5 タイムリミットまで、もう時間はない。

 雲一つない空の、太陽が眩しい。

 騒がしい商店街の中を歩く。春の日差しと人の体温で、不愉快な熱気が辺りに満ちていた。たまに吹く風が火照った頬に心地よい。

 彼女は揺れる長い黒髪を指でかき分けている。


「今日はいませんねー、カモノハシ」

 居るわけがない。これだからバカは困る。

「先輩って卒業しても、演劇やるんですか?」

 急に、彼女は尋ねた。

「やらん」

「えー、そうなんですか?」

「別に演劇に興味があるワケじゃないからな」

「じゃあどうして演劇部に?」

「まあ……そうだな」


 もともと演劇部に入ったのも、演劇に興味があったからではない。

 ぼくは勉強が得意だし、何をやらせても超一流のセンスを持っている。このセンスが芸術的な分野においても通用するのかどうか、確認したかった。

 一年生の頃、栄えある初舞台において枯れ木Bの役を賜ったぼくは、全身全霊をかけて枯れ木Bを熱演した。あの瞬間、自分の中に眠る芸術的な才能にハッキリと気が付いた。まあ、誰にだって得手不得手はある。

 ハッキリ言って散々な舞台だったし、二度と演劇なんてやりたくない。


 部員がいないせいで部長にされてしまったが、ぼくは演劇を続ける気はまるでなかった。

 去年、彼女が部に入らなければ、演劇部だって潰すつもりでいた。


「ぼくのことはどうだっていい。それよりそっちは、どうして演劇部に入ったんだ」

「わたしはですね、単純ですよ。笑わないでくださいね? 一昨年の話ですけど、高校の演劇の、舞台を観たんです。その舞台で感動しちゃって、わたしも高校生になったら演劇部に入ろうって思って。その舞台に出てた人がすごいカッコよくて、今でもずっと憧れてるんですよ。少しでも近付きたいなって思って、だから演劇部に入ったんですけど」

 彼女の言葉に、ぼくは動揺を隠せなかった。

 彼女が憧れの相手を語る、その目は熱情に浮かされていた。

 わかりやすく言えば……まるで恋する相手を語るような。


(その憧れの相手は、男なのか?)

 喉元まで出かかった言葉を、押しとどめた。

 とても大事なことだ。知りたい。知りたいが、みっともない。嫉妬じゃないか。

 聞くべきではない。くだらん嫉妬に駆られる男ほど情けないものはない。

「そいつが好きなのか?」

 なのにぼくは、そんなことを聞いた。


 彼女はビクリと身を震わせた。

 ぼくと目を合わせようとしない。不自然なまでに真っ直ぐ、前を見ている。

 横目で見れば唇がぴくぴくと震えて、頬がニヤけるのを必死に堪えているようにも思えた。目が泳いでいる。顔がだんだんと赤くなっていく。


「……よくわかった」

「わたし、何も言ってません」

 むくれてそっぽを向く。

 気付かれないように、ぼくはこっそりと溜息を吐いた。


 彼女に好きな男が――ぼく以外に――いるなんて考えもしなかった。

 だってそうだろう。二人きりの演劇部だ。彼女から他の男子の話なんて聞いたこともない。

 いや、まあ、クラスに男子の十人や二十人はいるだろうが……しかし天才であるこのぼくが相手では、凡骨の下級生など恋のライバルにもならない。仮に彼女が誰かを好きになるなら、ぼくしかいないと思っていた。円周率ですら割り切ったこのぼくが痛恨の計算ミスだ。


 人を好きになるのに、一緒の時間を過ごす必要はない。彼女のように一目惚れをしてて、その気持ちを何年も持ち続けるなんてこともある。

 手の掛かる馬鹿な後輩を散々世話しているうちに、そのバカさ加減が愛おしくなる例ばかりとは限らない。


 彼女の惹かれている相手がぼくなら、どんなに良かっただろうか。

 一昨年、ぼくが舞台で演じたのは枯れ木Bだけだ。どこの世界に枯れ木の演技を見て惚れるバカがいるのだ。

 どう都合良く解釈しても、彼女の惚れた相手はぼくではない。


(好きな相手が、いたのか)

 急に、風が冷たくなった気がする。あるいは太陽が凍り付いたのだろうか。真夏を思わせる日差しも人ごみの熱気も、今は寒気しか感じない。

 今日こそ告白すると意気込んでいた気持ちが、空気の抜けた風船のようにしぼんでいく。


 断られるとわかってまで想いを伝える根性は、ぼくにはない。

 彼女だって迷惑だろう。当たって砕けろなどと昔から言うが、好きでもない相手に当たり屋同然にぶつかられる方の気持ちも考えろ。勝手にぶつかって来て、砕け散る様を見せつけるなど良い迷惑だ。恥を知れ。

 だから……だから、言うべきではない。


 本当に彼女のことを想うのなら、彼女に好きな男がいるとわかった今、想いを伝えるなど何の意味もない。

 ふられて今の関係が壊れるのを、恐れているわけじゃない。

 ぼくが気持ちを隠し通せば、ふたりの距離は変わらない。

 60センチ。先輩と後輩の距離から、離れることはない。

 彼女のそばにいて、彼女と一緒に歩いて、彼女の声を聞いていられる。


 バス停が、見えた。


「先輩、さっきから怖い顔してますよ?」

 彼女が言った。

「ときどき話を聞いてないのはいつも通りですけど……今日、なんかヘンですよね。なにか、あったんですか?」

 立ち止まり、彼女がぼくを見た。


 ドキドキする。彼女に見つめられると、体温が二度は上がる。だからぼくはいつも、平静を装うのに必死だ。このぼくが、だぞ。何をやらせても超一流の天才的頭脳をもったこのぼくが、年下の女の子ひとりに翻弄されている。

 ぼくは黙って彼女を見つめ返した。

 わずか数秒、ぼくらは無言で見つめあう。

 いま、ぼくたちの周囲には誰もいない。

 人通りの多い商店街で、二人きりの空間が生まれた。

 ぼくと彼女の距離は、60センチ。

 バス停はもう見えている。

 たぶん、これが最後のチャンス。

 このままの距離でいるか、それとも一歩を進めるか。


「何かなら」

 ぼくは真剣な口調で言った。

「ある。言いたいことがある。前からずっと、言おうと思っていた」

 ぼくは彼女のことが好きだ。

 言わずにこの気持ちを終わらせるなんて、どうしてもできない。

「なんですか?」

 彼女はニコニコと笑っている。


 再び見つめ合う、数瞬の沈黙。

 日焼けした肌。美しい長い黒髪。二重まぶたをぱちぱちさせて、透き通るような茶色の目でぼくを見ている。

 彼女はうっすらと汗をかいていた。緊張しているのだろうか。これからぼくが何を言うのか察して――察して?

 ジワリと、疑惑が胸の奥に染みこんでいく。

 彼女が緊張している? 

 なぜ緊張する必要がある。緊張するということは、ぼくが何を言うのか察しているのだろうか。

 つまり、彼女はぼくの気持ちを知っている?


 彼女はバカだが、たまに察しが良い。バカ特有のカンの良さか、ぼくの思惑をずばりと言い当てる時がある。

 それが今回も発揮されているとしよう。彼女がぼくの気持ち、今日告白するという考えに気付いているとしよう。

 その上で気にかかるのは、彼女がぼくに『できない』ことがあると言った点だ。

 まさか、ぼくに恋人が『できない』ことを揶揄しているのだろうか。

 まさか、ぼくのことを嫌っているのか?

 まさか、ぼくが告白した時に彼女は『イイエ』と言うのだろうか。

 それなら、ぼくにはこの先も恋人が『できない』ことになる。

 あの含み笑いは……どういう意味だ。


(先輩はいつもわたしをバカって言うから、お返しです……)

 彼女の言葉を思い出す。

 お返し? たしかにぼくは、彼女をバカにしている。実際バカだからだ。バカにバカと言って何が悪い。

 もしかしたら……ぼくの態度に、彼女は怒っているのだろうか。

 ちょっと悪ふざけが過ぎただろうか。もしや今まで、迷惑と思われていたのでは……。

「先輩?」

 黙り込むぼくを、彼女は不思議そうに見つめる。

 凍り付いたような笑顔でずっと、ぼくを見つめている。

 瞳の奥に宿る感情が見えない。彼女は何かを隠しているようにも見える。

 わからない。どんな問題でも読みもせずマークシートを埋めるほどの天才的頭脳を持つぼくが、彼女の気持ちひとつわからない。

 だから確かめるしかない。


「実は……ぼくは、ずっと。キミが」

「あ、先輩! バス来ちゃいました!」

「何!?」

 いつものバス停に、バスが停まっている。

 バス停までのあと数メートルを彼女は走ろうとして。


 ぼくは思わず、彼女の腕を掴んだ。

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