4
叫び声と風の音。
胸で炎の燃える音に圧倒されて、近付くエンジン音には気付かなった。
ぼくの車の隣に、一台のレンタカーが止まった。運転席のドアを開けて降りてきたのは、女だった。口元を覆っていたマフラーを下して、素顔を見せる。
「なにしてんの?」
すぐには彼女だとわからなかった。
見覚えのある勝気な笑顔。凛々しい眼差しとぶっきらぼうな喋り方。
その女は間違いなく伊吹光だった。
「……なにしてんだ?」
「それ、今わたしが聞いたんじゃん。って言うか、ここやばいよ。寒すぎでしょ。車の中、入ろうよ」
息まで凍り付くほどの寒さだ。ぼくは自分の車に駆け戻ると、エンジンキーを回した。
彼女は当たり前のように、助手席に乗った。
「信じらんないくらい寒いね。五分も外いたら凍りそう」
「お前、なんでここにいんだよ」
伊吹が暖房を最大に上げた。しばらくぼくたちは何も言わず、温風に触れて温まっていた。
外で吹き荒ぶ風の音と、エアコンが吐き出す風の音だけが響いている。
伊吹光はやつれていた。目の下には隈があり、顔には少しシワもできている。
当たり前だ。ぼくも彼女も、三十になった。十八の頃と同じだと思う方がどうかしてる。寝不足なのか、伊吹の目は少しだけ赤かった。
「あんたが稚内にいるって、叔父さんに聞いたんだ。急に連絡つかなくなったから、ずっと心配してたんだよ。陽介の実家たずねて聞いたら、家を飛び出して北海道にいるとか言うし。いつか会いに行こうって思ってたんだけど、わたしも真一も仕事が忙しかったから」
就職時の身元引受人を叔父に頼んでいたから、今どこで何をしているのか叔父にだけは教えておいた。二人がぼくに会おうと思えばいつだって会えたのだ。
ぼくからだって会いに行けた。会おうと思えば会えるということは、会わないということだ。実際、ぼくらは再会までに十二年かかった。
「悪かったな。携帯は、北海道に来てすぐ落としたんだ。手紙でも送ろうと思ったけど、住所わからなかったし」
「いつの時代の人間? パソコンかスマホ持ってるんでしょ。SNSで検索したら、わたしも真一もすぐに見つかるじゃない」
「そうだな。悪かった。おれだってずっと忙しかったんだ」
伊吹がいるという驚きが消えて、二人を避けていたことへの罪悪感を覚えた。
大人になった伊吹の顔を真っ直ぐに見られなかった。
「なんでこの場所がわかったんだ? 宗谷岬に来るなんて、誰にも教えてないぞ」
「陽介を探しに来たわけないじゃん。観光だよ。紋別の方からずっと車で走って来たの。せっかく稚内に来たんだから、陽介の家たずねる前に宗谷岬でも観ておこうと思って。そしたらなんか怪しい男が立ってたから、まさかとは思ったんだけど」
紋別空港から国道238号線で北上して来たなら、稚内市はずっと道なりだ。
道なりに、200キロ以上の距離がある。宗谷岬もルート上にあるから、彼女は偶然に立ち寄ったのだろう。
偶然? ぼくが偶然、今日ここで死のうとしているタイミングに、彼女もこの場所を偶然おとずれたのか?
偶然でしか有り得ない。なのに、偶然とは思えない。
まるで呪いか祝福だ。十二年という時間、千キロという距離を隔てても、ぼくらは離れられずにいる。
おとぎ話の魔法か、ファンタジー映画のように。
バカバカしい。ぼくは首を振って、くだらない考えを振り払った。
偶然、彼女とここで出会った。そういうことだって、きっと有り得る。
「良かったな、うちに来ないで」
「どういう意味?」
叔父に教えていた住所は、ウソだ。ぼくは部屋も借りず、貯蓄を食い潰してはホテルを転々としている。数日以内には貯金も尽きるし、宗谷岬で死んでしまっても、良いと思っていた。
「お前、ふけたな」本当の理由を話したくなくて、ぼくはそう言った。
「陽介は髪の毛うすくなった? あと五年もしたらハゲるんじゃない」
見た目は年相応に変わって行くのに、中身は何も変わっていない。ぼくは笑ってしまった
「十年さ、なにしてたの?」
「別に何も。大学が性に合わなくて、すぐ行かなくなったんだ。そんで成人式の前に……北海道に引っ越したんだよ。叔父さんの家に」
仕事の話はしなかった。彼らが夢を叶えているのに、ぼくはアルバイトすら満足にこなせないのだと知られたくない。
「小さい頃から北海道で暮らしたかったんだ。金も貯まってたから、思い切って引っ越した」
「そんな行動力のある子じゃなかったじゃん」
「人は変わるんだよ」
「へえ」バカにするように伊吹は笑った。
「でも陽介、子供の頃から自然が好きだったもんね。奈良で紅葉した山みてテンション上がってたし」
「奈良? そんなところ行ったか?」
「修学旅行で、行ったじゃん。小学生だよ」
「三人で迷子になった時だよな。京都だろ?」
「奈良も行ったよ。熱田がシカせんべい持って、追い掛けて来る鹿から逃げたでしょ。覚えてないの?」
ぼくが覚えているのは、彷徨った京都の町だけだ。言われてみれば修学旅行の目的地は京都と奈良だった。思い返せば鹿を見た覚えもあるが、あれが奈良だったのだろうか。人の記憶は曖昧だ。いくら振り返っても思い出せないこともある。
「なんで、急に会いに来たんだ?」
頃合いを見計らって、ぼくは尋ねた。
「別に理由なんてないよ。会いに来たって良いでしょ。友達なんだし」
当たり前のように伊吹は言った。
友達。ようやくぼくは気が付いた。ああ、そうだ。ぼくたちはずっと、友達だったのだ。
「ほんとは今日ね、真一も来るはずだったんだよ。でもどうしてもスケジュールが空けられなくて。陽介に会えるならって張り切って、ライブの日程まで変えさせようとしてたからね。でもそれは真面目にやれってわたしが怒っておいた」
愛おしむように伊吹は言う。伊吹の左手を見た。指輪を何もしていないのを確認して、安心した。
「熱田はライブツアー中だろ?」
「真一がなにしてるか知ってるんだ」
「まあ、少しはな」
ぼくは苦笑した。この十年、伊吹も熱田のことも一瞬だって忘れなかった。
二人と連絡を取るのはやめていたが、テレビやインターネットを見れば二人の活躍はイヤでも目に入る。熱田は最新のシングルがよく有線で流れていた。
あいつの作る曲は真っ直ぐで、ぼくはどれも好きだ。一過性のブームで消えず、熱田のバンドは今も売れ続けている。伊吹は細々とだが映画やドラマ、インターネット配信の番組脚本など様々な仕事をしていた。
「まさか熱田にあれだけ才能があるなんて思わなかったけどな」
熱田真一の率いるロックバンド・サンライズボンバーの名声は日本だけに留まらない。海外のロックフェスに呼ばれて唄うこともある。
「昔からすごかったからね、真一と陽介は。なんてったってサンライズボンバーの創始者だし」
「おれはあいつを誘っただけで、他には何もしなかった」
「でも、真一の才能も見抜いていたじゃん。だからプロになるように勧めたんでしょ」
「勧めた覚えなんてない。熱田が自分から言い出したはずだ」
「真一のインタビューとか見たことある? プロを目指した理由とか聞かれると、必ず陽介の名前出すよ。唄うのなんて嫌いだったのに、一緒に音楽やろうって誘われて、楽しくて止まらなくなった。背中を押して貰えなかったら、今ここに自分はいないって。イニシャルトークに変えられてるけど、ファンの間じゃ幼馴染のTって有名な話になってるし。太陽のTだから、そもそも本名じゃないんだけどね」
「熱田が、そんなこと言ってんのか」
ぼくは一回だって、あいつにプロになろうなんて誘わなかった。背中を押されていたのはいつもぼくの方だ。それにぼくは、あいつに誘われた時に「大人になれ」なんて言って傷付けたのだ。力が足らず目標に向かって走れない自分を正当化して、夢を追う熱田がさも子供であるかのように言った。あの時のことはずっと心で引っ掛かっている。
「わたしだって、陽介がいなきゃ映画監督、なれなかったと思うよ」
彼女の声色にかすかな変化があった。声が震えているように、感じた。
ぼくは相槌を打たず、彼女の言葉の続きを待った。
「でも、もう終わり。映画、もう撮れないんだ」
「……なんでだよ」
「人気ないから。ぜんぜんダメだった。何回もチャンス貰って、それなりの成果は出たこともあるんだけど、そこで終わり。わたしより上は、いっぱいいる。プロになったばかりの時は若いからって期待されて、チャンスも貰えたけど。十年もやって結果が出ないんだからね」
平静を装って、自虐する。
昔の伊吹はどんな苦境に置かれても、卑屈なことなんて一度も言わなかった。
彼女は自分を卑下するような性格ではないはずだ。
なのに今の伊吹は、慰めを必要としていた。
疲弊している。彼女はやつれていた。結果が出ず、諦めきれず、胸の炎を抱えたままで十年も抗い続けた。
どうして気付かなかったのだろう。十年という月日は、長い。変わっていないように思えた彼女の精神にも確かな変化をきたしていた。
隠しているのだ。胸の奥に燃える炎を、炎に焼かれる痛みを。
夢に向かって一直線に突き進んでいたのに、何度も壁にぶつかって彼女はボロボロになっていた。
変わらずに見えた彼女の笑顔が、ひどく脆いものに感じられた。
伊吹の求める慰めが、熱田ではダメなのだ。
熱田は人並み外れた才能を持って、壁をぶち壊して進んでいく。
凡人のぼくが伊吹と熱田の横にいるのに耐えられなかったように、非凡の才能を持つ伊吹も天才の熱田の横で苦しんでいた。
だから慰めを求めて、ぼくに会いに来たのだろうか。
伊吹が必要としているのは、癒しの言葉だ。安っぽい同情だ。
大丈夫だ。がんばればできる。諦めるな。努力は報われる。
そんな風に言ってやったら彼女は傷を癒しただろう。
ぼくはそうしなかった。
「そりゃ、そうだろ。才能がないとか、今さら気付いたのかよ。おれ昔から言ってただろ? 伊吹の考える映画のネタ、いっこも面白くないんだよ」
あの作品はこうだ、この作品はどうするべきだったと、ぼくは偉そうに彼女を批判した。
「だいたい、主題歌を熱田に唄わせたのも間違いだったな。あいつはアホみたいに人気があるんだから、コネを使ったって批判されるに決まってる。考えればわかるだろ? そういうのに気が回らないから、ダメなんだよ。まあデビューした頃に比べたら? 最近のはマシだと思うけど」
思いつく限り、彼女の作り上げた作品のすべてを罵倒した。重箱の隅を突くように、他の誰も気にしないであろうことを延々と並べ立てた。
「だからお前の映画はダメなんだ」と、最後に締めくくって言った。
ぼくが作品の感想を述べる間、彼女は黙って聞いていた。
また傷付けただろうか。あの時、熱田にそうしたように。ちらりと彼女を見た。伊吹は指先で目元をぬぐっていた。
「わたしの映画、ぜんぶ観てくれたんだ」
「暇だったからな」
ぼくが言うと、伊吹は笑った。少しだけ目が赤くなっている。
ぼくはひょっとしたら、思い違いをしていたのかも知れない。
人の記憶は曖昧で、主観はまるでアテにならない。ぼくが二人を必要としていたように、二人もぼくを必要としていたのかも知れない。
熱と光。それから太陽。二つと一つの塊にわかれても、それでもぼくらは仲間だったはずだ。
「やっぱむかつくな、陽介は! 生きてるのも確かめたし、もう帰るよ。わたし陽介と違って、忙しいし」
「そうかよ。そうすりゃいい。じゃあな」
伊吹はマフラーを巻き直して、助手席のドアを開けようとした。
ああそうだ、と思い出したように言う。
「真一がね。陽介に会ったら言っておいてって。お前のために唄ってるんだから、早く戻って来いって」
ぼくは笑ってしまった。
「そうだな。戻ったら連絡するよ」
だからその時は、三人で会おう。
最後の言葉は言わなくても伝わったと思う。
伊吹はレンタカーの運転席に移って、車を走らせた。
別れの挨拶の代わりか、クラクションを三回鳴らした。
一人になって、ぼくはまた極北の海を眺めていた。
押し寄せる波。冷たく暗い海。風の音。晴天の空。白く輝く太陽が浮かんでいる。
ぼくたちの道は別れている。今さら元には戻れない。
十年という月日はぼくたちを変えた。二人と一人に別れて、それでも絆は引き裂けずにいる。崩れてしまったものは戻らない。変わらないなんて有り得ない。また三人で会ったとしても、あの頃とはもう違う。
だけどぼくたちは、光と熱と太陽だ。時間も距離も関係ない。
あの頃のぼくは、何かを探していた。くすぶる痛みを消す何かを。この火の痛みを消す方法を。
どうして気付かなかったのだろう。
この胸の奥にあるのは痛みだけではない。
永遠に消えない、暖かい熱と光がある。
今も胸の内側で、炎の燃える音がする。
炎の燃える音 鋼野タケシ @haganenotakeshi
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