JAGUAR WARS
智草 峻博
プロローグ
ジャガー、ここでいっているのは断じて車ではない。プロレスラーでもない、漫画のキャラクター、千葉にいる宇宙人のことでもない。動物園にいるネコ科のジャガーの話をしよう。
ネコ科ヒョウ属に分類される彼らは動物園でもライオンやトラに比べると人気は少ないだろう。ヒョウやチーターに間違われることも聞いたことがあった。そんなジャガーのことを僕が大好きになったのは、どうしてなのだろうか。
バイト帰りの夕暮れ時、駅前の栄えた飲み屋街を通り抜けながら考えていた。
「夜はまだ少し寒いな」
悴む手に息を吐き、空を見上げる。
街灯は明かりをともし始め、日は沈み辺りは暗くなっていく。今日は雲一つ無い快晴で空気が澄んでいたからだろうか、星がよく見える気がする。
「きれいだな」
空に輝く流星を見つけた僕は、平和な日常が続くように願いをこめた。流星は山の向こうに消えていった。僕は足取り軽く、家路に着く。
流星を見た夜にジャガーのことを考えていたからだろうか、昔のことが頭をよぎった。
小さい頃、僕は衛星放送の動物ばっかりが出るディスカバリーなチャンネルをずっと見ていた。男の子なら誰だってそうだろう。幼い頃、何かに憧れをもつ、例えば電車や飛行機などの乗り物、魔法使い、華やかな暮らしをしている王様や貴族。
僕の場合は、それが動物だっただけだ。理由は母に動物園に連れて行ってもらったという至極単純なものだった気がする。
「おかあさん、あの動物は何ていうの?」
幼い僕は、優しい顔をした母に問いかける。
「あれはペンギンさんよ」
母は微笑んで答えた。
「それじゃあ、あのモフモフしたマフラーをつけてるネコちゃんは?」
「ひうっ、あれはねライオンさんね……」
幼稚園に通っていた頃の僕でもすぐにわかった。母は、とてもライオンを怖がっている。僕は何も考えずに言ったんだ。
「ライオンさんが怖いの? 僕が守ってあげるよ。あんなおっきなネコちゃんなんて僕のぱんちでイチコロさ」
「ダメよっ、そんな危ないこと!」
声を荒げて母は怒った。確かに危ないことだが、なぜ母がこんなにも怒ったのかは今でもわからなかった。よほどライオンにいい思い出がないのだろう。
「うっ、ごめんなさい」
涙ぐむ僕を見て我に返ったのか、母はいつもの優しい表情に戻った。
「私こそごめんね、急に怒ったりして。お母さんは、うーちゃんが守ってくれるって言ってくれてとても嬉しかったわ」
このときの母は優しいながらとても真剣な表情だった。
「でもね、うーちゃん。約束してね。絶対に危険なことはしないでね」
「わかった、おかあさん」
幼い僕には、よくわかっていなかった。けれど珍しい母の姿は記憶に刻み込まれている。
この後も、同じコーナーにいたトラやヒョウ、チーターにもビクついていた母だったが、あるネコ科の動物には、いつもより優しい表情で見つめていた気がする。
それこそがジャガーである。
母は突然、スイッチが入ったかのように饒舌になった。さっきの弱々しい母は、どこへ行ったのやら笑顔で僕にジャガーについて色々と教えてくれた。
僕はネコ科の動物全般が好きだが、ジャガーが特に好きなのには母の影響なのだろう。そうこのときの母の表情が忘れられなかったのだ。
僕には母しかいない、それを苦に思ったことはない。
弱みを見せず僕を養うために朝から晩まで働いてくれた母は強かった。そのおかげで、僕は生活力を高め家事全般をこなせるようになる。
稀に夜中にもよおしてトイレに向かうと、ベランダで母が寂しそうな顔で夜空を眺めているのを見たことがある。
「おかあさ……?」
母の頬に流れるものを見て、僕は呼びかけるのをやめて息を潜めた。
何も声をかけることはできなかった。何を言っていいのかもわからなかった。なぜ泣いていたのか、なんとなくわかるってしまう。きっと父のことを考えているのだと。
この歳になっても、父親のことは聞けずにいた。母は自らの家族のことも話したことはない。僕には婆ちゃんや爺ちゃんがいるのかも知らない。それでも母がいれば、それでよかった。気になっているのは確かだが、聞いてしまったら何かが壊れてしまう気がして怖かったのかもしれない。
今となっては後悔する。聞いておけばよかったと、そう思った。母の言うとおりに危険なことに手を出してはいけなかった。でも危険なものだとは思わなかったんだ。誰もが危険なことになるだなんて思わないだろう。男なら特にそう思うはずだ。ただ嬉しいことがあっただけなのに、どうしてこんな目にあっているのだろうか。
「どうして、こんなことになるんだよ!」
屋上に僕の声が響く、空はオレンジ色に染まりとても綺麗だった。僕は手紙を握りしめて、必死に逃げる。何から逃げているのかは自分でもよくわからなかった。ケモノのようなヒトのような、ファンタジー世界の獣人とでも言うのだろうか、そんなものに襲われていた。学校の屋上で。
「くそっ、くそっ。昔のことばっかり思い出すなんて、これが走馬灯ってやつか……」
屋上には逃げ場がなく、端のフェンスに追い込まれる。振り返ると2人のケモノが鋭い爪で、僕に襲い掛かっていた。恐怖のあまり意識が飛ぶのがわかる。
「なぜ、こんな目に。ラブレター貰っただけなのに……」
短い人生だった。獅子戸雨神、十七歳の春は始まった途端に終わりを告げる。
JAGUAR WARS 智草 峻博 @chigusa-toshihiro
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