最終話
明け方から降りはじめた霧雨は、昼近くになっても止まなかった。
自宅は飛行場から目と鼻の先にあり、外出するときは自ずと飛行場の前を通ることになる。
「くそっ、
不意に、野太い怒鳴り声が耳を打ち、私は振り向いた。門の脇に詰所があり、制服に身を包んだ年かさの男が、伝声管に向かって喋っている。窓が開いていた。大声を出すなら閉めるべきだと、私は眉を
「まったく、休むなら自分で代わりを用意しろってんだ」
別の班の管理職らしい。部下が体調不良で休むのか。彼のような人間が自分の上司でなくてよかったと、私は胸中で嘆息する。
(どうして、そんなに偉そうなんだ。自分は飛べないくせに)
飛ぶ能力のない者が、なぜ、飛ぶ能力のある者を使役する?
飛べない者が、飛べる者より優位だと、それが当然だと、なぜ信じている?
信じていられる?
「……風使いの、力なんて」
歩調を速めた。一刻も早く、その場から遠ざかりたかった。
格納庫の前に、飛行機が一機、引き出されている。機体の腹が開けられ、くすんだ灰色の髪をした若者が、列をなしながら、続々と入っていく。入れられていく。淡々と、無表情に。
飛行機の
(私も、いつか、あの中に入るのか)
操縦することすら叶わず、
ただ風を紡いで、
人間を乗せた無機物を、ただ浮かべるためだけに、消費される動力に。
個々の
(そのとき、私は、
機体の腹が閉ざされる。厚く、重く。
彼らは、
少しでも空に近い場所で――人間から遠い場所で、生きていたかったのだろうか。
(でも、その後は……?)
首を横に振る。足を速める。
飛行場を抜ける頃には、駆け出していた。
速く、はやく。
絡みつく思考を、振りきるように。
* *
岬に着く頃には霧雨は上がり、磨硝子のような雲からは僅かに薄日が洩れていた。
「昨日は、悪かった」
私はまず詫びた。彼――悠惟の喉に痣は見られず、唇の傷も癒えているようだった。彼の体を損ねることにならなくて良かったと、私は安堵した。
「こちらこそ、これ、どうもありがとう」
手渡された私の羽織は、きれいに洗濯され、ぴんと折り目をつけて畳まれていた。
「自分で風を起こして乾かせるから、ぼくたちの力って便利だよね」
小首を傾けて、そんな軽口さえたたいてみせる。とても昨夜、硝子の破片で自身を切り刻もうとしたこどもには見えない。
「風邪、ひかなくて、よかったな」
私は口の中で呟くように言った。
「うん。外出許可も、ちゃんと取ってきたよ」
彼は明るく笑った。解いた銀の髪が、白い頬にさらりとかかり、細い肩を流れる。
彼が着ている紺の衣は、私もいつか袖を通していた制服だ。胸の奥に、感傷が爪を立てるのを、私は無視した。
「さっそくだけど、その羽織を着て。寒いから」
「え……?」
くるりと背を向け、悠惟は岬の先へ歩いていく。
「ちょっと、待っ……」
小走りに追いかける。あと一歩踏み出したら海へ転落するという崖の際で、彼は私に向き直った。
すっと、私に向かって、白い両腕が掲げられる。
あどけない頬に、透きとおった微笑を浮かべて。
「さぁ、飛ぼう」
なんのためらいもなく。
どこまでも自然に。
当然のことのように。
「なに、言って……」
私は瞠目する。私たち風使いは、私的な飛行を厳しく制限されている。例外があっても、人命救助のときなど、やむを得ない場合だけだ。
まともに風を
「ここの上空は、どの飛行機も通らない」
誰にも見つからないよ。
私に両腕を差し伸べたまま、彼は微笑みつづける。
「私は……」
目を伏せて、
「私は、もう飛べない」
体の横で、
「飛べるよ」
彼は、あっさりと言う。
「昨日、ぼくを海から引き上げて、ここまで飛んで戻ったのは、あなたの力だ」
「それは、夢中で――」
「自分の限界を知るのが、そんなに怖い?」
凛と、彼の言葉が、海風を打つ。
弾かれたように、私は顔を上げた。一対の青が、私をまっすぐに見つめていた。
「もっと、飛べるはずだって」
まだ、飛べるはずだって。
――こどもの自分が、まだ、生きているはずだって。
「言うな!」
彼の言葉を、遮っていた。叫んでいた。
「私は……っ」
――おめでとう。
拍手。
笑顔。
ひらかれた門。
卒業式。
――今日から君は、普通の人間だ。
おとなになって。
正しく在って。
こどもの自分を殺して。
空を手放して。
――普通で在るべき人間だ。
「私の理想の空を、現実に
顔を伏せる。膝をつく。
気づかされたのだ。
暴かれたのだ。
空は自由であるという幻想に。
囚われて、繋がれて。
「その
彼の声が、
ふわり。彼の風が、私を包む。
「自由になるために」
地面を蹴る。
雲の上へ。
果てのない青の中へ。
――私の心の牢獄へ。
保護の
義務の
「……悠惟……」
私を導く華奢な背中を見上げる。高度は早くも、演舞の舞台である三千を超えた。大気は急速に凍てつき、陽の光は肌を刺すように熱を尖らせる。
雲は既に、遥か下だ。
空気が薄い。
呼吸が苦しい。
それでも飛びつづける。
青の中を。
上昇する。
悠惟を追いかけて。
でも、
(……ここが……)
紡ぐ風が、足りない。
私の能力では、これ以上は上がれない。
「……私の、限界だ……」
声が落ちる。足もとに地面はない。言葉は地上へ、雨のように降っていく。
「じゃあ、ここで舞おう」
ひらり。彼が振り向く。私から離れて、場所をあける。
「あなたは、今、自由だ」
規則も、常識も、
理想も、現実も、
ここには、ない。
「水晴」
在るのは、ただ、体ひとつだけ。
飛びたいという、心ひとつだけ。
わたしという、命だけ。
(――飛べる)
風をまとう。
気流は音色のように私を包む。
陽の光は何にも遮られず、
蒼穹の舞台に影は差さない。
光。
青。
風。
その中へ、身を投げる。
この体の、
この心の、
この命の、すべてで。
(……あぁ、そうか)
空には、なにもない。
この手で掴むものも。
この足で踏みしめるものも。
(この体は、空に在るべきものじゃない)
どれだけ望もうと。
願おうと。
(だから、悠惟は――)
知覚する。
理解する。
私の縛めが、幻想が、音を立てて崩れていく。
ぼくは、
おれは、
わたしは、
ただの、人間だった。
「……悠惟」
息が切れる。
肩を上下させながら、私は悠惟を見すえる。
「私を、空に、放ったのは……」
陽の光に煌めく銀の髪。青の世界に映える白い肌。空を嵌めこんだ瞳。そこに映る自分の姿を、今ならまっすぐに見つめることができる。
彼の薄桃の唇が、ほのかに
「あなたは、死のうとしていたぼくを生かした。だから仕返しに、死にかかっているあなたを生かしてやろうと思った」
「仕返しか」
「仕返しだよ」
ははっ、と私は笑った。声を立てて笑ったのは、いつ以来だろう。
「なら、私は……」
彼に向かって、声を放つ。紙飛行機のように、飛び立たせる。私の言葉を受け取るのも、破り捨てるのも、悠惟次第だ。
「この先、私は生きる限り、きみを生かしつづけると、約束しよう」
風を紡げなくなった体でも、まだこの両手で、未来を結ぶことができるなら。
未来を繋ぐ糸の片方を、きみが握っていてくれないか。
「……水晴」
銀の
「ぼくを生かす責任は重いよ」
悪戯っぽく、悠惟は笑った。望むところだと、私は答えた。
「地に足をつけて生きるんだ。重いくらいが、ちょうど良い」
両腕を掲げた。上空の悠惟に向かって。
悠惟は頷き、私のもとに降りてきた。
「……あぁ、青いな」
「空が?」
「私が」
苦笑する。けれど私の頬に、もう自嘲は滲まない。
降りていく。空の舞台から。人の生きる地上へ。
天上の青から、放たれて。
この体は、人と同じかたちをしている。ひとのかたちを、している。
空を飛ぶのに、足なんて必要ない。腕だって、必要ない。
けれど、この体には足がある。地上で生きるものの証がある。
そして、飛ぶのに必要のない、この両手は、
誰かを、地上に――命のそばに、
結び合うために、在るのだろう。
ヘヴンリーブルー ソラノリル @frosty_wing
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。