第5話 すてきな世界
日記をつけている。
……なんて言うと聞こえは立派だけれど、一日も欠かさず書いているわけじゃなくて、時々はさぼる。特に、長期航行のときは変化のない日が続くから、書くことがなくなってしまう。ユーリと喧嘩したとか、ユーリに新しいルールができたとか、まったく何もない一日なんてないんだけど、日記に書き残しておくほどのことなんて、あまりない。ああ、でも、波乱万丈の航行なんて、こっちから願い下げだ。穏やかなのが一番、退屈なくらいで丁度いい。
あたしが日記をつけ始めたのは、オーディン・システムの移植手術を受けたのがきっかけだ。自発的に始めたわけじゃなくて、移植されたシステムに慣れるという目的の、リハビリの一環だった。リハビリだから、物理キーボードを使わず、システムを使って直接、テキストファイルを作る。
日記を書きましょう、と言われるだけで億劫なのに、外部のディスプレイに出力してシステムの練度をはかるなんて確認作業までくっついてくるから、ちょっとした苦行だ。誰に訊いても、「ああ、あれね……」なんて、苦笑が返ってくるんじゃないかな。人さまに見せるための文章を書くのって、なかなか気を遣う。
だから、たいていの人はシステムに慣れると、日記をつけるのもやめてしまうんだけど、あたしはその習慣を続けている。いざリハビリを終えて、日記をつけなくても良いとなったとたん、何だか物足りなくなってしまったんだ。我ながら、不思議だ。
そもそもみんな、ネットワーク上のプライベートスペースに日記をアップロードしているくせに……ううん、だからこそ、読書感想文みたく、強制されて書く日記に拒否感や軽蔑を覚えるのかもしれない。「宿題」だからだ。
あたしの日記は、あたしというスタンドアローンなメモリにだけ存在する。バックアップもない。誰にも見せない、あたしの、あたしだけの日記。書き続け、容量を増すばかりの文字列。ゼロとイチの羅列。
意味はあるのか、と何度も考えたし、何度もやめようと思った。けれど結局、あたしは日記をつけ続けている。ほんの数行のこともあれば、大きく感情が揺れ動いて、長文になってしまうこともある。長い間さぼり続けることもある。
たぶんあたしは、日記をつけることを、その行為そのものを自分の拠り所にしてきたんじゃないかと、そんなふうに思う。あたしの中にいる、自分ではない誰かに語りかけることで、あたしの経験したできごとを、受け止めた印象や抱いた感情を、整理したかったのかもしれない。
今だからこんなふうに思うのかもしれないけれど、オーディン・システムの移植手術っていうのは、実はそんなに簡単なことじゃなかった。成功率の話じゃなくて、心理的に。
頭蓋骨を切り開いて、機械を埋め込む。いくらありふれた手術で、自分で望んだことだといっても「もしも」を考えない人はいないだろう。あたしも考えた。考えたけど、前に進むしかなかった。そしてこうして無事に、移植者として星間企業で働いている。良かったじゃないか、というのは結果論だ。手術の前は、そりゃあ怖かった。
オーディン・システムの移植手術は、ほぼ成功する。96%という数字を考えると、くよくよと思い悩むほうがおかしいのかもしれない。けれどあたしにとって、オーディン・システムの移植手術を受けて、その後も変わらずに「あたし」でいられることは、当然という言葉ではとても表現しきれない、一種感動めいたものがあったんだ。
哲学? そんな難しいものじゃない。ただ、書きとめずにはいられなかった、というだけのこと。そのメモを取るために一番身近にあったツールが、頭の中のシステムだったというわけ。
光速神経網汎用操縦インターフェイス・システム。正式にはOptical neuropil Pan-drive interface systemという。古き神の名で呼ばれる人工神経網とその規格は、地球の重力から逃れようと苦心していた人々、あるいはすでに大気圏の外を生活の場としていた人々に熱狂的に支持されることになった。それまでは一握りの人しか持ちえなかった専門的な技術を一般人のレベルにまで浸透させ、人類の新たな可能性を拓いたからだ。
人々は宇宙という過酷な環境へとその生活圏を広げ、より遠くへと旅立っていった。それはまさに神の所業といっても過言ではなく、不遜だ、種に対する冒涜だ、などとシステムを忌避していた頑固な層も次第に考えを改めていった。改めざるを得なかった、というのが本当のところだろう。
オーディン・システムは新たなマン=マシンインターフェイスとして他の規格を一掃するまでになり、逆から言えばオーディン・システムと適合しない規格で製造されたハードウェア、ソフトウェアは市場から姿を消した。
もちろん、オーディン・システムが普及するまでには時間がかかった。開頭手術への恐怖感、人工神経網への不信感、術式の未確立。不安要素はいくつもあって、当初はオーディンではなく、パンドラと呼ばれていたくらいだ。「希望を手にしようとするならば、あらゆる災厄を覚悟せよ」。
技術者と医師が困難を克服していくのと同時進行で、人類は宇宙開拓をすすめてゆく。それらのおかげで、現代がある。
人工神経網を移植することで限りなくマシンに近づいたヒトが、マシンを自らの肉体であるかのように操縦する。技術も経験も不要、ただ必要なソフトウェアをインストールするだけで、ハイスクールを出たばかりの少年少女が宇宙船を飛ばし、重機を振り回して宇宙都市を整備する。坑道都市の拡張に携わる。管制官としてハブ宇宙港の交通整理を任される。そんな時代になったのは、あたしが生まれるずいぶん前のことだ。
移植者はヒトなのかマシンなのか、なんて議論も何度も繰り返され、語りつくされてしまった。生物学的、宗教的、工学的、あらゆる分野における移植者論が論壇を賑わしたのもとうの昔、今ではこの通り、数ある進路選択のひとつにすぎない。移植者でなければできない仕事も多いし、みんな学校や就職先を選ぶようにして、移植するかどうかを選ぶ。移植手術の体験談なんて、検索すれば一生かかっても読みきれないほどの件数がヒットするし、居住区のメンテナンスを担う多くが移植者だから、移植手術にあたっては行政からの手厚い補助とサポートがある。
でも、移植手術が一般的になった現代でさえ、移植手術はそれに臨む人の数だけ事情と想いが交錯する場であり、一概に語れないドラマを内包している。これはたぶん、移植手術を受けた人でないとわからないと思う。
あたしにはあたしなりに思うことがあったし、あたしの相棒、ユーリにはユーリなりの思いが、葛藤があっただろう。手術前と手術後とで、「あたし」や「ユーリ」という存在が連続している、連続しているように見える。これってすごいことじゃないかと思うんだ。
――こんなことを考えるなんて、ちょっとナーバスになってるのかもしれない。でも誰しも、ふと昔の自分について考えることって、あるよね。そういうことにしておいてほしい。
ネクタリス・シティ二層七番街、カジュアルすぎないショッピングモールは、休日とお給料の格好の貢ぎ相手だ。
ユーリからメールが届いたのは、同期のロジーとふたりで熱いコーヒーを啜りつつ、ラージサイズのチョコパフェをああでもないこうでもないと攻略しあっているときのことだった。
ロジーはあたしが宇宙から戻るたびに、無事を祝って甘いものをご馳走してくれる。非移植者のロジーにとっては、宇宙に出る、というのは無事を祝う会を設けなければと感じるほどの大事業らしい。宇宙服を着て、ハッチを開けて、外に出るだけなんだけどな。おめかししてちょっといいレストランのドアをくぐるのと何の違いもないと感じるのは、あたしが移植者だからだろうか。ともかく、ご馳走してくれるというのだから、その厚意はありがたく受け取っている。
このアイスを崩せば隣のウェハースが倒れる危険性がある、だから反対側のバナナから攻めるべきだとか何とか、まったく他愛のない(でもこれ以上ないほど真剣な!)戦略会議を打ち切ったメールの着信音は、あたしたちふたりの眉を歪めるに十分だった。ただ、差出人がユーリだと知れるや、今までの戦略会議なんかなかったかのように、ロジーがチョコアイスを口に入れた。
「ユーリから? 珍しいね」
「うん。なんだろ」
ユーリはまめな性格なんだけど、オフの日にはめったにメールを寄越さない。いや、仕事中はメールを送らずとも声が届くし、月面勤務のときにしても、業務連絡以外のメールは来ない。つまり、ユーリからのメール着信というのはとてもレアで、だからこそ緊急の用件なのだと開く前から予想がついた。
携帯端末を開くと、シティ・トラムのターミナル駅で爆発があったというニュース速報が画面をスクロールしていった。メーラーを立ち上げるとどうやら、ユーリからのメールと事故の速報は前後して届いている。まさかね、なんて思いながらメールを見ると、「トラムで事故った」とシンプルかつ必要十分な一行が表示された。頭を抱える。
心配じゃないのか、と訊かれれば、もちろん心配だ。でも、メールを送ってくるということは、まだそれなりに余裕があるという裏返しでもある。第一、ユーリは土壇場とかトラブルに強い。冷静さと肝の座り具合があたしとは違う。
「事故? 大丈夫なの?」
ロジーが画面を覗き込みながら、自分の携帯端末を取り出した。彼女のところにも速報が来ていたらしく、完璧なメイクが崩れるんじゃないかと心配になるほど顔を歪めて、端末を撫で始める。
宇宙で過ごす時間が長く、普段は携帯端末を触らないあたしがニュースサイトのトップ記事を読んで蒼白になっている間に、ロジーの右手は残像が見えるほどの速度で閃いて、必要かつ、信頼できそうな情報をピックアップし終えていた。
「シティ・トラム中央線、一層三番街シャイナー・ステーションで爆発があり、トラム中央線は全線運休……爆発したのはホーム脇の案内板。現時点で死者はゼロ、怪我人多数……だって」
「ちょっ……シャイナー・ステーションでしょ。他の路線は乗り入れてないし、二番街からビークルを回すにしても、すごい時間がかかるよね。崩落とか気密は大丈夫なの? 酸素は? 消火は?」
地球を離れて暮らしているあたしたちが一番恐れていること、それが気密と酸素に関わる問題だ。ネクタリス・シティだけじゃなく、月都市のほとんどが地下に造られている。月面は昼夜の温度差や放射線のせいで、都市づくりには向かないからだ。月面にあるのはもっぱら宇宙港や、軌道港行きのリフト、都市間ライナーのステーションだ。あるいは、アースビューを売りにした、目玉が飛び出るくらいにお高いホテルとか、大会社の本社ビルとか。
あたしたちは、子どもの頃から都市の保全と気密について、繰り返し聞かされて育った。それに、宇宙で働いているんだから、生身の人間がいかに脆いか、限られた環境でしか活動できないかは十分にわかっている。地下の積層都市で爆発なんて聞けば、じっとしていられない。隔壁は無事だろうか。気密は? 酸素は十分だろうか。怪我人の輸送手段は? トラムの復旧は? そのくらいまで考えてからようやく、爆発が人為的な事件なのか、それとも偶発的な事故なのか、ということを不安に思うようになる。
数枚の壁の向こうは、正真正銘の宇宙。生身の人間が立ち入ることのできない領域だ。壁にひびが入るだけで、気密が破れて気圧が下がり、人間にダメージを与える。爆発の規模によっては、ネクタリス・シティ全体に被害が及びかねない。何重もの安全対策が講じられた積層都市ではあるけれど、万一ということがある。
「都市機能に異常はないみたい。でも、爆発の原因はまだ不明だって。……三番街にいたってことは、買い物? ユーリはあんまり三番街のモールには興味ないと思ってたんだけど」
ちなみに、一層三番街、シャイナー・ステーションには月中のハイブランドが集まるショッピングモールがある。今あたしたちがいる二層七番街なんかとは比べ物にならない。ロジーに付き合って一度だけ足を運んだことがあるけど、あたしのようなお子さまはお呼びじゃないって感じだった。入るのも気後れするような煌びやかなショップがずらりと並んでるところで、中央線でしか行けない立地は不便だけれど、だからこそネクタリス・シティいちという看板を掲げていられるのかもしれない。
確かにユーリもお呼びじゃないはずで、何をしに行ったんだろうと首を傾げてみるけど思い当たる節なんかないし、そもそもユーリはあたしの想像力の限界など軽く越えてしまう行動力を持っている。行動原理も理念も、あたしには考えつかないことばかりで、要するにユーリにはユーリなりの理由があって、三番街にいたんだろう。それで、事故で足止めを食らってしまった、と。
「あ、現場の混乱を避けるために三番街への出入りは緊急車両以外禁止されてるって」
突然、いやな雰囲気をさらに険悪にしかねない、聴き慣れないアラームが鳴った。あたしはてっきりロジーの端末だと思っていたのだけど、ロジーが見ていたのはあたしの端末だった。ポップな色合いの、流れ星を模したキャラクターがチャットのお知らせを告げている。
「チャット?」
携帯端末にプリインストールのアプリケーションだけど、使ったことがない。文字チャットなんてまだるっこしいし、それなら音声通話の方が早い。アカウントを作った覚えもないけれど、ロジーによれば携帯端末の識別コードがデフォルトのアカウントになっているらしい。へええ、と感心するあたしをフルメイクの目元が鋭く睨みつける。
「自分の端末に疎すぎるわよ、ほたる……!」
恐る恐るアプリケーションを立ち上げると、チャットへのお誘い、としてユーリの名前が表示されている。承認すると画面が切り替わって、ユーリからのメッセージが流れた。
『突然ごめん。ニュース配信されてると思うけど、シャイナー・ステーションの事故に居合わせた』
『怪我はないの?』
『大丈夫』
ならどうしてこんなチャットに誘ったんだろう。どうして無事な声を聞かせてくれないんだろうと責める文言を考えている間に、メッセージの続きが表示された。
『ホテル・グランド・ディアーナにいる。怪我人の搬送を優先するから、怪我のない人や軽傷の人はホテルに集められてるんだ』
『ひとりなの? どうしてチャットなの? 通話は? 通信規制でもされてるの?』
やや間があって、返答があった。
『そう。端末は使えないから、ヤンが隙を見て、オーディン・システムの通信モジュールを貸してくれたんだ。あんまり褒められない手段で、非常回線に割り込みをかけてる』
ヤンが一緒なんだ、とロジーが意外そうに呟く。あたしも同意見だった。整備班のヤンは機械に強くて、機械が大好きだから、携帯端末だけでは飽き足らず、オーディン・システムの通信モジュールを持ち歩いている。ヤンのおかげでチャットができたとはいえ、そんなだから一層三番街とは縁遠いと勝手に思い込んでいた。ふたりで、何をしてたんだろう。
通信モジュールは、うなじのケーブルジャックに挿して使う。服の襟で隠せばそんなに目立たないから、堂々と携帯端末を操作できないときにも、オーディン・システムを使って通信できるというわけ。
それにしても、通信規制ってことは、現場は相当混乱してるみたいだ。気密が破れたりしたんだろうか。それとも、二度目三度目の爆発があった?
ユーリは肝心な情報を寄越さない。現場を離れてホテルに避難しているからかもしれないけれど、無事だという以上のことを教えてくれないのではやきもきする。
何のためのチャットなの、と文字を打ち込みかけて、指を止める。冷却スプレーを背筋にかけられたような悪寒がした。
ユーリは真面目な性格だから、こんなときに非常回線に割り込みをかけるなんて非常識な真似を嫌う。
――なのに、ヤンの通信モジュールを借りてまで、見つかれば処罰ものの通信をするということは、だ。
『ユーリ、大丈夫じゃないのね?』
確認というよりは、否定してほしいという思いが強かった。けれどユーリはやんわりと、悪い予感を肯定する。
『怪我はない』
怪我の話ではない。彼を縛る、ルールのことだ。
いつどこで、どんなルールが生成されて彼を苦しめるかわかったものではないから、ユーリは長期の旅行や人ごみを避けるようにしていた。彼がいくらトラブルの処理能力に長けていようとも、このルールだけはどうしようもない。どうしようもないからこそ、ルールなんだ。
怪我のない人や軽傷の人はホテルに集められてる、とユーリは言った。グランド・ディアーナなんて、あたしなんかは一生泊まることはないだろうってクラスのホテルだ。最高の避難場所といえる。けれど、それがユーリにとって最高とは限らないんだ。
避難している人たちの苛立ちが、不安が、ぎすぎすした雰囲気が、新しいルールを作ってしまったんだろう。たぶん、とんでもなく場違いな、最低最悪のやつを。
『我慢できる。大丈夫。薬も飲んだし』
大丈夫、とユーリは言うけれど、その我慢がユーリをどれほど消耗させることか。一緒にいるらしいヤンはユーリのルールのことを知っているし、冷静で機転も利くから、本当にユーリの具合が悪くなればすぐに最良の手を打ってくれるだろう。でも、あたしからすれば、我慢をしているという現状から今すぐに、ユーリを隔離したい。彼を落ち着かせる環境に戻してあげたい。
でも、あたしには何もできない。わずか一層、隔壁三枚を隔てたところにいるユーリに、手を差し伸べることさえ。
せめて音声通話だったら、声をかけて慰めることも、気を紛らわせることもできたかもしれない。なのに文字チャットときたら、どんなに心を込めてタイプした言葉も薄っぺらい文句に感じられて、いけないと思いつつもタイプの手を止めてしまう。
『ほたるちゃん』
『回線は切らないで』
『ばれないようにするから、このまま繋いでいて』
映画のエンドクレジットみたく、次々と流れる文字列に胸を衝かれ、あたしは再び端末に飛びついた。
『わかってる』
『ちょっとだけ我慢して』
『すぐ復旧するわ。そうでないと三番街の名に傷がつくもの』
あたしはロジーと顔を見合わせ、ほとんど手つかずのパフェには目もくれず、お会計もそこそこに店を出た。我らがカノープス・スペーステクニカ社本社ビルのある一層一番街行きのトラム乗り場まで、走る。携帯端末に触れながら、できるだけ早く。
本社に行ったところで、何ができるわけでもない。でも黙って待っているなんて、あたしにも、メディカルスタッフのロジーにもできなかった。
携帯端末にプリインストールされているようなちゃちなチャットシステムを、ユーリがオーディン・システムにインストールしていたはずがない。ヤンのモジュールを借りて、他の誰にも気づかれずにあたしとやりとりをするには、文字チャットが一番だって結論したユーリが、わざわざダウンロードしてインストールしたんだ。
それほどまでに、ユーリの状態は悪い。
『ほたるちゃん』
『ユーリ』
チャットのログが、互いの名で埋まってゆく。
このとき、あたしは知った。
あたしが日記を書くことを拠り所にしてきたように、ユーリはあたしを大切な支えにしてきたんだ、と。
ううん、そんなこととっくに知っていた。
知っていたけど、その重みを理解していなかっただけ。
あたしよりほんの少しばかり自由度の低い生き方を強いられているユーリの、寄る辺になること。寄る辺であること。
それは、あたしにとってとても誇らしく、喜ばしく、同時に――呼吸するように自然なことでもあった。
ユーリ、と呼ぶ音の甘さを、改めて噛み締める。
トラムの復旧を待たず、各企業が救助のビークルを走らせ、警察と協力して事態の収拾に動いたため、あたしたちは夕飯の時間までにユーリとヤンを出迎えることができた。
爆発の原因については、未だ調査中らしい。正直、ユーリとヤンが無事なら、原因究明については二の次でよかった。
本社のカフェテリアで少し休んで、言葉少なに解散する。たぶん、ヤンもロジーも未だに真っ青な顔をしているユーリに気を遣ってくれたんだろう。
「ユーリ、歩ける?」
無言のままうっそりと立ち上がったユーリの手を取ると、強張ったままの白い頬がわずかに緩んだように見えた。そのまま、トラムの駅まで歩く。
「人間ってさ」
シャイナー・ステーションの爆発事故のメールをもらってからのわずかな、けれど濃密な時間に考えたことがある。厳密には、事故は関係なくて、ユーリとのチャットが原因なのだけど。
「言葉でも音楽でも人でも、何でもいいんだけど、ともかくもそういう……拠り所が必要なんだと思うのよ。で、たいていの人はその拠り所を探すべく、ああでもないこうでもないって、拾ったり捨てたりを繰り返して、やっと見つけたと思ったものがやっぱり違ったりして……ええと、何の話だったっけ」
ユーリが肩をすくめる。あたしはおちゃらけたふりを止めて、続けた。
「ユーリみたいに、確たるものを持ってるって、すごくしあわせなことだと思うのね。それから……頼りにされることも、おんなじくらいしあわせなんじゃないかって」
あたしの手を握るユーリの指に、力がこもった。
「ユーリの、そういう迷わないでいられるまっすぐなとことか、いい意味で頑固なところとか、すごく羨ましい」
勇気という勇気を振り絞って、羞恥心を異次元へ投げ捨てた末の、一大告白のつもりだったのに、ユーリの答えは淡々としていた。
「ほたるちゃんも、迷わなければいいのに」
これが嫌味でもなんでもなく、「僕がいるのに」という意味だとわかってしまうことが、それだけの長く深いつきあいが、何だか腹立たしい。
素直にはいって答えればファンファーレが鳴るところを、意地の一つや二つや三つ、張って見せたくなるのが女心の複雑なところだ。あたしだけかもしれないけど。
「もう少し、迷っていたいのよ」
「贅沢な悩みだ」
やっと、ユーリが笑った。
ファンファーレは鳴らないけれど、挿入歌くらいは流れるかもしれない。そんなくだらないことを考えながら、あたしはユーリの手を引いたまま、ステーションの階段を駆け上がる。
この世界には嬉しいことや悲しいこと、ばかばかしいこと、愚かしいこと、他愛ないことやどうしようもないことがいっぱいつまっている。あたしにとってのつまらないことが別の誰かにとっては最重要課題だったりして、だからこそ面白い。
そんな雑多な価値観を貫いて、これだけは揺るがないという絶対の何かを挙げられる人は、多くはないと思う。
ユーリが、ルールに縛られて生きてきた中で、あたしのことを唯一の支えだと思ってくれるのは、素直に嬉しい。あたしなんかでいいんだろうかと思う気持ちもあるけれど、ユーリの絶対であることはすてきなことだ。できればずっと、ユーリの灯火でありたい。
あたしはといえば、相変わらずモラトリアムの真っ最中だ。ただ一言、イエスと答えて頷くだけの一秒未満の所作を先送りにして、自分の気持ちに整理をつけようとしているあたりが優柔不断で、みっともないと思うのだけど。
――そうそう、シャイナー・ステーションの爆発は事故じゃなく事件で、犯人はその後すぐに捕まった。一攫千金を夢見てアステロイド・ベルトの新興都市群へ移り住んだものの、夢破れてネクタリス・シティに帰還。ハイブランドが集まるモールの玄関口をちょっとした腹いせに爆破してやった、ということらしい。
世間からすれば、数ある犯罪のひとつにすぎないシャイナー・ステーションの爆破事件だけど、あたしにとっては大きな転機となった。
オーディン・システムの移植以降、書きためた日記をネットワーク上に公開したんだ。もちろん匿名だし、登場人物は偽名、会社、団体名も架空のものに変えた。でも、それはプライバシー云々というよりは、そうしたほうが物語性が強まるんじゃないか、なんていう根拠不明の色気のためだ。
もともと、あたしの日記はもうひとりの「自分」へ語りかける形式だったから、日記というよりは読み物寄りで、何も事情を知らないエウロパあたりの人が目にすれば、あまりうまくない小説だと思うかもしれない。まあ、誰かに読まれることを期待して公開したわけじゃないから、ネットワークの片隅を漂い続けることになったとしても、構わない。むしろ、そうであってほしい。
でも、もし。
もし万が一、かつてのあたしのように、悩み、迷い、回り道や寄り道ばかりしている誰かさんの目に触れることがあれば、あたしの日記がその誰かさんが一歩を踏み出すきっかけになれば、とは思う。これもまあ、色気だろうけど。
さらに想像力を膨らませたり飛躍させたりすると、違う銀河の、違う世界の、過去あるいは未来の、誰かさんが目にすることになれば、なんてことにもなる。面白そうだけど、残念なのは誰かさんとあたしがコンタクトする手段がなさそうだってことかな。
そう、どこの、誰でもいい。きっとみんな、同じだから。
世界とか人生とか、ごちゃごちゃしてわけのわからないところを進まなきゃならないとき、確たるものを持っているって本当にすてきなことだ。
信じられる何かを持つこと。
誰かに信じてもらえること。
直接の答えを示すことはできなくても、解決のきっかけにさえならなくても、少し気が紛れるなら。こんなやつがいたのかって、笑うことができたなら。
あたしが生きてきたことも、日記を書き続けてきたことも、無意味じゃない。でしょ?
だから、今すぐに答えを出すべきは、後ろで何でもないふりをしながら、三番街で買った指輪をいつ出そうかとそわそわしてるユーリへ、なんだけど、そっちはもう少しだけ焦らしておくとして。
どこの誰かもわからないけれど、どこかの誰かへ。
ねえ。
聞こえていますか?
届いていますか?
< 完 >
Candlize 凪野基 @bgkaisei
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