最終話

 明け方から降りはじめた霧雨は、昼近くになっても止まなかった。うるんだ大気が、街の輪郭を滲ませている。

 自宅は飛行場から目と鼻の先にあり、外出するときは自ずと飛行場の前を通ることになる。

「くそっ、動力エンジンがひとつ、欠けやがった!」

 不意に、野太い怒鳴り声が耳を打ち、私は振り向いた。門の脇に詰所があり、制服に身を包んだ年かさの男が、伝声管に向かって喋っている。窓が開いていた。大声を出すなら閉めるべきだと、私は眉をひそめる。騒音だ。

「まったく、休むなら自分で代わりを用意しろってんだ」

 別の班の管理職らしい。部下が体調不良で休むのか。彼のような人間が自分の上司でなくてよかったと、私は胸中で嘆息する。

(どうして、そんなに偉そうなんだ。自分は飛べないくせに)

 飛ぶ能力のない者が、なぜ、飛ぶ能力のある者を使役する?

 飛べない者が、飛べる者より優位だと、それが当然だと、なぜ信じている?

 信じていられる?

「……風使いの、力なんて」

 歩調を速めた。一刻も早く、その場から遠ざかりたかった。

 格納庫の前に、飛行機が一機、引き出されている。機体の腹が開けられ、くすんだ灰色の髪をした若者が、列をなしながら、続々と入っていく。入れられていく。淡々と、無表情に。

 飛行機の動力エンジンとして雇用された風使いだ。機体の腹の中には、長椅子が所狭しと並べられ、彼らはそこに、隙間なく詰め込まれていく。無機的に、機械的に。

(私も、いつか、あの中に入るのか)

 操縦することすら叶わず、

 ただ風を紡いで、

 人間を乗せた無機物を、ただ浮かべるためだけに、消費される動力に。

 個々の動力エンジンがつくり出した風をまとめ上げ、機体を正しく飛行させるよう調整するのが、私たち操縦士だ。その平均年齢は、およそ二十歳。あと二年もすれば、風を遣う力はさらに衰え、私は操縦士を引退することになるだろう。

(そのとき、私は、動力エンジンになることを望むだろうか)

 機体の腹が閉ざされる。厚く、重く。

 彼らは、動力エンジンになってでも、風を扱いつづけていたかったのだろうか。

 少しでも空に近い場所で――人間から遠い場所で、生きていたかったのだろうか。

(でも、その後は……?)

 首を横に振る。足を速める。

 飛行場を抜ける頃には、駆け出していた。

 速く、はやく。

 絡みつく思考を、振りきるように。


* *


 岬に着く頃には霧雨は上がり、磨硝子のような雲からは僅かに薄日が洩れていた。

「昨日は、悪かった」

 私はまず詫びた。彼――悠惟の喉に痣は見られず、唇の傷も癒えているようだった。彼の体を損ねることにならなくて良かったと、私は安堵した。

「こちらこそ、これ、どうもありがとう」

 手渡された私の羽織は、きれいに洗濯され、ぴんと折り目をつけて畳まれていた。

「自分で風を起こして乾かせるから、ぼくたちの力って便利だよね」

 小首を傾けて、そんな軽口さえたたいてみせる。とても昨夜、硝子の破片で自身を切り刻もうとしたこどもには見えない。

「風邪、ひかなくて、よかったな」

 私は口の中で呟くように言った。

「うん。外出許可も、ちゃんと取ってきたよ」

 彼は明るく笑った。解いた銀の髪が、白い頬にさらりとかかり、細い肩を流れる。

 彼が着ている紺の衣は、私もいつか袖を通していた制服だ。胸の奥に、感傷が爪を立てるのを、私は無視した。

「さっそくだけど、その羽織を着て。寒いから」

「え……?」

 くるりと背を向け、悠惟は岬の先へ歩いていく。

「ちょっと、待っ……」

 小走りに追いかける。あと一歩踏み出したら海へ転落するという崖の際で、彼は私に向き直った。

 すっと、私に向かって、白い両腕が掲げられる。

 あどけない頬に、透きとおった微笑を浮かべて。

「さぁ、飛ぼう」

 なんのためらいもなく。

 どこまでも自然に。

 当然のことのように。

「なに、言って……」

 私は瞠目する。私たち風使いは、私的な飛行を厳しく制限されている。例外があっても、人命救助のときなど、やむを得ない場合だけだ。

 まともに風をつかえるのは、人間の監視下に、管理下に、置かれているときだけ。人間のために力を使うときだけと決められている。安全性がどうとか、秩序がどうとか、理由はいくらでも被せられた。規則を定める人間に、飛ぶ者はいないのだから。

「ここの上空は、どの飛行機も通らない」

 誰にも見つからないよ。

 私に両腕を差し伸べたまま、彼は微笑みつづける。

「私は……」

 目を伏せて、うつむく。

「私は、もう飛べない」

 体の横で、こぶしを握りしめる。

「飛べるよ」

 彼は、あっさりと言う。

「昨日、ぼくを海から引き上げて、ここまで飛んで戻ったのは、あなたの力だ」

「それは、夢中で――」

「自分の限界を知るのが、そんなに怖い?」

 凛と、彼の言葉が、海風を打つ。

 弾かれたように、私は顔を上げた。一対の青が、私をまっすぐに見つめていた。

「もっと、飛べるはずだって」

 まだ、飛べるはずだって。


――こどもの自分が、まだ、生きているはずだって。


「言うな!」

 彼の言葉を、遮っていた。叫んでいた。

「私は……っ」

 眩暈めまいがする。頭の中で、声がこだまする。おとなたちの声。


――おめでとう。


 拍手。

 笑顔。

 ひらかれた門。

 卒業式。


――今日から君は、普通の人間だ。


 おとなになって。

 正しく在って。

 こどもの自分を殺して。

 空を手放して。


――普通で在るべき人間だ。


「私の理想の空を、現実にとさないでくれ……!」

 顔を伏せる。膝をつく。

 気づかされたのだ。

 暴かれたのだ。

 空は自由であるという幻想に。

 囚われて、繋がれて。

「そのいましめを、解きにいこう」

 彼の声が、くずおれた私の背中に降る。やわらかく、優しく。

 ふわり。彼の風が、私を包む。

「自由になるために」

 地面を蹴る。

 雲の上へ。

 果てのない青の中へ。


――私の心の牢獄へ。


 保護のおりに入れられ、飛ぶことを封じられるのがこどもなら、

 義務のかせを付けられて飛べなくなるのが、おとななのかもしれなかった。

「……悠惟……」

 私を導く華奢な背中を見上げる。高度は早くも、演舞の舞台である三千を超えた。大気は急速に凍てつき、陽の光は肌を刺すように熱を尖らせる。

 雲は既に、遥か下だ。

 空気が薄い。

 呼吸が苦しい。

 それでも飛びつづける。

 青の中を。

 上昇する。

 悠惟を追いかけて。

 でも、

(……ここが……)

 紡ぐ風が、足りない。

 私の能力では、これ以上は上がれない。

「……私の、限界だ……」

 声が落ちる。足もとに地面はない。言葉は地上へ、雨のように降っていく。

「じゃあ、ここで舞おう」

 ひらり。彼が振り向く。私から離れて、場所をあける。

「あなたは、今、自由だ」

 規則も、常識も、

 理想も、現実も、

 ここには、ない。

「水晴」

 在るのは、ただ、体ひとつだけ。

 飛びたいという、心ひとつだけ。


 わたしという、命だけ。


(――飛べる)

 風をまとう。

 気流は音色のように私を包む。

 陽の光は何にも遮られず、

 蒼穹の舞台に影は差さない。

 光。

 青。

 風。

 その中へ、身を投げる。

 この体の、

 この心の、

 この命の、すべてで。


(……あぁ、そうか)

 空には、なにもない。

 この手で掴むものも。

 この足で踏みしめるものも。

(この体は、空に在るべきものじゃない)

 どれだけ望もうと。

 願おうと。

(だから、悠惟は――)

 知覚する。

 理解する。

 私の縛めが、幻想が、音を立てて崩れていく。


 ぼくは、

 おれは、

 わたしは、


 ただの、人間だった。


「……悠惟」

 息が切れる。

 肩を上下させながら、私は悠惟を見すえる。

「私を、空に、放ったのは……」

 陽の光に煌めく銀の髪。青の世界に映える白い肌。空を嵌めこんだ瞳。そこに映る自分の姿を、今ならまっすぐに見つめることができる。

 彼の薄桃の唇が、ほのかにほころんだ。

「あなたは、死のうとしていたぼくを生かした。だから仕返しに、死にかかっているあなたを生かしてやろうと思った」

「仕返しか」

「仕返しだよ」

 ははっ、と私は笑った。声を立てて笑ったのは、いつ以来だろう。

「なら、私は……」

 彼に向かって、声を放つ。紙飛行機のように、飛び立たせる。私の言葉を受け取るのも、破り捨てるのも、悠惟次第だ。

「この先、私は生きる限り、きみを生かしつづけると、約束しよう」

 風を紡げなくなった体でも、まだこの両手で、未来を結ぶことができるなら。

 未来を繋ぐ糸の片方を、きみが握っていてくれないか。

「……水晴」

 銀のまつげが瞬く。青の瞳が、一瞬、大きくなり、そして、すっと細くなった。笑みのかたちだった。

「ぼくを生かす責任は重いよ」

 悪戯っぽく、悠惟は笑った。望むところだと、私は答えた。

「地に足をつけて生きるんだ。重いくらいが、ちょうど良い」

 両腕を掲げた。上空の悠惟に向かって。

 悠惟は頷き、私のもとに降りてきた。

「……あぁ、青いな」

「空が?」

「私が」

 苦笑する。けれど私の頬に、もう自嘲は滲まない。

 降りていく。空の舞台から。人の生きる地上へ。


 天上の青から、放たれて。


 この体は、人と同じかたちをしている。ひとのかたちを、している。

 空を飛ぶのに、足なんて必要ない。腕だって、必要ない。

 けれど、この体には足がある。地上で生きるものの証がある。


 そして、飛ぶのに必要のない、この両手は、

 誰かを、地上に――命のそばに、

 結び合うために、在るのだろう。

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