あたしの世界が終わるとしても
「なあ、俺、こんなことになるなら一回一組の山元さんに告白しとったわ」
いそいで美術室から無人の教室に戻ってきた後、浅海がそんなことを言った。あまりの大言壮語にあたしはびっくりして目が飛び出そうになった。
「え、浅海って山元さんのこと好きだったの? なんて高望みな……」
「今さらっとめっちゃひどいこと言ったよな。ちなみに話したこともありません。顔が好みなだけです」
「冗談は眼鏡だけにしてよね」
浅海は黒ぶち眼鏡をかけているのだが、左のレンズが割れている。あたしも眼鏡をかけているけど、自分の眼鏡が割れたら絶対気になる。「えっと、変えないの?」と訊くと「俺は相棒を一生大事にするのが信条でな」と意味の分からない返しをされた。浅海が転校して来てすぐのことである。
あたしたちは美術部の部員だった。クラスも三年間一緒だったので、本当にずっと一緒にいたことになる。「浅海さあ、もちろんテスト勉強してないよね?」「当たり前や。今回はほんまにやばいやつや(している)」、「んじゃ俺ちょっと教室行って日野さんに画材のこと訊いて来るわ」「いってらー。…………浅海のやつ顔面の落書きに気づかないまま女子のところ行きよった、これはメシウマ!」などなど、互いに足をひっぱり合い、互いの失敗を心底喜び合った三年間だった。
今、目の前の割れた眼鏡男はぶるぶると怒りに震えている。
「なあ、ほんま大村って俺に対して言いたい放題よな? そんなにだめ? 他の人にあって俺にだけ足りんことってある?」
「そうだなあ……まず人生に対する、意欲・関心・態度、知識・理解・技能」
「もういい、分かった、やめろ」
こんなことになるなら、だってさ。何を今さら、という言葉を飲み込む。教室の後ろの本棚から一冊を取り出して読み始める。すると浅海も真似をして鞄から本を取り出して来た。西日が弱まりはじめた三年三組の教室にて。どろどろと半熟の黄身が流れ出ていくような日ざしが、しずかに机を照らしている。斜めにならんだ影はどれも黙っている。
「それだったら、あたしは、高校にも中学校にも小学校にも行かなかったし、幼稚園にだってこの世にだって」
「え、なに、どした?」
「こんなことになるなら、の話」
「あ、ああ……。大村が変になったんかと思ったわ」
浅海がひきぎみに笑う。愛想笑いがまた絶妙に腹立つ。その焦って眼鏡をくいってするのやめてくれないかな。あたしも一緒だから。二人は同時に眼鏡をくいっと上げていた。そろいもそろって不審な眼鏡ズである。思えば同級生には二人してキモメガネと言われ、先生の指導にびびり一切校則違反せず、制服はこれでもかというほどださく着こなし、先生には「いい子ねえ」なんて言われながら、大人しく「都合いい」生徒というだけで特に優等生というわけでもなく……。
「あたしなんかイライラしてきた」
「えっ」
「こんなことなら、周りのことなんか気にせず笑われたって高校デビューしてた。あたし、かっこいい彼氏作って、全校生徒からかわいいってちやほやされたかった」
「俺も……。靴箱みたら毎日手紙であふれてて、昼夜を問わずかわいい女子たちに追いかけ回されてそれから」
眼鏡がまだ何か言っていたけど無視した。もう万事が手遅れなのである。校舎にはもう誰もいない。月曜日の午後はさびしく、誰の足音も聞こえない。多分永久に。
「あー! 俺やっぱ絵が描きたい、なあ大村。やっぱ美術室戻ろや」
「やだよ」
あたしは羅列された文章に目を落とす。浅海は「えー」とか「うー」とか言っていたけれど、そのうち諦めたようにぽつりと言った。
「さすがにもう、誰もおらんのやな」
「そりゃまあ。勉強する意味が分からなくなったんじゃない?」
「はん、前から分かってなかったやろ、俺らは。絵ばっか描いてきたし」
職員室からドアを壊してとって来たストーブが、じじじ……という切ない音を出している。こんなことになると分かっていたなら。
「なあ大村」
「ん?」
――この本は。
タイトルと装丁がきれいだから手にとったものの、あんまりおもしろくない。最後に読む本がこれじゃ、期待はずれだ。
「世界はほんまに今夜で終わるんやろか」
「……終わるんじゃないの。知らないけど」
あたしはぱたりと本を閉じて、元あった場所に返した。
もうすぐ世界が終わる。そう告げられたのはほんの一か月前だった。そんなことってあり得るのだろうか。あたしはその時、家の食卓で千切りキャベツを頬張っていた。もしゃ、もしゃ……と咀嚼音が響く。隣でお母さんと妹が、ぽかんとしてテレビを見つめていた。夢の中にいるみたいに、意識がぼうっとしている。「……大変、家のローンどうしよう、あ、いや逆にラッキーなのか」というお母さんの声で我に返る。「あ」、お箸がぽろりと落ちた。
世界が終わる? そんなことってあり得るのだろうか。あたしは流れるニュースをまじまじと見た。次の日の新聞を見た。朝、学校で急きょ全校集会が開かれた。なんでも地球が宇宙人に侵略されるらしい。しかも対話の余地はないとのこと。人間を捕食の対象として見ている可能性があって、その宇宙人たちが星の遠く遠くから発射した物体――長期間生き物を仮死状態することが可能らしい――が地球にたどり着くのは、一か月後。……と一か月前聞いた。つまり今日がその最後の日だ。「日本時間ではおよそ深夜になるでしょう」とニュースキャスターが言っていた。天気予報かよ。あとの詳しいことはもう覚えていない。
あり得ないでしょ、と思った。でも、あり得るらしいのだ。
二週間前に学校閉鎖になった。でも、それまでは普通に授業をやっていた。変な話だ。生徒は「だって休むと親とか先生が怒るから」と口を尖らせたし、先生は「仕事でしょって言われるからなあ」と苦笑いしていた。一体、誰にやらされてたんだろう。それから、まばらに人がいる日もあったけれど、今日はさすがに誰もいないようだった。
「お前、ほれにしてもよく学校来たな。ふつう家族とおるんとちゃうん、こういう日って」
思いついたように、浅海が首をかしげている。そりゃこっちの台詞だ。あたしが無視していると、浅海はふとあたしを見つめて、
「え、もしかしてひまなん?」
しょうがないので鉄拳をくらわせてやった。あほ。この鈍感。隣で浅海がうめいている。
「お前……」
「あのさぁ……そのまま返すけど、浅海もひま人なの? もっと他にやることなかった?」
「ああ、実は教室に来週の課題忘れとってな、それを取りに」
あきれてものが言えない、あほか。そんなデリカシーのない課題を出す先生がいるわけがない。全体的に腹が立つ嘘だったのでふれてやらないことにした。
「お? もしかしてこれが冗談ってことに気づいてないな? 大村お前、ノリ大事にせんと将来モテんぞ」
「浅海ってデリカシーとか考えないタイプ? そりゃあクラスの女子にも人気ないわけだよね、分かるわ」
「いやあそうやなあデリカシーないってよく言われるわあ、待って後半のほんま?」
やりとりに意義を感じられないので、教室の後ろに並べられているそこらへんの本を読むことにした。表紙の絵にかすかな嫉妬をおぼえる。
「お前その本下巻やけど、上巻は読んだん? まあ上巻は今俺が読んどんやけどな」
探すよりも先に、くぎを刺された。浅海は自分のもっていた本の表紙を見せてきた。確かに、目当てのそれだった。栞の位置を見るに、九割方読み終わっているようだ。
「なかなかおもろい展開になってきたで、『アルストロメリア』。下巻が楽しみや。ちなみに上巻では少年のアルストロメリアが、イケメンの幼馴染サザンクロスと一緒に村を出て王国を目指すんや。それで城下町のネリネも仲間に入って、宝石を探したりするんやけど、びっくりしたんが実はサザンクロスが女の子だったっていう――おっと今のは重大なネタバレだったかな」
すまんすまん、と浅海が口笛を吹いている。いやあ下巻が楽しみですわ、とかほくほくした顔をしている。あたしはにっこり笑って言った。
「ちなみに下巻では、そのサザンクロスが実は王国の手下で、幼少期から村のスパイとして生きて来たことが分かって、主人公と敵対することになるよ。実は村全体がレジスタンスのアジトだったんですねこれが。おっと今のは重大なネタバレだったかな、ごめんごめん」
「……お前、最低やな……」
「そっちこそ。……どうせもう終わるんだからいいじゃん。どうせ読み切れないんだから」
「ほういう問題じゃないやろ、ほれはさすがに」
思いのほか浅海は真面目な顔をしていた。あたしはあたしで、この話題をはやく終えたかったから、めんどくさいなあ、とため息が出た。
「なに。怒ってるの?」
「いや怒ってないけど。なんかほんなんおかしいやろ――」
「うるさいなあ!」
あたしは、自分の口調の強さにびっくりした。次の言葉が何だったか一瞬忘れた。浅海も肩をすくめてあたしを見ていた。
「……浅海だって一緒のことしたじゃん。もうやめてよ、さっきから絵を描こうとか将来がどうとか、今からどうにかなるようなもんじゃないのに、未来を期待させるようなこと、あたしは、」
あたしの言葉はどんどん小さくなって、しまいにはもごもご言ってるだけになった。それ以上言っちゃだめだ、言わないでくれ、と思ったことはすんでのところで、喉の奥にとどまった。
「……おう」
「……ごめん」
そういうつもりじゃなかった。あたしたちは黙りこんだ。浅海はこつこつと退屈そうに机をたたいていた。あたしは黒板に向かって板書する先生の真似をしてみた。別にしたくなかった。
夕暮れ時は音をたてずやってきて、ただ静かに、静かに、終わりを待っているようだった。チョークを投げるたびに、かっかっという音がむなしく響いた。
嫌だった。期待した分だけ、突き落とされるのが。あたしのしたことは間違っていないはずだ。下巻の結末は世界中のみんなが幸せになって終わる。でもそんな世界はありえないし、今日もまたこうして一つの世界が終わる。読み終わったら、嫌が応にも感じられる現実との落差を、何も今日思い知らなくてもいい。浅海は、本を読み終わらなくていい。
だから、あたしがやったことは、きっと、多分、
「なあ」
浅海があたしを見ていた。赤い赤い、嘘みたいにきれいな夕日がその背後からきらきら光っていた。
「……なんか、やっぱな。俺らさっき、なんか良くなかったんちゃうかな、って思って来た」
「うん」
あたしは浅海を見た。何だか、泣きそうだった。
「あたしも」
「それとな」ぼそりと浅海が言った。
「うん?」
「俺ほんまは、大村に会いにきとったんや」
「……うん。あたしも」
それから、あたしと浅海はお互いを見てげらげら笑い出した。ほんと、くだらないと思う。くだらなくて、最高だと思う。
「ほんと言うとね。怖いんだ、あたし。あたしがいなくなるのも、浅海がいなくなるのも。美術室がなくなるのも、実感したくなかった」
今日美術室で最初に会った時、三年三組に移動しようと言ったのは、あたしだった。美術室は胸がつまって、絵をすきなその分だけ、終わりを感じてしまう。
「ほなさあ」
浅海の頬を金色の光が染めている。
「ほな、絵描こや」
「……えっと、話聞いてた?」
ぎょっとした。
「いや、聞いとったわ。ほんまこんな時も大村は大村やなあ」
聞き捨てならない。あたしがにらむと、浅海はあきれたように笑っていた。
「あのな、こういうんはどうや。二人で絵を描く。本の上下みたいに、二つで一つの作品を作るんや。……俺らがもし宇宙人に食べられても、絵は残るやろ。そしたらそれは、俺らの考えたことが生きとるってことにならんかな」
「……何言ってんの」
今度はあたしが笑う番だった。絵の中でもう一度あたしたちが会えたとして、それは今ここにいるあたしたちではない。あたしたちは正真正銘、今日でおしまいだ。
「浅海。あたしたち、死ぬんだよ。消えてなくなって、死んだことすら――それ以前に、生まれてきたことすら分からなくなっちゃうんだよ。きれいって感じたことも悲しいって感じたことも、その全部がなくなっちゃうの。もう、どうしようもないんだよ。今さらあたしたちみたいなちっぽけな人間がなにしたって無駄なの」
「おい、大村」
「ねえ浅海、それくらい分かってよ。『もしもこんなことになるなら』なんて今さら言ったって、全部遅いんだよ」
あたしは浅海の前でだけは、泣いたことがなかった。絶対に嫌だった。けど、やっぱり喉が熱い。いなくなるなんて嫌だ。あたしは、死ぬことが怖くてたまらない。
そしたら、ひくい、ひくい声がした。
「描こや」
「え?」
「絵! 描こや大村!」
がたん、机が鳴った。浅海の目はぎらりと光っていた。あたしを置いてけぼりにした、熱い瞳。
「もう、そういうんやめよや」
「浅海」
「俺らずっとそうだったやん。『あのときならまだ遅くなかったのに』とか『もう遅い』とか、そういうことばっかり言って、『今やる』っていうことをしてこんかったやん。いつやって『あのときはまだ失敗が許されたんやから、思いきっておけばよかった』って、多分世界が終わるその一瞬前、死ぬ間際やって、この今のことを思って嘆くんやで! 『あのときだったら』って思って! そしたら、俺ら何も変わらんやん。俺ら言い訳して野垂れ死ぬために生まれて来たんと違うやろ。なあ、下手したら、俺ら一生このままやぞ、大村は、ほれでもええんか!」
浅海は、あたしの両肩をがっしりとつかんで、あたしだけに向かって言った。
「…………良くない」
良くないです。あたしは、ぽかんとしたまま浅海の目を見ていた。「おい、行くぞ」ぶっきらぼうに浅海があたしの手をひいた。行き先は、訊かなくてももう分かっていた。
「全然、遅くない。何が、遅いっていうんや」
うわごとのように、浅海は言う。廊下を駆ける影が二つ。そうだ。そうだよ、何が遅いっていうんだよ。あたしも、そう思った。耳のそばで風がびゅんびゅん鳴った。
靴箱を横切る。カラスが鳴いている。空の遠くで「ふるさと」が流れだす。もうすぐ、もうすぐ、美術室だ。
最初は、ただ変な子だなと思った。関西から転校してきた浅海は、どこからどうみても異質だった。話しかけづらかった。その子はあたしと同じ美術部に入った。入って早々、市のコンクールで入賞した。でも浅海は、入賞者と絵が載っているパンフレットを見て、「くそ、くそ、くそぉ……」と泣き出した。金賞は、あたしの絵だった。
その時、あたしは先生から配られたパンフレットを見て、初めて浅海の絵を見た。その時期の美術部はばたばたしていて、お互いの絵を見る時間が全くなかったのだ。いい絵だな、と思った。なんで銀賞なんだろう。なんの判断でこういう金だの銀だの価値づけられているんだろう。気まずかったけれど、とりあえず何か声をかけようとして、隣を見た。
「えっと、あのさ、浅海くん。今回残念だったけど次あるじゃん。銀賞とれるくらいの実力なんだからさ」
「うるせー!」
浅海は、だらっだらと涙と鼻水を垂れ流しながら、叫んだ。ものすごい形相だった。
「俺は、他の人の作品を、綺麗だと感じて、心を動かされたことがなによりも悔しいんじゃ! ほれも実物じゃなくてこのパンフレットで!」
そいつの指先は、あたしの絵を真っすぐにびしっと指していた。そいつの眼は、ぎらぎら光っていた。金賞の印とか、そんなの全然見られてなかった。あたしは自分を恥じた。感服した。なんて傲慢だったんだろう。
その時から、あたし、こいつにだけは涙を見せまいと決心した。こいつは、敵だ。親愛なる戦友に、涙なんて見せるかよ。それは、あたしの誇りだ。
肩で息をして、たどりついた美術室は、本当にいつもと変わらなかった。香りも手触りもしんとした音さえも。生徒が授業で作った彫刻の木箱、鉛筆のかすれたメモ書き、描き始めで終わった小さな人魚の水彩画。A4用紙に揺れる月桂樹、石膏の精悍な横顔――。おかえり、そうっとそんな声が聞こえてきそうな、あたしたちの美術室。
けれど、どこをひっくり返しても、いい白地のキャンバスが見つからない。当然だ。使う予定がないのなら買う必要なんてない。あたしたちが未来を諦めた瞬間に、先生は画材を買い足すのをやめた。
「ええい、もうヤケじゃ」
浅海は突然並んだ机を教室の外に動かしはじめた。
「大村。床に描くぞ」
「……そりゃいい。名案だね」
使えるものが限られてくるけど、いいと思った。冬なのに、汗をかいた。浅海は、ばらばらと絵の具を床にまいた。夕焼けが、迫っていた。
「このまま終わるん、むかつくやん。こんな理不尽、どうしようもないなら、逆に利用してやろや。楽しんでやろうや」
浅海は熱にうかされたみたいに、床を見つめて言った。あ、なんか大丈夫だ、とあたしは思った。何が大丈夫なのか分かんないけど、多分あたしたち大丈夫だ。腕まくりして、座り込んで、板の床に挑む。手が震えていたけど、怖いんじゃない。誰か、あたしを止められるなら、止めてみろよと、そう震えていた。
ざらざらと、床を塗る音がする。がりがりと彫刻刀で削る。傷つけてこわさないと、そこに塗れない色もある。
「なあ大村」
浅海は振り向かずに言った。
「お前は、俺の相棒や」
「おう」
あたしもあいつの顔を見なかった。
「浅海。あんたは、あたしの戦友だ」
「おう」
あたしは、もう一秒たりとも筆から目を離したくなかった。あたしたちに、もう言葉は必要なかった。ただ、互いのえがく音だけがする。やがて、それすらも聞こえないほどに、あたしは、描きたい、描きたい、描きたい。
ぎらぎらと夕焼けがあたしたちを照らす。
どうどうと血がめぐる。
頬が、喉が、指先が、じんと熱い。
あたしは、あたしは、あたしたちは、今生きている。
僕の世界が終わるとき 七野青葉 @nananoaoba
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