星降る夜になりたい
七野青葉
星降る夜になりたい
星降る夜になりたい。
夏の夜は、少しだけ寂しい。それから、少しだけロマンチック。
その人と出会ったのは、夏の始まりの頃。
アパートのベランダで夏の大三角を見上げていた時だった。暇だなと思い、星を数えだした時だった。
その人は、泣いていた。なぜだか知らないけど泣いていた。げほげほとむせながら。
俺はいたたまれなくなって小さな声で「あの」と言ってみた。普段だったら、絶対知らないふりをするだろう。相手からしても余計なお世話だし。でも、見逃したくない理由があった。
「あの、どうしたんですか」
「だ、誰ですか」
質問が質問になって返ってきた。女の子のか細い声。泣いているのはベランダごしのお隣さんだった。といっても、しきりがうすい壁みたいに取り付けられているので、姿は見えない。
「隣の者です」
「ああ」
少々なげやりとも言えるあいづちの後、何やら水気のある音が聞こえる。ぐびぐび。俺はそれで、もう一度言葉を投げかける。
「お酒、飲んでるんですか」
「ええ」
またも短い返事。鼻をすすっている。息づかいから、かなり酔っているんだろうなという予想がついた。それで俺は図々しくももう一度聞いてみる。
「どうしたんですか」
「……」
「すみません、気になったものですから。いえ、これ以上は聞きませんよ」
俺はできるだけ丁寧に謝った。少し申し訳ないと思いながら、彼女が不信に思って部屋の中に入ってしまってもそれはそれでいい、そう思った。
俺は夜空に目を細める。ずっと見つめていると、吸い込まれそうな濃紺。瞬く星は墜落してきそうにも思える。
「……けっこう、前の失恋についてうじうじ考えていました」
ぽつん、と彼女はそう言った。
「ふむ」
「大したことじゃないんです。別に何かものすごく悲しいことが起こって、絶望しているわけでもない」
一つ、漏らしたことによってするすると言葉は出てくるようだった。
「そんな時でも、めちゃくちゃに泣きたくなることってあるじゃないですか。悩みや腹立つことって、人からするとなんだそんなことかって思うことのほうが多いでしょ。そんなことを思われるくらいなら私は黙っていよう、と思っていました。だから、失恋のことも、人からするとそんな大したことじゃないんです。と言うより、失恋だけの問題じゃなくて。今まで誰にも何にも言わなかったこと全部が悲しくなってきて。いろんなことに対してなんで私が、って思えてきて。私なんか必要ないんだって思えてきて。現に、しばらく何日か大学も行かずに引きこもっているのに誰からも連絡が来ないんです。私がいなくなっても困る人なんていない、そう考えたら無性に悲しくなってきて」
「なるほど」
まあ、よくあることだろうな、と俺は頷く。
一つのことがふとつらくなると他の全部も思い出してつらくなる。お酒なんか飲んじゃうとなおさら。そういうのって、あんまり考えずに気楽にいくほうがいいんじゃないかな、とも思う。けれど泣きたいときに泣けばいいのだし、俺は何を言えばいいのかわからずに少し夜空を見つめた。もちろん夜空は何も喋らない。
さてどうしよう。たとえば人にがんばれと言うことは苦手だった。こちらが応援や祈りの意味で言ったとして、それが相手にとって押しつけの意味に伝わっていたら。言葉って正確に伝えられるものじゃないから。俺は月並みな言葉と考えしか浮かばなくて、さてどうしようと、ゆっくり話す。
「まぁ、その、気持ちは分かります。誰かに必要とされたいって気持ちも……」
「あっ星が綺麗ですね!」
「……そうですね」
ちょっと、それっぽいことを言おうとして遮られる恥ずかしさを彼女はご存知なのだろうか。俺は彼女をうらめしく思ったので、明日起きた時に自分語りを思い出して赤面するという呪いをかけておいた。
「北極星を見つけました! 綺麗」
「元気だなあ」
酔ってるな、と思う。でも思ってたよりも大丈夫なのかもしれない。それならよかった。
ぬるくても明日を過ごせるならそれで良いと思う。大事なのは明日があることだ。なんとなく、俺はのんびりと穏やかな気持ちで紺色の空を眺めて言った。
「夜空は綺麗ですね。つい、見てしまう」
「分かります! 星がキラキラしているからお酒がすすみますよね」
元気な声が返ってくる。それからすぐ、グラスにお酒を注ぐ涼しげな音が聞こえる。氷の交ざる、からり、からりと夏の音が暗い空に。ウイスキーだろうか。
「お酒もほどほどにね」
「そうですねえ」
それから、彼女が部屋に戻るまでとりとめのない話をぽつりぽつりとした。彼女と俺は友達になった。彼女と会うのはいつも深夜だった。
ガラリとベランダのガラス戸が開く音がする。それからものすごく陽気な鼻歌。は行を巧みに使って、彼女は歌を表現する。
「はひふーん」
だったら歌詞を歌えばいいのにという気がしないでもない。おかしくて、笑ってしまったから、俺は声をかけた。
「こんばんは」
「……え? いたんですか! 言ってくださいよ! 恥ずかしい」
「どうも」
「……いつもそうなんです、私は人気のないところで歌を口ずさんで、そういう時に限って誰か後ろにいたりする」
全くついてない人生だ、と訳の分からないことを言う彼女は今日も元気だ。
ひんやりとしたコンクリートに素足を下ろす音が聞こえる。なぜだか彼女は裸足でここにいたいらしい。曰く、「夏を感じたい」。全く意味が分からない。彼女は非常に感受性豊かで、突飛な人で、酔ってるとか酔ってないとか関係なくおもしろい人なんだと話すうちに分かった。
「今日も飲むんですか? 誰かと外へ飲みに行けばいいのに」
「嫌ですよ。誰かと話すと、自分一人で疲れてしまいます」
「でも俺とは話してるじゃないですか」
「それは、お隣さんと私を繋ぐのがこのベランダだけで、唯一の交流方法だからですよ」
「はぁ」
彼女は持論を広げる。
「インターネットやSNSって楽しいですよね。全部自分のタイミング。人を傷つけない、人に傷つけられない万全の体勢でその世界に行くことを、自分で選べますから。つらかったらそもそも見なければいいし、繋がらなければいい」
「で、それにこのベランダも似ていると」
「そうです。でもこのベランダは単純な一つの世界。現実に生きる世界は複雑なんですよね。本当は相手の連絡を見ているのに、まだ見ていないふりをするだとか、他のSNSとの兼ね合いを考えるだとか。確かにそこに存在するのに、いないふりをするだとか。私たちは複雑な世界で矛盾を作らないように息をひそめて生きているみたいです」
「高度な心理戦だ」
「すごく息苦しいですよ。それなのに、ゆるい繋がりの糸は、決して私自身を必要としているものじゃない。なのにもつれあって私を動けなくしているんです。私はやっぱりいなくても困らない」
「……そういう、悲しいことを言わないでくださいよ」
本当に。なんだかこっちが悲しくなる。
「事実ですから」
「まあまあ」
口には出せない「がんばれ」を、心で「がんばれ」と言ってみる。もっとがんばれ、じゃなくてやっぱりそれは祈りに近い気がした。彼女を理解してくれる人が今よりも増えるといいな、と思った。
瓶を傾ける音がする。きっと、しきりの向こう側では、琥珀色がきらり。なんて最高な夏。
「あ、そう言えば今日は晩ご飯もここで食べようと思って、冷やし中華持ってきたんです」
「……太りますよ、深夜に」
「余計なお世話です! ちょっとだけあげようかなって思ってたのに」
「本当ですか? それはうれしいな」
「本当ですよ。あ、でもこれ私の分しかないので一口だけですよ! 絶対ですよ」
それはフリなのかな、と言おうとしたけどベランダのしきりを突き抜けて鉄拳が飛んできそうなのでやめておく。
彼女はお皿を持った右手だけをこちらに。なんだか姿を見せないのは暗黙の了解になっていてその匿名性を楽しんでいたので、できるだけどちらも姿が見えない角度で近づいた。俺は手を伸ばす。青い装飾の施されたお皿だ。つるりとした端っこが月明りにきらりと光る。
ふと、俺は止まる。そして思い出す。ふいに泣きそうになる。伸ばした手を、だらりと下ろす。
「本当にすみません、そういや俺小麦粉アレルギーなんでした」
「え、そうなんですか……それは残念」
「悔しいな。食べたいのに」
俺はうなだれた。本心から悲しい。俺は、女の子の手料理を食べ損ねたのか。何たる失態。
残念だ。俺は話題を変えてみる。
「そういえば、さっき口ずさんでいた曲何ですか? 素敵ですね」
「あ、これ最近流行ってる曲ですよ。お隣さんテレビは見ない派ですか?」
「しばらく見てないですね。自然のほうが好きなもんで」
月がぽっかりと浮かんでいる。たとえば、扇風機をつけて部屋の中でなまぬるい空気をかきまわすことより、俺は涼やかな風を纏っていたい。
俺は夜が好きになっていた。
「お隣さんはA大学の人ですか?」
「そうですね、一応」
「じゃあ同じだ。不思議ですね。日中も会ってるかもしれないわけかあ。あ、でも私はこうやって会えるのが幸せですよ! 最近、夜が好きなんです。バイトから帰って来る時、お隣さんの部屋を見上げるくせがついてしまいました。明かり、ついてるかなって」
「そうですか。それはうれしいな」
彼女は陽気にウイスキーを飲み干している。
朝の鋭く清らかな空気よりも、夜の空気はゆるやかで、絶対に優しいと思う。夜は怖くて暗いだけのものだと思っていたけど、きっとそれだけじゃない。なんとなく、優しい気持ちになれることを知った。
「ああ、楽しい。最高。私すごく楽しいです。別に、大学の友だちなんていなくていいや。ずっとこうしていたい」
「俺もです」
その言葉を聞いて一瞬不安が頭をよぎったが、すぐに消えた。俺は彼女に言う。
「もう一度歌ってみてくれませんか」
「えー」
深夜には、ちょっとだけ音のはずれた、かわいい声の歌が小さく響く。
俺は、その歌詞をいつの間にか覚えていた。俺一人だったら絶対に知ることのなかった歌を、彼女と出会えて知ることができた。
「この曲、夏フェスでやるらしいですよ。チケット一枚余ってるんです、一緒に行きません?」
なぜか、見たことのない彼女の笑顔が星みたいにきらきらっと俺の心を照らした。ソーダみたいにしゅわしゅわと弾けて止まらない。きっと夏のせいだ。
ぱちん、と電気を消した真っ暗なベランダで天体観測。
心は星のかけらを転々としている。
「ああ、星を食べたらどんな味がするのかな。私今すごく食べたいです」
「冷静に考えて口に入らないし焼けますよ」
「そういうことを言ってるんじゃないです! 頬っぺたが落ちるほど甘いに違いない。舌で弾ける小さな星屑を想像してみてください、なんて幸せ」
なんてことを聞いていると、星が本当においしいのかもしれないという気分になってくる。俺と彼女は一緒に夜空の金平糖を食べる。そんな想像をしてみる。変だな、と笑ってしまう。俺はこんなこと考えるやつじゃなかったはずなのになあ。
夢見がちな彼女は少し眠たそうに話を続ける。
「甘いものなら私はショートケーキも大好きです」
「分かります、俺も好きです。駅前の商店街の三つ目のカフェ。何回か食べに行ったけどあそこのショートケーキがおいしいんです」
それから、食べ物ついでに少し前から思っていたことを言ってみる。
「今度、誰か誘って行ってみてください。たまには、外へ出てみても」
「……いいんです。私、お隣さんとお話できるだけでうれしいです。だからこのままでいい」
そう言った彼女はいつもよりも飲む量が多い。コンクリートに冷たく響くこつん、という缶や瓶の音。
「お隣さんは、私と一緒に話をするのは嫌なんですか?」
「いや、そういうことじゃなくて」
じゃあ、どういうことですかあと間延びした声がした。俺は答えられなかった。そういうことじゃなくて。何だか、怖いんだ。すごく。この前よぎった不安の正体をもう俺は知っている。俺は俯く。
「……俺は、怖いんです。あなたは明るくてとても素敵な人なのに、自分でそれを潰そうとしている気がして。相手が必要としてるかどうかは、きっとあなたじゃなくて相手が決めることだと思うんです。あなたがしていることはきっとある意味遮断で、自分を殺していることで、……すごくもったいなくて」
返事がない。俺はじっと耳を澄まし、言葉を待つ。すやすやと寝息が聞こえてきて、はっとする。
嫌な記憶がよみがえる。俺は小さく「あの」と言った。返事はない。
「あの!」
俺は、彼女の名前を知っていなかった。知らなかったことにようやく気付いた。知らないから、あの、と言うしかない。俺の声は少しだけ震えていたと思う。彼女は寝ぼけた声で「うーん」と言った。
「お隣さん?」
起きた。……起きた、よかった。
「こんなところで寝ちゃだめですよ」
「……そうですね、素直に寝ることにします」
彼女は寝ぼけた声でおやすみなさいを言って中に入った。
俺は一人になった暗い空を見つめる。沈黙が耳に痛い。
ずっと、考えていた。
不安。彼女をこんな風にしてしまった、停滞の原因は俺にあるのではないか。そんなつもりはなかった。だけど、深夜に友達と遊ばず、ウイスキー片手に毎日夜空を見上げて笑う彼女の姿。嫌だった。すごく嫌だった。俺がいなければ。俺みたいな奴のところにとどまってほしくなかった。仲良くなれてうれしいのは本当だ。だけど、彼女はここでずっと停滞してちゃだめなんだ。
「お隣さん?」
俺はいないふりをした。だから毎晩会う、ということは無くなった。
少しずつ、だんだんと会う機会を減らして、自然消滅みたいに。彼女が傷つくことなく俺のことを忘れて、明るいところへ行ってくれるといい。
「お隣さん」
最初は様子を伺うように尋ね口調だったものが、だんだんとただため息と一緒に漏れるような言葉に。彼女はやっぱり泣いていた。俺はベランダの隅にうずくまって、返事をしない。やがて諦めたように、窓が閉まる。暗闇はしんとしている。
「……消えたい」
俺は小さくそう呟いた。誰にも聞こえないでほしいと願ったその声は、望み通りに小さく夜空に吸い込まれて消えた。
ある晩、とうとうチャイムが鳴った。
俺は出なかった。いや、正確には出られなかった。ずっと最初から俺はここから出られない。
いつかこうなるのだろうと思っていた。
もうそろそろばれるころだと思っていた。
「それなら、ちゃんとさよならを言わなくちゃいけないよな」
言葉とは裏腹に、俺はゆるゆると首を横に振った。誰が鳴らしているか知っている。これから起こることを考える。俺はうずくまる。聞きたくない。
チャイムは鳴りやまない。俺はなすすべもなく、月明りを見上げた。かなり長い間、深夜にも関わらずチャイムは鳴り続けた。
しばらくすると、バタバタと走る音が聞こえて、それから隣の部屋に人の気配がする。
ベランダのしきり越しにガラリ、と勢いよく隣の窓ガラスが開けられた音。あんなにも聞きなれた親しげな音が、俺の気持ちを悲しくさせる。
「……こんばんは」
俺は極めて穏やかに、なるべく普段の声でそう言った。
「やっぱり」
やっぱり、いた。荒い息づかいが聞こえる。随分急いで来たみたいだ。彼女は、なんだか怒っているようだった。「手を」、息切れしたまま彼女は言った。叫ぶように。
「手を見せて! こっちに」
俺は言われるままに、黙って左手をしきりごしに伸ばした。向こう側からも、白くて細い手が伸びてきた。俺は、静かに手を差し出した。
伸びた二つの手は、交わらなかった。彼女の腕が虚空をきった。
そこに見える俺の手は、存在しないみたいに貫かれる。
「やっぱり」
二度目のやっぱりは、怒っているみたいで、でも悲痛な声だった。
「お隣さん。あなたは、あなたは」
――あなたは幽霊だったんですね。
俺は返事をしなかった。黙っていた。
「今日、大家さんに聞いてみたんです。最近お隣さん見ないんですけど、引っ越したんですかって。そしたら大家さんは心底驚いた顔をして教えてくれました。もう五年も、そこには人がいないこと。だって、五年前にそこで大学生が亡くなったから」
見逃したくない理由があった。
「何が、小麦粉アレルギーですか。ショートケーキ食べに行くとか言って。冷やし中華を食べなかったのは、あなたがお皿を受け取らなかったのは小麦粉が原因じゃありません。あなたは嘘が下手です。嘘をつくなら、矛盾を作るべきじゃなかった。おかしいと思ったんです。お隣さん、自転車置き場からあなたの部屋を見上げた時。明かりがついたところを私は見たことがなかった。あなたは今の流行りの歌を知っているはずがなかった」
怒ったような声の彼女は、いったん言葉をきって、また何かを言おうとした。
俺は、謝る準備はできていた。
彼女は口を開く。
「私は、あなたを何度傷つけたんでしょう」
彼女はそう言った。
身構えていた心がほどかれていくようだった。
違うんだよ。俺は一つも傷ついていない。
「違うよ。傷ついてなんかいない。本当は、知らないふりをするつもりだった。でも、あなたがあれだけ酔っぱらって、泣いているから見逃せなかった。同じようになってほしくなくて。本当はそれっきりのつもりだった。でも、いつの間にか楽しくて」
「私はあなたに似ていたんですね。それがきっかけだったんですね」
「そう」
死ぬつもりなんてなかった。本当に微塵も。友達との飲み会の帰りに、ふと毎日の生活がおもしろくなく感じて、急にむなしくなってきて。家に着いてからベランダでさらにこれでもかと言うほどウイスキーを飲んでいた。
「夏でも凍死することってあるらしいですよ」
意識が無くなってから、本当にたまたま雨が降っていたらしい。
死ぬつもりなんてなくて、何かに絶望もしていなくて。どん底にも落ちていなくて。その日、それなりに暗い気持ちでそれなりに泣いて、次の日に元気を出してまたぬるい毎日を明るく過ごすはずだった。まぶしいかどうかは別にして、俺には未来があるはずだった。
でももう、俺には夜しかなくなった。静かで暗くて何も見えない。孤独だった。どこにも行けないベランダの幽霊。あ、成仏できないってこういう状態のことか、と他人事のようにぼんやりと思った。
「今までベランダを通していろんな人の生活を感じてきました。でも関わることはしなかった」
このままずっとベランダで途方もない時を静かに沈黙して過ごすのだと思っていた。それなのに、泣き声が聞こえた時。見逃したくなかった。同じことにはならないかもしれない、でも俺は声をかけたかった。
「どうして、幽霊だって教えてくれなかったんですか。私が怖がると思ったから?」
「逆です」
正体がいつまでもずっとばれなければいいと思った。彼女に怖がられることが怖かったんじゃない。
「あなたはきっと受け入れざる異種との壁を壊すべく、もっともっと俺と仲良くしようとするはずだ。そして、それは依存だ。あなたは明るい世界じゃなくて暗い世界に生きることになる。あなたの可能性を俺が潰すことになる。俺はそれが嫌だった。つらかった」
俺は一呼吸おいて、告げる。
「だから、これは俺のお願いです。さよならをしよう」
一緒にはいられない。
彼女は幽霊じゃない。生きるべきは太陽の照らす、明るく暖かい日々だ。こんなところにとどまっちゃだめだ。
「……夏フェス、一緒に行くって言ったじゃない」
「それは言ってないよ」
うれしかったけど。本当はすごくうれしかった。
怒ったような彼女の声が、だんだんと震えていく。
「行かないで。失うのが怖いのを、あなたは知っていてくれたじゃないですか」
「俺は幽霊だよ。最初から存在してなかったんだから失うものなんてない。その代わりに、あなたは今からたくさんのものを得られるようになってほしい」
心は明るく、楽しい人。だから彼女に必要なのはきっかけだけだ。彼女は、まず外に一歩踏み出さないといけない。そのためには、ベランダが彼女の日常でなくなる必要がある。
「ありがとう。俺は、本当に楽しかった」
一方的に遮断する。
うれしかった。幸せだった。彼女のためのふりをして、俺も幸せだった。
彼女は、ぽつりと零した。
「最初から存在してないとか、いなかったとか言うなよう」
彼女は見えないベランダごしに泣き出した。あの日みたいに泣き出した。
「お化けでも生きてなくても、目に見えなくても、確かに存在して私と喋ってるじゃないか。言葉を交わし合って、心を行き交ってるじゃないか」
ばかー、と彼女は泣く。
「もう、もう会えないかもしれないけど、私と会って話したことまで無かったことにしないで」
「うん。ありがとう」
「あなたは確かにここにいたんだから」
俺はふと思う。
そうか。そうだったのか。
なぜ、自分がどこにも行けないのか。消えることすらもできずにここにいるしかなかったのか。なぜ俺は幽霊なのか。
本当は、納得していなかったのかもしれない。自分があんなにも簡単にあっけなく死んでしまったこと。ぼんやりと他人事みたいなふりして、どうして俺が、って思っていたのかもしれない。俺はもっと生きたかったんだ。生きて、俺自身に意味を見つけてそれをまっとうしたかったんだ。
俺は多分ずっと前から何も変わっていなかった。適度に明るい、ぬるい幸せの中でふと生きる意味が分からなくなったみたいに、生きていない意味が分からなくなっていたんだ。死んだことに納得していなかったんだ。
俺は彼女と同じだった。自分に意味を見つけたくて、誰かに必要とされたくて、成仏することもできずにずっとベランダで泣いていたのかもしれない。
「でもやっぱり寂しいよ」
彼女がまた泣き出した。俺は笑う。彼女のいる夜は優しい。だから俺も優しい気持ちになる。
「いつかまた会えるよ」
「来世で会っても分からないじゃんか。……そうだ合言葉のかわりに、もし会ったら、あの歌を歌って」
「俺は音痴だからがんばって見つけてね」
「絶対に見つけるよ。約束ね」
「うん。来世をご褒美に、今をめいいっぱい生きてください」
「大学でまた人間関係築けるかな」
「大丈夫」
「ねえ、最後に姿ぐらい見せてよ」
そう言ったので、俺は静かにしきりを通り抜ける。
初めてお互いの顔を見た。お互いの目を見つめた。
「……なんだ、かっこいいじゃん」
「……なんだ、かわいいじゃん」
俺と彼女はヘンテコな冗談を言って、笑いあった。いや、本心だけど。
先に中に入って。俺は彼女を促す。俺が彼女の世界から消えるのは、彼女を見送って後でいい。
「じゃあ」
「もう、一人でやけ酒しにきちゃだめだよ」
「うん、わかってる」
「俺が横に移るまで、ベランダに来ちゃだめだよ」
「……わかった」
振り返るな。どうか振り返らないで。前を向いて。今を幸せに生きて。俺はその背中を見つめる。
「さよなら」
彼女はそう言って、部屋の窓を閉めた。
沈黙の夜が訪れた。夜は、夜はやっぱり寂しい。俺はずっと前にそうしたように、静かになる。
今晩からまた一人。途方もない時間をいつまでも一人で過ごす。俺は、消えたいのに自分で消えることすら叶わない。
頬から流れるものはコンクリートを貫いてどんどん落ちていく。受け止めてくれるものなんてない。俺は幽霊だ。
一緒に、大学に行ってみたかった。ショートケーキを食べに行きたかった。もっと話をしていたかった。やっぱり、もっと生きていたかった。
「あのね、お隣さん!」
ガラリ。ふいにもう一度窓ガラスが開く。明るい声。まぶしい声。だめだって、言ったのに。星を写すキラキラ光る瞳が真っすぐと俺を見る。
「私、寂しかったのに、あなたのおかげで夜が大好きになったんだよ! 人と話すことが大好きになったよ! 私、これからがんばるからね。朝も昼も同じくらい大好きになるからね。話さなくなったって、もう見えなくなったって、ずっとずっと大切だよ」
それだけ! そう言ったきりガラスは閉められた。多分、もう開けるところを俺が見ることはないだろう。
「俺も」
俺は、精一杯の声で伝わるように言った。大好きだった。
「俺も、本当に夜が大好きになった! ありがとう!」
そうだ、俺は星降る夜になろう。甘い星が大好きな彼女の夜になろう。
ここに存在しなくなる意味を夜に見つけよう。
「がんばれ」と背中を押す清く正しい強さはないけれど、その代わりに夜になって彼女の涙を流れ星にして飛ばそう。もしも彼女を傷つけるやつがいても、俺はそいつをやっつける力がない。でも、そいつの目にとまらぬように彼女が隠れるための暗がりになろう。いつか悲しいことが彼女を襲っても、濃紺で彼女を包み込もう。
俺は手を見つめた。透き通る腕が、夜明け前の藍色に溶けていく。
俺は、星降る夜になりたい。あなたを見守る、暗闇になりたい。
すう。頬から落ちる涙みたいな流れ星。俺はその柔らかな光のすじを見つめた。一つ。二つ。三つ。それから――。
その夏の終わり、輝くたくさんの流星が天を駆け巡った。
星降る夜になりたい 七野青葉 @nananoaoba
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