花を棺に

 1.

 朝の、まだ日が昇る前。清く鋭い空気がすきだ。まだ青い世界がすきだ。スーリエは、星々が消えたすぐあとの空を見つめて静まった街を歩く。うす青だ。石畳も、消えたガラス灯も。みなのまだ眠る路地を進み、街外れを目指す。

 月の色をした長い髪を指で梳いてみれば、夜の残りに染められてそれすら青を帯びているように見える。スーリエはつまんだ毛先を見つめてみる。自分の色素の薄さは、いろいろなものを映して、様々な色へ変わる気がする。それが、とてもすきだ。スーリエは、テントの前で深呼吸をした。


 2.

『葡萄畑の勇者の神話』

 あるところに、二つの大国がありました。一つの国は、人間の住む葡萄畑の国。もう一つの国は、魔法使いの住む花の国でした。葡萄畑の国の人間たちは、葡萄酒を作り、ささやかな生活を送っておりました。対する花の国の魔法使いたちは、大きな花の咲く大樹に水をやっては、その花から魔力を育てていました。大樹の根は日に日に伸び、もう国に収まらないところまで来ていました。国でとびきり美しく一番偉い魔女は、葡萄畑の国に手紙を送りました。

「かの葡萄の地は、もとはといえば花の国の地であった。わが国に栄える大花も、地のふかくでその根をひろげて、広大な土地を求めている。さすれば、即刻我が国へ地を返すように。もし返さないようであれば……」

 葡萄畑の王は、手紙を破り捨てました。葡萄畑の国は、人間が自分たちの力で古き時代に独立してから、自分たちの力で国をつくってきました。花の国の領地だったのは遙か昔の話です。王は国の勇者に命じました。

「にくき魔女の首をとってこい」

 勇者は、魔法に対する加護をもって生まれてきておりました。お前だけが頼りだ、どうか国を、守ってくれ。民に背中を押されて、意気揚々と足を踏み出しました。色白の恋人が、彼との別れを惜しみながら、その背中を見送りました。

「わたしもあなたの役に立ちとうございます、けれど……。ああ勇者さま、どうかご無事で」

 勇者は、荒れ狂う花々を斬り、一人で何人もの魔法使いを倒しました。加護のおかげで魔法の効かない勇者は、やがて魔女の元へたどり着きました。が、そこに待ち受けていたのは、魔女だけではありませんでした。

「勇者よ。わたしが死ねば、この娘もすぐに死に至ることになるだろう。呪いをかけたのだ」

 魔女の指さす先、牢に入っているのは勇者の恋人でした。魔法が効かない彼を恐れた魔女は、使いを遣り、彼の恋人を人質にしたのでした。

 魔女を目前にして、勇者は身動き一つとれませんでした。

 しかし、絶体絶命かと思われたそのとき、大樹の幹がちょうど魔女の背後から落ちてきました。囚われの身になってもなお勇者の力になりたかった恋人は、花の国を支える魔力の根源の大樹を枯らすために、地下水に毒を流していたのでした。幹の下敷きになった魔女は、すでに絶命していました。勇者は、呪いのことを思い出しました。叫び、牢に駆け寄りました。

 恋人の白い足から、やわらかな緑の芽が出ました。するすると茎は伸びていき、まるみを帯びていたなめらかな腕は竹のようにやせほそっていきます。身体じゅうから美しく揺れ出した濃緑をかきわけ、勇者は恋人の頬に触れました。恋人は言います。

「葡萄酒をとって。ともに生きることができないなら、ともに死んでくれますか」

 彼女が腰にさげている葡萄酒。家を魔法使いに襲撃されたときに、こっそりもってきた毒薬でした。大樹を枯らした毒薬でした。

 二人は小瓶を傾け、花の降る中で、瞳を閉じました。


3.

「ああ、スーリエ。やっぱり来ちゃったか、おはよう」

 テントの中へ入ると、カノンが一足先に着替えている最中だった。

「……おはよう、カノン」

 スーリエは微笑んで荷物を置く。葡萄酒の瓶は割らないよう、そっと棚の上に。カノンは、少女のようにあどけない表情でにこりと笑った。胸のあたりで切りそろえられている黒髪は、今日の夜までには頭の上にまとめあげられる。スーリエは、カノンの夏のような瞳がいつも羨ましかった。

 今日は劇団にとって、特別な日だ。

「それにしても、皮肉よねえ。わたしたち三人とも死んじゃうなんて」

 カノンが鏡を見ながら言った。花々のあしらわれた、彼女の黒のレースのドレス。開いた白い背中がなめらかだ。スーリエはうなずいてみせる。

「そうだね」

 死んでしまうことで、有名になる。彼女は今晩、花の魔女になる。

 スーリエは、しずかな雪の色をした自分のドレスを見た。裾は、波打ち際のように淡い。どうせ、予行演習までは練習着で練習をするのに、どうしても着たくなる。だって、小さい頃から憧れて来たお姫様みたいだ。王子様を待つ、お姫様。

 ふと、彼のことが気になった。

「フーガは?」

「あの勇者様はねー。宿の部屋から出てこなかった。まったく何してんだか」

 言葉とは裏腹に、瞳には暖かさが見えたように感じた。それですぐにスーリエは、胃痛かと思い当たる。カノンは片手を頭にやって、あきれた表情をしてみせる。

「ほんと世話がかかるんだから。また緊張してるんでしょうよ」

「……わたしたちもね」

 約束もしてない二人が予行演習の三時間前に到着しているというのは、今日に限ったことではなかった。

「ふふ、確かにそこはおっしゃる通りだわ」

 スーリエとカノン、フーガの三人は、孤児院出身だった。劇団に引き取られてから十年ほどたったが、三人はいつも一緒にいたし、喜びも悲しみも、孤独でさえ共有して来た。もちろん、本番前の緊張も。

 けれど、それでも今日は特別な日だ。フーガが胃痛で出てこれないのも仕方ない。今までに借りたことのない大きさの劇場で、開演される。こんなチャンスはもうないぞ、と高齢になった団長が張り切っていた。

 今日は、いつもとは違う、特別の日だ。

「さ、行きますか。自主練習、やるでしょ?」

 カノンの艶やかな黒髪がさらさらと肩に流れた。スーリエは頷く。

 わたしたちは、夏夜の夢に死ぬだろう。


「勇者様。どうか、ご無事で……」

 滲みついた言葉は、自然と口許から零れる。スーリエは、目を伏せてみせる。まつげが、彼女の肌に繊細な影を落としている。

 スーリエは、演じるのがすきだった。たくさんのお菓子を、少しずつ味わっていくような、幸福な気持ちになれる。自分にはない感情を舌の先で転がす。身体が、もう、違う人になっている。心を表し、心を隠すことができる。劇の中で、スーリエは、自由だ。

「どうか、ご無事で」

 俯いて、もう一度小さく呟く。

 恋人という役回りは、案外魔女や勇者と同じかそれ以上に物語の鍵をにぎる存在だ。彼女の機転が魔女を殺し、自分を殺し、そして勇者をも死に至らしめる。破滅の女だとさへ言われる役だ。けれど、恋人自身はそんなことを一つも考えていなかったのだろうから、報われない。よかれと思ってやったことはうまくいかない上に、望んだ幸福を手に入れることも叶わないのだから、かわいそうな人だと思う。彼女はどんな気持ちでいたのだろう。勇者を花の国へ送り出すとき。自らの行動が裏目にでて、勇者を悲しませることになるとき。どれも、スーリエには、分からない。

 祖国に恋人を残して旅に出る勇者はどんな気持ちでいたのだろう。世界を救い、恋人を救えなかった勇者は、彼女のいない世界に何の価値を見出すのだろうか。スーリエには、分からない。……分からない。

 がくりと膝をつき、両手で顔を覆う。ここで、民の一人が彼女の肩にそっと手を置く予定だ。一呼吸おき、次の動作に移ろうとしてふと時計を見る。昼前だった。そろそろ、他の人が来ても良い。

 舞台の隅から、まったく別の場面を練習しているカノンの声が、朗々と響いて来る。人を見定めるような目つきに、うかべた笑み。あんなに小柄なのに、人の何倍もの存在感を見せる。スーリエは、あどけない表情のカノンが、劇場では妖艶に変わるのが、いつも眩しかった。カノンは、すごい。

 練習することも忘れて彼女を見つめていると、背後からおおらかな足音がした。

「よう」

「フーガ」

 カノンが気づくよりも先に、スーリエは言った。ブロンドの短髪がいい。小麦色にやけた耳に手を当てて笑うのもいい。切れ長の瞳がきらきらしているのはずるい。

 どうして、声が聞こえるだけで、後ろに立っているだけで、こんな気持ちになるのだろう。スーリエには、分からない。

「さっき、わりと上の空だったろ」

「え?」

「勇者を送り出すところ」

 見られていたのか。スーリエは頬が熱くなるのを感じた。

「いたんだったら言ってよ……。一緒に練習したほうが効率いいのに」

「悪い悪い。なんか、急にカノン見てぼーっとしだすし、言いづらくて」

 フーガはにやりと笑った。駄目だ。スーリエが話題を変えようとした時、

「こらフーガ、あんまりスーリエをいじめないでよ」

「ああ、カノン」

 スーリエとフーガはどちらともなく、カノンのほうを向いた。黒いドレスの彼女は、腰に手を当てて、やれやれと笑った。

「スーリエは、そうやっていつも優しいんだから。たまにはフーガを怒ること。……それにしても、その胃痛。最後まで治らなかったね」

 フーガの頭をカノンがこづく。強そうでいてやわらかいその拳。そこに、二人の関係を見た気がした。もう、その間に入ることはできないような。そんな時、スーリエはもう、笑うことしかできない。

「そろそろ、テントに戻ろうか」

「そうだね……。ああ、さびしいな」

 カノンが、ふと言った。どうか、寂寥の声を聞かせるな。


 舞台から裏のテントへ戻ると、他の人もちらほら来ていた。

「三人とも、また朝練習ですか?」

「そうだよ、悪いかおっさん」

 カローレにそんな口をきくのは、フーガだけだ。カローレは若い頃、大豪邸のお嬢様の執事をやっていたらしく、所作の美しさといったらそこらへんの誰にも負けないだろう。大失恋を経て、一念発起、この団に入ったのは三十年近く前の話らしい。

「フーガ、お前相変わらず生意気だなー、緊張してるくせに」

 ジョコーゾさんもあきれている。恰幅の良い体から汗が滲んでいるが、彼の顔は青白い。緊張による頭痛をやわらげるために、熱さましのタオルを額に当てている。スーリエとカノンは吹き出した。

「ジョコーゾさん、先にちょっとだけ練習してきたら? ちょっとは気持ちが楽になるかも」

 カノンはきらりと光る黄金の王冠を装飾箱から取り出した。ジョコーゾは葡萄畑の王を演じる。

「いや、練習ならさっき外でしてきたよ」

 彼の言葉に、カローレも頷いている。どうして舞台に来なかったのか、と三人が聞くよりも前に、ジョコーゾがいたずらっぽく笑った。

「だって、今日はお前らが主役だろう? 最後だし、舞台を使ってたっぷり練習してほしくてな」

 その笑みに、カノンが俯いたことをスーリエは知っていた。だから、肩に手を置く。

「ほれ、カノン。泣くなって。相変わらず、スーリエは優しいな」

 ジョコーゾの声が聞こえた。そんなのじゃない。スーリエはゆるく首を振って、笑った。

「ほら、団長のとこにも挨拶しに行こう。いつか恩返しをしたいって思ってここまで来たんでしょ」

「そうだよね、そうだよね」

 カノンは何度もまばたきをしていた。フーガは、照れくさそうに頭をかいた。スーリエは、ただ笑うことしかできない。


 予行演習が終わって、夕焼けに染まりはじめる石畳。スーリエが外の空気を吸うためにテントから出ると、双子のドゥミジュとドゥミヴォアが、その幼い手を花籠にうずめていた。少年少女の数倍の体積をもつ大量の花束が、馬車に積み込まれている。双子はいろとりどりの花をちぎっては、花籠に入れていく。そのたびに薫る。魔法の国に降らせる花々。幕から落ちる葉や蔦。

「スーリエ、がんばって」

「がんばって」

 眠たげな瞳の双子がスーリエを見てほほえんだ。原石の輝きをもった瞳だ。

「ありがとう」

 がんばるよ。スーリエもほほえみ、その場を立ち去る。がんばる、か。そう思いながら。演じられるのは、ただ終わりの物語だ。わたしが演じるのも、ただ終わりのための行動だ。みんなどうかしてる、そう思った。どうして誰も、誰も何も言わないのだろう。みんな、馬鹿だ。

 暮れなずむ空を見上げる。

「……きれい」

 殺そうと思ったのは、いつからだろうか。

 スーリエは、路傍の小石をそっと蹴る。明かりの灯り始めた家並みを視界の端に感じる。曲がり角で、たおやかな風に撫でられる。夕飯のあたたかな匂いが鼻をくすぐる。

 いつからだろうか。

 スーリエには分からなかった。ただ、心はあの日のことを思い出すばかりだ。

「わたし、幸せだ。演じることがすき。三人で一緒にいられることがすき」

 まだ肌寒い季節のことだった。テントの明かりの下、フーガと二人で葡萄酒を飲みながら言った。カノンは体調がすぐれないために、いなかった。

 劇団は、勢いに乗っていた。脚光を浴びる機会が日に日に増えて来ていた。そして、孤児院から一緒だったスーリエ達三人は、大役を抜擢されるほどに成長していた。中でも今度の劇はとびきりのチャンスらしかった。この地の葡萄畑の神話を題材にするのだ。練習は一層厳しくなった。届かない理想も高まった。すきであればあるほどつらいことも増えた。

 けれど、スーリエは幸せだった。

「ずっと、こんな風に過ごせたらいいな」

 酔いに任せて、いつもなら言わないことを言った。すこし恥ずかしくなって下を向くと、

「スーリエ」

 フーガが彼女の名前を呼んだ。思わず身を固くして返事をしてしまったのは、フーガの声が、改まったものだったからだ。わけもわからず、ただ心臓の音が高まった。何か言いかけては淀む彼の言葉を、静かに待った。

「俺、劇団を抜けるよ」

 あと一年したら、抜ける。穏やかな表情で、彼はそういった。

「……そう」

 内心と裏腹に、相槌の言葉はするりと出てきた。

 グラスを落として、動揺したい。手が震えたい。なのに、どうしてこんな時に限って血の気もひかないのだろう。どうして、自分は、いま、笑っているのだろう。

「……どうして抜けるの?」

「すきなんだ、カノンが」

 スーリエの頭を殴る二つの事象は、はじめうまく結びつかなかった。

「結婚する。家庭を築きたい」

 何を言ってるんだろう。劇団が家族じゃないか。そう思いかけて、スーリエはひそかに首を振る。フーガは劇団以上のつながりをカノンと築いていきたいのだ。

「カノンとはもう話してるの?」

「話してる」

「そりゃ、そうだよね」

 スーリエは笑った。

「気づいてた? 俺とカノンの関係」

「当たり前だよ。ずっと前からでしょ?」

 また笑った。気づかないわけがない。それでも、良かったはずだ。

「分かるよ」

 分かる。カノンは素敵な子だ。優しくて強くて、とびきりの人だ。だから、すきになるのも、分かる。それでも、良かったはずだ。

「ごめんな。劇団のことは、お前に任せることになるけど。いつも、本当にありがとな」

「いえいえ」

「お前はほんといいやつだからなあ、心配になるよ」

 グラスの葡萄酒が明かりに照らされてきらきらと光る。ぼんやりとそれを見つめながら、スーリエは干したフルーツを口にふくんだ。劇団を抜ける。あれだけ、すきだったものを、捨ててしまう。それなら、愛など陳腐だ。心で少し馬鹿にしてみたけれど、無駄だった。

「おめでとう。わたし、応援するよ」

 頼むから、涙よ。涙くらい流れておくれよ。


 照明の影に隠れた双子が花籠を置く。装飾係が舞台をせわしく行き交う。とうとう最後の劇がはじまったのだ。幕が上がる。

 カノンが舞台の上で、その声を響かせている。スーリエは化粧の最終確認を済ませ、その樣を眺めていた。副団長がスーリエの隣に立った。

「いよいよはじまるね……。ここまで本当に大変だったね」

「ありがとうございます」

 団長の妻であるこの老年の副団長は、ふと思い直したように呟く。

「いや、スーリエはここからが大変なんだね。本当に、二人が抜けるなんて聞いた時には驚いたもんだ」

 劇団を頼むよ。穏やかな声で、副団長はそう言った。団長夫妻からは、自分たちはすぐにいなくなるわけではないが、もうすぐ劇の世界を退くこころづもりだと伝えられていた。

 スーリエは小さく首を振って、それから舞台へと歩く。きらきらと光が降りて来る。

 みんな、どうして、わたしを信じきるのだろう。腰に巻き付けた瓶の中身が、動くたびに波打つ。透明なガラスの中には、赤紫色の液体が揺れている。誰も、知らないのだ。彼を殺すつもりでいることを。自分が死ぬつもりでいることを。

 もう、これきり演じることのない舞台上で、スーリエはひざまずく。観客の視線が、しんと痛い。

「勇者様。どうか、ご無事で……」

 昏い照明の下、滲みついた言葉が、自然と口許から零れる。スーリエは目を伏せてみせる。

 がくりと膝をつき、両手で顔を覆う。

「どうか、ご無事で」

 何を、何を、心にもないことを。

 勇者の恋人役を言い渡された時。

 地獄だ、と思った。と同時に喜びに笑う自分がいた。少なくとも、物語の中では、わたしがフーガの恋人。柔らかく、腕の中にいる時間のときめき。顔を見上げたらその優しげな眼のあう幸せ。

 けれど、何がフーガに、そんなにも切なくて、あたたかな表情にさせることができるのか。それをわたしは知っている。生活は資料だ。生活にひそむ愛は、劇を彩る鮮やかな絵の具だ。料理で人を唸らせるための調味料だ。

 舞台で演じる時間が幸せであればあるほど、二人の幸福を思い知られる。二人はいつの日も残酷だった。わたしを信じきっていた。愛していた。正しかった。

「恋人役の雰囲気、スーリエにぴったりだと思う」

 カノンは言った。あたたかな目でそんなことを言ってのけた。

 馬鹿じゃないか。気でも触れてるんじゃないか。劇の中だと言っても、抱き合うのに。口づけだってするのに。何とも思わないのか。明るくなるなよ、正論を言うなよ、優しくいるなよ。

 ずるい、ずるい。誰も何も悪くないなんてずるい。

 それじゃあこの行き場のない気持ちはどうすればいい。誰のせいにもできなくて、悪いのはわたしのいくじのなさや弱さだとしたら、わたしはどうすればいい。仕方のない事ばかりで、運が悪くて、うまくいきっこないことばかりの世界で、それでわたしはどうすればいい。

 ずるい、そんなのは納得がいかない。ゆるさない。

 がりがりと心を削るような、じりじりと痛くなるような、膿の溜まった想いはひたすらに膨らんでいった。


 ただ、それだけだ。それだけで、殺そうと思った。人をすきになった理由も言えないようなわたしは、殺そうと思った理由だって、同じようにはっきりと言えない。

 ただ、彼に口わたしで毒を流し込めば、それで二人共に死ねたら、底ぬけに幸福になれるだろうと、ぼんやり思っただけだ。葡萄畑の恋人は、その役回り通り、彼らを破滅に導くだろう。


「早く、この戦いが終わらぬものか。わたしがしたいのは争いではないのに」

 勇者を演じるフーガが花を薙ぎ払う。取り囲む魔法使いたちを退けていく。幾重もの螺旋階段をのぼり、勇者は大きな扉の前にたどり着く。ぱっと暗転する世界。その中央では、一人の女が立っている。

「あら、これはこれは勇者様。遠路はるばるご苦労様でした……残念ねえ、あなたはわたしを倒せないのよ」

 魔女が高らかに笑う。その指が示す先には、牢の中に囚われた白い女がいる。

「なぜ、ここに彼女がいる」

 勇者が、後ずさりをする。幕がいったん下がる。幕間だ。役者は舞台の隅へ引き上げる。

 装飾係がすばやく背景や小道具を携えて舞台を動く。いよいよだ。腰に巻き付けた小瓶の毒がきらめいた。

「スーリエ」

 後ろを振り向くと、カノンが立っていた。この人のあどけない笑みを知っているのは、劇団の人たちだけだ。係が動く姿を見つめる瞳が、優しい。

「これで本当に最後なんだねえ」

「そうだね」

 最後だ。あなたは死なないけれど、あの人はもうすぐ死ぬんだよ。こんなことは最後だ。

「今まで、本当に楽しかったね」

「そうだね」

「ずっとスーリエに嫉妬してた」

 突如として、カノンがわたしの目を真っすぐ見た。フーガのことだろうか。

「スーリエのすべてにずっと嫉妬していた」

「え?」

「色が白くて、綺麗な顔立ちをしていて、演技もうまい。届かなくて羨ましくて、もどかしくて、腹が立って、優しくて、大嫌いで、大好き」

 だから、これからもよろしくね。有無を言わせなかった。視線を外すと、舞台を見た。準備が完了しかかっていた。

「さあ、では行きますか。最後だよ。……これからもきっと迷惑かけるから、ごめんもありがとうも、言わないね」

 カノンは前を向いて、舞台へ歩いていく。わたしはその背中をぼんやりと見つめていた。歩きながら、心は別のところにいた。唇を、噛み締めた。牢の中に入る。幕が、上がる。

 魔女の悲鳴とともに、崩れ落ちた巨大な岩が彼女の姿を隠す。

 もし、フーガが死ねば、彼女はもっと悲痛な叫びを響かせるのだろうか。恋人の死期を悟って絶叫するのだろうか。そして、愛しい人のいなくなった世界に意味なんてひとつもないことを知って、恋人のあとを追うのだろうか。まるで、勇者のように。

 フーガの演じる勇者がこちらに向かって来る。牢ごしに見えるその姿が、ひどくスローモーションに見える。

 わたしはそっと笑った。こんなの皮肉だ。役回りが違いすぎる。わたしは恋人じゃない。彼の恋人にはなれない。そうして、さっきの彼女の、カノンの顔がちらついた。

 勝手に、これからもよろしくだなんて。続いていく関係だと思っているだなんて、そんなの勝手だ。最後の最後に、思っていることを伝えるなんてひどい。残される人のことを考えずに、やがてさびしくなるわたしのことを考えずにそんなことを言うなんて、勝手だ。

 わたしの気持ちに気づかない鈍感な彼も、勝手だ。

 そして、そんなにも、大切な二人を、劇団を壊そうとした自分も、勝手だ。 


 心の中で小さく頭を垂れた。

 ――もう、こんなことはやめよう。どうせ、殺せもしないのに。

 もとより、自分にそんな勇気はない。そんな強さも熱情も激しさもない。何も、もちあわせていない。

 今さら、誰の悲しむ顔も見たくないなんて思うなんて、どうしてこんなにつめが甘いのだろう。


 わたしは倒れる花嫁を演じながら、腰の小瓶をちらりと見た。

 とすれば、この毒はどうする。台本通りにするならば、この大きな舞台を成功させるなら、わたしと彼はともにこれを飲まなければならない。

 ふと、笑った。わたしが全て飲みきればいいのか。どうせ、二人分の致死量ぎりぎりしかくすねてきていない。わたしが全て飲みきってしまえさえすれば、くちづけ程度で彼が死ぬことはないだろう。

 そうだ。どうせ死ぬのなら、誰にも心をわたさずに死のう。

 わたしの感情は、誰にも、渡さない。フーガにも。

「ともに生きることができないなら、ともに死んでくれますか」

 ちっぽけなわたしが抱いた、たった一つ温度をもった感情。自分の中の、濁った熱い感情は、誰にも渡してやらない。

 わたしは優しくなんかない。決して、優しくなんかない。その本性を、親しい二人にだってもう見せてはやらない。誰にもこの心をやるものか。

 そう思ったのに、勝手に手が動いた。わたしの意志を無視して、震える手は、小瓶をうまくつかめなかった。手から滑り落ちた毒薬が、雪のようなドレスに降りかかり、染みとなって広がる。

 フーガが目を見開く。

 観客が息を呑んだ。

 心臓がどくどくと荒れ狂う。手がひどく震える。

 ばかなのか。わたしは。執着のないふりをいつまでしているんだ。これで、終わりにしようと思ったのに、それすらできない。終わらせる勇気くらい持ち合わせていると思っていたのに、それすら持っていない。

 強くもなれない。優しくもなれない。迷いなく進めない。何者を演じようとも、たった一人の心をつかむこともできない。

 子どもは誰だ、愛に飢えていたのは誰だ。

 こんなにも失敗して、人の望みを壊して。

 団長。副団長。カローレおじさん。ジョコーゾおじさん。ドゥミジュ、ドゥミヴォア。たくさんの人の世界を今、壊している。

 それでもなお、わたしは、生きたいと思っているのか。あらゆることに、執着せずにはいられないのか。

 それならもう、生きるしかないじゃないか。最悪だと思った。

 小瓶が空になったことをなるべく見えないように持つ。手は、いつまでも震えていた。わたしはもう一度言った。

「ねえ、あなた。……ともに生きることができないなら、ともに死んでくれますか」

「……もちろんです、あなたと一緒にいられるなら喜んで」

 彼の瞳が、どんどん近づいて来る。どんどん、鮮明になる。

 小道具係が、緑色の絹を躍らせ、茎が空へ伸びていく。上から、眠たげな子らが花を落とす。

「すきでした」

 そう言えたなら、何がどう変わっていたのだろう。けれど、もうそれを思うことはないだろう。わたしはもうじき変わっていく。

 けれど、涙は一筋たれた。何も、後悔することなんてないのに、なぜか、一筋涙が流れた。どうしようもなく、すきでした、心に滲みついた言葉ははっきりと口許から零れた。

 小瓶の中身を飲み切るふりをして、わたしは、彼にそっと口をつけた。花降る棺の中で、ゆっくりと瞳を閉じる。


 どうか、今だけ、わたしと一緒に死んでいて。

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