきた。人が多い時刻だけど、案外スムーズに買い物が出来たのかな。
「先輩はいいんスか?」
「うん、家族が傘を持ってくるはずだから――」
そう言いながら自宅のある方角の右手側に目を向けた。すると眼鏡をかけている見知った少女が傘を差しながらもう一つ傘を携え、こちらに向かって歩いてきている姿が目に入る。
僕は彼女を目にして戸惑ってしまった。てっきり母さんが来るものばかりだと思っていたので、彼女が来る事は予想だにしていなかったからだ。
「え、
「お帰りなさい、兄さん」
僕の妹――愛理は僕の前で立ち止まり、にっこりと微笑んだ。
「ちょ、先輩。妹さんスか?」
可愛い妹がいて羨ましい、と早見にからかわれるが僕は愛理が来てから内心ドキドキしっぱなしだ。もちろん『おそれ』の方で。
「う、うん、そう。妹の愛理」
別にやましい事があるわけでもないのに、声がうわずってしまった。
「はじめまして、
「おっ、これはどうも。更科先輩の後輩やってる、
別に聞かれなかったし、積極的に話す事じゃないから話さなかっただけだよ。
「も、もういいだろ。ほら帰るぞ、愛理」
「えー、もうちょっと愛理ちゃんとお話しさせてくださいよ、先輩」
「ダメ、さっさと帰りなさい」
子供に言い聞かすような口調になってしまった。でもこのまま二人に会話をさせると、僕が困った事になりそうだから仕方ない。仕方ないんだ。
僕は愛理から傘をぶんどるように受け取り、急いで傘を開いて駅舎を出た。出来るだけ早く早見と別れたい。
「それでは失礼します、早見さん」
「はいはい、またねー」
愛理の微笑みに応えるように、本当に嬉しそうな顔で見送るなあ。そんな顔、飲み会の場でも見た事がないぞ。
家路半ば、一軒家が建ち並ぶ道を僕と愛理の二人だけが歩いている。愛理は一応横に並んで歩いているけど、本当に一応だ。
「………………」
駅からここまで、僕と愛理の間に会話は無い。チラッと横目で見ると、先程早見と話していた時とは打って変わって真顔になっていた。優しそうな微笑みなんて夢のように消え失せている。
「……何?」
「な、何でもないよ」
「だったらじろじろ見ないで」
僕はかなりまじまじと愛理を見過ぎていたらしい。表情は大して変わっていないように見えるが、わずかに眉間にしわが寄っている。最近はこんな機微を判別できるようになってしまった。
愛理は僕と二人きりの時や家族の前では、僕に対して冷たい態度を取る。こうやって会話なんてほとんど無いし、たまに口を開けば悪態をつく。
だのにさっきの早見といた時のように、人前では礼儀正しく、優しそうに接してくる。対外的には『よくできた妹』として認識されている。僕が言うのも何だけど、容姿も端正だから印象がいい。
「前はこんなんじゃなかったのになあ……」
「文句があるならはっきり言って」
思わず嘆きが口から漏れてしまっていた。愛理の表情が一層険しくなり、冷たい視線が僕に突き刺さる。
「ごめん、そういうつもりじゃなかったんだ」
「………………」
何も言わずに視線を逸らしたけど、愛理の機嫌を損ねてしまったのは間違いないようだ。僕も迂闊な発言が多い。これ以上愛理を怒らせるのも嫌だから、黙っていよう。
これが、今の僕達兄妹の関係だ。
*
帰宅して母さんも交えて三人で夕飯を済ませ、自室でコーヒーを飲みながら一息つく。そんな日常も三年くらい前、愛理が中学に上がった頃からずっと続いていた。
愛理の態度が冷たくなってから、食卓やリビングに留まるのが気まずく感じられていた。だから逃げるように自室に入る事でようやく落ち着く事が出来る。ミルクを多めに入れたコーヒーが身体に染み渡って心地よい。
「……やっぱり、何も無かったよなあ」
思い返しても、愛理が今のようになったきっかけが僕にはまるで思いつかない。
小学生の頃の愛理は、いつも僕に構ってきていた。僕が学校やアルバイトから帰ってくると必ず玄関まで出迎え、小学校であった事を話してくれたり、宿題でわからないところがあったら聞いてきたりとべったりだった。
僕が嫌な事があって落ち込んでいたりイライラしていた時は、心配そうな顔をして尋ねてきていた。そんな愛理の気持ちがありがたくて、いつも感謝していた。
今でも愛理が急に冷たくなった日の事ははっきりと覚えている。その日の前日まで変わった様子は無かったのに、その日に家に帰ってきたら出迎えがなかったのだ。
おかしいと思って愛理の部屋に行ったら、何故か部屋に入る事すら許されずに突っぱねられた。その後の夕飯の時も、僕が話しかけても全然応えてくれなかった。
母さんに聞いても理由はわからなかった。仕方なく夕飯の時などに本人に何度か尋ねたけれど、徹底して回答を拒否されて今日まで至っている。
「原因がわからなきゃ、対処のしようがない」
仕事でもプライベートでも、これは絶対の法則だ。愛理が冷たくなった原因がわからない限り、愛理との関係を修復する事なんてできない。
しかしこれだけはわかる。愛理は僕の事を疎ましく感じている。
それに対して僕が出来る対処法は、ある。
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