Tea

増本アキラ

Tea

細くしなやかな白い指先が、それによく似た陶器のティーポットを傾けた。あまりにも静かな、月の蒼い光に薄い水色の紅茶が輝く。小気味好い水音が、しばし鳴った。


カップに揺れる水面には、天空に浮かぶ月が映り込んでいた。一切が静寂の中にあって、その輝きだけが、いまや唯一の音のようだった。


かすかに、音が生まれた。

それは、紅い瞳をした真っ白な少女が艶やかに息を吐く音だった。ポットを置き、椅子に掛ける。少女の身に纏った真っ白なドレスが、また新たな音を奏でる。


彼女ただ一人のためだけに設けられた、廃城のバルコニーにあるテーブル。その席から、彼女は眼前の景色を眺めた。宵闇の海に沈んだ森はしんとして黙り込み、薄い雲が天空をたゆたう。


彼女はきれいなくちびるに、カップをそっと押し当てた。みずみずしく、青い味わい。彼女が飲んでいるのは、朝霧の中、人の手で摘んだダージリンの新芽のみを使った紅茶だった。


彼女はほぅ、と、温かな息を吐く。この紅茶がどういうものであるか、彼女はよく知っていた。だからこそ、思うのである。温度に、触れたい、と。


彼女の知る温かさは、この紅茶だけだった。彼女の身体は日光に当たると、炎で焼かれたように焼けただれ、やがては灰燼に帰してしまう。そんな彼女にとって、おおよそ温度というものを持ったものは、この紅茶をおいて他に無かった。食物連鎖の頂点に立つ彼女を恐れ、動物たちは姿も見せない。人間は彼女にとって食物であるから、相入れないと少女は思っている。食物と会話をし、紅茶を飲むなど滑稽としか思えなかった。あらゆる温度を持ったものは、彼女から遠い場所にいた。いまの少女は、温度を知らなかった。


「知っている、はずなのにね。」


彼女は目を伏せて、誰にともなく言った。テーブルの上に置いた、手持ち無沙汰な左手の人差し指で、カリカリと机上を掻いてみる。その孤独な音が周囲に反響するたび、侘しさが小さな胸に募る。彼女の声に応える者は、いなかった。


もう一口、飲む。火傷してしまいそうな温度が、いっぱいに広がる。少女はひそかに眉をひそめる。いまの彼女は、まだ慣れていないのだ。温度、というものに。


紅茶の渋味に、懐かしさを覚える。それは、失ってしまった彼女の遠い記憶の断片。誰かとおしゃべりを楽しみながら、こうして紅茶を飲んだ、幸せだった記憶。それは美しい記憶だ。だが、その美しさのあまり、痛む。失った大切な思い出は、傷となった。


おしゃべりに夢中になるあまり、冷めてしまって渋味が強くなった紅茶。それすらも、幸せなことだったと、気付く。彼女はカップの中で揺れる紅茶に視線を落とした。水面に、少女の姿は映らない。鏡面に、彼女の姿は映ることはないのだ。そうして少女は、自分が何者であるかを思い出す。その事実と逃れ得ぬ宿命が、鋭く胸を刺す。


曇りガラスの向こう側を覗き見るような、ぼんやりとした映像。紅茶のカップを右手に持ったまま、回想する。感覚的には知っているが、起こった事実は思い出せない。そんな曖昧な記憶が時折、脳裏を駆け抜ける。


また、紅茶を飲む。

もう、ずいぶんと冷めてしまった。そのことに少女は驚いた。顔を上げて、黒い峰の向こう側へ視線を飛ばす。茜色の暁光が、黒い峰にかかった朝霧を踏みしめながらやってくる。宵闇は太陽の神が駆る戦車に追い立てられて、地平の彼方に逃げてしまった。


少女は恨めしそうに朝を睨むと、カップに残った紅茶を飲み干した。懐かしい味がした。その味に、少しだけ少女は幸福を感じた。紅い瞳を細め、自分の白い体を脅かす死の光を眺める。


「私は、良い思い出をもらったようね。」


わずかに微笑すると、少女は城の中へと姿を消した。世界にまた、朝がやってきた。

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Tea 増本アキラ @akiraakira

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