こぎつね綾葉の相談所~よろず相談承り
瀬戸安人
第1話
夕暮れと言うにはまだ早く、昼下がりと言うには遅すぎる。
小さな街の風景の中にぽっかりと空いた隙間のような小さな公園では、塗装がはがれて錆の浮いた遊具に使用禁止の札がくくりつけられており、人の姿もなく寂れた物悲しさを漂わせていた。
学校帰り、ふらりと公園に立ち寄って足を休めようと思ったのは、心の重さに疲れてしまったからか。いったん、腰を下ろしてしまったら、足が萎えて力が入らず、立ち上がる気持ちになれなかった。
じわり、とにじんだ涙に歪む視界の端を、何かがすっと通り抜け、里子は反射的にそちらへ目を向けた。
「え……?」
思わず小さく声が洩れた。
里子の視線の先にあったものは、あまりに意外すぎて完全に不意を突かれた。
九歳か、十歳か、そのくらいの年頃のかわいらしい女の子。ただし、その格好が異様だった。
白衣に緋袴、白足袋に草履。まるで神社の巫女のような服装。頭には狐の耳のような三角形の飾り。毛並みの色も付け根の黄色から先の方の黒い色合いまでやけにリアルで本物のようによくできている。そして、小さな体に背負っていた大きな風呂敷包みは桔梗唐草模様。唐草模様の風呂敷というと、古式ゆかしい泥棒が担いでいそうなイメージだが、唐草だけでなく一緒に桔梗の花をあしらった文様は実に洒落ていてかわいらしい。
巫女装束の少女が公園の片隅に荷物を下ろして風呂敷を広げると、里子は目を疑った。
中から出てきたのは、少女の背よりも大きなたくさんの板や角材。どう見ても、そんな大きな物が少女の背負っていた風呂敷包みの中に収まっていたはずがない。
呆然と凝視する里子に構わず、少女はテキパキと木材を組み上げて、あっと言う間にその場に小さな屋台を完成させてしまった。そして、やはり何故か風呂敷の中から出てきた椅子二脚を、一脚を屋台の手前に置き、もう一脚を奥に置くと、少女は椅子によじ登るようにして屋台の中に収まった。
『よろず相談承り』
少女の屋台に据え付けられた看板には、そう大きく書かれていた。
「──そこの」
少女が屋台から手招きする。
「──そこの丸い顔をしてこっちを見ているおぬしじゃ、おぬし」
「それを言うなら『目を丸くして』だよ!」
反射的に突っ込むくらい丸顔にはコンプレックスがあった。
「いいから、こっちへ来て座れ、まる子」
「勝手に変なあだ名つけないでよお……」
無遠慮な少女の態度にどこか抗いがたいものを感じて、里子は誘われるままおずおずと屋台の椅子に席を移した。
「おぬし、歳と名前は?」
「……十六歳。名前は、里子、た、
少女に問われるままに、里子は答えた。
「なんじゃ! どうも丸っこいなりでタヌキのようじゃと思ったら、やはりタヌキであったか! まあまあよく化けたではないか」
「タヌキじゃないよ!」
「今、自分でタヌキと言ったではないか」
「名前は田貫だけどタヌキじゃないよ!」
名前に加え、丸顔にややふっくら気味の体型のせいで子供の頃からからかわれてきた里子は、力一杯に抗弁して身構えた。
「ややこしいのう……」
少女は面倒臭そうにぼやいた。
「
「え?」
里子は少女の言葉に思わず聞き返した。
「名前。綾葉という。そう呼ぶがよい」
「え? あ、うん。綾葉ちゃん……綾葉ちゃん、ね」
尊大に名乗る少女の名を里子は頷いて繰り返した。
「えっと、それで、綾葉ちゃんは私に何か用事?」
里子が問うと、綾葉は黙って看板を指さした。
『よろず相談承り』
「用事があるのはおぬしの方であろう、タヌ子よ」
「どうして私のあだ名知ってるの!?」
「何じゃ、やはりそんな風にひねりのない呼ばれ方をしておったか」
里子は小さな頃から周りには『タヌ子』だの『ポンちゃん』だのと呼ばれていた。
やはり、苗字によるところが大きい。
確かに、丸顔で少しぼやっとした雰囲気やふかふかした体型がそれっぽいとも言われるが、苗字から来る先入観がなければそこまででもないだろう。ミディアムボブの髪を少し染めてみたら「毛並みまでタヌキっぽくなったね」などと言われる始末。それもこれも、苗字との相乗効果のせいで余計にそう思われてしまうのだ。そう思って、里子は悶々とした気持ちで嘆息した。
「そんな事よりも、ほれ」
と、綾葉はもう一度看板を指し示した。
「悩み事があるのじゃろ?」
綾葉の言葉が里子の胸を刺す。
「そんな……」
「顔に出ておるわ。話してみよ。なに、相談料は格安じゃぞ?」
そう言って、綾葉は屋台に立てた手書きの料金表を指さした。『相談料三〇〇円。いなりずし(三個)、または鮭おにぎり(二個)でも可(梅おにぎりは不可)』と、冗談のような料金が堂々とした筆跡で書かれていた。
「よろず相談承り。どんな悩みも綾葉におまかせじゃ」
おかしな格好でおかしな喋り方をする女の子。手の込んだ遊びか悪ふざけか。そんな風に考えるのが普通かも知れない。
しかし、里子は綾葉の瞳に吸い寄せられた。
大きな黄色い目に見つめられていると、胸の奥まで見通されるような気がした。
「……おばあちゃんが、死んだの……」
里子の唇から、喉の奥に詰まっていたものが吸い出されるように言葉が零れた。
里子は祖母によく懐いていた。
祖父は里子が生まれた時には既に亡く、両親が仕事で忙しかった分、幼い里子の面倒を見てくれたのは祖母だった。一緒に遊んでくれたり、散歩に連れて行ってくれたり、おやつを作って食べさせてくれたり、そういう思い出は祖母とのものばかりだったし、小学校に上がるまでは祖母と一緒の布団で寝ていたくらいだった。
しかし、里子が中学生の頃になると、認知症の進んでしまった祖母は、もう里子が誰かもわからなくなってしまった。里子も、そんな祖母にどう接していいか途惑い、祖母との間には大きな隔たりができてしまった。
そして、そんな祖母が息を引き取ったのが一週間前の事。
祖母が死んだ、という実感が湧かず、ただ、周りが動いていくのに流されるまま通夜と葬儀が進んでいった。
そして、火葬場で祖母の遺骨を見た瞬間、不意に胸の中のものがあふれた。
真っ白な骨になってしまった祖母の姿を見て、もう祖母がいないのだ、と思った途端、里子はその場に泣き崩れた。次々と途切れる事なく浮かび上がる小さな頃に祖母と過ごした思い出に押し出されるようにして、涙が堰を切ったようにあふれ出して止まらなかった。
「おばあちゃんは……、よく、私をおんぶして、散歩に連れてってくれたの……。それで……、いつも言ってた……。『里子がおっきくなったら、今度はおばあちゃんがおんぶしてもらうね』って……。でも……、私……、おばあちゃんをおんぶしてあげられなかった……。一回も、おんぶしてあげてなかったのに……、おばあちゃん、死んじゃった……。もう、おばあちゃんをおんぶしてあげらられない……! そんなの、簡単な事だったのに……、いつでもできる事だったのに……、私、できなかった……、やらなかった……!」
言葉を吐き出すほどに涙があふれ、里子は顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっていた。
ほんの小さな祖母の願い。ただの冗談だったのかも知れない。しかし、どちらにしても、それがもう決して叶えられないのだという事は間違いない。それを思うと、里子の胸はたまらなく痛むのだ。
「タヌ子は優しいのう」
綾葉はすっと伸ばした指先で、里子の胸元をつんと軽く突いた。
「良い糸が紡げるわ、それ」
綾葉が引いた指先からは、ほのかに光る金色の糸が伸びていた。静かで、穏やかで、ほっと落ち着くような控えめの光。その光の糸の片端は綾葉の指に、もう片端は里子の胸につながって、綾葉が指を引くにつれて里子の胸から引き出されるように、どんどん長く伸びて宙へ渦巻いていった。
「……え、何、これ……?」
里子が呆気にとられて呟くと、綾葉は幼い風貌に似合わない艶めかしい笑みを浮かべた。
「思いの紡ぐ糸もちて、夢を綾織ってしんぜよう。我が名に冠す綾の字は伊達にあらず、夢を綾織るは我が本分」
宙に広げた綾葉の指が流麗に舞い踊り、金色の糸が格子を描いていく。
「夢織り、綾織り、ひとおつ、ふたつ。妖狐の姫が手ずから織った、おぬしの思いのあやかし織りじゃ。とくと見よ!」
綾葉が朗々と響き渡る声で高らかに叫んで両手を広げると、金色の光が里子の視界一杯に広がって、何も見えなくなった──。
波が引くように光が引いて、それでも、波が砂浜を濡らした跡のように薄らとほのかな光が辺り一面に残っていた。
目を開ければ、今まで里子のいたのと同じ公園。
ただし、綾葉の姿も屋台もなく、里子一人がその場に立ち尽くしていた。
音一つしない世界で、薄化粧のような光の粒が静かに輝く中、里子ははっとして振り返った。
「おばあ……ちゃん……?」
夢か幻か。
そこには幼い頃の思い出のままの祖母の姿があった。
白髪頭を結い上げて、和服に道行(みちゆき)をまとい、穏やかに微笑む昔のままの姿。
「おばあちゃん……!」
里子は泣き崩れて膝をついた。
「おばあちゃん……、私……、私ね……、あのね……」
言葉にしようとすると胸がつかえて言葉にならない。
何を伝えればいいのだろう。何を伝えたいのだろう。
胸の中に積み重ねられてきた思いは大きくなりすぎて、全部を通して表へ出すには里子の喉は狭すぎる。
だから、一番大事な気持ちだけ、どうにか絞り出して声に出した。
「おばあちゃん……、ずっと……、ずっと……、ありがとう……」
そう言った瞬間、頭にふわりと優しい感触が乗せられた。
穏やかに微笑む祖母が黙って里子の頭を撫でてくれていた。その一撫でごとに、胸の中で強張っていたものが緩んで、痛みがやわらいでいった。
「おばあちゃん……、おばあちゃん……!」
里子は祖母にすがって大声で泣きじゃくった。
小さな頃、転んで怪我をした時のように、怖い夢を見た時のように、他の子にからかわれて逃げ帰った時のように。そして、いつもそうしてくれたように、祖母は黙って里子の頭を撫でてくれた。
「おばあちゃん、あのね……」
ひとしきり泣いた里子は、鼻を鳴らして目元をこすりながら言った。
「私、おばあちゃんをおんぶしてあげたい。ううん、おんぶさせて」
そう言って、里子はしゃがんで祖母に背を向けた。
「ずっと、そうしたかったの。おばあちゃんがしてくれたみたいに、今度は私がおばあちゃんをおんぶしたいの。いいでしょ?」
少し気恥ずかしい思いをしながら、里子は祖母の答えをじっと待った。そして、言葉の代わりに返ってきた答えは、背中にのしかかる重みだった。
里子は祖母を背負って立ち上がる。背中に感じるのは温かさと、そして、驚くほどの軽さ。祖母はこんなに軽く小さな体で里子を背負ってくれていたのだ。
「おばあちゃん……」
感極まった里子の視界が再びにじんだ涙でぼやける。
──が、ぼやけたのは涙のせいだけではない。辺りの眩しさが増していき、視界が光で塗り潰されていく。
「──え? あれ……?」
強くなっていく光に目を開けていられなくなり、目蓋を通しても真っ白に染まる世界から、他の感覚も薄らいでいく。背中に感じる祖母の温かさや重みも薄らいでいき、やがて、すべての感覚が消えていった──。
「おばあちゃん!」
自分の叫び声と同時に目を開けた里子の視界に飛び込んできたのは、頬杖をついた綾葉の顔だった。
「え?」
慌てて辺りを見回す。
日の傾きかけた公園。
そこには、屋台に向かい合って座る里子と綾葉の二人だけ。
祖母の姿も、辺りを包む光も、他には何もない。
「良い夢は見られたかの?」
綾葉がふふっと笑って言った。
「今の……、夢……?」
「いかにも、夢じゃ。おぬしの思いの糸を紡いで綾織った夢じゃよ」
「そんな……」
綾葉の言葉に里子は肩を落とした。
「そっか、夢だったんだ……。そうだよね……」
「不服そうじゃな。夢で何が悪い?」
心外そうに綾葉が不機嫌な声を吐いた。
「え……。だって、ただの夢じゃ……。本当におばあちゃんに会えた訳じゃないのに……」
「そんなもの、当たり前じゃ、ばかもん」
綾葉は容赦なく冷たい言葉を浴びせた。
「死んだ者が生き返るか。どんな奇跡も妖術も、死者をよみがえらせたりはせん。そんなものは子供だましの絵空事じゃ。よいか、死んだ者というのは、それで終わりじゃ。そこから先はなにもありはせん。幽霊になったとしても、それは生者とは別の代物じゃよ」
半ば呆れたようにしながらまくし立てる綾葉に気圧されて、里子は口も挟めずうつむいていた。
「死んだ者に未練を残すのは、生きている者の方じゃ。タヌ子よ、おぬしが骨壺をおぶって歩こうが、墓石に布団を着せようが、死んだ者は何にも感じはせぬ。ただの残された者の自己満足よ」
嘲笑うような綾葉の言葉の棘に、里子はぐっと唇を噛んだ。
「じゃが、それで良い!」
と、綾葉はからりと言い放った。
「自己満足で良い。それは、大事に思っていた事を己が胸に刻みつける儀式じゃからな。おぬしは夢で祖母に会うて何を思った?」
「えっと、それは……」
里子はきゅっと胸の辺りをつかむ。
そこに感じる温かさに、ずっと張り詰めていたものが緩んだような気がした。
「それを覚えておければよい。亡くしたものはどうしようもないが、遺されたものをそこに大事に取っておけ」
そう言って、綾葉は里子の胸をつんと突いた。
「……あ」
ふわりと溶ける。
綾葉の指がふれたところから熱が広がっていく。その一点の雪間から春が噴き出して花が開き、雪原を緑に塗り変えていくように。
雪が溶ければ水になる。
だからだろうか、また、ぽろぽろと涙が零れた。
そして、胸の中で凍りついていたものが流れ出すからだろうか、泣けば泣くほど心が軽くなっていった。
「気は済んだか?」
綾葉の問いに、里子は泣きながらこくこく頷く。
「ならば解決じゃな。では、ほれ」
綾葉は料金表を指し示す。里子はぐずぐず鼻を鳴らしながら財布を取り出すと、台の上に百円玉を三枚並べた。
「毎度ありじゃ」
と、綾葉はにっと笑ってコインを袂に仕舞い込んだ。
「困った事があれば、いつでも綾葉に相談に来るがよいぞ」
綾葉は呵々と笑って胸を張る。
「うん……、ありがとう……。えっと……、綾葉ちゃんて、いったい……?」
「綾葉が何者か気になるか?」
こくりと里子が頷く。綾葉はぐっと身を乗り出して、里子の耳元に口を寄せた。
「綾葉はの、狐の国のお姫様じゃ。将来、立派な女王になるために、人助けで修行をしておるのじゃよ。ふふふ、内緒じゃぞ」
「え?」
「……いや、昨今の流行であれば、世界を守る伝説の戦士という設定の方がいいのかのう。しかし、あれは踊りとかも覚えねばならんのか? それは面倒じゃのう……」
綾葉は腕を組んで眉間に皺を寄せて真剣な悩み顔をして見せ、里子は思わずくすりと笑顔を洩らした。
§
里子が帰るの見届けてから、綾葉は屋台の解体に取りかかった。手際よくあっと言う間にバラバラにすると、大量の資材を元のように小さな風呂敷包みに収めてしまう。
「これで、よかろう?」
桔梗唐草模様の風呂敷を背負いながら、綾葉は誰の姿もない空間に語りかける。
「孫がかわいいのはわかるが、死んだ後まで世話を焼くなぞ、過保護にもほどがあるわ。じゃが、これで心残りはあるまい? さっさと成仏せよ。死んだ者がいつまでもこちらに残っておってはいかん。ん? お代じゃと? さっき孫の方からもらったではないか。二重取りなぞせぬわ。第一、おぬしは払えまい。いいから、早う成仏せい。ふう、まったく、やれやれ」
綾葉は何か追い払うように手を振って、すたすたと歩きだした。
「ふふん、ばっちり解決じゃ。やはり、綾葉はできる女じゃのう」
狐耳をぴょこぴょこ動かして、綾葉は得意げな笑みを満面に浮かべた。
「ふふ、どんな悩みも綾葉におまかせじゃ!」
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