皐月〈後編〉


 ざばぁぁあぁぁ…………


 豪雨。

 ――ゲリラ豪雨です。

 アスファルトにバケツの水を叩きつけるような雨。窓の外が薄暗く煙って、センターの庇から垂れる雨水が、まるで滝のよう。

 そして、窓の向こうに、稲妻の輪郭がくっきり浮かび上がったかと思うと、おへその辺りがゴロゴロしてくるような雷鳴が……。


「怒らせましたね」

「はい?」

「神鴉様を」

「ええ? 神鴉さん、お怒りの表現こんなに派手なんですか?」


 派手過ぎません?


「神様だからね」


 こんぺいとうを摘まんで掌に載せながら、花子ちゃん。

 待って。詳しく。


「可部さん。責任を持って謝罪に当たってください。可及的速やかに、です」

「私の所為なんですか?」

「あなたの所為です」

「私、何をしたんですか?」


 世間話をしただけでは? 

 伺いたいけれど、狛犬さんの視線が真剣過ぎて怖いです。矢じりみたいに尖ってます。

 息を詰めて、理由を考える私に、花子ちゃんが助け船を出してくれました。


「神鴉様は、宮島をディスると傷つくみたい。宮島大好きだから」

「いつ、私が宮島をディスりましたか? ……あっ」


 あっあっ。

 花子ちゃんの返事がある前に、自分で思い当たる節を見つけてしまいました。

 もしかして、フラワーフェスティバルのことを、広島一の祭典……みたいなニュアンスでお話してしまったのが、まずかったのでしょうか。


 ……多分それです、そんな気がしてきました。

 実際、私はそう本気で思っている節があるので、きっと言外からも伝わってしまうものがあったのでしょう。


「そんな。他を軽視するというような、深い意味を込めてのことではないのですよ? 確かに宮島にもお祭りはあった筈ですが……。ええと、管弦楽……祭……でしたでしょうか」


 そう、観光協会かどこかのポスターを拝見したことがありました。

 赤い鳥居と青い海をバックに、平安時代の趣がある、みやびな船が浮かぶさま。

 あれはとても素敵でした! 

 ――と、みなまで続ける前に、狛犬さんの眉間のしわが深くなり、外の雨音と雷鳴が更に激しくなります。


 ざざっざざざざぁ。びしゃぁぁ。


 ぴしゃん。どこーん。ぴこしゃーーーーん!


「可部さん……。あなた……。いっそ、フルートかバイオリンでもお持ちになって、ここで掻き鳴らしたらどうですか? ぼく達に対する挑戦なら、受けて立ちますよ」

「えっ……、えっ?」

「管絃祭」


 疑問符と困惑の波に溺れそうな私に、花子ちゃんが窓口からメモ用紙とボールペンを持って来て、実際に書いてくださいます。


「管弦楽のげんとは、ちょっと違うんだよね。ゆみへんじゃなくて、いとへん。かんげんさい」

「本当ですね。すみません。……お怒りになるっていうことは、神鴉さんには私が間違って覚えていることなど、筒抜けなのですね……」

「当然でしょう。神様なんですから」


 狛犬さんは胸を張ります。


「そうですね。……でも、何だか、頭の中身が丸見えになっているようで、居た堪れないような……」

「今更です。そもそも、人間の能力値であの方をはかろうなんて言うのが大甘なんですよ。今こうして喋っていることも含め、あらかたのことは、あの方の知るところです」


 何ですと。

 私は耳を疑いました。

 それなら、こそこそ情報収集なんてせずに、即、お詫びに参上した方が良かったのでは……。

 ポーカーフェイスの裏側でのけぞりそうになる私に向かい、狛犬さんは冷ややかなまなざしをくれてから、説き聞かせるように、ことさらゆっくりとおっしゃいました。


「ちなみに。日本3大船神事、管絃祭が行われるのは、旧暦6月17日です。5月にあるのは、別の神事。可部さんの仕事に関係することなんですから、もう少し、勉強したらどうですか?」

「……はい」


 正論過ぎて、ぐうの音も出ません。

 ……彼の方が、私などよりよっぽど、教師に向いていそうです。


  *   *   *


「おや、可部さん。どうかいたしましたか?」

「いえ、その。……お邪魔して良いですか?」

「もちろんです」


 図書室に入ると、すぐ視界に入る位置に神鴉さんがお掛けになっていました。

 自治体議会に関する雑誌の最新号を読んでおられます。

 あやかしさん側は、いっしょうけんめい人間側のことを勉強してくださっているのに……と、私は、自分が恥ずかしくなりました。


「その……宮島では、御島巡式おしまめぐりしきが、もうすぐあるんですよね。ご準備などでお忙しくはないですか?」


 不勉強のお詫びをどう切り出して良いものか。

 考えつつの言葉は、我ながらわざとらしく、己の瑕疵を隠そうとする意思にまみれてます。

 建前と保身。それだけでよろった言葉は、全知の存在であるらしい神鴉さんのお耳には、大層お聞き苦しかったことでしょう。

 それでも神鴉さんは、少なくとも表面上は、軽蔑や査定とは程遠く、親しげで敬意の篭もったまなざしを向けてくださるのです。


「いえ。神事の準備は神職の皆さんが良くしてくださるもので、私の出る幕はないんですよ。私は御鳥喰式おとぐいしきという儀式の中で、飛んで行って、海上に置かれた団子をくわえて立ち去れば良いだけ。気楽なものです」

「そんなこと……」


 狛犬さんから発破をかけられた後、ロビーから図書室に向かう途中にある給湯室に隠れて、私は自分のスマートフォンで検索を行いました。

 そして、毎年5月15日に宮島で行われているという、御島巡式神事のことを知ったのです。


 それは、1400年ほど前の話。

 その頃、宗像三女神むなかたさんじょしん様が天照大神あまてらすのおおかみ様の命を受け、西海に新しいご鎮座先をお求めになったそうです。

 姫神様がたは宮島をお気に召されたので、そこに御殿を造るよう、地方豪族だった佐伯鞍職さえきのくらもとにお命じになりました。

 宮島のどこに御殿を建立いたしましょうと鞍職が尋ねると、姫神様がたは、高天原から連れて来た鴉が案内するでしょう、とお答えになったそうです。

 鞍職は船で島内の浦を巡りましたが、鴉はなかなか現れません。

 養父崎やぶさきの沖まで来た時、鞍職は、粢団子を海上に浮かべてご祈祷をしました。

 すると弥山みせんから雌雄2羽の神鴉が飛んで来て、粢団子をくわえ、船の先導を果たし、現在の厳島神社の社殿沖で姿を消した――ということです。


 御島巡式は、その伝説にちなんで、神職の乗る御師船が島内9ヶ所に鎮まる厳島神社の末社を巡拝するという神事なのでした。


「浅学で、今まで知らなかったことがお恥ずかしいのですが、私も七浦ななうら七恵比寿ななえびすと呼ばれる神社を巡ってみたくなりました。今年はもう難しいようですが、来年、もし可能でしたら。だけど、私のような若輩者がお伺いしても良いものでしょうか?」

「もちろん。……もしかして、気を遣っていただいておりますか?」

「いえ。ただ本当に、地元のことなのに、これまでなかなか知る機会がなかったので」

「そうですか。では、お時間がありましたら、ぜひ」


 おっしゃって、神鴉さんはふわりと微笑まれます。

 それは、うっかりつり込まれそうになるくらい、包容力のある魅惑的な笑みなのでした。


「……自分達のことを知ってもらいたいのなら、もう少し、私達の方からも発信できると良いかもしれませんね。今は宣伝広告の時代なのでしょうから。狛犬はパソコンを自主的に勉強しているようですが、私はあまり触ったことがないのです」

「そうですね……! 条例であやかしさんの就職が可能になったら、ハローワークさんの職業訓練サービスなどと連携する必要も出てくるでしょうし、前もってパソコン講習、というのはありかも知れません。ちょっと上の者と話してみますね」

「そうして頂けると助かります」

「はい」


 あやかしさん同士の交流、そして窓口役もしかることながら、将来的には、人間社会との共生を目的として、このセンターは設けられたわけです。

 さりとて、一体何から始めれば良いのか。

 ことが大きすぎて、なかなか取っ掛かりを見いだせずにいた現場担当としては、近距離目標を見つけられたことに、視界が開けていく気持ちがしました。


 神鴉さんは、流石でいらっしゃるなぁ……。


 その大きな掌で、もしかしたら転がされているに過ぎないのかもしれませんが、不思議と心地良ささえ感じてしまうのは、どうしてでしょうか。

 人間の器よりもずっと大きな、何者かの大いなる意思に従うことに抵抗を感じないのは、私達が私達の無謬性に、疲れてきている証かもしれません。

 甘んじてばかりも、いられないのでしょうけど。

 複雑な気持ちで立っておりますと、神鴉さんは雑誌を閉じ、立ち上がりました。


「ちょっと、約束があったのを思い出しました。そろそろお暇いたしますね。……おや、いつの間に雨が」


 初めて気が付いた、といった調子で窓の外に目をお向けになる神鴉さんに、はい、と返事しながら、緊張で声が強張りそうになるのを喉元で堪えます。

 そうです。うっかり忘れそうでしたが、図書室に来た目的はそれなのでした。


 自覚がおありなのか、それとも無意識のうちのことなのか、神鴉さんの雰囲気から読み取ることはできませんが、あの件をフォローしない限り、狛犬さんにゆるしてもらうことはできないでしょう。


「急な雨で、困りますね。事務室に私の置き傘ならあるのですが、お使いになりますか」

「それではあなたがお帰りの際に困るでしょう。お気遣いには及びませんよ。しかし、私が来た時には、雨雲の気配などなかったのですが」

「そうですね……。まあでも、ゴールデンウィークに雨が降らなくて、本当に良かったです」

「お祭りに、文字通り水がさされてしまいますからね。フラワーフェスティバル、でしたか。来年、ご一緒に伺えるのを、楽しみにしておりますよ」

「はい。ぜひ……。あれは広島市・・・を代表するお祭り騒ぎですから。神事のような荘厳さはありませんが、楽しく仲間達と過ごすにはうってつけの場です。一口に祭りと言っても、色々ありますよね」


 私達の廿日市市ではなく、あくまで隣の市の。

 それに、あくまでお楽しみの日なのですよね、と、ちょっといやらしいくらい強調して申し上げてしまいました。 


 わざとらしかったでしょうか。わざとらしかったですよね。


 と思ったらぴたっと雨が降り止み、ややして晴れ間が覗き始めました。

 ……良かったぁー。


  *   *   *


「……何とか解決したから良いようなものを。まったく、あなたのような人がどうしてこの職務に当たることになったのでしょうね。信じられません。もう少しぼく達に詳しい方は、いらっしゃらないということですか」

「いえ……そんなこともないと思うのですけれども……。すみませんでした」


 ロビーに戻ってお弁当の残りを食べている間にも、ちくちくと狛犬さんのお小言は続きます。耳に痛い。

 確かに、あやかしさんと人間とのパイプ役であるこのお仕事には、もっと相応しい方がいらっしゃるような気もするのですが、センターは市の持ち物なので、管轄の公務員が就かざるを得ません。 

 そして私達の人事は、希望も通りづらく、得意や専門知識を生かせる場所への配属……とは必ずしも言えないところがあるのです。

 数年従事し、少し業務に慣れてきたところで異動させられ、引継ぎも満足とは言えず、市民サービスに支障が出ないかひやひやする、という一面も確かにあります。

 ひとつの部署に同じ役人が長くいれば、空気が淀み、不正が起こりやすいという事情もあるのでしょうが、デメリットも多いので、抜本的な改革が望まれてはいるところです。

 それはそれとして、あやかしの皆さんを不安にさせないよう、私の方でももっと努力しなければいけない。そんな課題が見えた日でもありました。


 狛犬さんがパソコンルームに戻られた後、自分への情けなさで、ふう、と溜息が漏れます。

 すると、隣に座っていた花子ちゃんが、ぎゅっと手を握ってくださいました。

 小さな、けれど、あったかい手。


「ご心配おかけしてすみません。大丈夫ですよ」

「うん」


 平気な顔をして言った私に、花子ちゃんはそっけなく頷き返しましたが、手は離そうとなさいません。

 少し湿った、じんじんと沁みるように熱い花子ちゃんの手が、優しさとなって皮膚越しに流れ込んでくるようでした。


「……ありがとうございます。いけませんね、良い大人がこれでは」

「関係ないよ。いいの、時々は落ち込んだって、大人も」

「そうですか。そういうものですか」

「そういうものだよ」


 私は表情があまり動かないので、両親親戚を含め、あまり誰かに感情を察して頂くとか、気遣って頂くという経験がなくて。

 まあそもそも、先祖のDNAなのか、妙に打たれ強いし、寝れば忘れるようなところがあって、扱いやすい類だとは思うのですが。


 けれど、どこかに、自分をさらけ出すことに抵抗を感じる自分もいて、それで余計に、自分と他人との間に壁を巡らせるような癖が、根付いてしまったのかもしれません。


 でも、花子ちゃんは、そんな垣根をひょい、と飛び越えて、凹んだ気持ちを優しく撫でてくださるのです。

 私は、すごいなぁ、と、彼女に対して尊敬の気持ちを覚えました。

 あやかしだとか、人間だとか。見た目がどうとか。

 そういうことではない、芯の部分の優しさに、愛しさと敬意と、ありがたみと、そして幸福を感じるのでした。


「ありがとうございます。花子ちゃんは、優しいですね」

「ええっ……何、いきなり、照れる」


 ふふ、と私は笑いました。

 表情的には、唇の端がちょっと持ち上がった程度の変化でしょうが、でも、私は心から笑っていたのです。さっきまで、真っ暗な気持ちでいたにもかかわらず。


「花子ちゃん。こんぺいとうって、どうやって作るか、ご存知ですか?」

「? 知らない」


 私は、狛犬さんが手つかずで残していかれたティッシュペーパーの皿の上の、こんぺいとうに指を当てました。

 ちくり、と棘が、指に刺さります。


「大きな釜に、小さなザラメの核を入れて。釜を熱しながらグルグル回転させて、転がる核に液体の蜜をかけるんです。何度も、何度も。何日も、長い時間をかけて、こんぺいとうは育っていきますが、そのうち、とげとげを纏い始めるんです……」


 初めてその話をしてくれた人のことを思い出しながら、私はお話を続けます。


 それは、中学生の時にインターネットで知り合った、三十歳以上も年の離れた「お友達」。

 自分のルーツを知りたくて、検索で辿り着いた、妖怪談義を繰り広げるwebサイトの、BBS《掲示板》やチャットルームで、私はその人、山本五郎左衛門さんと出会いました。

 山本さんはとても博識な方でした。

 妖怪のことはもちろん、歴史のこと、世界情勢のこと、お天気のこと、芸術のこと、それに思春期の女の子の友人関係、会社組織における派閥争いの理不尽さ、誰しもが抱える孤独感のことすら、千里眼のように見はるかす目を持っていらっしゃって、サイトの常連さんは先を争うように彼を捕まえて、質問や相談、愚痴を言って甘えたりというようなことをしていらっしゃいました。

 私もご多分に漏れず、頼りに思ってはいたのですが、常連の大人の皆さんの中で遠慮が先立ち、なかなか話しかけづらく思っていたのを汲んでくださったのか、山本さんは個人的にメッセージソフトのIDを送って来られて、何でも相談してくださいね、と言ってくださったのです。


 どうやら先祖がヌリカベで、私は妖怪の血を引いているらしいのです……という、中学生の少女の突拍子のない人生相談を、山本さんは笑わず、ばかにせず、真摯に聞いてくださいました。

 すべてをまだ受け入れられず、明瞭でない私の気持ちに共感して、解きほぐそうとしてくださっただけでなく、ご自身が接触した妖怪のお話なども「初めて人に話すけど」と明かしてくださって。

 あまりきれいでない感情を吐き出してしまった時も、頭ごなしに叱るのではなく、柔らかく受け止めてくださいました。

 奇妙に思われるかもしれませんが、その頃の私は、両親より、先生よりも年上である山本さんのことを、身近で、気が合って、一番頼りになる存在だと思っておりました。

 一番近い言葉にすれば、「親友」なのでしょうが、一方的に助けられていたようにも思いますから、その言葉はあたらないのかもしれません。

 ただ、山本さんの方も、一度だけ、その奇妙で特別なご縁のことを、似たような言葉で表現してくださったことがあります。

 敬語も、感情も、うまく使いこなせない、人生経験の少ない小娘に向かって、

「ぼくときみは、遠くに住んではいるけれど、同じような孤独感を持っていて、同じような理由で、世の中の理不尽さを呪っている。もしかしたら、異なる時空を生きる、戦友のようなものかもしれないね」

 そんなふうに、言ってくださったのです。


「――傷も歪みもない、完全な球体のような人間なら、下り坂をころころ転がるように、順調に軽快に、真っ直ぐ、人生を過ごすことが叶うかもしれない。熱い釜で転がされた人間には、それは叶わない夢なのかもしれないが、時間をかけてこしらえた甘い棘を、沢山の人と握手する手に換えることはできる。だから、必要以上に自分の棘を恐れなさんな。こんぺいとうにおなりなさい。……そう、私に言ってくださった方がいるのです。だから、まだまだ至りませんし、下手を打つことも多いですし、あやかしの皆さんを傷つけることがあるかもしれないですけど、辞令が出るまではしぶとくセンターの事務員に居座り続けますよ。めげません」

「その意気や良し、だね。がんばれ可部さん。私、可部さん好きだから、いなくなったら困るよ。下僕気質のワンワンの言うことなんか気にしちゃだめ」


 置き土産のように、そう眩しいほどの笑顔でおっしゃって、花子ちゃんはセンターのトイレへと戻って行かれるのでした。

 お昼休みが終わります。


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あやかしさんと! ―花祭りの余韻に甘き棘、ちくり あずみ @azumi

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