6 すべてが手遅れになるまで、
「せ、先輩?」
彼女の声でハッと気が付き、慌てて手を放す。
彼女の腕に、触れてしまった。制服ごしでよくわからなかったが、彼女の腕は柔らかかった。気がする。触れたてのひらが焼けるように熱い。
足が震えている。声も震えている。心臓はバクバクと脈打っている。
「先輩……バス乗らないと、出ちゃいますよ」
「え、あ、ああ、そうだな……」
クソ。何をしてるんだぼくは。
「ぼくは……寄るところがあるから」
「え? え?」
彼女はバスと、挙動不審に陥っているぼくを交互に見ている。
彼女の顔をまともに見られない。ぼくは彼女に背を向けた。
こんな情けない顔をしている姿を、彼女に見せるわけにいかない。
「勉強は明日から、教えてやるから。今日は先に帰ってくれ」
「……用事があるなら、仕方ないです。それじゃ先輩、また明日です」
いつもと変わらない別れの挨拶を、彼女は口にする。
「また明日」も学校で会うだけの関係。一緒に部活をして、一緒に下校して。卒業すれば終わってしまう関係。
その関係を今日、新たなものに変えると覚悟を決めたはずだ。
それなのに。
「また、明日な」
いつもと変わらない言葉を口にして、彼女と別れた。
彼女を乗せて、バスが出発した。
夕焼けがビルの向こうに沈んで、空は青から黒へと色を変えつつある。ぼんやりと月が見えた。細くて白い三日月が、薄雲に透けて浮かんでいる。
仕方がない。どうしようもなかった。タイミングが悪かった。告白をしようと決めた瞬間に、くだらない疑念が頭をもたげてしまった。あれではたとえ好きだと言ったとして、気持ちはうまく伝わらなかっただろう。仕方がない。今日失敗したからって、気にする必要はない。チャンスはいくらでもある。機を待つのもひとつのやり方だ。諦めない限りは何度でもチャンスが訪れる。また明日も彼女には会えるのだし。だいたい何をやらせても超一流のぼくみたいな人間には、好きな女性に想いを告げる程度のことを……程度のことを……どうしてできないんだ。クソ!
足元に転がる石を蹴飛ばす。うまく当たらず、石は少しだけ転がった。
自分のバカさ加減に腹が立つ。好きな人に好きだと言うこともできないのか? 昨日だってできなかった。今日も無理だった。それが明日、できるようになるはずがない。
今日こそと決意を固めたはずなのに。何度もチャンスはあった。いざとなったら怖気づいて、他に好きな男がいるのかと落胆して……バカみたいに繰り返し何度も同じことに悩んで、チャンスがてのひらから零れ落ちるのを見過ごしてしまった。
たかだか60センチの距離が、いつまでも縮まらない。15センチまでの距離が永遠よりも遠く思える。
彼女に傍にいて欲しい、ずっと一緒に居たい。ただそれだけで、他には何もいらないのに。
昨日も今日も明日も変わらない。ぼくは先輩で彼女は後輩。
別れ際に「また明日」と言い交わし、それを卒業するまで、すべてが手遅れになるまで言い続ける。
あと一年もしないうちにぼくは卒業する。60センチだった彼女との距離はどこまでも遠くなって、もうお互いを認識できなくなるまで離れてしまう。
その時ぼくは、きっと後悔する。今日言えなかったことを、昨日言えなかったことも、明日は言えないことも。
彼女の乗ったバスが、遠く離れて行く。
バスが見えなくなる。
ふたりの距離が離れて行く。物理的な距離も、精神的な距離も。
ぼくは、走った。
走った。バスを追いかけた。信号が青になり、バスは再び走り出す。
すぐに角を曲がり、バスが再び見えなくなる。
走ったって追い付くはずがない。
ぼくは何をしているんだ。
追いかけて、追い付いたとしてどうするつもりだ。知るか、クソ。
だが、このまま終わっていいはずがない!
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