第3話 幸福論/自由律
「ユーリ、ハッチ開けて」
『了解――ハッチオープン、確認』
瞬かない星はまるで光る砂のよう。生命を守る殻たる宇宙服の中であたしは、陽光を反射する船尾ハッチが開くのを見つめた。
あたしが乗る船外作業用の小型艇「橇」は回収した
進路、異常なし。
デブリ曳航用ワイヤー、異常なし。
残酸素、残燃料、まだまだ余裕。
心拍数、呼吸数、体温、血圧、すべて正常値。
複雑に絡み合う軌道要素とちょっとしたアクシデント、そんな積み重ねが、通信衛星の残骸を月から遠く離れたところにまで運ぶ。それらを拾って回るのがあたしたちの主な仕事だ。
宇宙船に装着されている対デブリ用バンパーは、レーダーにも引っかからないような微小デブリから船体を守るものであって、巨大質量との衝突は想定されていない。人工衛星クラスの質量との衝突が起きたら、物語に登場するような宇宙戦艦でもない限り、大破は免れないと思う。そして、宇宙戦艦なんていう浪費は、いまの人類には許されていない。
それだけの資源があれば、居住区の拡張や補修に回すべきだし、第一そんなもの造って、どこに攻めて行くっていうのよ。……ええと、何の話だっけ?
話が逸れてしまったけれど、今日も無数のデブリが無限の星の海を漂っている。通信衛星なんて、入社三年目のあたしでさえいくつ回収したのか覚えていないくらいなのだ。衛星を作るコストも、打ち上げにかかるコストも、昔とは比べ物にならないほど安くなってはいるけど、残念ながら劣化も早い。
地球を離れた人類の手にある資源の総量は限られている。回収したデブリは再生され、新たな衛星や、居住区の基礎モジュールや、探査機の部品に生まれ変わり、そしてそれらもいつか、またゴミになる。こう考えると、あたしたちの営みなんてどこに住んでいようが大差ないんだなって実感するんだ。
デブリの回収のために船外に出て作業するのは、正直言って得意だ。「橇」の操縦も同期の中では一番上手いし、狙ったデブリは逃さない。船外活動に関するあたしの評価は、すこぶる高い。
『完璧だよ、ほたるちゃん』
「ユーリのアシストのおかげよ」
ユーリの賞賛が耳をくすぐる。ユーリとは入社以降ずっとバディを組んでいるから、あたしの船外活動の様子を見るのは初めてではないのに、彼は毎回、小さな子にするようにあたしを褒めてくれる。ちょっとむずがゆいけど、悪い気はしない。
母船に残っているユーリの元にも、オーディン・システムを通じてあたしのバイタルや「橇」の状況は伝わっている。船外にいるあたしに何らかの異常が起こった時に対処、バックアップするのが彼の役目だ。
船や「橇」の操縦、情報の共有。あたしたちの仕事はコンピュータの支援なくしては成り立たない。かといって、完全に無人化することもできない。システムを管理、監督するのは人間でなくてはならないっていう法律ができるなんて、昔の人は想像もしなかっただろうね。
その結果が、光速神経網操縦インターフェイス・システム、つまりオーディン・システムを体内に移植するという技術の確立だった。
機械を身体に移植することへの心理的抵抗が大きかったのは大昔の話だ。というのは、月や火星の開拓史はそのまま、義肢や代替医療の進歩を意味するからで、あたしたち人類は機械の力なくしては宇宙で暮らすことはできないと、宇宙を拓いてゆくさなかに、身をもって知ったわけだ。
宇宙での事故はどれも重大だけど、最大の敵は時間と酸素だった。思い出してほしい。脳細胞ってすごくデリケートだって、習ったでしょう。無事に事故現場から救助されても、救助までにかかった時間によっては、脳や四肢に重大な障害が残るということが当時の課題だったんだ。大志を抱いて宇宙に出た人々が失意のまま地に墜ちることのないよう、義肢や代替医療が大きく進歩を遂げることになり、人々はそれをごく自然に受け入れた。
けれど脳の切開手術と言われて、恐怖を感じない人はいないだろう。移植手術の安全性は確立されているけれど、それは手術の成功を約束するものじゃない。事前に何重ものチェックを経ていても拒絶反応が起こることもあるし、どうにも体調が悪い、システム移植のせいではないか、という不定愁訴も出る。
だからだろうか、メディカルスタッフの配置要項が企業の評価項目として注目されるようになってずいぶんたつ。わがカノープス・スペーステクニカ社は中の上、といったところ。
ともかくも、あたしとユーリはそれぞれに、自分の性格に沿うようにオーディン・システムを使っている。それはシステムとの相性が良いということで、労働者としての立場からすれば、有難い話だ。
母船が近づいたことを示す表示がバイザーに点る。船の誘導に「橇」の操縦システムをリンク、母船とのドッキングを完了させる。
続いて曳航用のワイヤーを巻き上げてデブリを船尾コンテナに格納する。コンテナは与圧されていないから、作業にはちょっとしたこつが必要だ。クッションを噛ませてデブリを固定して、作業完了。
想像の斜め上をいく形状のデブリを、ほぼ直方体のコンテナにどう格納してゆくか。これも、効率よくデブリを回収するテクニックの一つだ。どれだけたくさんデブリを拾っても、コンテナにうまく並べなきゃ回収できない。回収できなければ、デブリは見逃すしかない。デブリ回収に出て、ランデブーしたけど持って帰れませんでしたっていうのは、ちょっと恥ずかしい。船外作業員はコンテナへ格納するまで責任を持ち、アシストは次のターゲット・デブリの形状とコンテナの空きスペースを把握しておくのが暗黙の了解だ。
あたしが船外作業を得意とするようにユーリは母船でのアシストを得意にしていて、そういう意味でもあたしたちは理想的なバディだと言えるだろう。
デブリを固定し終えたら、あとは億劫な事務作業だ。ワイヤーの使用量から寸法を割り出す。データベースから同型の衛星を探し出して、質量を計算。報告書を埋めて本社に送信してから、与圧区へ移動する。オーディン・システムの接続を一度切り、宇宙服を脱いではじめて、ようやく本当に一仕事終わったー、って気になる。意識していないけれど、システムを起動しているだけで疲れるらしい。
スプレーシャワーを浴びて汗を流してから、ブリッジに向かう。ふたつある座席の右側が、ユーリの指定席だ。首の後ろから伸びたケーブルはコンソール側面のジャックに繋がり、青いパイロットランプが、オーディン・システムが正常に作動していることを示している。
「お帰り、ほたるちゃん」
「ただいま。どう?」
変わりないよ、答えとともに漂ってきたスポーツドリンクを開封する。気分的には、きんきんに冷えたビールを流し込みたいところだけど、そういうわけにもいかない。アルミパウチから伸びたストローを吸いながら、あたしも再びオーディン・システムを起動する。
航行ログに目を通してみたけれど、これといって変わったことはなかったようだ。もちろん、変わったことがあればすぐに連絡があるし、最重要事項ならば船外作業中であっても割り込みがかかるはずだから、確認するまでもないんだけど。
船の操縦はユーリとメインシステムに任せておいて、シート前のディスプレイでニュースサイトのヘッドラインを流し見る。気になる文字が目の端をよぎり、スクロールを止めた。
『オーディン・システム またも<直結>事故か 男女二人死亡』
「ああ、それ?」
画面を覗き込んだユーリが顔を歪めている。直結事故といえば、あたしたちオーディン・システム移植者にとっては他人事ではない。
直結、つまり、オーディン・システムどうしをケーブルで結ぶこと。脳内に移植されたシステムは、神経を直接刺激して出力を行うことができる。脳に直接、映像や音を感じさせる、ということだ。それを利用すれば、何だってできる――あくまで理論上は。もちろん、その手のソフトウェアの制作は厳しいライセンス制だし、ライセンスを持たない者による開発・配布や海賊版のインストールは固く禁じられている。
けれど、システムが人の手で作られたものである以上、どこかに穴はあるし、その穴を見つけることも、利用することもできる。システムそのものは特殊なプラットフォームではないから、ソフトウェア開発も容易だ……もちろん、知識があれば、だけど。ファイアウォールこそ強力なものだけど、自分で解除してしまえばそれまでだし。
そして何が起こったかというと、これだ。死亡事故。
記事をざっと読んだ限りでは、目新しい事件ではなかった。過去にもこういう直結事故は何度も起きている。システム移植者が直結し、ソフトウェアを立ち上げる。ドーパミンだとかエンドルフィンだとかが大量に分泌され、直結した人たちは多幸感に包まれる。そして度が過ぎて、快楽を忘れられなくなる。次第にセーブできなくなって、ついには命を落とす。
ついでに言ってしまうと、システムを直結するだけではなくて、やってしまうのだ、その……セックスを。
事故を防ぐため、システムの不備が見つかるたびに移植者全員に対してオーディン・システムのアップデートが行われる。その手間と負担を思うと、何てことをしてくれたのだと、事故を起こしたふたりを詰りたくなった。
いつも思うのが、この直結した人たちっていうのは、他人の脳と自分の脳を一つにしてしまう背徳感や禁忌感、忌避感を感じないのかってこと。
直結するっていうことは、相手とあたしの隔たりを捨ててしまうということだ。相手の考えていること、感じていること、すべてが伝わってしまう。
あたしは彼我の境目がなくなるのが怖い。あたしが感じてること、思ってることがみんな筒抜けになってしまうことが怖い。直結したとき、あたしはどこまで「あたし」なんだろう? 接続を切るとき、「あたし」がもとのあたしに戻れなければ? そんなことを考えると、怖くてたまらなくなる。
「やっちゃいけないってさんざん言われてるのに、よく直結しようなんて気になるよね」
ユーリは不愉快さを隠そうともせずに顔をしかめている。潔癖症の彼のこと、自他の隔たりをなくすことに関してはあたし以上に敏感だ。
「やっちゃいけないって言われるから、したくなるんでしょ」
「死んじゃう危険があっても?」
「だからこそよ」
僕にはわからない、とユーリはシートに身体を投げ出す。金色の髪が舞い、あたしは知らずその軌跡を追った。
「僕が何かを考えても、僕っていう殻がある限りは、思うだけじゃ誰にも影響を与えないけど、直結しちゃったらそれがだだ漏れなんだよ。僕のルールがうつったらどうしたらいい? そんな怖いこと、僕にはできないよ」
ユーリには、彼が守るべきと強く信じているいくつかのルールがある。
飲み物を口にする前に容器を一回転させなければならないとか、何も知らない人からすれば馬鹿らしいとしか思えない些細なものもあるけれど、ユーリにとってそれらのルールは生命と同じくらい大切な、守るべきものなのだ。
その性質が標準的なものではないと、彼も自覚している。だからこそ直結で「うつる」ことを案じているのだろう。真面目なユーリらしい。
そうねと相槌を打って、モニターに目を戻した。
直結事故のニュースは見過ごせないけど、内面を晒したくないと強く思っているあたしたちには起こりっこない。
ニュースの続きを読み始めてまもなく、肩のあたりに視線を感じて、もう一度顔を上げる。
「……え、なに?」
くすんだ紫、見慣れたユーリの眼が、あたしを見ている。
首筋に、鳥肌がたった。
「別に、何でもないよ」
視線を逸らしたユーリの不自然さをもう一度なぞって、あたしもぎこちなく俯いた。
だって、だって、この話の流れでユーリがあたしを見るってことは、ユーリの心配はあたしに向けられてるってことじゃないの?
ユーリと、あたしが、直結する。
まったく、馬鹿げてるわ!
頭ではそう考えているのに、逞しい想像力はむくむくと頭をもたげて育ち、枝葉をつけてゆく。
物怖じしないユーリの紫の眼に射すくめられて身動きもできないまま、ユーリがあたしにケーブルを挿す。あるいは、優しく微笑むユーリに、あたしがケーブルを挿す。
――それから、あたしたちは。
桃色と紫色のスモークに覆われ始めたあたしの妄想は、甲高い電子音に蹴散らされる。あたしは文字通り、シートの上で飛び上がったんじゃないか。そのくらい突然で、そして有難いアラートだった。
『本社からメールが来た。今読む?』
沈黙を割ったのは、船のメインシステムに搭載されているAIだ。日向というたいそうな識別名を持つ「彼」に、メールをメインディスプレイに表示するように言いつける。
「やっぱりね」
声はため息と同時だった。ユーリも心なしか、肩を落としている。
文面は短く、簡潔なものだった。死亡事故を受け、オーディン・システムのアップデートを行うという通知だ。まったく、忌々しい。事故を招いた誰かさんの軽率さが腹立たしかった。
生体脳と連動しているオーディン・システムはとても繊細だから、ちょっとしたパッチを当てただけで身体感覚が変わってしまうことがある。あたしたちのような作業員にとって、身体感覚の変化は致命的だ。
だから、バージョンアップに伴う身体感覚の差異に適応するために、二週間前後の馴らし期間とメディカル・スタッフの綿密なカウンセリングが用意されてはいるけど、合う合わないの個人差はなくせない。
幸いなことに、今まではあたしもユーリもバージョンの差異に困ることはなかったけど、アップデートのたびに流れてくる、誰々が合わなかったらしい、という噂を耳にしていると、漠然とした不安を捨てきれない。次合わなければどうしよう、と。
宇宙はあたしたちに容赦しない。宇宙という環境の過酷さは今も昔も変わらない。
そんな厳しい環境を生きるために、オーディン・システムは開発され、浸透した。そして今や、あたしたちのような若者が宇宙を渡り、宇宙間企業を興す時代だ。そのオーディン・システムが合わないとなると、困るどころではない。
システム移植者が活躍する宇宙の現場にあっても、インストールするソフトウェアの種類やバージョン、仕事内容、人間関係などが原因でシステムのポテンシャルを活かしきれない人は少なからずいる。今が大丈夫だから次も大丈夫だという保証はどこにもない。
それでもアップデートを拒否することはできないのだ。あたしは、きつく目を閉じた。
何に祈ればいいのかはわからなかったけれど。
悪い予感ほどよく当たる。最初にそう言ったのは誰だったのだろう。ぶっ飛ばしてやりたい。
「あれ……あれっ?」
「ほたる、落ち着いて。もう一度」
いや、何度繰り返しても、同じだった。
シミュレータ画面のパワーアームは目の前のデブリに届かず、あるいはアームの先端をぶつけ、デブリを弾き飛ばしてしまう。分厚いガラス越しに作業をしているような違和感が身体感覚を大きく狂わせていた。
アームを動かそうとすると、脳裏にユーリの姿がちらつく。直結事故。死んでしまったふたり。そんなとりとめもない思いが集中力を踏み荒らす。
システムをモニタしている友人のロジーにも動揺が伝わってしまうのではないか。そう考えてさらに気が散ってしまうという悪循環に、オーディン・システムとあたしの頭はあっさりと協調を放棄していた。
「OK、一度休憩しましょ」
ロジーの言葉に頷くと、シミュレータのロックが解除された。ケーブルを外し、一昔前の救命ポッドみたいな卵型のシミュレータから出るなりふらついて、壁に手をつく。
室内に明かりが戻ると、ロジーは抜群のプロポーションをさらに強調している制服の裾をはたいて操作卓を離れ、ココアを作ってくれた。でも、大好きな甘い匂いでさえ、この惨めさを救ってはくれない。
チョコレート色の肌に、ペールピンクのナース服。胸元が窮屈そうなところも含めて、よく似合っている。いつ見ても、魅力的……というか、誰向けなんだろうとか思ってしまう同期のメディカルスタッフは、つやつやの唇を曲げて鼻を鳴らした。
「ほたると相性の悪いバージョンがあるなんて、信じられないわ」
「……やっぱり、相性悪そうに見える?」
ココアを受け取って上目遣いで尋ねると、彼女は首を傾げる。
「見えるっていうか、そのものじゃない?」
「だよねええええ!」
あっさりと肯定され、退路を断たれたあたしはぐしゃぐしゃと髪をかき回す。ロジーはといえば、区画の気密が破れたと言わんばかりの難しい表情で、ココアを啜っていた。
「ほたるがこんなに合わないってなると、むしろシステムの方がおかしいんじゃないのって思っちゃうけどね」
「そう言ってもらえると嬉しいけどさ、ユーリは大丈夫だったんでしょ」
「ま、そうだけどね」
ユーリは無事にアップデートとその後の調整やテストを終え、いつでも出航できる態勢なのだけど、バディであるあたしに出航許可が下りないせいで足止めを食らっている。
あたしだって、これまでずっと難なくテストをパスしてきたから、アップデートを不安に思いながらも、内心では今回も大丈夫だろうと高をくくっていたのだ。
それが、こんなことになってしまうなんて。
ぎこちない沈黙を救ったのは内線の呼び出し音だった。ロジーが携帯端末で内線を取り、表情を緩めた。壁面のモニタとマイクの電源を入れる。
『お疲れ。具合はどう?』
モニタに現れたのは、整備課のヤンだった。勤務中に私用内線とは、いい度胸をしている。人のことは言えないけど。
白いきめ細かい肌、さらさらのショートヘアと涼しげな眼は宇宙の黒。体格はロジーとは対照的に、小柄でスレンダー。武骨な社名ロゴ入りつなぎと安全靴、腰には工具入りポーチという完全武装で颯爽と歩く。ピンヒールで舗装を抉らんばかりに歩くロジーと並べると、そりゃあ絵になる。
ヤンもあたしたちと同期入社のよしみで、飲みにも行くし、誕生日だお祝いだとなればプレゼントを贈りあう仲だ。課が違うからこその付き合い、かな。
移植者ではないけれど、メディカルスタッフとして多くの移植者を見てきたロジーと、自身も移植者でシステムそのものに詳しいヤンという、頼りになるふたりが勤務の隙を見てはあたしを気遣ってくれるというのに、あたしときたら動揺し、混乱するばかりで少しも慣れる気配がない。
「橇」を飛ばせば規定コースを外れて爆走し、アームを使えばデブリを殴りつけるありさまだ。今まで思いのままになっていたオーディン・システムに急にそっぽを向かれ、あたしはひどく心細かった。なまじっか以前の感覚を覚えているのが惨めで、暴れたくなる。あたしのちっぽけな誇りと自信など宇宙には通用しないのだと、改めて思い知らされた気分だった。
「だめ。全然だめだよ」
半泣きのあたしに、ヤンは薄い唇で笑んだ。彼女がそんなふうに優しく笑いかけるのは、本当に限られた人だけなのだとあたしは知っている。
「OSは道具なんだから、誰にだって合う合わないはある。ほたるが悪いんじゃないよ」
「でも……」
今回に限ってダメだなんて、あたしはどうしちゃったんだろう?
今まで通りに働けないなら、ユーリとのバディが解消されてしまう。ユーリと離れ離れになってしまう。
宇宙に出られないあたしに、存在価値があるんだろうか。
――考えれば考えるほど、絶望的な気分になった。
直結事故を起こした見知らぬ誰かや、アップデートを決定した偉い人よりも、トラブルに動揺している自分自身が腹立たしく、情けない。
「ほたる」
整備課の皆から「姐御」と呼ばれているヤンの懐の大きさは大赤斑並みだ。無条件に甘えていいのだと思わせる何かが、彼女の声にはあった。
「直結事故があんなに大きく報道されちゃった後だから、ちょっと緊張してるだけだよ。少し休んで、おいしいものでも食べればすぐに良くなるさ」
「そうだよほたる、考えすぎなのが一番ダメ」
「そうかなぁ」
そうだよ。ロジーとヤンの声が重なった。何だか、芝居がかっている。さては、何か企んでるな。
ロジーは内線の向こう側でおもむろに携帯端末を取出し、通話をはじめる。漏れ聞こえる「今日」「三人」「アースビュー」という単語から、彼女の通話先があたしたちの行きつけのビストロであることを知った。だからあの、仕事中だってば。
ぱたんと端末を閉じ、「決定」とヤンが目を細める。応じてロジーが親指を立てた。取り残されたあたしは、ロジーと画面の向こうのヤンを見比べることしかできない。
「何らかのストレスによりOS不調が認められる……カウンセリングと再度の調整、慣らしが必要……っと」
ロジーが、間違いではないけれど正確でもないことを電子カルテに書きつける。プリンタから吐き出されたのは、早退届。
「心身ともに疲労が激しく、休養の必要があります――って誰が!」
「じゃあ、十九時にいつもの店でね!」
あたしの良心の抵抗なんて、誰も聞いちゃいない。早退届を押し付けられ、あたしはテストルームから放り出された。
急に早退を命じられても、困る。
時刻は十四時、お昼を過ぎたばかりだ。家に帰ってもすることがないし、買い物に行く気力もない。ご飯は食べたし、ユーリはトレーニングか事務仕事をしているはず。要するに、あたしは暇だった。
本社最上階、展望フロアでコーヒーを片手に窓の外を眺める。ネクタリス・シティは夜、大きく切られた窓から見える月面は、ポートや軌道港の誘導灯、離着陸する船の灯りに彩られている。
シートディスプレイを挟んで打ち合わせ中らしい管制課の制服や、休憩中なのか談笑している総務課の女の子たちがテーブル席にぽつぽつと見受けられる中で、あたしはひとり、窓に向かってため息をついている。不毛だ。
本でも読もうか、あるいは久しぶりにゲームでもするか。惰性で携帯端末を起動するなり、窓ガラスに映ったユーリの姿に気づいて椅子からずり落ちそうになった。
乱れてもいない髪を整えるふりをしながら、つとめてゆっくりと振り返る。
「こんな時間に、どうしたの? あ、あたし今日は強制早退で……」
ユーリは紫の眼を曇らせてあたしを遮った。いいんだよ、と。
隣に腰を落ち着けるでもなし、飲み物を持っているわけでもなし、何だろう。無言の間が気まずくいたたまれない。すっかり冷めたコーヒーを意味もなくかき混ぜるも、香りさえ失われた黒いだけの液体は何の助けにもならなかった。
「ほたるちゃん」
ユーリの両手があたしの無為な動きを止める。大きな手、白くて長い指はあたしの手をすっぽり覆ってしまうほどで、博物館で見る蜘蛛を思い出させる。
彼がどんな表情であたしを見ているのかと、それを目にするのが怖くて俯いていることしかできない。直結、事故、アップデート、不調。ここ最近のできごとがフレアのように押し寄せて、でも結局その中心にいるのはユーリで。
ユーリはあたしのことをどう思っているのだろう、とか、
ユーリはあたしとどうなりたいのだろう、とか、
ユーリはあたしをどうしたいのだろう、とか、
――あたしはユーリをどう思っているのか。
ユーリが、ではなく、あたしが、どうなのか。
その答えがあまりに遠く漠然としていることに、ようやく気づいた。
ううん、答えはある。ちゃんとある。
目を逸らして、あたし自身が遠ざけていただけ。
「僕、待ってるから。バディ解消なんて、絶対にさせないから」
ユーリの声は小さく低く、けれどはっきりとあたしの耳に届く。
「ほたるちゃんなら大丈夫だよ」
「ロジーもヤンもそう言ってた」
ほら、とユーリは得意気に声をあげる。あたしは相変わらず俯いたままで、でも彼の表情は手に取るようにわかった。物心ついたときから、一緒にいたのだ。それくらいはわかる。女の子たちが見惚れてしまうような、優しくて、ほんの少しだけ意地悪な笑み。ヤンのと同じく、親しい一部の人だけに向けられる笑みだ。
「あのふたりが言うんなら、間違いないよ。はいこれ、差し入れ」
ユーリが取り出したのは、あたしの好物のシュークリーム。行列ができるほどではないけれど、夕方までには売り切れてしまうから休日でないと食べられないやつだ。
「……買ってきてくれたの?」
「そうだよ。ほたるちゃん、好きだろ」
「勤務中ですけど」
思わず顔を上げてしまったあたしが見たのは、予想通りの、満開の笑顔。暗闇の中、ぽかりと浮かぶ青い星にも負けないほどの。
「バディを元気づけるのも、立派な仕事だよ」
「……ユーリ」
ユーリはいつも、あたしの欲しい言葉をくれる。
してほしいことをしてくれる。
それに比べて、あたしはどうだろう? ユーリのために、何をしているだろう?
バニラビーンズの甘い香りと、ユーリの笑みと言葉に、あたしの涙腺はようやくふやけてくれた。涙はふわふわと宙を漂い、やがて床へと引き寄せられていく。
泣かないでよ。ユーリが言って、蜘蛛の手が頭を撫でる。小さい子にするように。
ああ、そうか。
つかえていたものが全部流れ去って、その跡にある答えの片鱗に、ようやく指先が触れたような気がした。
ネクタリス・シティ一層の外れにあるビストロ「マナート」は、気の利いた料理とアースビュー席が自慢の小洒落た店で、今日もカップルや女の子たちのグループで満席だった。リーズナブルな価格設定で客層も良く、あたしたちはおいしいものが食べたくなったら「マナート」に予約を入れる。
お誕生日や何かのお祝いのときにはもう少しお高いレストラン「ゲット」、ぱーっと飲んで食べて騒ぎたいときにはチェーン店の「ジョーガ」、といくつか行きつけのお店はあるのだけど、「マナート」を選んでくれたヤンの心遣いが嬉しい。
ティツィアーノで乾杯して、プラント直送のサラダをつつきあう。ピッツァが運ばれてきてカクテルをお代わりして、ようやくロジーが口を開いた。
「で、ユーリと何かあったの?」
むせた。
「直球だね」
ヤンもロジーを止めるどころか、一緒になってにやにや笑っている。あたしの不調の原因は、とっくにお見通しだったらしい。それとも本当に、あたしの動揺までもモニタしてたっていうんだろうか。
両手を肩の高さに挙げて見せると、ふたりがテーブルに身を乗り出した。美青年かつ不思議要素満載のユーリは、女の子たちに多くの噂話と推測を提供している。あたしを通じて、ユーリとはそこそこの距離を保っているはずのふたりでさえ、ユーリの話題となるとこうだ。餌を前に「待て」を命じられた子犬みたい。
「何かあった、っていうか、何もないんだもの」
「まだ何もないわけ? 和解してからだいぶ経つんじゃないの」
「それとこれとは別」
あたしがかつて航行中の退屈を紛らわせるために計画したオペレーション・夏を(今思えばひどいネーミングだ)きっかけに、幼馴染ながら疎遠だったあたしとユーリの距離は縮まった。ユーリのコンパートメントに招かれることもあったけど、一緒にご飯を食べているだけだよという報告では、ふたりの期待に応えられそうにない。
口を尖らせるのはヤン、広げた手のひらを突きつけてくるのはロジーだ。
「手をつないだ?」
イエス。
「ぎゅーは?」
まあ、一応。
「チューは?」
「まだと見たね、わたしは」
ご明察。ヤンを睨むと、ロジーが大袈裟にため息をついた。
「おこちゃまでちゅねー」
「でちゅよー。……だって、直結事故のニュースを見たときも、こっち見てるだけで何もしないし、何も言わないし」
しても拒まないのに、という一言は、すんでのところで飲み込んだ。
ふたりは顔を見合わせた。憐れむような気遣うような、寒々しい沈黙ののち、ヤンが思い出したようにサラダの残りを片付ける。
「そこで立ち止まっちゃうのって、ほたるらしくない」
「そうだよ。押してだめなら押し倒せって言うところだけど、まだ押してもないんじゃない」
「そうそう、ガツーンと」
「ドカーンと」
派手な身振りと擬態語には申し訳ないけれど、まだ全然、そんな域には届いていないのだなんて、恋愛に関しても積極的なふたりには言いづらい。
黙ってばかりのあたしに、ロジーが表情を曇らせた。
「十二のときにプロポーズまで済ませてるのに、どうして今だに何の進展もないのよ」
昔話を掘り返すロジーに、自然と眉が寄った。
「ユーリが今もそう思ってるかなんて、わかんないじゃない」
「ねえ、ほたる、それ本気で言ってる?」
ふと真面目にあたしを見たヤンのまっすぐな視線を受け止めきれず、あたしは目を逸らしてアボカドのディップをクラッカーに盛る。そんな下手くそな演技が通用するはずもなく、視線は微動だにしない。あたしは肩をすくめた。
「……ユーリの気持ちは、そんなに簡単には変わらないよ。頑固だし、決断までには時間がかかるけど翻らないもの」
ディップはレモンが効いていてとてもおいしかった。クラッカーも軽くて塩気もちょうどよくて、食べたときにバランスのいい味。「マナート」の料理人さんたちは何度も試食してこの味を作り出したのかもしれないけれど、人間関係っていうのはそうそう簡単に試してみることができない。失敗したときの痛みを想像しては、足踏みを続けてしまう。
こういうのを、臆病だというんだろう。
「ユーリはずっと小さな頃からあたしと一緒にいたんだよ。ユーリが何を考えてるか、ある程度はわかるし、たぶんユーリだってあたしの考えてることくらいお見通しだと思う」
「どう考えても、それって相思相愛ってやつでしょ。何で立ち止まってるわけ?」
ロジーがひよこ豆のディップを山盛りにしながら首を傾げた。そんなにストレートに訊かれると、困るんだけど。
「え、だって、小さいころは一緒にお風呂に入ってたんだよ。それってどうなの? 大丈夫なの?」
「大丈夫って、何が」
そりゃ、その、今まで幼馴染としてやってきた生ぬるさを、男女になってしまってもそのままにしておくわけにはいかないでしょうが。
照れるし、恥ずかしい。どんな顔をしてユーリに会えばいいの? そもそも、今さら、何て言えばいいの?
言葉に詰まるあたしの肩を、ヤンがすべてを察したように叩く。
「大丈夫。気負いすぎだって。そこらを歩いてるふつうの女がユーリの彼女になれるわけないよ。ユーリはたぶん、ほたるじゃないとだめだと思う」
「だよねえ。自分ルール、だっけ、ユーリのあれは、ほたるじゃないと無理でしょ」
褒められてる、のだろうか。
ふたりには言えないけれど、ユーリのルールにはあたしひとりぶんの「あそび」がある。ユーリは彼自身を縛りつけるルールからあたしが自由であることを、認めてくれている。
あたしが知る限り、あたし以外に彼のルールから自由な人は、一人もいない。
「……うん、知ってる」
その幸福を、あたしは知っている。知っているのに一歩を踏み出すことを躊躇って、その躊躇がユーリにも伝わった。だからユーリも立ち止まるしかなくて、膠着してしまった。
何てことはない、ただ一歩、踏み出すだけでいい。
ユーリが何を考えてるのかなんて怯えなくても、あたしがユーリをどう思っているか知っていれば、それだけでいい。
直結事故が何だ。あたしたちはケーブルを繋ぐよりもずっと、近いところにいるのだ。オーディン・システムなんてただの道具、あたしがそれに振り回されるなんて、何たる屈辱。
あたしはあたし、ユーリはユーリ。
その差異を、大切に思ってきたのだ。
突き抜けてしまえば何てことはない、昼までの動揺も混乱もすっかり消えてなくなっていた。そればかりか、今ならすべてうまくいく、うまくいかないわけがないなんて根拠のない自信がわいてきて、あたしは一気にグラスを干した。
「わかった。明日ちょっと、押してくる」
「押し倒しちゃだめよ」
「押し倒したら見に来るくせに」
「もちろん行くわよ。ユーリがどんな顔してるのか、見てみたい」
「それはわたしも興味ある」
あたしたちは顔を見合わせて、笑う。
タイミングよくデザートの盛り合わせが運ばれてきて、華やかな歓声とデザートフォークの銀のきらめきが、仄暗い照明を弾いた。
言おう。言うんだ。言ってやる。今日こそ。
オーディン・システムの調整は、あっけなく終わった。シミュレータで満点を叩きだしたあたしは、医務課長とロジーの電子サインが輝く出航許可証を胸に、軌道港へのリフト乗り場に向かっていた。中途半端な時間だからか、通路には誰の姿もない。
いまだ。いまを逃せば、もう言えっこない。
前を行くユーリの背筋はしゃんと伸びて、気負いなく通路を進んでいる。
もう、帰ってきてからでいいかな。この期に及んで尻込みしそうになるなけなしの勇気を叱咤して、あたしは深呼吸した。
振り向け、ユーリ。
今、言うから。
振り向いて、ユーリ。
金の髪がふわりと翻り、紫の眼にあたしの姿が映る。
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