またいつか海底で会いましょう
「お久しぶりです。元気でしたか」
そんな手紙が初めて届いたのは春先のことだった。海辺を散歩するのが趣味だった私は、ふと波打ち際で揺れる水色の小瓶を見つけた。
「……なんだ、これ」
透明なその小瓶の中で、丁寧に二つ折りされた白い紙が丸くなっている。蓋には24の番号。手紙にはこう書いてあった。
「お久しぶりです。元気でしたか。僕はまあまあです。桜がひらひら舞う季節になりましたね。あ、いやあなたは植物の話に興味は示さないのだった。海藻の話でもしたほうがいいのかな」
――いやこれ、人に宛てた手紙だ。
後ろめたい気持ちになり急いで便箋を元に戻した。朝の鋭い風が赤いスカーフを撫でた。カモメが後ろで鳴いている。仕事に行かなきゃならない。
「……こんな、誰でも見えるところにたどり着いたのが悪い」
数日後、また私は海岸に現れる。私は悪くないよね。とかぶつぶつ言いながら。私は小瓶を手に取った。だって、一週間も放っておいても誰も取りに来やしない。そう、確実に相手に気持ちを伝えたいならこんな風に海でやり取りするんじゃなく、文明の利器を使うべきなのだ。あ、細い字だなあ。手紙の文字は、ここにこうあるべきだというとても正しい形で並べられていた。
「あなたはどうしてそんなに海が好きなのでしょう。あなたの文字にはいつも海がいる。細波が聞こえ、赤や黄色の小さな魚が泳ぎ、煌々と輝く水平線が見えるのです。泳ぐのはそんなに得意では……いえ、正直に言うと僕はカナヅチなのですが、それでも海に行きたいと思ったほどです。
話を変えます。そういえば僕はびっくりしたのですが、あなたは人と関わるのがそんなに怖いのですか。そんなに思い悩んでいたのですか。波打ち際を見つめるほうがよっぽど穏やかな気持ちでいられるなんて。そんなこと思っていたのですか。僕でよければいくらでも聞いたのに。昔一緒に笑いあったことを思い出します。あの頃のあなたの笑顔はとてもまぶしかったというのに、いつの間にそんなことになったのでしょうか。今原っぱでこれを書いているのですが、青く短い草が揺れています。あなたにはシロツメクサが似合いそうだ。……あ、そうでした、あなたは植物に魅力を感じないんでしたっけ。恥ずかしいな。おや、便箋が終わりに近づいてきました。それでは、お返事いつまでも待っています」
「なんだこれ……」
家に帰って来て自分の部屋でコソコソと読んだ私は、眉間に皺をよせていた。ラブレターだ。恋文だ。最後まで読み切ってから猛烈な後悔が襲う。元の場所に戻してこないと。今ならまだ間に合うかもしれない。私は暮れなずむ藍と紫の空の下、波打ち際を歩いた。カモメが鳴いていた。夜色を反射する小瓶はぷかりと海面を漂った。見届けた私は家にそそくさと帰り何事もなかったかのように、持ち帰った仕事の残りを片付け始めた。すらりと黒いペンを動かす。
ところが小瓶はいつになっても回収されない。私は怪しい人がそれを面白がって盗っていかないか心配で心配で毎日チェックしてから帰ることにした。どこかから旅してきたその恋文はどこに行こうともせず一定の場所で浮かんでいる。……まるで私に取ってほしいみたいだった。そうだ、私に取ってほしいんだ。そうに決まっている。結局私はそれを自分の部屋に持ち帰ることにした。
ある朝白く細かな波をよけるようにして歩いていると、また小瓶が浮かんでいた。前のものより青が深い。私は誰もいないことを注意深く確認すると、67の番号が書かれた深い青の小瓶を開けた。
「お久しぶりです。元気でしたか」
「元気でしたよ」
私は一人で呟いてみた。また会えた。何故だか口元が綻ぶ。細い字は相変わらず繊細そうだった。まあまあ元気らしい。白くて細い指が手紙を書いているんだろうなあ。文字は非常に楽しそうに喋りだす。
「まず一番に聞いてほしいこと。僕はあなたが紹介してくれたヤムなんとかいう料理を食べるためお店にいきました。あなた、あれは恋の味がすると書いていましたね。僕はそうは思いませんでした。どんな味がするのかわくわくしていたのに、いざ食べてみると――ものすごく甘酸っぱいじゃないですか! 本当にびっくりしました。あなた、そんな純粋な人ではなかったでしょう。僕は騙されませんよ。
さてでは本題に移りましょう。今回は海月についてですか。……僕が思ったことを言ってもいいかな、多分予想つくと思うけれど。……海月って海の中で透きとおる朝顔みたいですね。いや、冗談です。あなたは地上のものがあまり好きではありませんからね。少し、からかってみたくなっただけです。申し訳ないけれど海はやっぱり海は好きになれない。僕はカナヅチだし。あなたのおかげで大分その魅力も分かってきたんですけれどね。これからもたくさん素敵なところを教えてください。海を語るあなたは誰よりも生き生きしているから、僕はなぜだかそれだけで幸せな気持ちになるのです」
ここまで読んで、ため息をつく。やっぱりちょっと後ろめたい。人のラブレターを読んでいるのだから当たり前かもしれないけれど。相手の人はどんな文章を返しているのだろうか。……あ、いや、私が持っているから返せないのか。
「お久しぶりです。元気でしたか」
「お久しぶりです。元気でしたよ」
私は私だけの部屋で呟いてみる。返事はない。思いはいつも一方通行だ。手紙の相手は、いつも楽しそうだ。
「早いもので手紙も78通目になりました。僕の気持ちは相変わらずです。僕はやっぱりあなたに会いたい。そのうち本当に会いにいこうと思っているのですが、手紙を192通書ききるまではやめておこうと思っています。あなたが嫌だと思うのなら、その間に僕を心変わりさせてみてください」
「素敵ですね」
私はそう言ってみた。床に手をつくと同時にかたん、と音がする。小瓶が手に当たったのだ。部屋には数えきれない小瓶。蒼や灰色や深い緑や水色が白い部屋を彩る。瓶に閉じ込められた思いは、私の部屋でキラキラと光る、光る。私は魚になった気分だ。海底から見上げた空はこんな風なのじゃなかろうか。月の明かりに照らされて部屋は深海になった。私は海の底で、届くことのないラブレターをひっそりと読むのだ。
「今朝僕は海岸を散歩しました。あなたに会えないものかと思いながら。空と海の境がぼやけて分かりません。目を凝らすと視界がにじんだように見えます。ただ、薄雲をまとった朝日も波もキラキラと輝いて綺麗だということだけがはっきりしています。あなたならその違いが分かるのでしょうか。空と海は全く別のものだ、何でそんなことも分からないのか! とぷんぷん怒ったりするのでしょうか。あなたの怒った表情を見られるのなら、それも幸せなのかもしれませんね」
今日も海の底で私はため息をつく。この人の思いは届かず私の部屋に留まっている。思いはいつも、一方通行だ。私はペンを動かす。
番号から見て、夜にぷかりと姿を現す小瓶の全てがここに来ているわけではないらしい。それでも、私はそれをいつも楽しみにしていた。他の誰かに、そして宛先の「あなた」に手紙が届かなければいい。そう思っていた。
「今日は深夜2時に泳ぐ鋭い目のサメの話ですか。何時だっていいじゃないですか。サメを抱きしめたいったってそりゃ無理がありますよ。僕は嫌だ。絶対に怪我をするし何より食べられますよ。全く、海のこととなると本当にあなたは。人と話すより魚を見ていたほうが幸せですか? それは魚が余計なことを言わないからでしょうか。早く、あなたに会いたいです。別にあなたが止めてくれるのなら会わないと言う選択肢もありますが。僕は手紙を何通書いたって変わらずあなたに会いたい。気持ち悪がられても、他のことはどうでも良くなってきたのです。お返事、いつまでも待っています」
「……」
独り言はもう出ない。いつしか、私は言葉を零すことをやめた。そこに入る隙間は最初からないのだ。2人はとても仲が良いに違いない。私はそこに入れてもらえない。相手の人に手紙が届かなければ……届いていなければいい。そう思った。行き場のない私の心は茶封筒に仕舞われて、どんどん重なっていく。
「あなたはいつも、好きな人の好きな海について書いていますが、あなたは海が苦手なんでしょう。それはどうしてなのですか。私とも、仲良くしてくれませんか」
私は送る勇気もないくせに、そんなことを毎晩書いた。近くのスーパーで何度も封筒を買った。私の部屋には大量のラブレターがある。海の底の魚は、ラブレターを渡す術なんか知らない。「お久しぶりです」で始まる言葉が全部私に向いているものだったなら、どれだけ幸せだっただろう。
「お久しぶりです。元気でしたか。僕はまあまあかな。145番目、読みましたよ。以前にも指摘しましたがあなたはどうしてそんなに人と関わるのをびくびくしているのですか。人間は嫌いですか。僕は好きですよ、あなたも好きですよ。海ばかり愛してないで、もっと話をしましょう。海の藻屑になりたいなんて、そんなことは言わないでください」
海はいつの日も穏やかだ。私は真っ黒な瞳の男の人が、小瓶を海に投げ入れるところを想像する。優しくて寂しそうな瞳だ。どうにかして、会えないものか。私は、何にも方法なんて思いつかないくせに海岸を行ったり来たりした。小学生に不審者がいるなんて通報されていないだろうか。
ある日、また小瓶が浮かんでいた。初めて見つけた時と同じ、水色の小瓶だった。
「192、最後になりました。これで、最後です。時々僕はあなたは人じゃなかったのではないか、と疑う時があります。あなたはまるで人魚みたいだ。正体を言ったら泡になって消えてしまうように、本当の心の奥底を明かすと消えてしまいそうになるから、こうして紙の上でしか自分の気持ちを主張することができないんじゃないですか。分かりません。あなたが人魚みたいにずっと海で生きていける人ならよかった」
どうして、海に身を投げたりしたのですか。
淡々と、文字は問いを浮かべていた。怒りさえも見えた。
どうして、あなたは死んだのでしょうか。
「あなたが生きているうちに書いた192の物語をすべて読みました。僕はあなたと一緒に海を泳ぎ、深夜2時に泳ぐ鋭い目のサメに抱き着きました。物語を読むごとに、あなたに手紙を書きました。僕はあなたを連れ去った海がとても憎い。僕はあなたが好きだった海を好きでいたいです。それでもやっぱり好きになんてなれません。どうして僕をおいて海に身を投げたりしたのですか。臆病で人に心の内を明かせないあなたは何に悩んでいたのですか。あんなに明るい笑顔を見せていたあなたはどうして死んでしまったのですか。あなたが地上に残した心のすべてを知るつもりですべての本を読みました。恋の味は甘酸っぱくなんてありません。美しい糸のような水平線なんてどこにあるんです、そんなものは見えない。ただただ零れ落ちるものばかりで、目の前に境界線なんて見えません。僕はもうどうしようもないのです。あなたにもっと近づきたくて、行ったり食べたりしたってもうあなたには近づけないのです。あなたはどこにもいない。手紙を書き始める最初から、もう、どこにもいませんでした。お返事をいつまでも待っていたって本当はもう、来ないのです。今頃は昏い海の底で眠っているのです。193通あなたに届くはずのない手紙を書きました。だけど僕の気持ちは何ら変わらなかった。悔しいですが、もう諦めて僕もそこへ行こうと思います。いつあなたのところへたどり着くかは分かりません。ただ」
最後の文字は震えるどころか、いつもよりもしっかりと丁寧に書かれていた。
「またいつか海底で会いましょう」
私はその最後の一文を見た瞬間に飛び出した。飛び出したけど、どうしようもなくて泣き出した。なぜだか端が濡れたみたいによれよれになったその便箋の隅には3年前の日付が書かれていたからだ。丁寧な文字だった。
作家に恋をしたその人は、3年も前に身を投げている。作家が生きているうちに味わったことすべてを知ろうと、作家が書いたすべての物語を読みつくした。その人は手紙が相手に届くはずがないことを最初から知っていた。知っていて海に思いを投げ入れた。返事なんて来ない。最後には、身を投げた作家の後を追って、その人も海の底へ行った。思いはいつも一方通行だ。私はゆるゆると首を振った。じゃあ、私の思いは? 部屋に震えるほど重なった私の思いはどこに向けたらいいのだ。誰に渡したらいいのだ。小瓶がキラキラ光ったけれど、もう部屋は海底にはならなかった。あなたはどこにもいない。最初から、どこにもいなかったのだ。私もあなたも、どこにも存在しない人に恋をしていた。私は窓からのぞく月明かりを見上げ、たくさんの紙を恍惚と抱きしめた。
「お久しぶりです。元気でしたか」
私は今日も手紙を書く。毎日手紙を書く。伝えたいことはたくさんあるのに、きっとそれは相手には届かない。だからせめて私は願う。私の心を海の底へ連れて行っておくれ。ぷかりと浮かんだ水色の小瓶は大海を旅し始める。
「24番目、読みました。あなたはどうしてそんなにその人のことが好きなんでしょう。どんな気持ちで手紙を書いたのですか。私にもっとたくさんお話を聞かせてくれませんか。そしてできれば、私とも仲良くしてくれませんか。今、どこにいるのでしょうか」
お返事いつまでも待っています。私はささやかな思いを書き記したあとに、必ずこう添えた。
「またいつか海底で会いましょう」
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