先輩と夕食を
黒野須
第1話
うちの先輩は、大変仕事に厳しい。私に対しても、他の誰に対しても、本人に対しても。それでいて、姉御肌でもある。
「おいおい、この小さいボルトに50ニュートンメートルかけろってか? 絶対指示ミスだろ? やれって言われたらやるけどさ、ネジ切れるぞ。いいの? やるの?」
先輩が厳しい口調で電話をかけている。今日中に完成させないといけない試作品の組み付けが、どうやら止まっているようだ。休憩時間になり、先輩と飲み物でも飲もうかと声をかけに来たのだが、仕方なく先輩の横に立つ。先輩はちらりと私を見て、再び机の上の書類に目を戻した。
「この前もおんなじ間違いしてたよな? さすがにちょっとひどすぎだろ? このボルトのトルクぐらいお前もわかってるだろ? 今日中にはやるけどさ、でもお前もちゃんと組付書直して持ってこい。すぐな」
先輩はガチャっと電話を叩きつけるように切った。もう少し女らしく、おしとやかにしていてもいいようなものだが、それがなかなかできない人なのだ。気分がそのまま行動に出る。
「たぶんしばらく来ないな」
と先輩が言う。
「今日は何時ころ帰れそうです?」
「一時間後に持ってくるとして、まあ七時だな。ちゃちゃっと終わらせるから、夕ご飯食べに行こう、伊里。金曜日だしさ」
伊里とは私の名前である。綺麗なのに、目が鋭利な刃物のように尖っていて、口が悪くて、しかも気難しいこの先輩は、三十を過ぎていまだ独身。世の中浮足立っている金曜の夜、月に三回は夕ご飯と称して私と二人で飲みに行く。場所はオシャレさを微塵も感じさせない居酒屋。もう少し気の利いたお店にしても良い気がするが、なかなかそういう話にはならない。今日もきっとあそこだろう。
「いいですよ、今日はたまたま暇ですし」
「先週も、先々週もだったけどな」
と先輩が嬉しそうに言うので
「華の金曜日に寂しそうに独り日本酒飲んでる先輩を想像したら、合コンの予定も入れられませんからね」
と言い返す。そうすると、
「うるせーばーか」
といつもいつも子供みたいな反応をしてくる。仕事のときはびっくりするぐらい理論的で、大卒の男どもを言い負かし、会社の中でも一目置かれる存在なのに、私と話すときは幼稚なことしか言わない。
そんな先輩との金曜日の夕ご飯を、正直、いつも楽しみにしている。
先輩の予想通り、七時ちょうどに仕事を終え、車通勤の我々は一旦お互いの家へと帰り、いつもの居酒屋に集合した。いつもと同じ通路に面した半個室のような席に通される。
「生ビールとレモンチューハイと青菜炒め。あと、ウインナー盛り合わせ」
私は何も言っていないのに先輩が頼む。生ビールが先輩の分で、レモンチューハイが私の分だ。
「いっつも勝手に頼みますけど、たまにレモンチューハイの気分じゃないときがあるかもしれないですよね?」
と私が言えば
「そんときはお前止めて注文変えるだろ」
と笑っている。くすくすって感じで、先輩の笑い方は結構かわいい。指摘内容については当たっているので、特に何も返さなかった。
「明日何しようかなあ。ソフトボールの試合見に行こうかな。伊里は何か用事あるの?」
「まあ、ちょっと」
「なんだよちょっとって。隠すなよ」
「まあ、ちょっと、映画にね」
「なんの映画?」
「名前忘れちゃったけど、最近話題になってる恋愛映画あるじゃん。朝のニュースとかでよく特集組んでるやつ」
「誰と?」
「先輩には関係ないかなあ。ふふふ」
そう話をしているうちに、ジョッキが二つ運ばれてきた。どん、と音をたててテーブルの上に置かれる。
「まあまあ、まずは一週間お疲れさまでした、先輩」
冷たいジョッキが涼しげな音をたてる。楽しい楽しいウィークエンドの始まる鐘の音だ。福音だ。
「お疲れ。でも今週は確かに疲れたなあ。設計が大変なのもわかるけど、その尻拭いさせられるのうちらだしなあ」
私たちの会社は機械製品を扱っていて、私たちの仕事はざくっと言うと試作品を組み付けるのが仕事だ。設計の人が遅れてしまっても、仕事の期限は変わらないわけで、結局私たちがその分埋め合わせすることも多い。今週は、特にそういうことが多かった。先輩もそうだが、私だって今週はいろんな人に振りまわされた。今日は七時に終われたけれど、月曜から木曜はもっとずっとずっと遅かった。
まあだからこそ、この日この時この瞬間が格別なわけだけど。
「はい、青菜炒めね」
店員のおばちゃんがそう言ってお皿をテーブルの中央に置いた。楕円形の白いお皿の中央に、深い深い緑色の青菜が、ニンニクの欠片や小エビをところどころにあしらわせて、その出汁をたっぷりと含んだお汁をまとっている。白い湯気とともにやってくるほんのりとしたニンニクの香りのせいで、私は先輩に断ることなく箸を伸ばしてしまった。
口に運ぶ。
最初に感じるのは小エビから出ているうま味とニンニクの香り、そしてちょっと強めの塩気。噛みしめるとやってくるのが青菜の甘味と、そしてちょっとだけ残っている苦味。二回三回と噛むと、それらが口の中で混ざりあう。ほうれん草のおひたしみたいなもちゃっと感と、芯のあたりが残しているシャキシャキ感。飲み込むと、舌が少々残った塩気を感じていて、それをレモンチューハイで洗いながす。レモンの酸味、炭酸のぱちぱち、アルコールのぴりっと感が口を、喉を駆け抜けて、さらっと滝みたいに洗い流していく。
「美味しい。やっぱり美味しい。このお店の青菜炒め、やっぱり美味しい」
「本当だよな。これ食べるとなんか一週間が終わったって感じがする」
先輩はあっという間にビールを飲み干し、またビールを頼んだ。心なしか、顔が赤みがかってきた気がする。二杯目のビールと一緒に、ウインナーの盛り合わせが運ばれてきた。今度は黒い正方形のお皿に薄いレタスが敷かれ、その上に白いウインナーと茶色いウインナー、それにお母さんが昔お弁当に使っていたアルミのぎざぎざしたお皿があって、中にはケチャップとマスタードが添えられている。先輩が茶色いウインナーを箸で取って、真っ赤なケチャップをつけて口に運ぶ。白い歯でそれをかむとパリッといい音をたてた。
「私ね、ウインナー大好きなんだよね」
「その話、何回聞いたかわからないですよ」
「何度もしたくなるくらい好きなんだよ」
そう言って先輩はビールをまたぐびっとあおった。
「そういえば伊里、お前自分の家でウインナー食べるとき、どうしてる?」
「どうしてるって?」
「茹でる? 炒める? レンチン?」
「あー、どうだろう、フライパンでちょっと炒めるかなあ。それも面倒なときはレンジですね」
「そうだよな、私もそうだったんだ」
先輩はそう言って、意味深な笑顔を浮かべる。
「土曜の夜一人で飲んでたんだけどさ」
「いい加減一人飲みやめなって」
「なんだよ! 楽しいんだよ、一人で飲むお酒。ちょうどウインナー食べたくなってさ、そういえばウインナーの美味しい食べ方ってどんなんなのかと思い立ったわけさ。それでインターネットで検索したわけですよ」
「ふんふん」
私は白いほうのウインナーを箸でとって頬張る。ぱりっと表面の皮が弾けて、肉汁が口の中であふれる。ちょっと熱いけど、それがまた良い。
「そうしたらね、見つけたんですよ、美味しい食べ方」
「ほうほう」
「まず、お鍋にウインナーが半分ひたるくらいの水を入れます。水の量は完全に浸かるくらいだとか所説あります」
「お鍋に」
私は、鍋に”お”をつける先輩が、普段の粗暴といってもいいくらいな行動と合っていなくて、なんとなく面白かった。
「まずはボイルします。するとね、ウインナーがむっちりしてくるんですよ、伊里さん」
「むっちり?」
「そう、むっちり。それはもうエロティックに。そう、私気づいたんだ、ウインナーはエロティックなんだよ。早く食べてくれって訴えかけてくるんだけど、ここは我慢。しばらくボイルし続けて水を飛ばします」
「むっちり? エロティック?」
「やってみればわかるって。で、そのあと軽く焦げ目をつけるんだ。軽くね。焼きすぎるとパリって割れるから注意して。そうしたらね、それがもう本当に美味しい。ああ、今まで私はなんでこの作り方をしてこなかったんだろうって反省するくらい。ぱりっとして、ジューシーで」
「むっちりでエロティックで張りがすごくてジューシーなの?」
「そう。是非やってみて」
「先輩、なんか人生楽しんでますよね」
私は心の底から言葉を紡いだつもりだったのが、先輩は顔しかめる。
「馬鹿にしとる?」
「してないって!」
私はレモンチューハイを飲み干し、店員さんにグレープフルーツハイを注文する。ちょっと高い、本物のグレープフルーツを自分で絞るやつだ。
「でも、ちょっとやってみたくなりますね、それ。むっちり」
「だろ? 本当に美味しいんだって。ビールに合うんだよね、また」
「じゃあ明後日、やってみようかな」
「お前明日デートだもんな」
先輩はそう言ってため息をついた。
「もう三十一だしなあ。周りは結婚してるし、子供いるし、家もあるし。遊んでくれるやつ、いないんだよなあ。お前も付き合ってくれなくなるんだろうな」
急にしんみりとした口調で言った。何かあったのだろうか? いつもだったら一人楽しすぎる! って感じなのに。気を落としている先輩が珍しいのと、妙にかわいかったのとで、
「お歳召されましたね」
と茶化してみた。すると先輩がいつもの怖い目をさらに吊り上げる。ちょうどいいタイミングでグレープフルーツハイが来たので、視線をそらしてグレープフルーツを手に取った。果物を絞る用の大きな突起のついたお皿に乗せ、ぎゅーっと力を込めて回す。実がつぶれ、種が漏れ出て、ジュースがあふれる。見方によってはスプラッターだ。心を鬼にしてもう一度力を込めてジュールをひねり出し、種ごとジョッキに流し込んだ。
「別に先輩だってちょっとだけ頑張ればすぐ見つかるって」
「頑張る気がないんだよ」
「そんなこと言われたら、じゃあもうどうしようもございません、ってしか言えねーよ」
マドラーが一緒についてこなかったので、お箸を代わりにジョッキをひとかきし、飲む。昔はグレープフルーツって好きじゃなかったんだけど、今じゃ普通に食べられる。この変化が起きたのはいつ頃だっただろうか。人は簡単に変わらない、という人もあれば、一方なにかの拍子にころっと変わってしまった人の話も結構聞く。一筋縄にはいかないもんだ。
「まあ、いんだよ、先輩は、もう少しそのままで。そのうちほっといても変わるんだって」
「勝手なこと言うな」
確かに、このままでいられると一生独身なわけで、あまり調子がいいとはいえないかもしれない。結婚することが全てではないけど、本人がこうも寂しがっている以上は、現状維持は後退に等しい。
「いいんですよ、もうちょっとだけ。もうしばらく、付き合ってあげますから」
そう言うと先輩は、一瞬嬉しそうな表情になったのだけど、それをあわてて隠すようにジョッキを持ち、顔を思い切り天に向けてビールを飲んだ。
「まあ、あんまり甘やかすと一生このままですから、適度にですけどね」
「うるせーばーか」
先輩は顔を真っ赤にしている。会社での凛々しさが嘘みたいに、かわいい少女・・・というか、かわいいヤンキーだ。私がちょっとにやけてしまったので、ますます面白くなさそうにしている。
「あっ、すいません、注文いいですか?」
先輩はまたあっという間にビールを飲み干し、追加の注文をする。
金曜日の夜はまだまだ始まったばかりである。
十時を過ぎたころ、今日は帰るか、という話になった。お会計は先輩がちょっとだけ多めに払ってくれた。お酒を飲んでいるからか暑く感じられ、外に出たときの風が涼しい。駅のほうからは会社帰りの人が何人か歩いてくるのが見える。あの人たちが明日休みとは限らないが、心なしか足取りが軽いようにも見えた。
「じゃあな。また月曜日」
月曜日かあ、考えたくないなあ。月曜日ちょっと面倒なことがあるんだよなあ。
「あーあ、いきたくねー。仕事したくねー」
「私もだ! じゃあな」
先輩が手を振って、駅のほうへと向かっていった。先輩が手を振るのをやめたところで、私も家のほうへと歩き出す。
その途中、携帯が鳴った。
例の、明日約束のある男から連絡があった。
要約すると、明日よろしく、という内容だった。
こちらも同じような内容の文章を返す。
結局聞けなかったが、先輩は明日何をするのだろう?
ソフトボールがどうとか言っていたが、行くのだろうか?
確か先輩は昔ソフトやってたんだったな。後輩の応援か何かだろうか。
「でもなー」
と思わず声に出てしまう。
「むっちりって」
ウインナーを見てあんなこと言い出す人初めて見た。しかも、すごく楽しそうに話しをしていた。あれを見ていると、確かに気になってしまう。明後日スーパーに行ったらウインナー買って、やってみよう。せっかくだし、おすすめの組み合わせであるビールも買おう。
携帯がまた鳴った。例の男かと思ったが、違った。先輩だ。
”明日八時には起きないといけなくなっちゃったので、寝坊したくないので起こしてください。伊里明日早いでしょ?”
とのこと。
”私はお母さんじゃありません”
と送ってすぐ
”いいですよ”
と続けた。
ふと、夜空を見上げる。
何という星なのかはわからないが、いくつか強い光を放つ星が、地球さんのほうの荒々しくて禍々しくて猛々しい光に負けない強い光が、ぽつぽつと見えた。都会の夜空だなあと思う。
この時間がもっとちょっとだけ続けばいいのにな、と思った。
先輩と夕食を 黒野須 @kuro_2nd
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます