第4話 眠り姫

 月生まれ、月育ち。

 窓の外の暗黒に浮かぶあの青、水の星を知らないあたしたちでも、かの地を訪ねることを「還る」と言いたくなってしまうのは、どうしてだろう。

 還る、と口にすることは、許されるのだろうか。

 水の青、大気のヴェール、弾けるオーロラ。

 ――地球。




「ほたるちゃん、これ、一緒に行かない?」

 相棒のユーリがあたしを呼び止めたのは、予定通りに航行を終えて宇宙服とAUV防護スーツにクリーニングのタグを添付、シャワーを浴びて更衣室を出たばかりの時だった。

 今まで三週間、狭い船内でずっと顔を突き合わせていたのに、私服に着替えるなり声をかけられたものだから、てっきり映画とか音楽鑑賞とかスポーツ観戦とか……ともかく、デートのお誘いだと思って、何も考えずに端末で情報を受け取ったのだけど。

「……地球、見学、ツアー?」

 ディスプレイに表示されていたのは、予想の斜め上を行く文字だった。ぽかんとするあたしを見下ろして、ユーリはにこにこ笑っている。

「懸賞で、当たったんだ。次の航行の後、長期休暇だろ。そのときにさ」

「懸賞って、まさか、応募したの!?」

 うん、と頷くユーリの前でため息をつくのはさすがに酷だろう。気力で、何とか微笑んでみせた。へえ、すごいね、とか何とか適当なことを言って。

 彼は幼い頃から強力な「ルール」に縛られて生きている。大人になってからは、ルールへの恐怖を表に出すことはなくなったけど、ルールそのものから自由になったわけではない。大小さまざまなルールがあるのだけど、どれひとつとしてユーリの自由になるものはないんだ。

 そのせいか、ユーリは環境が変わることにちょっと神経質だ。そんなとき、大丈夫だよ、怖くないよってユーリの手を引くのは、幼馴染でもあるあたしの役目だった。

 そんなユーリが、まさか地球行きの懸賞に応募するなんて。

 地球、か。

 興味がないというと嘘になる。けれど地球はあまりに遠い。物理的な距離ではなくて、心理的な距離が。面倒だとか、そういうのに加えて、本能的な恐怖がある。未知への恐怖、重力に対する恐怖。

 月や火星や木星、アステロイド・ベルトの都市群とは違って、地球には大気がある。高い重力もある。地球の重力は月の六倍、生まれた時から低重力環境にいるあたしたちが、地球の重力に耐えられるんだろうか。カタパルト発射時や船の加速時の重力はほんの少しの我慢で済むけど、地球に滞在している間は重力からは逃れられないわけだし。

 ユーリは海が好きで、その延長で地球に興味があるのかもしれないけど、あたしの場合、行ったところのない場所に対する好奇心、というレベルでしかない。地球なんて、見飽きるほどに見てる。海だってそう。

 要項をざっと読んでみると、ユーリが応募したのは、シップドライバーや船外作業員、各種オペレータなど、星間企業勤務者向けのツアーだった。

 もちろん誰でも参加できるんだけど、ただ観光して回るんじゃなくて、現在の地球の姿を参加者が実際に確認し、そのうえで未来へ向けての建設的な意見交換を行おうといった、研修会や勉強会に近いみたい。企画運営は地球外都市群議会、協賛としてCST、アストロニクス、オービタル・ヴォヤージュなどなど、星間企業各社の名前がずらりと並ぶ。

 アシストスーツを貸してくれるらしいから、重力を心配することもない。協賛にサンフーズカンパニーの名前があるってことは、ご飯も期待できる。

 時間はある、お金の心配はない、体力の心配もない、となれば、断る理由が思いつかない。たまの長期休暇なんだし、特に予定もないし、ユーリのお誘いだし、遠出するのも悪くないかもしれない。

「うん……じゃあ、いいよ。一緒に行く」

「良かった、ありがとう」

 そのときのユーリの笑顔には、あたしの葛藤とか弱腰を一掃するだけの明るい魅力があふれていた。

 断らなくてよかった――こんなふうに思うのは、何だかとても悔しいけれど。




「カノープス・スペーステクニカ社、宇宙事業部、星間航行課……帚木蛍、です。デブリ拾いや学術衛星のメンテナンス業務をしてます。……よろしくお願いします」

 まばらな拍手の中、そっけない自己紹介を終えてマイクのスイッチを切った。続いて隣のユーリが自己紹介をはじめる。

 ツアー初日、地球行きシャトルのキャビン。

 集まった人々は、いかにもベテラン船乗りや船外作業員といった様子の男性グループ、一度地球に降りてみたかったという学者肌の老夫婦、一生の記念にすると新婚旅行の行き先に地球を選んだ若い男女。あたしたちのように興味と好奇心と、ちょっとばかりの学術的探究心から参加したという人もいた。要するに、いろいろだ。

 互いの表情を伺うようなぎこちない愛想笑いを乗せて月軌道港を出発したシャトルは、順調に航行を続けている。地球に向けて落ちている、というのだろうか。

 自己紹介が一通り終わると、ステーションとのランデブーまで自由時間となった。ゲームに興じるグループもあれば、地球関連の資料に目を通している人もいる。あたしとユーリもそうだった。

 搭乗前、ガイドさんから携帯端末に配布された「水の星、地球の歴史と環境」という資料、これがお堅いタイトルのわりに読み物あり記録映像ありで、退屈しなさそうだ。ユーリがもらってきてくれた飲み物を吸いながら、順番に再生してゆく。

 最初は、地球の誕生からディザスタまでの四十六億年を紹介する、入門編とも言えそうな解説動画だった。

 燃え盛る岩石がぶつかりあい、大きな岩石になる。大きな塊は引力で小さな岩石を引き寄せ、ひとつの巨大な球になる。溶岩状だった原始地球は三ケルビンの宇宙に冷やされ、海が生まれた。雲が生まれ雨が降って、大気が満ちた。

 水が、氷と水、そして水蒸気という三態のどれをも取り得る奇跡の条件のもとに生まれた水の星、地球。地殻変動、気候変動ののちに、アミノ酸のプールから生まれた生命が水中で増え、陸に上がり、爆発的に広まり、増えた。

 動植物が生まれては死に、生まれては死に、進化の道を辿り、袋小路に迷い込んでは死に絶え、環境の変化によって絶滅し、細い糸を縒るようにして、種を、生命を繋いでゆく。

 進化のひとつのルートから、人類が出現してからはあっけなかった。文化、文明、宗教、対立と戦争。進んでは戻り、進んでは戻り、と繰り返していた人類の歩みは、やがて後退と停滞を忘れたかのように、大気圏の外へと急速に拡散してゆく。

 高く遠く、もっとたくさん。多くを求めた人類が足がかりにした地球はいつしか病み、変わり果てた姿になっていた。警告が放たれ、警鐘が鳴っていたにも関わらず、人類はそれを無視し、あるいは軽んじていたのだ、ディザスタが起きるまでは。

 技術が発達して、何でもできるようになった頃には、地球上のあらゆる場所で平均気温が上がり、温暖化や砂漠化が進んでいた。湖沼が干上がって、旱魃から大飢饉が起こっていた。それなのに、人類は立ち止まることができなかった。

 やがて、極地の氷が融け落ち、異常気象が頻発した。豪雨が続いて山が崩れ田畑が流され、森や林は腐った沼地と化し、耐性菌による疫病が流行った。人々はただ逃げ惑い、神に縋り、応える声がなく自然の力に圧倒されると、ついには放心した。文明は、全能の魔法とはなりえなかったのだと。

 ――そんな全てを、水が押し流し、飲み込み、覆いつくした。

 嵐が止んで雲が晴れたとき、地球は再び、青い青い、水の惑星に戻っていたという。

 異常気象から地球規模の洪水までの一連を、あたしたちはディザスタと呼んでいる。誰の名も冠せず、年代をつけることもなく、ただ、ディザスタ、と。

 一部の人は不吉だとか言って、「あれ」とか言うけど、それは起きてしまった、いや、あたしたちが招いた災害から目を逸らすことだと思う。不吉でも何でもない、れっきとした事実なんだから。

 ディザスタ後の地球の映像を最後に、動画は終わった。詳しい解説は別のファイルで、ということだろう。

 ディザスタのずっと前に地球を出ていた人、または宇宙で生まれ、宇宙で育った人も多くいた。あたしもユーリもその子孫で、月しか知らないあたしたちの世代ともなると、地球についてもディザスタについても教科書レベルの知識しかない。地球は、青いね、きれいねって見上げるばかりのものだった。

 地球には今、月面や火星都市、小惑星群から運び込まれた資材で人工の浮き島、テッラ・フロートが建造されており、軌道上に放たれた数多くの衛星や大気圏内の観測用無人機とともに、ディザスタ後に激変した地球の姿を、数値で、画像で、音声で収集している。

「緊張するね」

 ユーリが囁いた。彼にとっても、地球は初めての場所だ。

 もし、地球にいる間に、「大気圏の内側にいてはならない」なんてルールができてしまったら、現実と折り合いをつけることができずに、きっとユーリは倒れてしまう。彼ひとりを飛ばすために、シャトルを打ち上げてくれるはずがないし、せっかくの地球滞在期間を、鎮静剤で眠って過ごすことになるだろう。

 何だか悲しい気分になってきて、ユーリの手を握った。蜘蛛みたいな、大きな白い手。

「大丈夫よ、ユーリ。きっと楽しめるわ。海、見るんでしょ」

 ユーリは紫の眼を細めて、薄く笑った。




 近づく水球。

 宇宙に輝く水の青、太陽にきらめく雲。

 大気の層が見えるかと目を凝らすと、地球の周囲の青白い線がはっきり見えた。地球のスケールに対して何とも心もとない厚みだったけれど、それは確かにあった。

 感動したかと訊かれると、ちょっと困る。ああ、これだ、って、昔読んだ物語のワンシーンを確認したような気分。感動っていうよりも、安心した、っていうのが近いんじゃないかな。

 ステーションで大気圏突入用のシャトルに乗り換えて十分ほどで、圧倒的な苦痛が襲ってきた。大気圏突入シーケンスに移ったんだ。シップドライバー養成課程の耐G訓練がままごとだったんじゃないかって思えるほど、もしかしたらこのままぺちゃんこに潰れてしまうんじゃないかって思うほど、痛くて苦しかった。息が詰まりそうになる。

 重力。

 あたしたちの遠いご先祖はこの圧倒的な力を、重い鎖を振りほどいて天高く、空を貫いたのだ。重力を振り切ることのできるロケットが開発されるまでの数々の苦労と挫折を思うと、涙が出た。

 シャトルが震えるのは、抵抗、つまり大気の存在ゆえ。火花を散らし轟音を発し、濃密な大気と重力の底へ、落ちる。薄っぺらな大気の層、わずか百キロを駆け抜ける時間が、とても長い。

 ――そして今あたしは、ベッドに這いつくばっている。

 みんな地球重力に備え、トレーニングを積んできたのだろう。身体が重いの跳び上がれないのとはしゃいでいたんだけど、すぐに疲れて黙り込んでしまった。機内からアシストスーツに頼っていたとはいえ、普段の六倍の重力というのは正直、こたえる。

 テッラ・フロートでの歓迎セレモニーの後、夕飯までは自由時間だった。フロート内の施設を見学するも良し、散策するも良し、あてがわれた部屋で休むのも良し、なんだけど、女性はみな部屋へ引っ込んだみたい。たぶんあたしみたく、ベッドで潰れているんじゃないかな。

 標本のようにシーツに張り付いて、大気圏突入の際に見た地球の姿を反芻しながら、だらだら過ごす。ベッドに入るときにはアシストスーツを脱がねばならず、寝返りを打つのも億劫だ。重力のせいで足がむくみ、気分が悪かった。

 あたしたちが暮らすネクタリス・シティの地球博物館には、地球の重力を体験できるコーナーがある。あまりにキツイので不人気なのだけど、それをいいことにユーリとふたりでシミュレータを占領して、ひいひい言ってきた。トレーニングとも言えないようなものだったけど、心の準備があるだけで違うと思ってたんだ、その時は。

 実際どうかというと、まあ、この通り。

 物理法則に歯向かうには、ちょっとばかり考えが甘かったようだ。

 這うようにしてベッドを下り、壁を伝ってシャワールームに向かう。実は、何よりも楽しみにしていたのが、シャワーとバスダブだ。これを体験せずに月には帰れない。

 水が豊富に存在する地球のシャワーは、月面で使うようなプッシュ式のじゃない。レバーを戻すまで水が出続けるっていう、究極の贅沢仕様! おまけにバスダブに湯を張って、それに身体を浸せるんだって!

 月都市にも、会員制ジムに行けばバスダブやプールはある。でもそういうところは高級すぎて、あたしたちのお給料じゃとてもじゃないけど手が届かない。そんなわけで、あたしは今日、生まれて初めてバスダブを使う。溺れたらどうしようってどきどきするけれど、楽しみでたまらない。夜まで体力がもちますように。

 この興奮を分かち合いたいけれど部屋を訪ねるのが億劫で、携帯端末でユーリを呼び出した。はい、と応じたユーリの後ろが、いやにざわついている。

「え、外なの?」

『そう。アストロニクスの人たちと散歩してる。ええと、ごめん、後でかけなおすよ』

 そういえば、自己紹介でそんなことを言ってた人がいたような気がする。アストロニクス社とウチの会社とはライバル関係にあるけど、今はオフだし、あたしたちみたいな末端の社員は誰もそんなこと気にしちゃいない。

 それにあたしだって、ユーリが誰とどんなふうに自由時間を過ごそうが、文句をつける気はない。断じて。

 後ろから、彼女? などと不躾な声が飛ぶ。そんなのじゃないですよ、とユーリは答えてるけど、じゃあ何なのよ、あたしは。

「別に大した用事じゃないから、いいよ。じゃね」

 ぶつりと通話を切断、端末を放り出して再びベッドに沈み込む。




 テッラ・フロートの施設見学、今までに集められたデータの閲覧と、ディザスタ前の数値との比較、生態系についての考察、地球と宇宙都市の今後についてのディベートなど、一通りのスケジュールをこなしたツアーの最終日。

 この日は調査船に乗船させてもらって近海を巡り、上層大気のサンプル採取と海中探査用の無人機リリースを見学させてもらうことになっていた。

 天候は晴れ。どこまでも広がる青い空に、コットンをちぎって吹き飛ばしたような雲が浮かんでいる。魚の群れでもいるのか、海鳥が集まってみゃあみゃあと鳴いていた。

 風はぬるく、何だかべたべたしている。有機的っていうんだろうか、濃い不思議な匂いと波の音がまとわりつくよう。騒音と呼べそうなものは何もなく、静かなのに妙な存在感があった。海って不思議なところだ。宇宙から見る海は冷たい静寂に包まれていて、宝石みたいなのに。

 みんなアシストスーツを着込んで、神妙な顔で船に乗り込む。調査船は大きさこそ見慣れた小型艇と同じくらいだけれど、ふわふわ揺れて何だか頼りない。滅多なことでは転覆したり沈んだりしないってわかっていても、落ち着かなかった。

 船室の窓は大きく切られていて、水中の様子を観察できる。甲板からは青空と外の景色が楽しめるし、海や船そのものが珍しいこともあって、あちこちで感心するような声があがっていた。

 あたしは船室と操舵室の間のスペースに陣取り、操舵の様子や、水中の様子を眺めることにした。広い空を見ていると、わけもなく悲しくなったからだ。宇宙と違って、ここは何の装備も準備もせずに環境を楽しめるのに、何故か怖くて、胸騒ぎがして、じっとしていられない。

 大気圏外の乗り物と同じく、この船にもオーディン・システムが搭載されていて、「船」と聞いてあたしが想像していたような、前時代的な操舵輪や難しい計器類はどこにも見当たらなかった。フラットなコンソール、正面の窓を挟み込むように、左右の壁にディスプレイが広がる。まるきり、宇宙船のコクピットと同じだ。

 移植した人工神経網と脳内チップを介して、船や作業機械を操縦するオーディン・システムが宇宙でのスタンダードである以上、地球に持ち込まれるのも当然の話だった。テッラ・フロート建造の技術提供を行ったのは星間企業なんだから。

 三つあるシートのうちの真ん中に腰かけ、腕を組んで正面を見つめる女性が、船長にして今日の見学の責任者、ミライ・アシドア博士だ。

 三十代半ばだろうか、まだ若い。あたしと同じアジア系、ゆるくウエーブのかかった髪を束ねてお団子にしている。浅黒いうなじから伸びたケーブルがコンソールに繋がっているのを見て、ほっとした。地球に来てから、珍しいものばかり見てきたせいで疲れていたんだ。何とはなしに首の後ろに触れて、ケーブルジャックをカバーする人工皮膚の滑らかさを確かめる。

 アシドア博士が振り向いて、笑った。あたしがジャックを触っていたのが見えたんだろう。

「お嬢さんは、シップドライバー?」

 尋ねられて、はい、と頷く。

「私もね、若い頃はそうだったの。船に乗ってあっちこっちの都市に顔を出して、研究してた。専門は微生物なんだけど、地球に来たら微生物だけを見てるわけにもいかなくてね。お呼びがかかれば、藻だって鳥だって、なんだって調べなきゃならない」

「へぇ……地球には、いつごろ?」

「もう八年になるかな。ディザスタで地球環境の全てが変わってしまったからね。フロートが完成して、まともなモニタリングができるようになってからまだ三十年そこそこだし、データは集まってくるんだけど、それを解析して発信できるような状態には程遠いんだ。重力の問題があって、なかなか人を呼べなくてね」

 なるほど、それはよくわかる。それでも、地球環境を一から調べ直し、データベースとして残そうと情熱を抱く研究者が地球に降りたつのだろう。

「テッラ・フロート建造を提案したのは、議会ですよね」

「そう。実際に資材を降ろして、作業に当たったのはあなたたち、星間企業の作業ロボットだけど」

 生活基盤が地球から宇宙に変わったこと、そしてディザスタを招いた反省から、環境問題に過敏すぎるほど過敏になっていた人々は、地球を守ろうと声を上げ、現状をつぶさに観察しようとした。そして、星間企業がこぞって技術・資金・人員の提供を行い、テッラ・フロートは建造された。環境への配慮、ディザスタの反省を活かすという会社の姿勢をアピールするために。

 彼らは、ディザスタによって変化した地球環境を調べて記録することが、災害の再来を防止することにつながり、宇宙という環境での暮らしに役立つだろう、と言う。

 ――本当に?

 地球見学ツアー、と言うけれども、ここで言う「地球」とはテッラ・フロートのことだ。テッラ・フロートに集まったデータと、観測されているデータ。これで、本当に地球を見たと言えるのだろうか。

 これが、本当にあたしたちの暮らしのためになるんだろうか。

 水で覆われた地球に莫大な資材を持ち込んで、テッラ・フロートを建造して、探査機を飛ばし衛星を飛ばし、全てを調べつくし、暴き、記録に残すことが。

 ううん、仮に、あたしたちがディザスタを反省し、宇宙暮らしに役立つのだとしても……地球にとっては、どうなんだろう?

「どうしたの。酔った?」

 アシドア博士の問いを、曖昧に否定する。

 酔った、といえば酔ったのかもしれない。テッラ・フロートの規模や、進行中のプロジェクトの数々、そして、地球と宇宙と、あたしたちについて考えていたら、何が正しいのか何が間違っているのか、何をすべきなのか何をしてはならないのか、何が何だかちっともわからなくなる。

「あ、色々考えちゃってるわけだ。お嬢さん、わりと真面目だね」

「蛍です。帚木蛍」

「ほたるちゃん、ね」

 アシドア博士はにやりと笑った。この名の意味を知っているからこそ、だろう。

「あの……失礼は承知なんですが、本当に環境や地球のことを考えてるなら、テッラ・フロートを造っちゃいけなかったんじゃないかな、とか……思ってしまって」

 大気圏と重力に阻まれ、ディザスタ後の人類が再び地球に降り立つまでには、長い年月が必要だった。

 降りたけれど戻れない、というのでは意味がないから、大気圏を脱するパワーを持ったエンジンを備えた船と往復分の燃料を降ろさねばならず、生活環境を整えねばならず、テッラ・フロートの建造には人類が最初に月に基地を作ったのと同じくらいの時間が必要だったそうだ。技術の進歩が労力やコスト削減に役立ったのかどうか。

 生意気なことを言って怒られるかと思ったけど、博士は困ったように肩をすくめただけだった。

「そりゃあね、非侵襲の調査が基本よ。こんな馬鹿でっかいもの造ってがんがん海水汲みあげて真水精製して発電施設までおっ建てて、生態系の調査ですとか環境調査ですとか、とても言えたものじゃないけどね」

「そういうわけにもいかない、ですよね」

「大人の事情っていうものがあるからね。あ、そういえば、フロートをもう一つ造るとか言ってるらしいじゃない」

「そうなんですか!?」

 テッラ・フロートが建造され、ディザスタ後の地球の様子が明らかになってきたため、テッラ・フロートⅡの建設計画が上がっているという。次はⅢ、Ⅳか。

 よくよく考えてみれば、環境の調査をしたいのなら、衛星などの無人機を投入するだけで十分なデータが得られただろう。それなのにわざわざ地球に降りてフロートを造ったのは、観測基地として利用するためだけじゃない。住宅地としてのフロートを造り、地球に逆移民するためだ。

 だからこその環境調査であり、テッラ・フロート建造だったんじゃないか。

 月生まれ、月育ち。

 青い地球を見上げるばかりだったあたしでさえ、今回のツアーのことを「地球に還る」と思ってしまったように、もし住宅地としてのフロートが造られれば、地球を懐かしく思い、地球で暮らすことを望む人は一定数いるだろう。病気や怪我で、高G環境下の方が早く治癒するのなら一時移住を希望する人もいるに違いない。

「人間は、また地球で暮らすようになるんでしょうか」

 さあねえ、とアシドア博士はため息をついた。投げやりになっているのではないことは、厳しい表情からもわかる。

「でも、仮にそういう動きになったとしても、止めることはできないと思う。手の届く場所に進む、もっと手を伸ばす、そうやってご先祖は宇宙に出て行ったわけだし、好奇心や探究心は人間の本能だから」

 そして、もっともらしい口実を並べたて、地球を人工物で埋めつくすのだろうか……かつてのように。

「じゃあ、入植した人たちの良心を期待するしかないってことですか」

「宇宙から、それを監視する目を磨けばいい」

「ちょっ、ユーリ!」

「そんなに驚かなくても、さっきからいたよ」

 半歩後ろにいたユーリが言うが、アシドア博士がしれっとしているところを見ると、どうやらあたしだけが気づいてなかったみたいだ。く、悔しい。

 さっきっていつだろう。気になる。というか、恥ずかしい。

「ほら、もうすぐ探査機リリース地点だ。甲板で待ってて」

 博士に追いやられて、あたしたちは甲板に上がった。

 青い空に浮かぶ、白い太陽。これが、太陽のぬくもりというやつなんだろう。月での日光は「昼」をもたらすもの、それから、貴重なエネルギーだというくらいで、他はマイナスイメージが強い。ぽかぽかして気持ちいいなあ、なんて、地球に来て初めて思った。

 アシドア博士と研究チームの面々が、海に放つ探査機をクレーンで吊り下げる。機材の詰まったカプセルに、申し訳程度にスクリューと姿勢制御用の鰭がついたそれが放たれ、潜航と浮上、海面での通信テストが行われた。

 探査機の一挙一動に感心の声を上げる人もいたけれど、あたしは黙ってリリースを見守った。

 続いては、上層大気のサンプル採取だ。こちらは採取容器を単純なロケットで打ち上げ、人工知能制御でサンプルを採取、蓋をしたのちにパラシュートで降下するというもの。

「ブースター、切り離します。サンプル容器展開準備」

 数十対の視線が見つめる中、モニタにブースター分離とサンプル容器の蓋の開閉が無事に成功したことが表示される。

 ほっとしたように空気が緩む中、あたしはモニタの隅に表示された高度を見ていた。切り離されたブースターは、どこへ落ちるのだろう。

 いっそのこと宇宙に飛び出してくれたら、大気圏が燃やし尽くすか、後であたしが拾えるのに――逆立ちしたって、あり得ない話だけれど。

「パラシュート、展開しました。落下予測地点に移動します」

 助手さんの声に博士が頷き、みんなが一斉に甲板へと走る。

 黒い影になって青空を舞うパラシュートの動きを追っていると、わけもなく目が痛くなって、困った。




「どうだった?」

 月軌道港でツアーが解散になるなり、ユーリは言った。少し痩せたようだけれど、ルールに困らされることもなく、ほっとしているのが伝わってくる。

 ポート・ネクタリス行きのリフト乗り場に向かいつつ、答える。どうだったって訊かれることは予想済みだったから、一応答えも用意してあった。

「ん、楽しかったよ。いろいろ考えたし、海も空もきれいだったし」

「……もし、さ。地球に還れますよって環境が整ったら、ほたるちゃんはどうする?」

 なるほど、ユーリはユーリなりに、テッラ・フロートやそこで行われているプロジェクトについて考えていたんだろう。

 ツアーの参加者は本当にいろいろで、すごいですね、地球って偉大ですねと声を高める人もいれば、かつての文明の片鱗すらもないことに恐怖を感じている人もいた。

 ユーリは、どちらなのだろう。……ううん、考えなくてもわかる。それぐらいの仲ではあるんだ、あたしとユーリは。

「あたしはたぶん、行かないかな」

 あの青、あの海、あの空、残された自然環境。それらは、あたしが背負うにはちょっとばかり重い。だから今まで通り、軌道上のデブリを拾って、地球を見つめる衛星たちのメンテナンスをして暮らす方が性に合ってる。

 海から生まれた小さな海として、あの星を見ていよう。

「……そうだね」

 ユーリの声は小さかったけれど、紛れもない安堵が滲んでいた。

 大気のゆりかごで眠る地球が、もう二度と目覚めることがありませんように。安らかにありますように。

 ふと窓の外を見れば、ちょうど半分陰になった地球が、静かに浮かんでいる。

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