開戦の狼煙

 けたたましい警鐘の音が、セルトヴァ城塞を覆っていた夜のとばりを切り裂いた。


 部屋を飛び出したファビアンを追いかける。きれいに補修され再建されたセルトヴァ城塞には、まだそれほど人間も竜もいない。

 わたしたちと同じように廊下に飛び出してきた人々が寝ぼけまなこに右往左往する中を、城塞の構造に詳しいファビアンは迷いなく駆け抜けていく。

 見失わないように追いかけるのに、必死だった。後で知ったのだけれども、彼なりにわたしを引き離さないように努力していたらしい。彼が本気で走れば、誰もついていけない。

 脇腹が痛いし、息が切れている。それでも、警鐘の音が足を止めることを許さない。

 何かが起きている。一刻も早く、確かめなければならない。

 急き立てられるように走っているうちに、長い螺旋階段を登り始める。

 螺旋階段の上で足を止めたファビアンにぶつかりそうになる。


「こ、こ……」


 肩で息を整えながら、以前、訪れたこのある場所だった。

 ファビアンと出会う直前、登った塔のてっぺんだ。塔全体は見違えるように修繕されたのに、五本の石柱に支えられた天井の穴はそのままだった。おそらくもともとそういう構造だったのだろう。

 この塔のてっぺんには、ファビアンとわたししかいない。警鐘の音に叩き起こされ、何が起きたのか確かめようと、人間も竜たちも窓から身を乗り出していたり、中庭に集まった人に尋ねていたり、城壁に登っているのが見える。

 城塞全体が、混乱しているのがわかる。

 わたしたちは、戦いの準備ができていなかったのだ。いったいどれだけライラたち真理派は先をいっているのだろうか。

 体の芯まで冷え切ったように感じたのは、夜風だけのせいではない。


「フィオ、何が見える?」


「え?」


 強張った声で、ファビアンは西の方を見るようにうながしてきた。

 あいかわらず星の光を消している二つの満月は、明るく地上を照らし出していた。

 あの日のように柱にしがみつくようにして塔の縁から、城塞の向こうの森と、さらに森の向こうに広がるベルン平原を見下ろす。ファビアンがそばにいてくれるおかげか、まったく心細くなかった。

 けたたましい警鐘の音さえなければ、のどかな風景だ。


「むぅ……特になにも……」


「そうか」


「あっ! ねぇ、あれ、あそこ、何か燃えているみたいじゃない?」


 ベルン平原を越えたあたりに、焚き火のような灯りを見つけた。それは、焚き火のはずがない。広大なベルン平原の向こうだ。そんな焚き火程度ではないことくらいわかる。


「ファビアンもこっちに来て見てみてよ」


 指差して振り返ると、ファビアンは青い顔をして首を横に振る。


「俺には、


「何を言って……まさか、そんな」


 震える手で目を覆う彼に、わたしは気がついた。

 ブラーニアと同じことが、起きている。

 確かめる必要はなかった。彼の様子を見れば、はっきりわかる。

 再び西の方を振り返る動作が、自分でも滑稽なほどぎこちなく

のろのろとしてしまう。

 わたしには、虚無が見えない。そのせいで、先ほどにはなかった不気味さに鳥肌が立つ。見えている景色は何一つとして変わらないのに、それが恐ろしくてたまらないのだ。

 いったいどれほどライラたち真理派は先手を打っているのだろうか。

 警鐘は、すでにやんでいた。けれども、夜の静寂は戻ってこない。もしかしたら、これから先ずっと戻ってこないのかもしれない。

 わたしらしくない後ろ向きな考えばかり、頭をよぎる。

 どのくらいの間、そうやって呆然と立ちつくしていたのかわからない。おそらく、それほど長くはなかったはずだ。


「ラトゥール砦が、襲撃されたらしい」


「クレメンス様」


 翼だけ変化を解いた姿で、クレメントは天井の穴から器用に降り立つと同時に翼が陽炎のように消えた。


「……早すぎる」


 唸るようなファビアン声に、クレメントはうなずく。

 少なくとも、この二人はラトゥール砦が襲撃されることを予想していたようだ。ただ、彼らが予想していたよりもずっと早かっただけで。その早さに、ファビアンはひどく打ちのめされていた。


「暗黒地帯の無法者を侮りすぎていたようだな」


 クレメントのくぐもった声は、わたしの耳に冷淡に響いた。

 仮面の火竜が、妻と子どもを奪った真理派を憎んでいるのは、知らない者などいないくらい有名な話だ。もしかしたら彼は真理派だけでなく人間そのものを憎んでいるのではないかという考えが、ふとよぎることがたびたびある。人間の一人として、悲しくなる。けれども、わたしが彼に何を言えるのだろうか。彼だって、いい人間だっていることくらい理解しているはずだ。そうでなければ、一族の父など務まらない。

 普段、クレメントがどれほどの感情をその仮面の下に押し隠しているのだろうか。


 ラトゥール砦がある方を、おそるおそる振り返る。炎の勢いは、だいぶ衰えている。あの砦には、暗黒地帯の無法者から帝国を守ってきた人々いた。その中には、ラトゥール砦の大将ドミトリーもいる。顔見知り程度だけれども、まったく知らない人ではない。ほんの数日前には、このセルトヴァ城塞で野営していた。彼らが、めまいがするほど遠くに感じる。物理的な距離の話ではない。心の距離の問題だ。


 重苦しい沈黙を破ったのは、塔を駆け上がってきたニコラスだった。


「ファビアン! ラトゥール砦が……」


「襲撃されたのは知っている。それで、ニール、詳しい状況は?」


 冷静に返されて、ニコラスは一瞬戸惑った。けれども、すぐに厳しい表情で首を横に振った。


「まだ詳しいことは、何も……て、そっちは何をやっているんだ!」


 ニコラスは、強靭な翼を持つ竜族のほうがすでに詳しいことを把握できるだろうと、ファビアンに掴みかからんばかりの勢いでまくしたてた。

 今現在、城塞には人間よりも圧倒的に竜族のほうが多くいる。

 城塞の主ニコラスが、竜族を頼るのは自然なことだっただろう。


 申し訳無さそうにファビアンは、ラトゥール砦を虚無が覆い隠していると説明した。


「は? 冗談はよせよ! 昼間は何もなかったじゃないか」


「冗談でも、俺はそんなことは言えない。実際に虚無を目にしたあとでは、なおさらだ」


 同意を求めるファビアンの視線を追いかけたニコラスに、クレメントは肩を落とした。


「月影の高原の風竜どもが騒いでいたのを、今は馬鹿にはしない」


 遠回しに同意して、クレメントはラトゥール砦の方角から目を背ける。

 ニコラスは握りしめていた両手を開いて、冷静になろうと努力した。


「じゃあ、どうすればいいんだよ。まだロクに兵は集まっていない。このまま、砦を奪われるのを黙ってみていろってか。砦を奪われたあとは? この城塞を捨てるのか?」


「ニール、落ち着けよ」


「はいそうですねって、簡単に落ち着けるか!」


 砦には、ニコラスの兄もいる。冷静になろうとしても、なかなかなれるものではないはずだ。

 とはいえ、感情的になってもしかたないと、ニコラス自身も理解していた。彼が二度三度と呼吸を繰り返して聞く耳を持てるようになってから、ファビアンは一度虚無が覆い隠している西を見やってから口を開いた。


「よほどの馬鹿でない限り、今夜のラトゥール砦の襲撃の目的は、人質を得ることだ」


「人質?」


 ニコラスとわたしの疑問の声が重なる。


「真理派の大義は、竜族を世界から排除することだ。カヴァレリースト帝国と敵に回したいわけじゃない。先日、大砲で取り引きしようとしただろ。奴らの敵は人間じゃない。いくら竜の森と帝国が手を結んでいるからと、いきなり敵対するわけにはいかないだろうよ。だから、これは警告だ」


 一度口を閉じたファビアンは、わたしが思っていたよりもずっと多くの物事が見えているらしい。なにが期待するな、だ。彼がいなくては、わたしたちはライラたちに立ち向かえなかったというのに。

 こんなときだというのに、わたしは彼の卑屈さに腹を立てていた。もっと堂々とわたしたちをまとめてくれればいいのに、と。

 わたしの腹立たしさにをよそに、彼は冷静に話を続ける。


「警告だ。竜族の側につけば無用な血を流すことになる、そんなところだろうよ」


「それは、まずいな。まずすぎる」


 クレメントが唸る。火竜の長は、わたしよりも先に、ファビアンと同じ物事が見えてきたようだ。

 ファビアンは少しの間考えてから、ニコラスに尋ねる。


「斥候は出したんだろ?」


「もちろんだ。だが、戻ってくるのは早くても夜が明ける頃になる」


「夜が明ける頃……わかった。とりあえず、夜が明けるまでは、城塞の動揺を抑えなくては。ニール、城塞の主なら……」


「そのくらいは、やってやるよ」


 ニコラスの顔つきは、厳しいものの城塞を預かる者のそれになっていた。

 次にファビアンは、クレメントに尋ねる。


「鍛冶衆はいつ来る?」


「俺が呼べば、夜通し飛んで夜明けには来るだろうな」


 こともなげに言うけれども、クレメントは困惑を隠しきれなかった。

 皇帝が正式に火竜に助力を請うてから、陽炎の荒野から鍛冶衆と呼ばれる火竜たちを呼び寄せる事になっていたのだから。


「なら、そうしてくれ。ただし、帝都ではなく、このセルトヴァ城塞に」


「皇帝の面目を潰しかねないぞ。それに……」


「それは、俺がどうにかする」


 クレメントの反論を潰すようにさえぎって、ファビアンはもう一度今すぐに鍛冶衆を呼び寄せろと命じた。ファビアンは意識していなかったかもしれないけども、それは命令だった。

 竜王にはならないと宣言したものの、この一時的に竜たちをまとめる立場にある彼の命令に、クレメントは意外なほど素直に従った。

 これで解散という空気が流れる前に、わたしは一歩前に出た。


「他に、わたしたちにできることはないの?」


「あとは狼煙を上げるくらいだが、その用意も整っていないし、夜だからな……」


 ファビアンは天井の穴を見上げる。


「見よ、セルトヴァの狼煙を」


「戦いのときは、今ぞ」


 ファビアンがなにかから引用した言葉に、ニコラスが続ける。ニコラスはフッと厳しい表情を緩めると、少し悔しそうに肩をすくめた。


「伝説の開戦の狼煙を上げるなら、今なんだけどなぁ」


「むぅ?」


 首を傾げたわたしに、ニコラスがこの塔は狼煙台の役割を担っていたのだと教えてくれた。

 西に戦の気配があれば、この塔から狼煙が立ち昇ったのだと言う。


「それって、別に必要ないんじゃないの」


「気分の問題だ」


 ファビアンもニコラスと同じように少し悔しそうだった。狼に育てられた世界竜と北の戦士は、血が騒いだのだろう。争いとは無縁な平和な竜の森で育てられてきたわたしには、理解できずに呆れてしまった。

 そして、好戦的な男が、もう一人ここにいた。


「狼煙なら、俺が派手に上げてやる」


 火竜の長はそう言うと、頭上に掲げた左手で軽く弧を描いた。


 ゴォッと音を立てて、天井の穴を抜けて火柱が天を高く立ち昇る。




 開戦の狼煙は上がった。

 揺り起こされた世界で、戦いの日々がいよいよ幕を開けてしまったのだ。

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世界を望めば、世界は我が手の中に 笛吹ヒサコ @rosemary_h

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