オレンジ讃歌

 1

 ずっと、夢を見ていた。

 幻影の世界は眩い。橙色の景色の中、ポニーテールを微風に揺らす白皙の彼女。もう二度と会うことはない、会いたくない。そう思った彼女が今目の前にいる。

「雪貴」

 彼女は、私の名前を呼んだ。

 彼女は長い髪を風に揺らしながら私を見る。白いスカートのすそが危うい。夕日に煌く彼女の背後がまぶしい。坂道から見える錆びた色の線路。古びた汽車ががたんごとん。何も、変わらない景色。

 あれから、もう何年経ったことだろう。私たちは今、電柱が斜めに影を落とす坂道を下る。

「歌手になりたいんだ」

 中学生の頃の私が彼女に言った。遠い昔の話のことに思える。港町に帰るまでの坂道は彼女と希望を語る時間だった。

「いいねえ。どうしてなりたいの?」

 彼女は目を輝かせて私に尋ねる。

「思ったことを歌にのせて、いろんな人に届けたい。自分の思ったことが、自分の中だけで死んでいくのはもったいないと思ったから」

「生きた爪痕を残したいわけだね」

「そうなのかもしれないな」

 みんなに恥ずかしくて言えない話を、彼女にはたくさん打ち明けた。彼女はとてもうれしそうに笑った。生きた爪痕だなんて、彼女以外の人が言ったら笑ってしまうかもしれないけど、彼女は真剣だった。歌手になりたいという私の言葉を真剣に聞いてくれた。

「雪貴がなりたいんなら、絶対になれるよ!」

 夕陽をうつす、きらめく瞳が私を真っすぐに見た。私と彼女は二人で静かにうなずいた。

 誰にバカにされたって、彼女がいたから私は強くなれた。

「ね、歌ってみてよ」

「え……恥ずかしい」

「ほら」

「そうだなあ……」

 風に揺られる危ういセーラー服の彼女の手を握る。二人なら、どこまでだって強くなれると思った。高校を卒業した後、両親の愛に満ちた反対を勢いよく押し切って、東京の大きな街に向かった。



 東京での生活は思ったよりも退廃的なものだった。

「棘を出せばいいってもんじゃないんだよ」

 私の歌を聞いた人がそう言った。自分の努力が、ひたむきさが、誰かの心を脅かすものになるのだと初めて知った。

「自己肯定感のために歌ってんでしょ。そんなの、向いてないよ」

 そう言った誰かが私の歌を深く否定した、ような気がした。強ければいいもんじゃない、そう言った誰かの声が心に棲みついた。響いて離れないのはきっとそれが本当のことだからだ。本当は、自分だってずっと前から気づいていたからだ。

「お前、やめたほうがいいんじゃないか……もっといい仕事だって……」

 親は私の限界を決めたがった。誰にも迷惑をかけずにいられる私だったら、どんなによかっただろう。私はもうすでに私だけの私だけではなくなっていて、それが私を縛り付ける。自分がやんわりとかせに繋がれた、薄く守れた薄く大切な存在だと知った。

 他人に設けられた自分の限界に安心と苛立ちを覚えた。

 真剣になればなるほど些細な事で立ち止まり、憤り、私は部屋に籠りきりになる。

「どんなこと言われたって、なりたいから、がんばれるよね」

 私の前で彼女は泣きそうな顔をする。四畳半は、たまに訪ねてきた彼女の声が痛いほどに響くから嫌いだった。震える言葉は私に訴える。

「ねえ、私、雪貴が煙草吸うなんて思わなかったよ」

「うるさいな。私の勝手だろう」

「喉、だめになっちゃうよ。それでもいいの」

「いいんだよ」

 よくない。

 どうにでもなれ。

 でもやりたい。

 やっぱりもういい。

 私は心の中で何度も何度も繰り返す。私はくたびれたぼろ雑巾だ。川底の忘れられた靴だ。食虫植物の中で溶けゆく蠅だ。暗い四畳半に吸い殻がたまっていく。かつて夢を膨らませるはずだったその場所は、いつしかただのゴミ箱になっていた。

「雪貴が言ったんだよ。人の役に立ちたい。強くて優しい歌が歌いたいって」

「いつまでもそんなままじゃいられない。何でそんなことも分からないんだよ」

「歌うことをやめないでよ」

「うるさいな、仕方ないだろ。どうにもならないことだってあるんだ」

 いつからだろう。綺麗な彼女の言葉の一つ一つが私の弱さに突き刺さり、一緒にいるのがつらくなった。いつからだろう。自分の気持ちが冷えたものに変わってきたのは。どうせ、ずっと二人でなんていられっこない、そう思うようになった。ずっと綺麗なままじゃいられない。私はいつしか自分を憎むようになった。

 こんなはずじゃなかった。夕焼け空に二人で描いたのはもっと美しくて綺麗な夢だった。薄い煙が空に昇っては消えた。煙があるから、夕日に照らされた街並みもくすんでいった。

 ある日、私はとうとう地元に帰った。あれだけ反対をしつつも、金銭的に生活を支えてくれていた両親の気持ちを踏みにじって。ただ一人、純粋にひたむきに応援してくれた彼女の思いを無視して。

 のこのこ地元の家に戻ってきた。歌手には、なれなかった。

 煌々と燃えるアスファルトをぶらぶら散歩していると、彼女がいた。久しぶりに、彼女と会った。「呼んだかい?」と笑う彼女がいた。

 私は、とても悲しくなった。

 凶器は持ち合わせていなかったが、彼女はそれをすんなり受け入れてくれるだろう。



「昔さ」

 何も変わらない彼女は口を開く。オレンジの視界の端で鴉が鳴く。私が俯くから、彼女の顔は見えない。見たくない。

「朝顔が咲き誇る堤防で散歩したよね」

「そうだね」

 だけどもう来ることはないだろう。彼女と来ることは、もう二度と。

「歩くのもよかったけど、自転車で坂道下るのも最高だったよね」

「そうだね」

 だけどもう笑いあえる日は来ないだろう。もう二人は壊れてしまったのだから。

「ほんとは、もっと二人でうまくやれたはずだよね」

「そうだね」

「二人ならどこまでも強くなれたはずだよね」

「そうだね」

 どうして、歌手になれるなんて思っていたのだろう。

 どうして、人の役に立ちたいだなんて、立てるなんて思っていたのだろう。

 どうして、自分が人にいい影響を与えられるような存在だなんて。

 どうして、自分の歌に価値があるなんて。

「伝えたい事があって来たんだ」

 私は言った。涙は出ない。出るほど、力を尽くしていない。私は顔を上げて彼女を見据えた。

「笑っちゃうよな」

「笑えないよ」

 彼女は私を真っすぐ見た。そんなにやるせない顔をすることがあるのだと、今更知った。

「雪貴。私を、消したくて呼んだんだよね。いいよ、もういらないなら消してくれていいんだよ」

 私の姿をした彼女はそう告げる。私の夢の姿をした、彼女。私の夢の象徴。歌手に、ずっと、あれほどなりたかったはずの彼女の瞳は色あせている。

 それなのに、最後まで私は弁解めいた言葉を、小さく、吐いた。「少しの挫折でやめるくらいなら、そこまでじゃなかったんだな」と、誰かのささやく声を思い出して。自分を守るためだけの、言葉を吐いた。

「……本当になりたかったんだ。本気だったんだ」

「知ってるよ。私だもん」

 彼女は私の背中に腕を回した。色あせた白の、ワンピース。

 それでも、諦めるのは私だった。さよならをするのは私だった。

 私が細い首筋に触れると、彼女はそのままそっと目を閉じた。それはまるで、ゆるしのような。私の指は小刻みに震える。ガクガクと、震える。シロツメクサの首飾りをかけるように、首に手をかける。

 夢を見ていた。今まで、ずっと夢を見ていた。追いかけていた。私が弱いから、届かなかった。彼女を最後に、見つめていた。

 誰に言われたわけでもない。けれど、私はもう彼女と生きてはいけない。期待したり失望したりするそれすらもつらいから、それなら全部全部終わりにしよう。叶わない夢と一緒に生きていくのは苦しいから、震える指は首に食い込んでいく。

 もう見ることはないから、さめることもない。

「さよなら」

 真っ赤な陽は海に沈んで無くなった。紫と青が沈黙する。ふわりと揺らぐ陽炎、彼女はもうどこにもいない。そうして私は一度きり、涙を零した。




 2

 まだ日が昇る前は、一様が濃い青だ。

 霜が、降りている。土を踏みしめ、畝の間を歩く。害獣に畑を荒らされていないかチェックをするのは、家族の中の私の役割になっていた。白菜が、行儀よく並んで沈黙を貫く。ふと私は立ち止まって、白い息が消えていくのを見つめていた。そこに確かにあるのに、見えなくなるというのは、不思議なことだ。

 実家の農作業を手伝うようになって、五年が経った。アルバイトにも少しだけ入って、不満を言うには、少し平穏すぎるそれなりの生活をしてきた。

 早朝の役割を終えると、私は辺りをきょろきょろと見廻した。誰も、見てはいない。うす暗い青の世界で、私は足を速める。細い道路の向こう、枯草が折り重なるようになっている小さな倉庫。かじかむ手をこすり合わせ、もつれる足でそこへ向かう。白い息は消えては、また現れる。

 朽ちかけの戸をしっかり閉め、私は一息つく。使わなくなった農具がそこかしこにある。土臭く、寒々とした暗い蔵の中、私は半ば手探りで、あるものを探す。定期的にここに来ていることを、家族は一つも知らないはずだ。でも、捨てられた、だろうか。

「き……きーみがー、いなーくなってー……」

 私は、小さく、口ずさんだ。藁を除け、ペンチの入った箱を静かに寄せる。古びたギターはない。捨てられたのだろうか。おかしい、この前まであったのに。

 私は、嫌と言うほど知っている。楽器の手入れもせずに、カビの生えた倉庫に隠すなんて、周りから見ると捨てたも同然だ。

 それでも、私は捨てられなかった。なのに、家族に捨てられてしまったのだろうか。なぜか目の前がぼやけた。意固地になって、細い声で歌を紡いだ。

「ほんとーのー、はーなしをー」

 その時、情けない、張りのないギターの音がした。

 大きな竹箒の立てかけられた、その奥に、いつかの懐かしい彼女がいた。彼女はギターを抱いて、得意げな顔で笑っていた。私は短く悲鳴を上げた。

 だって、彼女は私があの時、

「消したのに、って思った?」

 彼女は、よっこいせ、と立ち上がり、私にギターを押し付けた。

「何度だって現れるよ。だって、私はあなたの命自体ではない。あなたの心だもの」

 その、懲りない陽気、押しつけがましい善意、希望、光の象徴のような意志に、私は顔をしかめた。そして――とても、情けないほどに、本当は安堵していた。私は俯いて、何も言わなかった。驚きつつも、この事実を受け入れられるのは、ここのところここへ来ると酷く懐かしい気持ちになるからだった。土に染みが出来ていく。

「あーもう、ほら、雪貴ったら泣かないの」

「泣いてない」

 彼女は指で、私の頬を伝う滴を拭った。いや、けれど本当は自分で拭っているだけなのかもしれない。彼女は、私と寸分違わない姿をして、にっこり笑った。

「ごめん。あんなこと、しなきゃよかった。本当に」

 私は、しかめっ面で謝罪した。目に力を入れないと、もう駄目になりそうだった。

「後悔してるんだね」

「当たり前だろ」

「いいんだよ。後悔しないなんてきっとありえない。全力を尽くして、本気になればなるほど、理想は高くなっていくんだからね。傷つくのは、それだけ真剣だったってことでしょう」

「違う。人の言葉で自分の夢を諦めるなら、その程度だったんだ」

「出した結論がどうであれ、本気でやってきた過程まで否定しなくていいじゃない。気持ちまで価値づけしなくてもいいんだよ。……ね、雪貴」

 彼女は笑った。倉庫の屋根、隙間から零れる数本の静かな光が、彼女の髪を、肌を、うっすらと照らす。沈黙の青は、ひっそりと薄らいでいく。

「きみが、歌うことが大好きだったこと、世界で私だけは――自分だけは知ってるんだよ。その気持ちに嘘なんて一つも無かったじゃない」

 けれども、その思いが言葉となって、誰かを傷つける時がある。私のひたむきさは、時に誰かを深く傷つける。

「きっと歌はねえ、誰かを傷つける時だってあるけど、勇気をもらう人だっているんだよ。私はそう願ってる。誰かの心の領域に足を踏み入れるなら、人を傷つける覚悟だって必要なんだよ。それに、どんな感情であれ誰かの心を捕えるっていうのはとても素敵なことだと、私は思い始めてるんだ」

 ねえ、そうでしょう? だって、きみは私なのだから。彼女は、私に言った。けれど、いくら褒められたって、誰に言われたって、たとえ自分自身に諭されたって、私は首を振ってやる。

「知らない。もう辛いのは嫌だ」

「それも知ってる。でも、あなたが夢を諦めきれなかったから、私はまたあなたの前に姿を現したんだよ」

 眩い光の意志の彼女は、私に残酷なことを言う。

 そのせいでいつも、私は苦しめられ、幾度となく傷つけられ、また頑張るしかなかった。何かに屈することなく希望を夢見る姿勢は、いつも潰されて終わるに決まっている。

 それなのに、優しい顔をしてまた、彼女はとても勝手なことを言う。静かな声で、祈りのような言葉を紡いだ。

「ねえ、雪貴。どうかずっと、そのまま、歌に心を奪われたままで」

 彼女は私の背中に腕を回し、静かに抱きしめた。それはまるで、ゆるしのような。私は、抗わなかった。足を引き摺ってでも、歌いたいと思っているのは、自分自身だと知っていた。

「これからは姿を現すまでもないよね。きみとずっと一緒だよ。大丈夫だよ」

 何も大丈夫じゃない。彼女は、また、夢見る綺麗ごとを言ってのける。私は、自分が頑固だったことを今さら思い出した。

「さよなら」

 抱きしめたままの彼女が、小さく言った。

 蔵に差し込む朝焼けのオレンジが眩い。鋭く清らかな空気の中、やわらかな光が私を照らした。鮮やかな蜜色の世界が、やって来たのだ。腐りかけの木の戸を開け、カビの生えたギターを抱えて出る。

 冷たい風が吹く朝の道路を、私は泣きながら歩く。

 これからも私は失敗を重ねるだろう。大きな挫折を重ねるだろう。苦しい、悲しい、つらい、もう駄目だ。そう何度も思うことを考えると、足が震える。この選択をいつかきっと後悔することがあるだろう。

 それでも、やるしかない。中途半端でだらしなくて、みっともなくて、かっこ悪いって言われても。それでも、歩く。

「こんなの、呪いじゃないか」

 私は泣いていた。何かに対する想いを断ち切れないのなんて、呪いと同じだ。首を横に振りながら、もう嫌だと思いながら、夢に焦がれて歩いていく。これから先のことを考えると、怖くて足が震える。逃げ出したい。決して、好きだけじゃなくなった道を考える。

 それなのに、心はずっと、奪われたままなのだ。

 金色の日がゆっくりと昇っていく。誰もいなくなった倉庫で、ひゅうと風の歌が聞こえる。それは、何かを讃えるささやかな音楽のように、すんなりと耳に届いた。

 ずっと、夢を見ている。二度とさめることはないだろう。

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