僕の世界が終わるとき
七野青葉
ワルツは夕暮れに赤く響く
それは、暖かで、燃えるようで、一度きりの色をしている。命は、きらきらと光る赤い色をしていた。
ずっと、たった一度見た夕日を覚えている。
「七条和彦の心を奪ってやりました」
青島京介はするどい目を細め、にやりと笑いました。放課後の理科室はしんとしており、夕日に照らされた埃がゆっくりと舞っています。
「それは一体どういう意味ですか?」
八坂葉子は、首を傾げました。白いシャツ、紺色のスカートから柔らかい肌をのぞかせています。三つ編みにした髪が夕日にキラキラと光っています。
七条和彦。それはひと月ほど前に肺の病気で死んだ生徒です。白い肌の、背の高い美少年でした。青島と八坂と同じ高校生でした。
「驚かないでください。心を、盗ってきたのです」
青島は黒い鞄の中からゆっくりとそれを出しました。それは、窓から射す橙色にきらめいた大きな瓶でした。中に入っているのは赤い心臓でした。青島はうっすらと笑みを浮かべ、八坂に耳をあててみるように促しました。
「まぁ……」
低くかすれた声がする。林檎のようなそれは、肉体を失くした今でも、静かに脈打っているのでした。その美しい声音は何か話しているようですが、八坂はふと気になって顔をあげます。
「でも、どこでこれを?」
「七條の家で。奴の父親を覚えていますか? 変な宗教にのめり込んでいるような人です。彼が、どうやら七條の心臓を保存することにしたらしいのです」
なるほど七條和彦にも現実離れした発言はいくつかありました。人の心が読めるとか、聞こえるとか……。それなら父親の奇行もうなずけないではありません。けれど、そうだとして、どうして青島がその心臓を奪ってきたのでしょう。八坂は、色素の薄い柔らかそうな髪の毛の先を弄りながら考えます。
「復讐ですよ。七条、あいつはいつも一番でした。僕はいつもあいつに勝てなかった。あいつはいつも僕をあざ笑っていた」
青島は乾いた笑い声を漏らしました。その表情は外の木々の影に隠れて見えません。
「奴は心が読めるだとか聞けるだとか言って、いつでもお見通しだという顔をしていました。僕らのことは知ったように語るくせに、自分のことは語らなかった。だから心を奪い、今ここであいつの心を暴くことで、今までの報復をしてやろうと思ったのです」
自分の心を読まれることほど恥ずかしいものはない。そういうことだというのです。
「なるほど。そういうわけですか」
「七条和彦。本当に嫌なやつでした」
「青島君を散々コケにしてましたからね」
「今思い出しても虫唾が走りますよ。あいつが周りに嫌われていたのも、うなずける話です。ふんぞり返って、人の目を見ることもなく。見下していた」
青島は首のあたりに手をやって笑いました。窓から漏れる夕日に、ほこりが光の粒のようです。
「……それでは、復讐をしましょう」
「ええ。おもしろそうです」
二人は顔を見合わせてにやにやと笑いました。
瓶に耳を当てると、不思議なことに動かぬ心臓からとくん、とくんと微かに鼓動のようなものが聞こえます。八坂もそれに従いました。
やがて小さな鼓動はどくん、どくんと確かな鼓動に。そしてその音は何か語りのような声に変わっていきます。低く掠れた懐かしい声でした。
「僕はもうすぐ死ぬ。息をすることもつらい、こんなことははじめてだ。肺がやられはじめたのだろう。僕はもうすぐ死ぬのだろう。だから、僕は残された時間を全て使って、自分の思いを整頓することにする。
実は僕は生まれた時からずっと人の心が読める。顔を見ただけで思っていることが言葉になって僕に突き刺さるのだ。さっきは息もすることもつらいのが初めてだと言ったが、息苦しいのはどこにいたって変わらないかもしれない。第一僕は教室が嫌いだ。人間が嫌いだ。心が読めるということは、始終僕の悪口を聞き続けなければならないということだ。人間不信になるということだ。僕は人と関わるのが恐ろしかった。だから人を撥ねつけるような言葉ばかりになってしまった。それがまた嫌われる原因だった。そもそも僕は」
つい気まずくなって、青島は顔を上げました。
「あの……暗いですね」
「ええ」
「奴、こんな男でしたっけ」
二人はしばらく黙ったまま瓶を見つめました。
「八坂さん、どうします? 続き、聞きますか?」
「一応、ここまで来たのですから。聞きましょう」
「まさか奴がこんな根暗だったとは……」
「まぁ、案外うなずける話ではあります」
青島はもう一度そっと瓶を持ち上げました。どくん、どくん、と鼓動がこだまします。
「正直、早く死にたいと何度思ったことだろう。僕などこの世には必要ない、と何度思ったことだろう。友人の青島など、僕を忌み嫌っている」
「そ、そんなことないぞ!」
え、と八坂は青島を見ました。青島はつい叫んでしまったのでした。
「あ、いえ……何でもないです」
青島はこほんと咳ばらいを一つしました。二人は再び耳を小瓶に当てます。すると、低い声は穏やかに笑いました。がらりと、声の質が変わったのです。
「さて、ここまでは前座です。お遊びです。復讐を望んでいたバカな青島よ。僕は、君が僕の心を読もうとしていることを知っていた、と言っておきましょう。そしてきっと今、そこには八坂さんもいる。僕に恥をかかそうという魂胆でしょう。僕は心が読めますから、君の考えていることなんてお見通しなのです」
「なんだって七条!」
思わず青島は瓶から耳を離し地団駄を踏みました。
「静かにしてください聞こえません!」
「……すみません」
再び青島は耳を瓶に当てます。すっかりしょげています。赤い心臓は瓶の中で過去の心を流します。声の主は非常に楽しそうに続けました。
「あ、そういえばこの間の件どうなりました? 誰かさんをデートに誘う件! どうせ小心者で恋愛下手な君は何も動いていないに違いありませんが。あの三つ編みのお嬢さんはなかなか鉄壁そうですから頑張ってください。」
「七条このやろう何言ってるんだやめろ!」
「静かにしてください聞こえません!」
「……すみません」
青島は塩をまぶした青菜のごとく萎えました。
「ちなみにもうここから後を聞いても青島の悪口しか言っていません。それから八坂さんのこと大好きってことしかね。青島よ、君は今どんな気持ちですか? 僕? 僕はもう最高です。青島が困っているところを想像すると。自分の心を読まれることほど恥ずかしいものはないでしょう? さっさと告白したらどうです?」
「七条このやろう!」
「し、静かにしてください聞こえません……」
「は、はい……」
それで青島と八坂は一応その後も耳を当てたのですが、七条の残した心は、宣言通りの内容しか話しません。何とも言い難い空気になりました。青島はゆでだこのように赤くなった顔で言いました。
「……もう、帰りましょう八坂さん」
「完全にいつもの通りになってますよ、青島君。はめられたんじゃないですか」
「そうかもしれません。そもそも一度手術をしたときに、七条のむき出しの赤い心臓が喋り出したということを本人から聞いていたのです」
「そんなことがあったのですね。私、全然知りませんでした」
「ええ。それで、復讐がしたいなら理科室に来いって一度言われていたのをふと思い出し、もしかしてと思って」
「完全に勝ち逃げされましたね。……全くもう。相変わらずあなたも七条君も素直じゃないんですから」
「それは否めません」
青島は笑いました。それから鼻の頭をこすって、八坂を見ました。
「ええと、それで、八坂さん」
「はい。何でしょう」
「さっきの話なんですけど、とりあえずこんな埃っぽいところじゃなくて、外で夕日でも見ながら喋りませんか……もしよかったら、ですけど」
「それはいいですね、ぜひ」
「ありがとう。じゃあ、土手に行きましょう。以前三人で行ったあの土手へ」
「名案だわ」
青島と八坂は丁寧に瓶を元の場所に戻しました。また来るよ、と言いました。
パタパタと二つの足音が次第に遠ざかっていきます。
理科室は再び沈黙を取り戻します。ただ夕日に埃がキラキラと輝いているのでした。
僕はふと窓の外に目をやりました。初夏の緑が白いカーテンに影を落としていました。
「――君、七条君」
「はい」
僕は心の中で慌てつつも、表面上は至って静かに穏やかに返事をしました。授業は始まったばかりでした。ぼうっとしていました。
「七条君に、実験の手本を示してもらいます。いいですか、みなさん」
先生がみんなを見回して言いました。教室にまばらな返事が響きます。
僕はロッカーに入っている自分の実験道具を取りに行きました。さて、妙なことに気が付きました。僕のことを見ずに参考書に目を通している生徒たちの心が僕に向いているのです。彼らは何食わぬ顔をしているのにその心がにやにやとしていました。
何度か、このような経験をしたことはあります。僕は目を伏せてロッカーを開きました。
やはり思った通り、ロッカーの中には何もありませんでした。
「死ね」
僕のほうを見ない、参考書に向いた何食わぬ顔の1つが、僕に言いました。心の中で。静かな授業は平然と続きます。
「失せろ。親の七光り」
「ざまあみろ」
――はて、自分の周りには敵ばかりのようだ。
「……すみません、忘れて来てしまいました」
「……最近、多いですね。いくら成績が良くてもねえ……あまり授業をなめないほうがいいですよ」
うるさいな。本当のことも知らないくせに。
「気を付けます。でもまあこの程度の実験なら僕はなくても大丈夫なので」
僕は笑って、席に座りました。重い実験道具をわざわざ家に持って帰ることがあるものか。
まあ、いつものことですから慣れていました。実験道具がなくても、参考書さえあればなんとか理解はできるはずですから。
「ほんと嫌なやつだな」
「だから嫌われるんだよ、一生お勉強ごっこでもやってろ」
僕はもう一度参考書を開き、じっとその紙面を見つめました。
「ンゴ」
いびきをかいて寝ていた近くの席の青島が起きました。口元からよだれが垂れています。目をこすりながら彼は僕を見ました。
「……すまない七条、今は何してるんだ?」
「……実験道具を準備するんだよ」
僕は半ば呆れながら青島を見やりました。もちろん、すぐにそらしたのですが。
「ありがとう。……ん、何だお前道具持ってないのか?」
「忘れた」
「はぁ? 忘れた?」
お前、変わってるな……と青島が僕を見つめました。それからすたすたとロッカーに行ってしまいました。
まぁ、いいのです。慣れていますから。僕は参考書を持ち直しました。
「涼しい顔しやがって、おもしろくないな」
「学校来るな」
顔を見ていなければそんなに伝わるはずのない気持ちが、僕の脳内に溢れて垂れ流されます。僕は、参考書のページをめくりました。
どん。
隣に、小さな風が吹きました。実験道具が置かれていました。ケースに青島、と乱雑な斜めの文字がありました。
「ほら、一緒にやってやるよ。まぁ僕のことは一生感謝して崇め奉りたまえ」
「はぁ」
僕は、不思議な心持ちで青島をぽかんと見つめました。
はっはっはと恩着せがましく白い歯を見せて爽快に笑う青島には、やましいことや意地の悪い気持ちが1つも見えませんでした。実験道具を組み立てて準備するその姿からは、「あぁ今日も八坂さんは美しいな」だとか「そういや家の猫に餌をやり忘れて来た」だとか、それから「ん? そもそも七条何で参考書を逆さにして読んでるんだ、しかもこんな基本中の基本の部分」
がたり。
僕は思わず後ろに飛びのいて、おまけにせき込みました。
基本中の基本のページに開かれた逆さの参考書が、床に落ちて派手な音を立てました。見事な動揺の音でした。
「何してるんだ」
「……いや、何でもない」
「はぁ」
青島はいぶかしげにこちらを見ました。
――本当は読んでなんか、いなかった。
青島が僕の本当の気持ちに気づくその前に、僕は目をそらしました。どんな悪口やいやらしい気持ちよりもよっぽど見たくないと思ったのはどうしてでしょうか。不思議なこともあるものです。
「やっぱお前、変わってるな」
「変わってない」
「いや……変わってるだろう。薬品自体外で手に入らないのに、実験道具だけ家に持って帰って忘れて来たり、急に飛び跳ねたり。七条は分からないかもしれないが、それは世間一般からすると変わっているってことでだな……、分かるか? ん?」
「か、変わってなんかない……バカ」
「おい! なんて失敬なやつだ! バカって言ったほうがバカなんだぞ」
「二人とも静かにしてくださいな!」
割って入ったのは前の席の八坂さんでした。授業に集中できません、とおさげの彼女は僕たちをきっと睨みました。しかし、その目は今開いたばかりのようにとろんとしていますし、額には消しゴムのカスがついています。絶対寝てましたよね?
「すみません」
とにもかくにも僕らは謝りました。乙女の安眠を妨げてしまったのですから。
「もう、本当です。……あれ、七条君、実験道具ないのですか?」
「忘れたのです」
「まぁ」
僕は苦笑しました。公開処刑の如く先生に謝罪したというのに、話を聞いていない人が二人も。敵意の生徒だけではなく、興味を持っていない人間もいるのだと、僕はほっとしました。その証拠に、少し顔を見た時二人の心からはまるで嫌な気持ちが伝わってこなかったのです。
「七条喜べ! お前にこの問題を解かせてやろう。お勉強は大好きだろ? ん?」
出来ていない生徒は居残り、と言われて絶望した顔の青島が僕に言いました。心の中で「頼む、教えてくれえ」と情けない声で叫んでいます。
「……バカだな、君、こんな簡単な問題も分からないのか」
「おい! 失礼だぞ、あくまで理解しているがお前のために聞いてやってるんだ!」
意味の分からないことをわめいていたので、仕方なく放課後手伝ってやりました。いえ、別に実験道具のお礼とかではなくて、暇だったので……。さりげなく八坂さんも居残っていて、ちらちらと僕と青島の回答を写していました。全くしたたかな人です。
「よし。帰りましょう」
青島は立ち上がり、腕をのばして言いました。気づかなかったのですがどうやら帰る方向が同じようで、一緒に下校することになりました。
「明日は実験道具忘れるなよ」
「……まあ、そうだな。できたら」
僕は答えをにごしました。青島と八坂さんは少し怪訝な顔をしたと思います。本当のことを言う必要はないと考えていました。別に、いいのです。
なのに、土手にたどり着く頃、最悪なことが起こりました。
「見たか。あいつが先生に怒られる姿本当に最高だったよな」
「明日はどうするか見ものだな」
土手から見下ろす川岸。そこで二人の生徒が何かを激しく蹴っていました。何か。それは土まみれになって凹んで割れて、おそらくもう使えない、見慣れた――。
もう、知らないふりをするのも白々しい距離で、僕は見えていないふりをして歩きました。誰かが僕の肩を強く掴みました。青島でした。八坂さんもこちらを見つめていました。
「そういうことか。……お前、それでいいのか」
「何が?」
僕は二人に微笑んでみせました。土手の下ではなおも乱暴な音が聞こえます。二人の生徒は僕たちに気づいていない様子でした。今ならまだ、何もないことにできる。僕は肩に乗った手を払うようにして、進みました。
追いかけてくると思ったのに、青島は追いかけてこなかった。その時ちょうど、定刻を知らせる「ふるさと」が流れ出しました。振り返ると、青島は土手の草むらをかき分けるように下って行こうとしていました。無言の背中はかたくなに見えました。ふつふつと頭に血が上りそれは沸き立っていきました。得体の知れない感情が鋭く夕方のぬるい町を切り裂きます。
「余計な事するなよ!」
僕は思わず叫びました。八坂さんがびくりとしました。僕はこんなに大きな声を出せたのかとびっくりしました。青島はひるみませんでした。
「するさ。関わらなくても、ずっと前から気になってた。お前、なんでそんなに諦めてるんだよ?」
「黙れ」
僕は怒りに震える声で、青島を制しました。
「黙らない。お前が本当の気持ちを言わないと、一生誤解されたままだぞ。お前がどんな気持ちでいるのか言ってくれないと、僕はどうしていいか分からない。分からないからみんな、怖がる。怖がるから、けなして自分が上の立場にいる気持ちになって安心してる。口にしなきゃ伝わらないことのほうが多いんだぞ。お前はそうやって分かってくれないっていじけて自分の閉じた世界だけで終わるつもりなのか」
「黙れよ」
僕は自分が嫉妬されていることや偏見を持たれていること、そして自分がそれを覆すほどの優れた人格の持ち主ではないことをよく知っていました。周りの心の、原因が他ならぬ自分にあることも心得ていました。
「頼みもしないのに、余計なお世話なんだよ、やめろよ」
僕の口からはするすると汚い感情が流れ出ました。青島は、本当の気持ちを言えと言いました。だけど、じゃあ。
「じゃあ、本当にがんばって面と向かって最善を尽くしてそれでもだめだったら僕はどうしたらいいんだよ。何で、何回も傷つかなきゃいけないんだよ。今だって、陰口を受け止めてる。僕はがんばってる。もう精一杯なのに」
わめくようでした。
「ふるさと」が場違いに優しい曲調で空に響きます。
僕が、誰かの心の中でけなされるのはいい。僕はそれを知らんふりできる。なかったことにできる。見えないものは、聞こえないものは、存在しないことと同じだ。だけど、それを口に出してしまったら? 口論なんて耐えられない。心の中で何度も傷つけられて、もう僕はぼろぼろなのに、これ以上どうして傷つきにいく必要がある?
人と関わるのはとても怖いことだ。僕は、本当はそれが怖くてたまらない。
「それでも」
青島は僕を見据えました。その強い目に射すくめられて、僕は動けなくなりそうでした。
「お前は本当の気持ちを言わなきゃいけない。変わろうとしなきゃいけない。自分一人で終わろうとしちゃいけない。お前はいつも周りの見解を分かったような顔をして、誰の表情も見ない。そのくせ自分の短所ばかりをよく見つめて、教室に散らばる小さな不幸の印をここぞとばかりにかき集めて自分の哀れみ、いじけて、自分の殻に閉じこもる。つらいことはがんばっていることなのだと錯覚させて、本当は一歩も動いていないのに、もうこれ以上はがんばれないって言い訳して」
僕の頬を涙がつたっていました。いつか幼い時、初めて陰口を読み取って泣いた時のような気持ちでした。それほど激しく、青島の言葉は僕の心を抉りました。傷のついた心は、血の代わりに涙を流しました。周りと関係を遮断して以来久しぶりに聞く、僕に対する言葉でした。
「ふるさと」は鳴り止みました。そよそよと風が吹きます。そこにふと、青島が柔らかな笑みを落としました。静かに微笑んだのです。
「例えば、そうやって諦められていたなら、僕は君と仲良くなりたいのに、寂しいじゃないか。喋らずに俯いているから、お前はそんな簡単なことにも気づけないんだ」
僕の心が、どくん、と一度きり大きくこだましました。今まで、気付きもしませんでした。僕は最初から分かり合えることはないと諦め、周りを見ようとしなかった。
僕が口を開こうとした時、背後からざくざくと土を強く踏みしめる二つの足音がしました。
「おいおいこんなところで何してるんだよ七条君。そこ、邪魔だからどいてくれないか」
見ると川岸から二人の生徒が登ってきているところでした。獰猛な声でした。
「言えよ」
その二人を一瞥し、青島は小さな声で僕に耳打ちしました。何を? とはもう僕は言いませんでした。
登り切った二人の生徒は目にはナイフのような鋭さ、口にはにやにやと笑みを浮かべ、「じゃあ」と手を振り帰ろうとしました。青島と八坂さんの横を堂々と通って行きます。
僕はゆっくりと、震えながら、最初の一歩踏み出しました。震える唇で、最初の一言を投げ付けました。
「待てよ」
「は?」
ゆっくりと、二人の生徒が振り向きました。ごくりとつばを飲み込み、僕は彼らを見ました。
「あれ、僕の実験道具だよな。何か、僕が気に障ることをしたなら謝る。話してくれ。だけど、君たちもあんなことをするのはもうやめてくれ。僕は腹立たしいし、ばかばかしいと思うし、つらいし、悲しい」
「何言ってるんだ」
二人の生徒はにやりと笑ったまま、こちらに近づいてきました。
「何ってさっきの」
気づいた瞬間、僕はやけどにも似た感覚を頬に覚えました。視界がちかちかします。八坂さんの悲鳴が聞こえて、青島がよろけました。
「おい、こいつら人の目につかないように、下におろそうぜ」
僕と青島はそれぞれ土手の下の草むらに引きずりおろされました。体格が有無を言わさなかったのです。
僕は腹を思い切りやられ、体を二つに折って激しく咳き込みました。暴徒と化した二人がもう一度腕を振り上げました。青島が二人の足に飛びつきました。
「お前らほんとにやめろよ!」
「こいつ、離れろ!」
同時に二人にしがみつくとは見事なもので。蹴られても蹴られても、何度もしがみつきました。
「しつこいな、どけよ」
吐き捨てるように言って二人の生徒は、やがて飽きたのか力を緩めました。その時、甲高い声が響きました。
「ここです! 今土手で生徒が喧嘩していて!」
見上げると、八坂さんでした。その後ろには自転車に乗った警察官の男の人。いつの間にか八坂さんは助けを呼びに行ってきてくれたのでした。
「ちっ、覚えてろよ」
二人の生徒は僕らを最後に一蹴りして、草原を走っていきます。土手からおりて来た警察官は僕たちに病院に行くように声をかけてから、姿の見えなくなった二人を探しに行きました。
「……青島。言葉をかわしてもいいことがなかったんだが、そこのところどう思う?」
「……何、これからさ」
川岸にゆらゆら揺れる草原に寝ころんだまま僕と青島は笑いました。八坂さんが申し訳程度に、絆創膏をてきぱきと貼ってくれます。
「本当に心配しました。大丈夫ですか?」
「大したことありません。病院に行くまでもない」
僕がそう言い、青島もうなずきました。実際問題、体のあちこちが傷みましたが、平時心が痛いことに比べたら本当に大したことありませんでした。青島は、僕と八坂さんに向かって笑いかけました。
「さてそろそろ日も沈む頃です。帰りましょう。……明日もまた実験があるのですから」
始めに青島、その次に八坂さん、最後に僕の順番で土手を登り切りました。足場が悪かったのでお互いに手を引いて上がりました。
――僕は、自分と対話しているだけだった。臆病で、弱くて、人と対面するのが怖かった。仕方ないと言って状況に甘んじ、変わろうとしなかった。
「……それじゃ、分からないよな」
僕の気持ちも、みんなの気持ちも。
そうして、その手を繋いだまま川を見下ろしました。
そこにあったのは、心を奪われるほどの鮮やかな赤でした。赤い陽の色が川一面を濡らしているのです。流れが光に揺れるたびに、それが金色になり緋色になります。黄金に輝くまるいまるい夕日が傾き、徐々にその暖かな水面に沈んでいくように見えました。
どくん、どくん。僕の両手から僕のではない熱い脈動が聞こえてくる気がしました。それに合わせて、僕の心もどくん、どくんと音が鳴ります。それは高鳴って、止まらないのです。
「ん? 七条、何か言ったかい?」
青島があくびをしながら僕を見ました。つられて八坂さんも僕を見ます。だから初めて、真っすぐと二人の顔を見たのです。僕はやっと小さな声でそれだけを言いました。たったそれだけが全てでした。
「……ありがとう」
僕の日々はこうしてやっと始まりました。僕は青島をからかい、青島はそのたびに復讐を誓う。幸福な日常の始まりでした。やっぱり人間関係はそんなにうまくはいかないもので、だけど、少しずつ、少しずつ、友達も増えていきました。少しずつ、本当の気持ちを話しました。
僕は、何でもできるようで実は空っぽです。人と関わることを恐れ、起こることすべてを仕方のないことだと受け入れ、立ち向かうことをしない弱い人間でした。
あぁ青島、それから八坂さん。君たちは知っているだろうか。君たちとただ一度見た夕日がこれほど美しく、強く、僕の心を照らしていること。
あの日、僕の心は本当に動き出しました。
どくん、どくんと脈打ってそれは夕暮れに響くワルツのように、僕の心を強く、力強く動かし続けるのです。
さて、あの小心者でそそっかしい青島は、八坂さんに思いを伝えることが出来たのでしょうか。今頃逃げて、赤面して困っているのでしょう。慌てて走って行ったんだろうな、と想像します。
僕の最後の本当の気持ちなんて、誰にも話すつもりはありませんから、仕返しです。復讐の復讐をしてやった気分です。照れくさくなるような、その気持ちだけは僕だけの秘密の気持ちなのです。青島、やっぱり君は僕に勝てなかったね。僕は、勝ち逃げをします。
けれど、どんなに隠したところで僕の本当の気持ちはあの二人にはばれていたに違いないし、きっと全部伝わっていることでしょう。
「お前が僕にした全てのこと、いつか復讐してやるからな」
病室で、青島は僕を睨みながら言いました。鋭い目で吐き捨てるように言うのに、あいつは心で「バカ、死ぬな」と言ったのです。零れないように瞬きをしない目には涙がたまっていたのです。いいことを思いついたのはその時でした。僕はにっこり笑って言いました。
「やっぱバカだな。そんなに僕に復讐したかったら、いつか理科室においで」
僕は、変われたのでしょうか。僕のこの嫌な力も、嫌われ者のこんな僕も、二人のこれからのためになれたのでしょうか。
きっと最後の瞬間まで、僕の心は赤くなり黄金になり、煌くのでしょう。
僕の大切な二人の友人にいつまでも幸あれ。
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