3 希望
コンビニの袋から、急いでおにぎりを一つ取り出すと、徳島は包装紙を破って大きく一口かぶりついた。この車を降りた瞬間から初動捜査が始まり、そのまま周囲の訊き込みに回るはずだ。いま食べておかないと、夜まで食べる機会なんて絶対ないと徳島は思った。朝五時に連絡を受けて、そのまま車で駆けつけたので、朝食らしい朝食なんて食べる時間はとてもなかった。
車の窓からは、茶色い雑居ビルのエントランスが、道の向こうにわずかに見えた。ここからでも、事件現場を示す黄色いテープが見える。すでに鑑識課が現場に入ってから一時間は経過しているとのことだから、そろそろ捜査員の立ち入りも許可されるだろう。
いきなり、運転席の窓がこんこんと叩かれた。徳島がおにぎりをほおばりながらそちらを見ると、眉間に皺を寄せた栗橋が車内を覗き込んでいた。徳島は、ペットボトルのお茶を一口飲んでから、窓を開けた。
「遅いぞ、徳島」
「すいません、そろそろですか?」
「もうちょっとかかるようだ。どうやら指紋も足跡も山のようにあるようで、鑑識も採取するのに時間がかかっているらしい」
了解ですと云いながら、徳島はもう一口お茶を飲んだ。栗橋は車の前方から回り込んで、助手席のドアを開けて乗り込んできた。
「そういえばさ、天使の盾。やはり解散するらしい」
徳島は二個目のおにぎりの包装紙を破った。
「正直、残念ですね。児童虐待の防止ということでは、結構な実績があったわけですから」
「あんな事件を起こしちまった人間が、二人も出たからな。それに」
栗橋は、少し声を低めて云った。
「もう一人、自首したことで、報道がまた過熱してる」
「ええ」
徳島は、残りのおにぎりを口のなかに押し込んだ。
川田美恵が自首してきたのは、徳島が千葉で彼女と会った二日後のことだった。警視庁では、彼女の自首によってこれまでの捜査を再度検証する必要が出たらしく、捜査一課内に専門のチームを立ち上げたと徳島は訊いている。
栗橋も、川田の自供内容を訊いて、ずいぶんと衝撃を受けたようだった。特に、彼女の子供たちの死に、宇木田高雄が関係していたことは栗橋を驚かせたようだ。児相の立ち入り調査に同行したとき、川田美恵は、助け出した少女を我が子のようにしっかりと抱きしめていた。その光景は、徳島だけでなく栗橋の脳裏にも焼き付いていたのだろう。栗橋は川田美恵の自供を知ったあと、目を真っ赤にして、つらかったろうなあと呟いていた。
「天使の盾な。ここだけの話、ほとんど同じスタッフでまた似たような法人を作るそうだ」
「ずいぶん詳しいですね。先輩、それ誰から訊いたんです?」
栗橋は、鼻の頭を指先でかいていた。
「いや、まあ。めぐみちゃん」
徳島は、唖然とした。
「めぐみちゃんって、天使の盾にいた娘ですよね。いいんですか?」
「いいんだよ、これぐらい。彼女は別に事件の関係者でもなんでもないんだから。ただほら、訊き込みで知り合う縁てのもあっていいんじゃないか?」
「知りませんよ、宮部班長が何と云うか」
「お前、絶対に云うなよ。まだ、友達以上にもなってないんだから」
徳島は思わず笑いがこみ上げてきた。栗橋はこの手のことには結構奥手で、いままでこういった話題はほとんど訊いたことがない。
「僕は先輩と違って口が堅いですから」
「まだ根に持ってるな? 奥さんと仲直りできたんだから、もう時効だろう」
「あれからまだ半年も経ってませんからね。時効と云うには早すぎます」
「ちぇ。そういえば、予定日はいつ頃なんだ? 洋子さん、もうだいぶお腹大きいんだろ?」
「予定日は四月上旬です。お腹が邪魔で、自分の足の爪も切れないって、ぼやいてましたよ」
徳島は、パジャマ姿の洋子が自分の足の爪を切ろうと悪戦苦闘している姿を、昨晩見たばかりだった。彼女はお腹がかなり大きくなっていて、終始文句ばかり云うようになっているが、自分のなかで日に日に育っていく新しい命を感じて、実に幸せそうだった。
徳島は、川田美恵と話してすぐ、洋子のいる実家に足を運んだ。彼は、率直にそのときの自分の考えを妻に話した。いま思えば、彼女にはうまい云い方や言葉では伝えてやれなかったように思う。ただ、「生まれてくる子供を愛してやりたい」と云っただけだ。しかし、洋子は彼の言葉を訊いて、また家に戻ってくれると云ってくれた。正直、徳島は「なんだ、こんなに簡単なことだったのか」と拍子抜けした気分だった。
洋子は、家に帰ってから一度だけ徳島に夢のことを訊いてきた。いまでも見るのかと、慎重に質問してきたのだ。彼は、もう見ていないと答えた。実際、あの自分の子供を叩く夢は、川田美恵と話した日以来、一度も見ていないことに徳島は気がついていた。
栗橋が運転席の窓の向こうに何か気づいたようだった。そちらを見ると、鑑識官の一人がこちらに手を振って合図をしている。
「どうやらもういいらしい。行こうか」栗橋が、助手席側のドアを開けながら云った。
徳島も、栗橋と同じタイミングで外に出た。早朝の空気は、少し肌寒くて気持ちよかった。
ポケットから取り出した鍵で、鉄製の扉を開けた。
できるだけ音がしないように、玄関のなかに躰を滑り込ませ、そっと扉を閉める。室内はうっすらと明るいようで、足下に靴が並んでいるのもわずかに見えた。洋子が、自分が寝てから徳島が帰ってきても暗い気持ちにならないようにと、ほんの少しだけ照明を点けてくれているのだ。
徳島は、靴を脱いでから廊下を歩き、リビングに入った。半年前とは比べものにならないほど、きれいに整頓された室内。テーブルの上に置かれた一輪挿しの小さな花瓶には、徳島にはわからない可愛らしい花が活けてあった。
ソファの上を見ると、これから親になるための心得がびっしりと書いてある雑誌が、二冊ほど置いてある。この内一冊は徳島も見覚えがあった。昨晩、洋子と一緒に読んだ雑誌だ。
彼はスーツの上着を脱いで、ソファの背もたれにかけてから苦笑した。もう一度上着を手に取ると、部屋の隅にかけてあったハンガーを使って壁にかける。
何気なくスーツの内ポケットのなかに手を伸ばすと、そこにミントキャンディのケースが入っていた。試しに振ってみると、何の音もしなかった。一粒も入っていないようである。思えば、もうこれを食べなくなってからずいぶんと経つ。
徳島は、寝室にそっと入った。
ダブルベッドの脇に、木製のベビーベッドが置かれている。洋子の実家から送られてきた品で、なかはもちろんまだ空だ。
ベッドの上で、洋子が寝ているのがわかった。ほんのわずかに寝息が聞こえてくる。予定日が近い彼女は、最近仰向けではなくて、右側を下にして眠るようにしているらしい。この方が安眠できると云っていたが、寝息を聞く限りでは確かに効果はあったようだ。
徳島は、着替えもせずに布団のなかに入ると、洋子に寄り添って横になった。彼女の寝顔は、ほんの少しだけ笑みを浮かべているように見える。
彼は、洋子の寝息に自分の呼吸を合わせ始めた。洋子が息を吸うと徳島も吸い、吐くのに合わせてゆっくりと息を吐く。こうしていると、一日の疲れが徐々に和らいでいくような気がするのだ。
徳島は自分の手がきちんと暖まったのを確認してから、洋子のお腹に手をあてた。暖かい感触が手の平から伝わってきて、そのあとに鼓動のようなものを感じたと、徳島は思った。気のせいだということはわかっている。しかし彼は、それが我が子の鼓動だと確かに信じていた。
目をつぶって手の平に意識を集中する。そこから、この子との対話が始まると思っている。
早く出てこい。君に、俺と洋子の愛情をたくさん伝えたいから、早く出てこい。
徳島は、何度も何度も手の平に向かって意識を飛ばした。
やがて彼は、眠りに落ちた。
アルテミスの刃 来瀬震 @akaneko999
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