ひと夏のソプラノを、君と

真野絡繰

🎼

「それは――」

 チカゲ先生、と呼ばれた若い女性は一瞬だけ不思議そうな顔をした後で、ゆっくりと言葉をつないだ。

「メロディーじゃなく、その曲のイントロだけを吹けるようになりたい……と、いうことですか?」

「はい」


 僕がこの楽器屋のドアを開けたのは、予想外の行為だった。

 駅前の書店で文庫本を買った後で、なんとなく散歩していた。あまり歩いたことのない裏通りにさしかかったとき、ふと楽器屋の店頭に貼られたポスターに目を取られた。

 ――だけだった。


<初心者歓迎! サックス&トランペット教えます>


 その色あせた文字を見た瞬間、脳裏にひとつのメロディーが流れた。いくつもの映像が浮かんで、匂いや温度や手触りの記憶が心臓を鷲づかみにしてきた。そのまま抗いようもなく、僕は磁石に吸い寄せられる砂鉄のようにドアを開けていた。


「あの……ソプラノサックスを教えてもらうことはできますか?」

 店内には、さまざまな楽器が所狭しと並べられていた。声をかけたゴマ塩頭の店員は僕を一瞥もせず、「今ちょうど先生がいますから」と小声でつぶやくと、奥のドアから二階に向かって「チカゲせんせーい!」と呼んだのだった。


「それで、どの曲のイントロを?」

 小柄で色白。ストレートの髪を背中まで垂らしたチカゲ先生は、くっきりとした二重瞼で僕を見つめる。

「スティングの『English Man In New York』なんですけど……」

 イントロも副旋律もソロも、すべてソプラノサックスによって奏でられる曲。それを吹いてみたい、と思った。


「何かの発表会とか……ですか?」

 前から考えていたわけじゃない。つい二分前、生徒募集のポスターを見た瞬間に思いついたことだった。というより、きた。

「人前で演奏するようなことじゃないんです。音楽は聴くだけで楽器の経験はないし、楽譜も読めません。でも、できたら三ヵ月後の――」


 九月十二日。


 日付を告げると、チカゲ先生はほんの少し首を傾げた。そして数秒後、考えるというより直感したような口ぶりで判定を下した。

「今日は六月十日……。三ヵ月、一緒に頑張ってみましょうか」


 そうして僕はひと夏のあいだ、香坂こうさかかげ先生の生徒になった。彼女は僕と同じ年で、音大を出て二年目のサックス奏者だった。


          ♪


 僕がうら理香りかと出会ったのは四年前。同じ夏に、同じコンビニでアルバイトをしていた。理香は人懐っこく活発で、いつもハキハキと接客して、ボーイッシュなショートカットが似合う女の子だった。


「最近、帽子さんを見かけた?」

 ある日、理香に聞かれた。通ってる大学は違うものの同年齢ということもあり、僕たちはよく話すようになっていた。


「そういえば、ここ二週間ぐらい見てないかも」

 帽子さんは常連客のひとりで、おそらく四十歳前後の女性だ。トレードマークのように被っている赤いキャップから、理香がそう名づけていた。


「私たちがいない時間帯に来てくれてるならいいんだけど……」

 帽子さんはひどく痩せていて――というより骨と皮しかなくて、理香の目測によれば「せいぜい三十五キロぐらい」しかなかった。いつも穿いているホワイトジーンズはブカブカで、それに包まれた太ももは僕の腕より細そうなぐらいだった。体の線を隠すためか、真夏でも長袖のTシャツを着ていた。


「コンビニはここだけじゃないし。五分ぐらい歩けばスーパーもあるし……」

 僕はその方向を指さした。でも、理香は首を横に振る。

「その五分が遠いの。そこまで歩ける体力がないから」


 理香は女子大の栄養科に通い、管理栄養士を目指している。

「帽子さんの体、そんなに悪いの?」

「うん。どう見ても、明らかな栄養失調だよ。毎回、ここで買うのはスナック菓子とかアイスとかばっかりでしょ? 想像だけど……摂食障害じゃないかな」

「……大変そうだ」

「私も、高校のときになりかけたからわかるんだ。短期間だったから、泥沼にはハマらなかったけど」


 翌日も、その翌日も帽子さんは来なかった。それから数日が過ぎて、やっと訪れた帽子さんは以前よりさらに痩せ、力のない目が皺だらけの顔に落ちくぼんでいるように見えた。そしてフラフラと店内を一周し、お目当てのスナック菓子を抱えてレジにやってきた。


 そのとき――


「これも入れておきますね。よかったら、食べてみてください」

 理香は笑顔と一緒に、一個のチキンナゲットをレジ袋に滑り込ませた。


「で、私はお支払い……っと」

 精算を済ませた帽子さんが店を出ていくと、理香はジーンズのポケットから小銭を出してチキンナゲットの代金をレジに入れた。


「ずいぶん思い切ったことしたねえ」


 僕は言った。でも、理香はまだ心配そうだった。


「人間の体をつくるには、タンパク質と脂質が不可欠なの。食材でいうと、お肉とか卵とかね。お菓子なんかじゃ炭水化物しか取れないし、帽子さんにはとにかく栄養を入れなきゃいけないから、あんな小さなナゲットひとつだけでもタンパク質を食べてくれればいいんだけど……」


 やや無鉄砲ともいえる理香のこの行動は、翌日にひとつの答えを導いた。いつものように来店した帽子さんが、いつものようにスナック菓子や炭酸飲料やアイスクリームを満載にしたカゴを持ってレジにやってきたときのことだった。


「そこの、ナゲット……下さい」

 二本の指を示して、「二個」という意思表示もなされていた。帽子さんの声を聞いたのは、このときが初めてだった。

「昨日の、おいしかったですか?」

 理香が明るい声で聞くと、頬をゆるめてにっこりとうなずく。

「はい、すっごく」


 笑顔で店を出ていく帽子さんを見送った後で、理香は無言のまま僕に手のひらを掲げた。何か声をかけようとしたけれど、考えるより先に体が動いてしまって、僕はその小さな手にハイタッチした。理香の目は、うっすらと濡れていた。


「あのさ板倉いたくらくん。今日、バイト終わった後は何か用事ある?」

「べつに何もないけど?」

「じゃあカラオケ行かない? お酒飲んで、歌って、お祝いしたい気分なの」

「うん。行こう」


 理香はカルアミルクに口をつけただけで頬を真っ赤に染めながら、次々と歌い続けた。高音でもよく伸びて、空まで突き抜けるような声だった。

 交代しながら一時間ほど歌った後で、僕たちは少し休憩した。このときになってやっと、女性とふたりきりで個室にいることに気づいた。それからは、隣り合って座っている距離感が近いのか遠いのかもわからず、ただソワソワしているだけだった。


「ねえ。キスして」

 突然、耳元で聞こえた。理香は僕の目の前に顔を差し出しながら、自分の頬を指さしている。僕は何の迷いもなく、そのやわらかそうな頬に唇を近づけた。

 ――と

 その瞬間、彼女は急に顔を動かして、僕に向き合わせた。咄嗟だったから、僕は自分の動作にブレーキをかけられず、そのまま唇と唇が重なることになった。


「あ……」

 思わず、声が漏れた。

「あ……?」

 理香は無邪気な目で僕を見ていた。そして子どものように微笑んだ。


「……今、奪われた?」

「違うよ。私が奪われた」

「それ、マジで言ってる?」

「じゃなくて、私が奪ったかも」

「どっちなんだよ」

「……えへへ」

「笑ってごまかすな」

「じゃ、もう一回。ちゃんと」


 理香は再び目を閉じた。

 僕はその肩に手を乗せ、そのまま軽く引き寄せた。そして、もう一度――

 キスした。永遠みたいな時間だった。


「これで、大丈夫だった……かな?」

「……板倉くん、もしかして初めて?」

「うん」

「私も」

 薄いピンクの口紅を引いた唇に光が反射していて、どんな花より美しかった。僕の心臓はいつまでも跳ねて暴れ回り、手のひらには理香に預けられた体を支えた感覚が残っていた。


「めっちゃ照れるね」

「うん」

「もっと歌おっか。照れ隠しに」

「ていうかさ。理香さん、歌うますぎ」

「板倉くんも上手だよ。声いいし」

「レベルが違う。ピアノとか、やってたことあるの?」

「小学校四年から高校まで、ずっとブラバンだった」


 サックスを吹いていて、なかでもソプラノサックスが好きだったという。でも僕は、その楽器がどういうものかを知らなかった。

「サックスには五種類あって、そのうち一番小さくて、一番高い音が出るやつ」

「どんな音?」

「あ、ちょっと待って。えっとね――」

 バッグからプレーヤーを出して操作し、ヘッドホンを差し出してくる。

「スティングの『English Man In New York』。イントロから終わりまで、ずーっと鳴ってるのがソプラノサックスだよ」

 どこかで聴いたことがある、物悲しいメロディーの曲だった。そこにソプラノサックスが寄り添うようにして、哀愁と情感を加えていた。

「きれいな音だね」

「でしょ? 私、大好きなの。この音」

「これをずっと、高校まで吹いてたんだ?」

「こんなに上手には吹けなかったけどね」

 この日、理香と僕の関係は「バイト仲間」から急速にランクアップした。僕も望んでいたことだった。


          ♪


 サックスという楽器は、そう簡単に吹きこなせるものではない――と知ってはいたものの、予想以上に難しかった。それでも週一回、千景先生のレッスンを受けるとともに個人練習を重ねることで、それなりの音が出せるようになっていった。


「板倉さんは板倉さんだから、CDと同じように吹けなくてもいいんです」

 最後のレッスンを終えると、千景先生は静かに言った。「本番」の二日前だった。

「はい」


 彼女はCDの演奏を楽譜に書き起こして細かく分析し、僕に口移しするかのように丁寧に教えてくれた。不出来な生徒に、何百回と手本も見せてくれた。

「集中して、でも気合を入れすぎないで頑張ってくださいね」

「ありがとう。僕なりに吹いてきます」

 千景先生は厳しく、そして優しかった。

 この先生に出会えてよかった、と心から思った。


          ♪


 帽子さんは、その後も日に日に血色を取り戻していった。僕たちと言葉を交わすようにもなり、三十二歳であることや、ときどき入院していることを教えてくれた。最も大きな変化は、よく笑うようになったことだった。


 僕はあらためて理香に心を打ち明け、彼女もそれを受け入れてくれた。それから僕たちは毎日のようにカフェで話し、スマホのメッセージを途切れずに送り合った。それでも足りずに、深夜になってから互いの部屋を訪れる日もあった。そうして一緒にいられる時間を僕は心から楽しみ、理香が楽しいと言ってくれることにも満足していた。

 でも、それは永遠に続くものではなかった。理香は突然のように体調を崩してしまい、しばらくして「ちょっと入院することになっちゃった」という一行だけのメッセージを送ってきた。


 病名は、急性骨髄性白血病。どう検索して調べても、命にかかわる大病だった。


「誰かを健康にしようとして管理栄養士なんか目指してるくせに、自分がこんなんじゃダメだよね……」

「なに言ってんの。君は帽子さんを元気にしたじゃないか」


 幾度となく見舞いに行き、そうやって普通に会話できる時間が愛おしかった。しかし、理香の体重はどこまでも際限なく落ちていき、やがて抗がん剤の副作用から頭髪をすべて失った。できることなら代わってやりたい、と何度も思った。そして闘病生活が二年を過ぎようかとする頃、彼女はその命の灯を静かに消した。


 ――僕は、三浦理香という名の物語に何かを刻むことができたのだろうか?

 いくら考えてもわからなかった。どれだけ我慢しても、どんな抵抗をしても止まらない涙が、いつまでも流れ続けた。


          ♪


 新幹線と在来線とタクシーを乗り継いで着いた菩提寺には、思いのほか広い墓地があった。それでも、三浦家の墓碑がある場所はすぐに探し当てることができた。


「一応、頑張って練習してきた」

 花束と線香を手向けた後で、僕は理香に話しかけた。そしてケースからソプラノサックスを取り出し、心を込めて『English Man In New York』を吹いた。


 八小節のイントロを吹き終え、これだけでゴメン……と言いかけたとき、背後から拍手の音が聞こえた。――千景先生だった。


「先生。どうして?」

 少しだけ微笑んだ千景先生の足元には、花束と水桶があった。それを持ち、ゆっくりとこちらに歩いてくる。


「私、理香とは高校が同じで、ブラバンも一緒だったんです。本番が九月十二日って聞いて、もしかして板倉さんが吹くのはここじゃないかと思ってました。一周忌ですもんね」


 そう。今日は理香の命日――。


「それに気づいてからは、理香になったつもりで教えてました。お手本を吹くときに、この子のクセを取り入れたりして……」

 千景先生は、優しく撫でるように墓碑に触れる。


「だけど、今日のために練習してるあなたの気持ちを邪魔しちゃったらいけないと思って……ずっと黙ってて、ごめんなさい」

 そして、しゃがみ込んで手を合わせた。声が震えていた。


「さっきの演奏、とってもよかった。理香も喜んでますよ、きっと」

「なら、いいですけど……」

 千景先生は立ち上がり、もう一度手を合わせた。


「ねえ、板倉さん――」

 そして振り返った。黒く長い髪に、九月の光が当たっていた。いつも見ていた教室での姿と違って、別人のようにまぶしかった。


「楽器……この夏だけでやめないで、もう少し続けませんか?」


 僕はうなずき、なんとなく空を見上げた。

 澄んだ空にぽっかりと浮かんだ雲に理香が寄り添って、微笑んでいるようだった。

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