第2話 最大のミニマム

 人類が地球に住んでいた頃、少なくとも呼吸することは無料でできた。大昔の話だ。今は水を飲むことや灯りを点けることはもちろん、呼吸すること――生きるという前提にさえ、何らかのコストがかかるようになってしまった。

 カノープス・スペーステクニカ社は、ご多分に漏れず社員寮をいくつか持っている。月都市の地価も家賃も値上がりする一方のこのご時世、複雑な申請書類と格闘しなきゃならないとはいえ、社員寮制度は有難い。

 企業イメージを考えれば納得のいく話ではあるけど、寮は水や電気の使用制限が厳しくて、清掃当番やごみの出し方にもちょっとうるさい。宇宙船操縦免許と船外作業員の資格を持つあたしは宇宙勤務が多くて、あまり寮には帰らないから、大して気にならないけど。

 あれこれ文句を言ったって、結局は社員寮で暮らすメリットが大きいと判断しての入寮だから、みんな少々のことには目をつぶる。シャワーの使用時間が短いことも、メールボックスが小さいことも。不便だ我慢ならない、とスタンドプレイをしたとしても、ルール違反者は必ず何かしらのしっぺ返しを食らうものだ。

 節度ある生活を心がけていれば、社員寮暮らしも悪くない。

 あたしはそう思うのだけど、変わり者というのはいつの時代にもいるもので、あたしの相棒のユーリは「海のそばにいると心が落ち着くんだ。ヒトは海から生まれたからね」などと言って、ネクタリス・シティの本社に程近い地下二層、二番街にコンパートメントを借りている。

 彼の言う「ヒトを生んだ海」が、地球の水の海なのか、それとも地球そのものを生んだ星の海、すなわち宇宙のことなのかは訊いたことがない。まあ、どちらでも構わないけど。

 ユーリはあたしの幼馴染で、小さい頃から強固な「彼ルール」の中で生きている。水面に顔を浸けてはいけないとか、靴をはくときは必ず右足からとか、シャツを着るときは左腕から通すとか。全てのルールを数え上げれば相当な数になるはずだ。さぞかし窮屈だろうと怠惰なあたしは思うのだけど、ユーリが言うには、ルールがないと不安らしい。そんなものだろうか。

 二層二番街といえば、一仕事終えて社用港を出て、ユーリの金髪が低G下でのように揺らめかなくてつまらない、などと詮無いことを考えているうちに着く距離だ。

 リフトを降りて、マーケットに寄って適当に買い物をしてからコンパートメントまで歩く。いつもと変わらない、あたしにとっても家路と呼べるほどに馴染んだ通りを、ほとんど無言のまま辿る。一緒に過ごす時間が長すぎて、沈黙さえ気にならない。同期の友だちなんかは、熟年夫婦みたいって笑うけど、常に何か喋ってないと気詰まりだってほうが不健全じゃない?

 カードキーで、ロックを外す。おもちゃみたいなキッチンとリビング、宇宙船のキャビンと大差ないベッドルーム、棺桶みたいなシャワールーム。本当にままごとセットのようなコンパートメントだけど、ユーリの創意工夫と几帳面さでもって窮屈さは払拭され、驚くほど居心地がいい。

 コンパートメントに着いてまず何をするかといえば、テレビを点ける。宇宙にもニュースは配信されるから、月に戻ってきて時代の変化に取り残される、なんてことはないけど、タイムラグなしに映像や音声を楽しめるのは、やっぱり嬉しいものだ。

 買ってきたスナック菓子やサラダを開封していると、目の端に赤いものが閃いた。緊急ニュースの通知音が静寂を乱し、あたしとユーリは反射的にテレビに向かった。職業病のようなものだ。赤い点滅を見ると緊張する。

 キャスターが強張った面持ちで電子ペーパーを手にしている。よくないニュースだ、と察したあたしが唾を飲んだ音が、やけに大きく聞こえた。


『接触事故 月軌道上 アストロニクス社の補給港大破』


 キャスターの声よりも早く、テロップが目に焼きつく。

 キャスターが原稿を読み上げると、画面が事故現場の映像に切り替わった。軌道港の事務局に設置されたもので、突然の衝撃に激しく振動する室内、アストロニクス社員の悲鳴、状況はと叫ぶ男性の声、外部と通信を試みるコール音――事故のショックと動揺が混乱へと発展し、パニック寸前にまで高まる様子がありのままに記録されていた。

 現場周辺を望遠で撮影したライブ映像は、青く眩しい地球、ひしゃげた軌道宇宙港のシルエット、それに半ばまでめり込んだ小型の船、周囲に霧のように漂う漏れたエアと大量のデブリ宇宙ゴミを鮮明に映し出していた。

 喉がからからで、舌がうまく動かない。

 あたしたちが言葉を失って立ち尽くしていると、会社の支給品である携帯端末がメールの着信を知らせた。素早く手を伸ばしたユーリが端末を起動して、ニュースと同じ内容のテキストメールが配信されてる、と震える声で呟いた。

「……出勤?」

「追って連絡するって」

 ただぷかぷかと浮かんでいるだけのように見える軌道港だけど、それはあくまで見かけ上の話で、軌道港も宇宙船も秒速何キロという速度で動いている。そんな速度で運動している数トン、数十トンの質量がぶつかりあう――もちろん、ただでは済まない。

 船員や補給港職員の安否は伝えられておらず、ニュースは周辺軌道の航行を禁止する旨、軌道上の港は高度を上げてデブリに警戒することなどを告げていた。

 このような接触事故は大なり小なり起きていて、決して珍しいものではない。地球で人類が暮らしていた頃、水の海でも事故が絶えなかったように。海を隔てては暮らせないのも、まったく同じだ。

 息を呑みつつ、顔をしかめつつも事故の映像から目を離せないのは、暗黒の宇宙にきらめきながら散るデブリはとても美しいのに、そのひとつひとつが人の命を奪うのに十分な破壊力を有しているというギャップを知っているからだ。

 あたしたち船乗りは、こういった事故の際に率先してデブリ処理を引き受ける義務がある。別の会社の補給港だから、今はオフだから、そんな理屈は通らない。接触事故で生じたデブリが周辺宙域の船にぶつかりでもしたら? 船は傷つき、またデブリが生まれる。そしてそのデブリが他の船にぶつかり……連鎖は、月軌道がデブリに覆い尽くされるまで続く。

 それはつまり、天蓋と化したデブリ群をどうにかする画期的な手段が実行されるまで、あたしたちがこの月面に閉じ込められるということを意味する。緩慢な死と言ってもいいだろう、月面だけでは都市機能を維持できないから。

 ほぼ間違いなく、出勤要請がある。帰港したばかりで、船はメンテナンスに出しているけど、補給を受けただけですぐカタパルトに移されるに違いない。

 同じことを考えたのだろう、ユーリは開封したばかりの食べ物を実に芸術的な手捌きで片付け、あたしにちらりと視線を投げて寄越した。

 携帯端末が音声通話をコールする。ユーリの端末だ。はい、と応じるユーリの声は完全に落ち着き払っていて、衝撃的な事故の映像を見た直後だとは思えなかった。

「はい、すぐに出られます。……ええ、大丈夫」

 もう一度投げられたユーリの視線を、今度はきちんと受け止め、頷いて見せた。きっと、バディであるあたしと連絡がつくかと尋ねられているんだろう。

「行こう、ほたるちゃん」

 ほんのわずかな時間で通話を終えたユーリは手を伸ばして、あたしの髪に触れた。アジア系であるあたしは黒混じりの茶色という中途半端な色の髪と眼をしていて、ユーリの綺麗な金髪と紫の眼という鮮やかさを羨ましく思うこともある。

 ほつれたあたしの髪を掬いあげ、きちんとひとつに束ねなおしてから、ユーリは場違いなほど穏やかな笑みを浮かべた。

 笑っている場合じゃないでしょうと怒鳴るのは簡単で、でも彼の笑みで緊張がほぐれたのを見過ごすことはできなくて。

「ありがと」

 あたしも微笑んで、ちょっと汗くさいユーリのシャツにおでこを押しつけた。彼はあたしより体温が高くて、いつも温かい。

 すぐに体を離して、でも名残惜しくてユーリの背を叩いた。痛いよという抗議は放っておいて、姿勢を正す。

「さあ、仕事よ、ユーリ」

 コンパートメントを出るにも、ルールがある。彼が水周りやブレーカのチェックを(ルールに基づいて)している間、あたしは携帯端末を立ち上げて、事故関連のニュースに目を通していた。

 そう、ユーリはルールを守らずにはコンパートメントを出られないけど、あたしがルールを破ることには何も言わないのだ。

 ユーリのルールには、必ずあたしひとりぶんの余裕がある。そう気づいたのはつい最近のことだけれど、それがどんなに幸せなことか、ルールの数と強制力を知っているあたしにはわかる。

 誰かに――彼に認めてもらえるということが、どれほど尊いことであるかは。

 月や地球に近い軌道でデブリを拾い、年に一度は火星やメインベルト近辺にまで足を伸ばす長期航行に出る。バディであるユーリとあたしは、ふたりきりで過ごす時間がとても長い。無限に広がる星の海、暗黒の大海原で、ちっぽけな社用船にふたりきり。そんなストレスフルな状況でも、特にトラブルなく過ごせているのは、あたしの短気をユーリの余裕とルールが補ってくれているからだ。

 あたしたちのように、宇宙船操縦免許を持ち、船内・船外作業員として採用された者は入社後、飽きるほど心理テストやシミュレーション、ストレステストを繰り返し、その結果でチーム編成が行われる。さらには、宇宙服を着たら自動的にモニタされるようになるバイタルのログまでも、定時報告とともに本社に送られて、チーム編成の資料になる。

 こんな厳重な審査を何度も経ているというのに、あたしはユーリ以外の誰ともバディを組んだことがない。同じように、ユーリもあたし以外の誰とも組んだことがない。あたしたちのようなぺーぺーの社員が、編成に関与することは不可能だ。

 あたしとユーリの関係を何と呼べばいいのか、あたしにはわからない。

 偶然。運命。奇跡。どれも、ちょっと違う。

「赤い糸、とか?」

 ユーリは冗談めかして小指を立て、紫の目を細める。アンビリカルケーブルかもね、とあたしは返す。

 それはあまりにも身近で、けれどかけがえのないもの。小さくて大きな、ぬくもり。

 ああ、そうだね、ユーリ。

 ヒトは海を隔てては生きてゆけない。海のそばにいると落ち着く。本当に、その通りだ。


 ミネラルとアミノ酸をシェイクした水。それはあたしたちに、ひどく近い。

 あたしたちは、海から生まれた、ちいさな海だ。

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