下
俺の家に着くと、俺たちは台所で飲み物を用意してから防音室に入った。
多分一応は金持ちの部類に入る俺の家は、金持ちらしく他の家よりでかくて立派だ。防音室もあって、グランドピアノはそこに置いてある。生成り色の壁紙にモノトーンの調音パネルの内装に、藍色の三人掛けソファにガラスのローテーブル、薄型テレビ。クラシックのCDやDVD、本がみっちり詰まった黒塗りの本棚。外見も中も純和風の家で唯一今どきのしゃれた部屋っぽい、もしかしたら自分の部屋より長くいるんじゃないかってくらい完璧な俺の城だ。
そんな俺の城でグラスに入れた麦茶を一口飲んで、俺は
「んじゃ、弾くぞ」
「はーい」
美伽は頷くと、飲んでいたグラスを置いて清聴の姿勢になった。一応はすました顔だけど、わくわくしてるの、バレバレ。いつものことだけど、ガキかよ。
ほんと、親同士が仲良い幼馴染みって便利だよな。家を行き来するのも部屋で二人きりになるのも、全然不自然じゃないんだから。勝手知ったる第二の我が家感覚で、台所で麦茶を用意することだって当たり前。考えてることも、なんとなしにわかる。
妙に高鳴る心臓を深呼吸して落ち着け、俺は鍵盤を見下ろす。
一呼吸置いて、両手で重々しい音を鳴らした。
それを皮切りに、両手が分かちあう旋律を――――鐘を鳴らしていく。
思い浮かべるのは、重い暗雲がたちこめる、玉ねぎみたいな屋根の聖堂。ラフマニノフが何度も聞いていたという、クレムリンや農村の空に響く、鐘の音。
時に速く、時に遅く。小さく、大きく。風に揺らされ、不穏な空に鳴り響くだけだった鐘の音は、唐突に人を急きたてだす。劇的な変化は重々しく、壮麗に。悲壮感さえ漂わせ、聞く者の不安を煽っていく。人々は一様に聖堂を見上げては、重苦しい音に顔を曇らせる。
その光景はやがて、若いピアニストが万雷の拍手を浴びる、絢爛な装飾がされた劇場のホールにとって代わる。観客は感動と興奮のあまりに目を輝かせ、潤ませ、頬を赤くして。何度ピアニストが頭を下げても、『ブラヴォー!』の声が止むことはない。
鳴らせ、鳴らせ。吹きすさぶ寒風に揺れる鐘を鳴らせ。絶賛に揺れる鐘を鳴らせ――――――――
六十二小節を弾き終えるのはあっという間で、情景が遠のくようにして、小さな音は消える。音の余韻が完璧に消え去ると、数拍おいて、唯一の観客の拍手が鳴らされた。夢想したものとは比べ物にならない、小さな小さな称賛の音。
「
美伽は恥ずかしげもなく、素直に感想を言う。きらきらと目を輝かせて、まるでちいせえガキみたいに無邪気に。
俺はいつものように、当然な顔してそりゃどうも、とだけ言った。差し出されたグラスを受け取り、口をつける。――――ほんとは、心臓の音がうるさくなるくらい嬉しかったけれど。美伽と目を合わせるのが、少しだけ難しくなってやがる。
いつからだろう。誰に褒められるよりも、美伽の「すごい!」が欲しいと思うようになったのは。美伽の称賛の目が俺だけに注がれている、この瞬間。この瞬間が欲しくて、俺はピアノを弾き続けてきた。
美伽は知らないんだろうな。自分が誰とも付き合わないことを、誰よりも俺が喜んで、やきもきしてることを。理由を妄想してることを。当然だ。こんなの、気づかれてたまるか。
美伽に告白してしまえばいいとはわかってる。俺たちはただの幼馴染みで、俺は美伽に惚れてるんだから。今のぬるい関係に満足してるわけでもねえし。惚れた女が他の男のところに行かないようにするには、告白するしかない。
けど、怖いんだ。下手すりゃこの居心地の良さすらなくしちまう。それは絶対に嫌だ。最悪な気分でコンクールに出て、まともな演奏ができる自信もない。
それに……マジで今は駄目だ。今度出るコンクールの本選は格もレベルも高い、今までで最高の舞台なんだ。ここでいい演奏と成績を残せば、俺がプロとして今後活躍する足がかりになる。だから、少しでもコンクールに集中できなくなるようなことはしたくない。――――今すぐ告白しない言い訳だとしても。
……はあ。俺、臆病だよな。自分でも嫌になる。今までコンクールで緊張したり自信を失くすすることなんてなかったのに、いくらコンクールが絡んでるとはいえ、惚れた女にたった一言言うだけでもこんなにうじうじしちまうんだから。一体何年、同じことを悩んでるんだっての。
俺の演技が完璧なのか、それとも美伽が鈍いからか。美伽は俺の気持ちに気づいたそぶりもなく、麦茶を飲んでから長い息をついた。
「やっぱ桃矢はすごいねえ」
「全日本学生コンで優勝した奴が、何言ってやがる」
「……地味に自分のこと自慢してるでしょ、それ」
やっぱ腹立つよねあんた、と頬を引くつかせて美伽は言う。俺が国際コンクールの本選に出場するからに違いない。こっちは全国優勝止まりなのに、といったところか。
いや俺、普通に褒めてるんだけど。学校の声楽の先生も、こいつは才能あるって褒めてたし。才能なきゃ、全日本なんて優勝できねえし。ほんとは俺、一緒にあのコンクールに出たかったんだけどな。別のコンクールに出たから無理だったけど。
……ま、美伽がひねくれたこと言うのは、俺が日頃余裕を見せてるせいか。やめる気はねえけど。
「じゃ、美伽。俺は弾いたんだから、お前も歌えよ」
「はあ? どこか『じゃ』よ!」
「そうだな、『私を泣かせてください』とかいいよな。『愛の夢』の二番か三番でもいいけど」
「桃矢、人の話聞こうよ!」
ツッコミを流してリクエストすれば、噛みつくように美伽は言う。わざとだってこと、わかってるくせに。
グラスを持ったまま俺を睨みつけていた美伽だったけど、やがて苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……伴奏、できるんでしょうね」
「だから指定しただろ?」
と、俺は口の端を上げて言ってやる。同時に、美伽がどちらを歌う気なのかも理解した。
『愛の夢』は俺の好きな曲で、俺は今まで何度も歌えと美伽にねだってきた。そのときの伴奏は当然、俺。伴奏できるかと尋ねるわけがない。
今までずっとそうだった。俺があいつに頼まれた曲をピアノで弾けば、あいつは俺がリクエストした曲を歌う。その逆も同じ。それが俺たちの暗黙の了解。
今この時間だけは、美伽は俺のものだ。他に誰もいないし、要らない。俺と美伽とピアノだけの、完璧な世界だ。
俺が歌をリクエストしたのは、別に嫌がらせ目的じゃない。ただ、この完璧な世界と時間をまだ終わらせたくないだけだ。臆病な俺は、冗談と音楽でしか、美伽を引き留める方法を知らない。
美伽はピアノのそばに立つと歌う姿勢をとって、喉の調子を確かめた。
軽く声を出す顔は俺を見ない。まっすぐ前を見る面差しは鋭さを帯びて、さっきまでとはまるで別人だ。声も全然違う。真面目に声楽をやってきたからこその、鍛えられた発声。
「……いつでもどーぞ」
練習を終えた声が俺を促す。視線はやはり俺のほうを向かず、まとう空気は真剣そのものだ。これから敵軍の王に囚われた姫君の嘆きを歌うとは思えねえ。
でも、息を吸い込んだ瞬間にこの表情がさらに一変することを俺は知ってる。妖艶、悲嘆、喜び、怒り。曲や歌詞に込められた感情を、歌声だけでなく全身で表現する。その豹変が、俺はたまらなく好きだ。
ああもう俺、ホントにやばいよな。
情けなさすぎる自分に苦笑して、俺に鍵盤に指を置いた。
重い鐘を揺らす颶風のような拍手よりも、俺はたった一人、惚れた女の称賛があればいい。
だから、なあ。
守るから。どんな奴からだって守るから。
だから、これからもずっと、誰よりも近い特等席で俺のピアノを聞いてくれよ。
俺のそばで、ピアノで歌ってくれよ。
願いの鐘 星 霄華 @seisyouka
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