第2話


 宇佐木うさぎ野菊のぎくにとって、世界はひどく生きづらい。

 世界に満ち満ちた騒音は野菊の胸を乱暴に殴りつけて痛めつける。

 人の視線が怖い。

 睨む目。蔑む目。嘲る目。

 人の声が怖い。

 怒鳴る声。泣き叫ぶ声。罵る声。

 音や形を伴って激しく吐き出される強い感情。

 静かににじみ出す暗い思い。

 そうしたすべてが野菊を激しく揺さぶる。

 それが自分に向けられたものでなくても、まるで自分自身に叩きつけられたかのように感じ取ってしまうのだ。

 誰かが誰かを罵る声に、誰かが何かに流す涙に、誰かが誰かを殴る姿に、誰かが何かに吐き出す悪意に、余所に向かって吐き出され、拡散して消えてしまうような悪意を、野菊は自分に向けられたもののように受け取ってしまい、飲み込まれ、傷つけられ、押し潰され、心をすり減らしていく。

 だから、耐えがたい苦痛から逃れるために、野菊は心を凍らせる。

 自分を傷つけるものを見ないように、聞かないように、ふれないように、殻の中に閉じ籠もって小さく身を縮ませる。

 しかし、その殻は脆弱で穴だらけ。野菊がどんなに小さくなっても、その身を守り切る事などできはしない。

 それでも、幾分かはましであろうと、野菊は今日も殻の中で縮まって生きている。そうするより他にどうしていいのかわからないから。


§


「そこの地味なの。おぬしじゃ、おぬし。不景気な顔して不景気そうに丸くなってるおぬしじゃ」

 野菊は無遠慮な声に顔を上げた。

 何の気なしに立ち寄った夕暮れの寂れた公園。他に人影もなく、一人ベンチに腰を下ろしていた野菊が顔を上げた先には、いつの間にやって来たのか、一人の少女の姿があった。

 年は十歳くらいであろうか。白衣緋袴の巫女装束風の服装、頭には狐の耳を模したようなやけにリアルな飾りがどんな仕掛けかぴこぴこ揺れている。愛らしい顔立ちだが、ませて生意気そうなつり目に不敵な笑みを浮かべて、じっと野菊を見つめていた。

「……タヌ子と同じ制服じゃな。しかし、何というか、地味じゃな。磨けば光る珠であろうにもったいないが……、ふむ、わざとか」

 少女の言葉に、野菊はぎくりとした。

 スカートの丈にも手をつけない制服に、飾り気のない学校指定の靴と鞄。野暮ったい眼鏡。括っただけのナチュラルブラックの髪。アクセサリーの一つもない。化粧どころかリップクリームの一つも塗らない。影に溶け込もうとでもするようにうつむいて背中を丸めた姿勢。とことんまで地味で目立たない女の子。

 しかし、それがポーズだと少女は一目で見抜いた。

 野菊は美しい。

 ほっそりとした顔形も体型も骨格からして均整がとれている。体つきも──胸の起伏に乏くはあるが──すらりとしていて、きめ細かくなめらかな肌は染み一つなく白い。艶やかな黒髪、長い睫毛に縁取られた物憂げな瞳。そうした外見の美しさを、野菊はまるで疎うように隠そうとしていた。

「見たものを見ぬ振りをして、聞いたものを聞かぬ振りをして、誰からもふれられぬようにこそこそ隠れて生きる。それがおぬしの処世術という訳か」

「………………」

 少女の言葉に、野菊は目を逸らして口を噤む。一目であっさりと見抜く少女の慧眼には薄ら寒さすら感じた。

「わしは綾葉あやはじゃ。おぬしは?」

「……宇佐木……野菊」

「こんどはウサギか。タヌキだのウサギだの、わしの周りにはそんなのばかりじゃのう」

 綾葉と名乗った少女がにんまりと笑った。

「わしがどういうものなのか、おぬしは一目見て気付いておるな。それなのに、気付かぬ振りで目も耳もふさいでおる」

「……何の事だか……」

 そっぽを向く野菊の声はか細く弱々しい。

 綾葉は見た目通りの少女などではない。その事には直感的に気付いていた。そして、気付いた事にも背を向けて、気付かない振りで関わり合いにならないように逃げ出す野菊のやり方もまた、綾葉の言う通りだった。

「さぞや生きづらかろうな」

「あなたに何が──」

「お見通しじゃ」

 思わずかっとなって野菊が顔を上げると、息がかかるかというほどの間近に綾葉の顔が迫っており、吐き出しかけた言葉を詰まらせた。

「まあ、そんなに息巻くでない。ちと、こっちへ来て座れ。ほれほれ、早う」

 綾葉が野菊の手をつかんで引っ張り起こす。

 ふれた小さな手の感触に、野菊の胸で微かな風がそよいだ。

 柔らかで温かく、意外なほど力強いが乱暴ではない。ふれあう肌から不思議な安心感が伝わる。

 心地のよい感触に誘われるように、野菊は綾葉に手を引かれるまま数歩離れた所にある椅子に腰を下ろした。

 いつの間のこんな物が置かれていたのか。

 野菊が座った簡素な椅子の前には古めかしい屋台が堂々と鎮座していた。

『よろず相談承り』

 屋台に据え付けられた看板には、大きくそう書かれていた。

「格安じゃぞ」

 綾葉は屋台の内側に置かれた椅子によじ登ると、カウンターを挟んで野菊と向かい合うようにしてから台上を指さした。

『相談料三〇〇円。いなりずし(三個)、または鮭おにぎり(二個)でも可(梅おにぎりは不可)』

 料金表らしきものの冗談のような内容に、野菊は「はあ」と呟きを洩らした。

「ふふふ、どんな悩みも綾葉におまかせじゃ。見せてみよ、おぬしの胸の内」

「私は……」

「そんなに心をすり減らしていてはもたぬぞ。ここが壊れてしまう」

 身を乗り出した綾葉は、口籠もる野菊の薄い胸をつんと指で突いた。

「紡いで織ってみようではないか、おぬしの心を」

 引いた指に金色の糸が絡みつき、その糸の端は野菊の胸から伸びている。

「これは何とも美しい色よのう。綾織りの腕の見せ所じゃな」

 静かに光る糸は綾葉の指に導かれるようにして伸びながら宙へ広がり、細い指の流麗な動きに合わせて何重にも組み合わされ重ね合わされていく。まるで糸から布へと織り上げられていくかのように。

「夢織り、綾織り、ひとおつ、ふたつ。妖狐の姫が手ずから織った、おぬしの思いのあやかし織りじゃ。とくと見よ!」

 一面に金色の光が満ち、野菊は眩しさに目を閉じた。


§


 白。

 真っ白。

 どこまでも続く染み一つない雪原。

 空は濃紺の夜の色。

 瞬く綺羅星の光の欠片が零れ落ちて降り注ぎ、白い世界をきらめきで満たす。

「美しいのう」

 後ろから聞こえた声に、はっと我に返った野菊は振り向いた先で目に映るものに息を呑んだ。

「こうも美しいものを、わしは今まで見た事がない」

 背を向けてたたずむ綾葉の頭越しに見えるのは、そう讃えられて然るべき光景。

 氷か硝子か、はたまた玻璃(はり)か。

 四阿(あずまや)とそれを取り囲む木々もすべて、曇り一つなく透き通り、星明かりと雪明かりに包まれて静謐な輝きを湛える精緻な細工物。

 テーブルも椅子も、木々の葉の一枚一枚までもが薄氷のきらめき。テーブルクロスは霜を紡いだ糸で飾り編んだレース。

 繊細、というだけでは言い表せない美しさに、言葉もなくしてただ見入るばかり。

「しかし、こうまで細やかでは迂闊にふれる事もできぬのう」

 綾葉は雪原に足跡を残しながら木の一本に歩み寄り、指先でそっと一枚の葉にふれる。

「──っ!」

 微かに揺れた薄氷の葉がそのまま砕け散ってしまいそうで、野菊は思わず胸を押さえて息を詰まらせた。

「──美しい。美しく繊細じゃが、それゆえに、あまりに傷つきやすく、脆すぎる。地を踏み荒らされ、葉を散らされ、枝を手折られ、その痛みに傷ついて怯え、縮こまってきたのじゃな」

 振り向いた綾葉が野菊に向かってふっと微笑む。

「おぬしの心は美しいな」

「私の……心?」

 問い返す野菊に綾葉が頷く。

「これがおぬしの心の風景じゃ」

「これが……?」

「美しいが、寂しいの」

 繊細で清涼な美しい世界。

 しかし、静まり返り凍り付いた世界。ふれれば溶けるか壊れるか、息一つしても崩してしまいそうなほどの緊張感で他者の侵入を拒絶する。

 静寂しか許されず、わずかな物音で砕け散る脆弱な、寂しくて悲しい世界。

 温かさもない。きっと、その熱で溶けてしまうから。

 笑い声もない。きっと、その音で砕けてしまうから。

 ただ、じっと息を殺して小さく凍り付いて、それでも、ひびの一つも入ればそこからたちまち崩れ去る。

 こんな世界は存続できない。生き長らえる事ができるはずがない。

 脆弱で、あまりにも脆弱すぎて醜悪だ。

 自らの心の形を見せつけられて、野菊は悲嘆と絶望に落ちていった。

「私は……、どうしてこんな風になっちゃったの……?」

 野菊の頬を涙が伝った。

 他の人ならばきっと何でもない事で済まされるものが、野菊には深く鋭く突き刺さる。他の人ならばきっと気付かないものに、野菊は気付いてしまい、そうして見たものや聞いたものに傷つけられる。

 いっそ、自分が木石であればどんなにか楽だっただろう。何も見ず、何も聞かず、何も感じずにいられれば、そう思って心を凍らせようとしても、痛みは増すばかり。

「たわけ」

 綾葉の吐き捨てる言葉が野菊の耳朶を打った。

「どうにかしてそのようになったものなどであるものか。おぬしのようなのはの、元からそうなのじゃ」

 綾葉の言葉に野菊はびくりと震えて縮こまった。下から見上げる綾葉の視線に気圧されて足の力が抜け、そのままぺたんと座り込んだ。

 逆に見上げる姿勢になった野菊を、綾葉は黄色い瞳で呆れたように見下ろしている。

「そういうものは生まれついての気質じゃよ。変える事も捨てる事もできぬ。それがおぬしの在り方であり、──天賦の才能じゃ」

 そう言って、綾葉はふっと笑った。

「より多くを見て、多くを聞き、多くを感じる事ができる。それはおぬしの優れた資質じゃ。誇るがいい!」

「そんな……、そんな事言ったって! 私は……、そのせいで、こんなに苦しいのに! こんなに痛いのに!」

 野菊は両手で顔を覆って泣き叫ぶ。

 人より多くを見てしまう、人より多くを聞いてしまう、人より多くを感じてしまう。そんなものはちっとも幸せではなかった。

 きっと、野菊は人よりもずっと敏感なアンテナを持って生まれてきたのだ。それなのに、ノイズを取り除くフィルターは人よりもずっと薄っぺらで目も粗い。ほとんど素通しの騒音に苛まされて、野菊は傷つくばかりだった。

 上辺は仲の良い振りをして影で悪口を言い合うクラスメイトの言葉に耳をふさいだ。赤の他人が殴り合う姿に我が身を打ち据えられるかのように怯えた。罵られ傷つく人の姿を見て自分まで責められているかのように泣いた。

 野菊はテレビの報道番組を見ない。人の悪意と不幸ばかりが映し出されて耐えられないからだ。事件の被害者や遺族に無神経に詰め寄ってマイクを突きつけるマスコミの醜悪な姿に耐えられず、トイレへ駆け込んで嘔吐した。

 現実の事ばかりではない。ドラマや映画のフィクションの世界でもそうだ。人が浅慮で身勝手な振る舞いで他の人を傷つけて平気でいられるのがわからない。

 どうして傷つけるの?

 どうして苦しめるの?

 傷つけても傷つかないの?

 苦しめても苦しまないの?

 人が感じている痛みも苦しみも感じないの?

 多くを感じすぎてしまう野菊には、感じられないという事がわからなかった。

「そんなに力んで固まっておっては、それはしんどかろうとも」

 泣きじゃくる野菊の頭を綾葉がそっと抱き締めた。

「辛い事も悲しい事も人一倍、それを全部丸ごと抱え込んでは、重たすぎて苦しかろうよのう」

 綾葉の小さな手が抱えた頭をあやすように撫で、野菊はぐずぐずと鼻を鳴らしてすがりついた。

 華奢でか細い少女の体。なのに、やけに頼もしくて、優しくて柔らかい温かさを肌で感じる。

「ふむ、来たか」

 綾葉の声だけでなく、野菊も何か別の気配を感じて顔を上げた。

 雪原に小さな足音を残し、野菊と綾葉の周りをくるくると巡るのは丸っこい体の小さな子狸。探るようにふんふん鼻を鳴らしてから、野菊の足元にすり寄って、人懐っこそうにじっと見上げる。野菊が途惑っていると、子狸はじれたように野菊の足に鼻面をすりつけてきた。

「人懐っこい甘えん坊じゃからな。抱き上げてやれ」

 野菊が恐る恐る手を伸ばしかけるが早いか、子狸が野菊の体をよじ登って胸元にしがみついたものだから、野菊はとっさに子狸を腕で支えて抱き止めた。

 鼻面を胸に押し当てる子狸は無遠慮だが不快ではない。柔らかな感触の無邪気な圧力が心地よくさえある。

「おぬしはもそっと柔らかくなった方がいい」

 子狸に気を取られている間に野菊の後ろに回った綾葉が、背中から野菊を子狸ごとぎゅっと抱き締めた。

「硬いものは脆いからな。ちと温めて柔らかくしてやらんと。見ておれ──」

 ふうっと綾葉が息を吹いた。

 雪原に風が走る。

 春の風だ。

 花と草と太陽が薫る温かな風。

 そして、風が通り抜けた後の雪が溶けた──、否、跡形もなく消えた。

 硬く冷たい真っ白な雪はタンポポの綿毛が吹き散らされるように宙に舞って消え、その下からは柔らかな緑があふれ出す。

 ナズナ、スミレ、桜草。緑の絨毯を小さな草花が穏やかに彩っていき、雪原は春の野原へ装いを変える。たたずむ氷の木々も若葉の茂る姿に変じて枝をそよがせる。

 濃紺の夜空も今は青く晴れ──晴れすぎて眩しくないくらいに雲が広がり、薄雲を通して降り注ぐ春の陽射しは暖かく穏やかで優しい。

 冷たく凍り付いていた空気も緩やかに流れ、野菊の腕を飛び出した子狸は野の草に身をすりつけて転がり回っている。

「このくらい柔らかければ、少しはましじゃろう」

 ささやく綾葉は野菊から身を離し、手近な木の葉にふれた。。

 繊細な美しさは変わらないままに姿を変えた葉は、絹織物のように柔らかくなめらかで、綾葉のふれた指をするりと滑らせて揺れる。

「違う……。私、こんなじゃない……」

「まあ、そうでもあり、そうでもないわのう」

 うつむく野菊に綾葉は素っ気なく言った。

「おぬしに見える『悲しい』やら『辛い』やらは他の者より多すぎる。それは苦しかろうとも。じゃがな、同じように『嬉しい』やら『楽しい』やらも多すぎるくらい見えのるであろう? 苦しいばかりでしょぼくれて縮こまっておっては、それが見えなくなるぞ。見よ! 世界はあまりにも多くの苦悶に満ち、同じくらい多くの歓喜に満ちておる!」

 綾葉の言葉につられるように、野菊は顔を上げる。

「多くの歓喜を享受せよ。他の者では気付かぬ輝きを見出す事ができるのがおぬしの才能じゃ。縮こまって潰すにはあまりに惜しいわ」

「でも……。世の中は綺麗なものばかりじゃないわ……。ずっと、見てきたもの……。辛いものや……苦しいものが……多すぎて……。目を閉じても、耳をふさいでも、それでも、どんどん入ってくるの……。辛くて、苦しくて、耐えられないの……。どうすればいいの?」

 綾葉の言う事も間違いではない。野菊の敏感で繊細な感性は、些細なものにも喜びを見出して、大きく心を震わせる。誰の目にも留まらない下生えの中の蕾が昨日よりもわずかにふくらんでいる事に気付く。遠い鳥の鳴き声に愛を歌う想いを感じる。風にそよぐ葉ずれの音に命の鼓動を聞く。陽射しの色から温もりを。雨の匂いから潤いを。風のささやきから安らぎを。絵に込められた思いを見て、詩に隠された愛を読み、調べに乗せられた幸福にふれて、野菊は歓喜の涙を流す。

 しかし、それらすべての裏返しもまた野菊の心を苛むのだ。妬みが、怒りが、憎しみが、猛毒の呪詛となって野菊を蝕み、耐えがたい苦痛に慟哭するのだ。

「人に頼れ」

 泣きじゃくる野菊に綾葉は即答した。

「何でもかんでも一人で抱え込むなぞロクな事にはならんぞ。親兄弟でもよいが、それよりも良き伴侶か良き友を得よ。おぬしの得た喜びを分け与え、おぬしを苛む苦難から守ってもらえ。共に笑い、共に泣く者がおれば、おぬしはその者を通して世界を見る事でより広く大きなものが見えよう」

 綾葉は野菊をあやすように何度も頭を撫でた。

「世の中という奴は決して優しくなどない。しかし、そんな世の中にあってなお、優しい者、優しくあろうとする者は、意外なほどいるものじゃよ」

 草の上を転がり回っていた子狸が、ふんふん鼻を鳴らして野菊の足元にすり寄ってきた。

「そう……かな?」

 野菊の腕が子狸をそっと抱き上げる。

 つぶらな瞳で野菊を見上げる子狸がしがみついてくる感触は、温かく、心地よく、優しかった。

「そういうものじゃ」

 綾葉はふっと笑った。

「下を向くのもよい。それは足下の小さなものを気付かず踏み潰さぬようにする優しい者じゃ。後ろを振り返るのもよい。それは忘れ物や落とし物がないように、後から来る者を置き去りにせぬように気を付ける慎重な者じゃ。

 が、しかし、な、目を閉じたままなのはいかん。何も見えずに進めばつまずいて転んで痛い目に遭うから、危なっかしくて歩く事もできん。

 目は開けておくがよい、臆病ウサギ。おぬしの隣に誰かがいさえすれば、おぬしを傷つける恐ろしいものがある時には目をふさいでくれるであろう。そして、おぬしはおぬしにしか見出せぬ美しいものを、共に歩む者に見せてやる事ができる」

 綾葉の言葉を聞きながら、野菊の意識はぼうっと霞んでいく。

 すべての感覚がふわふわした柔らかい綿に包まれて、そのまま、自分の体までふわふわしたものに変わっていくかのようだった。

「目を開ける勇気が出せるか?」

「私は──」

 野菊の意識はそこでふっと途切れた。


§


「ん……」

 呻きながら目を開いた野菊のぼやけた視界が徐々に焦点を結ぶ。

 そこは凍り付いた雪原でも、春の草原でもなく、薄暗くなり始めた寂れた公園だった。

「夢……?」

「いかにも、夢じゃ」

 答える声の主は狐の耳を生やした少女。

「わしが紡いで綾織って見せた夢じゃ。いつまでも寝ぼけておらんでしゃきっとせい、臆病ウサギ」

 そう言って、綾葉はにんまりと笑って見せたが、野菊の様子を見て顔をしかめた。

「冴えない面をしよってからに。皆、夢だと聞くとそういうしょぼくれた顔をするのじゃ。夢は覚めたら消えてしまうものだとでもいう風にな。夢から覚めて、おぬしのここには──」

 と、綾葉は野菊の胸を指先で突いた。

「夢で見たものは何も残っておらぬのか?」

 突かれた薄い胸の内側がほのかに温かい。野菊はその温かさを確かめるように両手でそっと胸を押さえ、ゆっくりと頭を振った。

「でも……」

 と、野菊は少し間を置いてから、おずおずと口を開いた。

「私……、その……、あんまり仲のいい友達とかっていないし……」

「そうであろうな」

 間髪入れない綾葉の無遠慮な言葉に、野菊もさすがにぐっと息を詰まらせてうなだれた。

 他人との間に壁を作り、距離を置いてきたのは野菊自身なのだから、気の置けない友人などいようはずもないのは自業自得の事実だが、そうとわかっていても、人からそう言われると今一つ釈然としない。

「じゃから、お人好しを一人紹介してやろう」

「え?」

「おーい、綾葉ちゃーん」

 綾葉の言葉につられて野菊が顔を上げると同時に、別の声が重なった。

 見れば、野菊と同じ高校の制服を着た少女が手を振りながら綾葉の方へ駆け寄って来る。

「おお、タヌ子。待っておったぞ」

「待ってた? そうなの? 何か、綾葉ちゃんに会えそうかなーって気がしたから寄ってみたんだけど」

 ふわふわした雰囲気の、人懐っこさそうな少女だ。穏やかで毒気のない優しい感じにほっとする、一目でそんな印象を受けた。

「タヌキ……」

 と、喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。

 先の夢で見た子狸とイメージが重なったのだ。

「タヌ子よ、こやつを知っておるか?」

「えっと、同じ学校の、3組の宇佐木さんでしょ?」

 野菊は自分に向けられた視線と目が合って、「あ、はい」とだけ消え入るような声で呟いて頷いた。

「うむ。こやつはいわゆる『ぼっち』という奴じゃ。友達になってやれ」

「……ぼ、ぼっち……!」

 友達のいないひとりぼっちの残念な人呼ばわりに、野菊はそれが抗議のしようもない事実なのでがっくりと肩を落とした。

「そうなの? 宇佐木さんって他のクラスでも人気あるのに。何か、清楚系で、はかなげって言うか、守ってあげたい感じの小動物みたいでかわいいって」

「え? え?」

 途惑う野菊に向かって、子狸似の少女がにっこりと笑う。

「1組の田貫たぬき里子さとこ。できれば名字じゃなくて名前の方で呼んでね」

 差し出された手におずおずとふれる。

 優しい温かい手だった。

「……3組の宇佐木野菊です。私も……、できれば名字じゃなくて名前の方で」

 そう言って、野菊は里子の手をそっと握った。

「タヌ子もウサ子も、名前でおちょくられる同士で仲良くするがいいぞ」

「もう! 綾葉ちゃん!」

 余計な事を言う綾葉に里子が噛みついたが、綾葉は悪びれもせずに大口を開けて笑った。

「ところで、タヌ子よ。おぬし、また丸くなったのではないか?」

「嘘! そんな、ちょっとしか増えて……」

 言いかけた里子は綾葉のにやついた顔でカマを掛けられた事に気付いて顔を真っ赤にした。

「綾葉ちゃん!」

 つかみかかる里子の手を、綾葉はひょいとすり抜ける。

 目の前で繰り広げられる騒がしくも心地よいやり取りに、野菊はくすりと笑みを洩らした。

 誰かが騒ぐ姿を、身構えもせず穏やかな気持ちで見るなど、どれだけ久しい事だろうか。そして、自分はどれだけ周りに怯えて暮らしていたのだろうか。

「野菊ちゃん、捕まえて!」

 ふとそんな事を思っていると、里子の声が飛び込んできて思考を中断させ、続いて綾葉が野菊の膝の上に飛び乗ってきた。

「捕まえた!」

 更に飛びかかってくる里子が野菊ごと綾葉を捕まえて、綾葉は野菊と里子に挟まれて抱き締められるような格好になった。

「ふむ。やはりタヌ子はふかふかのむにゅむにゅではないか。それに比べると、ウサ子はぺったんこじゃな。タヌ子の腹に余っている分をウサ子の胸に足してやったらちょうどよさそうなのではないか?」

「……うっ」

 顔を赤くした里子が言葉に詰まる。

「たっぷりつかめるのう。ほれほれ」

「や、やめてよう……」

 綾葉が里子の腰回りについた贅肉をつかんで揉みしだくが、里子はしょんぼりと項垂れててされるがままになっていた。

「ぷふゅっ」

 野菊の口から頓狂な笑い声が洩れた。

「二人とも、仲がいいんだね」

 野菊は綾葉と里子に体を預けて寄りかかった。二人の体の感触、その優しい柔らかさと温かさが野菊の体にも染み込んでくるようで、胸の中に穏やかな温かさが満ちていった。

「私も仲間に入っていいの?」

 問う。

「愚問じゃな」

 綾葉は肯定の印に笑って見せながら、身をよじって野菊と里子の首に腕を絡めた。

「頼り頼られる良き友となろうではないか。仲良き事は美しいぞ。ただし、ウサ子、まずはわしに相談料の三百円を払ってからじゃ!」

 呵々と笑う綾葉は、野菊と里子をぎゅっと力一杯抱き寄せた。

 

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こぎつね綾葉の相談所~よろず相談承り 瀬戸安人 @deichtine

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