7 てのひらまで
ぼくは走った。
商店街の狭い路地を抜けて、石造りの古びた階段を一段飛ばしに駆け下りて、踏切の遮断機をくぐって、まだ走る。
心臓が激しく暴れている。全身の血管が燃えるように熱い。太ももがパンパンに腫れて、足がつりそうになる。通行人にぶつかっては悪態を吐かれ、車にはねられそうになりクラクションを鳴らされ、無我夢中で走った。
今日でなければダメだ。
今日を変えられなければ、明日も明後日も変わらない。
ぼくと彼女の距離を今日、どうしても近付ける。
でなければ、あとは永遠に遠ざかっていくだけだ。
隣駅までの数百メートルを走る。駅前の停留所で、バスが止まった。
ぷしゅー、と音を立てて、バスのドアが開いた。
限界を迎えた足に鞭を打ち、加速する。頭がくらくらする。前傾姿勢で、さらに加速。あと三十秒、いや十秒待ってくれ。そうしたら追い付く。バスの中の彼女に。
「……待って!」
叫ぼうとした。声は出なかった。バスのドアが閉まる。エンジンが再びうなり、ウインカーがちかちかと点滅する。
バスが動き出した。
足がもつれて、転んだ。
歩道に倒れ込んだまま、ぼくは立ち上がれなかった。心臓が爆発しそうだ。全身から噴き出す汗が地面に落ちた。
追いつけなかった。バスは、彼女は行ってしまった。
クソ。本当に、何をやってるんだぼくは。
通りがかる人々が、歩道に倒れ込むぼくを見てバカにするように笑っている。
人通りの多い駅前で、ぼくは捨て鉢な気持ちになって座り込んだ。もうどうだっていい。誰にどう思われようと知ったことか。笑いたければ笑え。ぼくはバカだ。世界一のバカだ。笑ってろ、クソ。
「先輩?」
と。
彼女の声がした。
顔を上げると、そこに彼女が立っていた。
駅前の歩道に座り込むぼくを見て、彼女は驚いている。
「なにやってるんですか?」
すぐには返事ができなかった。
呼吸を整えるのに時間が掛かった。一度は落ち着いたはずの心臓が、また強く胸を叩き始めた。
「……バスに乗ったはずだろ? どうして、降りたんだ」
「え? 先輩が走ってるの見えたから。もしかしてわたしに用事かなー、と思って」
バカ特有のカンの良さか。
とか、なんとか。なんでもいい。彼女をいつも通りからかってやろうとしたのに、言葉が出なかった。
呼吸が整うのを待って、ぼくは立ち上がった。制服のお尻についた砂を、手で払う。
「実は……ひとつ、秘密にしていたことがある。キミにずっと黙ってたんだ。それをどうしても、今日言わなくちゃと思って」
「秘密ですか? どんなですか?」
「教えるわけないだろ。秘密なのに」
「え?」
「まあ本当は秘密だが、特別にぼくの秘密をひとつ教える。だから代わりにキミは質問に二つ答えろ」
「先輩は一つなのに、わたしは二つなんですか?」
「そうだ。世の中は不公平なんだ。わかったな」
彼女は黙って頷いた。
白い喉がこくりと動いて、唾を飲み込んだのが見える。
ぼくから目を反らさない。前髪の先を指で払った。
自分の心臓の音で、周りの何も聞こえなくなっていた。彼女だけを見ていた。
駅前の雑踏。大勢の人。ぼくは汗と泥まみれで、髪の毛はぼさぼさだ。
こんな場面で、告白ができるはずがない。ロケーションは最悪。
少しでも頭の働く利口な人間なら今日、こんな場所では想いを告げない。ふられるとわかりきっているから。
「好きだ」
それでも、ぼくは言った。
「キミのことが好きだ」
誤解しようもない一言を、彼女に伝わるように、ちゃんと。
「ずっと好きだった。先輩としてじゃない。キミに惚れている。この先も一緒に居たいし、他の男に渡したくない。だからぼくと、できれば長く、その……だから、好きなんだ。付き合って欲しい。つまり、恋人ということだ。ずっと一緒に」
何度も言葉を詰まらせた。
頭の中では順序良く組み立てていたはずなのに、自分が何を口にしているのかよくわからない。
構うものか。格好つける必要はない。ぼくはバカだ。どう思われたっていい。
ただ彼女に好きだと伝えなければ、死んでも死にきれない。
「ぼくはキミが好きだ」
最後にもう一度、言った。
「だからキミの、正直な気持ちをぼくに教えてくれ。ぼくをどう思っているのか。それからもうひとつ、答えを聞かせてほしい。ぼくと付き合ってくれるのか、どうか」
ぼくは震えていたと思う。
彼女も震えていた。頬を真っ赤に染めて、うつむいている。茶色の瞳がうるんで、とても美しかった。
「……わたし、中学の時に先輩の舞台、観たんですよ」
ぽつりと、彼女が語る。
「一昨年のことです。覚えてますか? 文化祭の時」
「文化祭って……」
忘れるはずがない。ぼくが高校一年の時、演劇部が舞台にあがったのは文化祭ただ一度きりだ。
「先輩、枯れ木Bの役でしたよね」
思い出したように、彼女は唇に手を当てて笑った。
「ひどい舞台だなぁ、ってわたし思ったんです。だって部員が四人なのに枯れ木の役がふたりもいるし。お話もゼンゼン頭に入って来なくて、やる気も感じられなくて」
ぼくらの演劇部は、熱心に部活に取り組むタイプではなかった。誰かが考えた適当な脚本を、舞台の上でグダグダと演じていた。誰もやる気がなかったのだ。
愚かなぼくひとりを除いて。
「その舞台で、先輩だけ違ったんです。本気で演技してるように見えました。本気で、自分は枯れ木なんだ、って思ってるみたいで……すごい全力で、なんか、感動しちゃったんです」
「でも、あれは……」
あの時は、証明したくて必死になっていた。
優秀だ、天才だと自分自身に言い聞かせるのではなく、本当に何かの才能があると他人が認めてくれるような、何かが欲しかった。
ただの凡人ではなく、何かの才能があるのだと自分に証明したかった。
「だから同じ演劇部に入りたいなって、思ったんです。先輩、思った通りの人でしたね。舞台の上で演技してる時とおんなじ。自分はすごいんだって、いつも本気で思ってる感じが……その、とてもかっこいいと思います」
少しはにかんで、彼女は言った。
「先輩もわたしのこと、好きなら良いなって思ってました。でも先輩ってプライド高いから、告白とかできない人かなとも思ってましたけど」
「それは……」
どういう意味か問い返す必要はなかった。
彼女の言葉を聞き、彼女の笑顔を見た。
これで答えがわからなきゃ、ぼくは本当のバカだ。
ぼくは一歩、彼女に近付いた。
彼女もぼくに一歩、近づいた。
互いの手がふれる距離。
体温を感じる距離。
「これからは恋人同士ですね」
ぼくと彼女の距離は、15センチに縮まった。
突然、拍手が聞こえた。
同じ学校の連中や、まったく知らない通りがかりの人々が、ぼくたちに拍手を送っている。バカにするように笑っている者もいる。中にはスマホで写真を撮る者もいた。
何を血迷ったか公衆の面前で、人通りの多い夕方の駅前で、同じ学校の連中もいる前で、ぼくは愛の告白をしていた。
いつから見ていた。いつから聞かれていた。やめろ、写真を撮ったそこのお前、クラスのメッセージにまとめて送信なんてするんじゃない!
「行こう。さっさとここを離れる」
「はい、先輩……あの、名前で呼んでいいですか?」
「あとにしろ」
祝福とも野次ともわからない声援の中、ぼくらは逃げるように走り出した。
息が上がるのも、心臓が高鳴っているのも、走っているからではない。
ぼくが伸ばした手を、彼女がつかむ。
てのひらまでの15センチが、重なってゼロになる。
思っていたよりもずっと、彼女のてのひらは暖かかった。
【了】
てのひらまで 鋼野タケシ @haganenotakeshi
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