第4話
黒い海から、彼を抱え上げた。抵抗するだろうかと一瞬、思ったが、彼はおとなしく私に担がれるまま、暴れたりはしなかった。
岬に戻り、彼を降ろした。濡れそぼった薄衣は、彼の体をひときわ細く小さく見せていた。焚き火でもできれば良いのかもしれないが、あいにく、火の
「ひとまず着替えることを強く勧める。風邪をひきたいなら、止めはしないが」
口にしてから、我ながら矛盾した
「死ぬのは止めたのに」
凛と澄んだ、こどもの声だった。白い喉は、ほっそりとひららかで、まだおとなの太さも低さもごろつきも、芽生える気配はない。
「でも、ありがとう」
幼い、小さな手が、私の羽織を拾い上げる。
「ここで着替えても?」
「ああ、後ろを向いておく」
「別に。見たいなら見てもいいよ」
「そんな趣味はない」
言い捨てて、背中を向けてやると、彼はまた、くすくすと笑った。
「ぼくのことを、知っている?」
衣擦れの音に重ねて、彼の声が潮風に乗って耳に届く。
「……ああ。イチノセ・
名前だけ、私は答えてやる。その名に付随する数多の肩書は、言わずともこの国の常識だ。国立空中舞踊学校の首席、過去最年少の主将、風神に愛された若子、世紀に一人の逸材――社会という無機物の中で、彼を表し、分類する、自明の
「そう……」
彼が、そっと、息をつく。衣擦れの音が止む。
着替え終わったのかと、私が問いかけようとしたとき、
「あなたのことも、知っているよ」
彼の口から放たれた科白に、私の呼吸が、一瞬、止まった。
目を見ひらき、肩越しに振り返る。
私の羽織をまとい、彼は私に、まっすぐに体を向けていた。雲間から滴る月の雫に濡れて、彼の白い肌は、ほのかに光を宿すように浮かび上がって見えた。羽織の藍が、彼の白さをいっそう際立たせている。
「カナイ・
彼の薄い唇が、私の名を紡ぐ。
「国家指定操縦士で、今年で十八歳」
するすると、彼は私の肩書を口にする。淡々と、
背中を冷たい汗が伝う。唇がわななく。やめろ、と言いたかった。叫びたかった。けれど私の喉は凍てつき、彼の科白を遮ることはできなかった。
「国立空中舞踊学校、第百四期卒業生」
黙れ。
「当時の次席にして、昊天組の主将候補」
黙れ。
「ぼくがいなければ、ぼくの地位に就いていたのは、あなただった」
「っ、黙れ!」
彼の喉を、両手で掴んだ。勢いのままに押し倒す。交叉する親指の付根で、ヒュ、と彼の呼吸が狭まる。
――運がなかったね。
いつか、私の肩を叩いた言葉が、頭の中で鳴り響く。
国立空中舞踊学校では、入学と同時に、配属される舞踊団が決められる。蒼天組、昊天組、旻天組、上天組の四組が、そのまま生徒の学級であり、六歳で入学してから十五歳で卒業するまで、所属する組が変わることはない。完全な実力主義で、学年を問わず最も能力の高い風使いが、その組の主将に選ばれる。だから、自分より優れた上級生がいるあいだは自分は主将にはなれないし、逆に、一度主将の座についたとしても、才能ある下級生が台頭してくれば、あっけなくその座を追われる。他方、組の縛りは厳格で、どんなに優秀でも組をまたいで主将になることはできない。
――ご愁傷様。
私にかけられた、数々の同情の言葉。憐憫のまなざし。
四年前、実技試験で私と拮抗していた上級生が卒業して、主将の座があいた、丁度その
――運に左右される程度の才能なんて、
そう、自分に言い聞かせてきた。それで納得するよう努めてきた。
イチノセ・悠惟は、他の追随を許さない、別格の、至高の、天上だったから。
「……さっきの、科白を、ひとつ、訂正するよ」
細い喉を震わせて、彼が
「ぼくのこと……そして、あなたのこと……知っている、と言った、けど……憶えている、と、言うべきだった」
「……なぜ……」
指先がこわばる。彼の首にまわしていた両手を、解く。彼は顔をそむけ、少し咳きこんだ。
「殺せばよかったのに」
「なぜ、私を
彼を見下ろし、睨みつける。彼は私に組み敷かれたまま、小さく喉を鳴らして目を伏せた。
「あなたは……」
冷えきった彼の唇に、じわりと
「どうして、主将になりたかったの?」
地位のため?
名誉のため?
卒業後の安定のため?
おとなという、将来のため?
「……自由に、飛ぶためだ」
絞り出すように、私は返答した。首を絞められてもいないのに、私の口からこぼれたのは、狭まる喉をこじあけて吐いたような、無残に掠れた声だった。
「主将になれたら、
ひとりで舞える。
集団に縛られずに。
周りと合わせずに。
自在に。
自由に。
そう、夢みたのだ。
望んだのだ。
「地位なんか、名誉なんか、安定なんか……」
将来なんか。
おとな、なんか。
「考えたくなんて、なかった……」
自由を手に入れるには、一番にならなきゃいけなかった。
自分が自分として在るためには、並び立つものがなにもないほどに、遥かな高みへ上りつめなければならなかった。
「……舞踊学校に入らなければ、空に上がることさえ許されない。学校に入っても、飛ばせてもらえるのは演技のあいだだけ。それも、厳格に同調を強いられて……列を乱しちゃいけない、輪から外れちゃいけない、足を上げる角度も、腕をひらく幅も、なにもかも……周りと揃えて、はみだしちゃいけなくて……」
「空はずっと広いのに……風使いとして生まれたのに、どうして人間の決めた
飛べないくせに。
飛べなくなるくせに。
「卒業したら……おとなになったら、どのみち人間の中に放りこまれる。人間の中で生きなくちゃならなくなる……飛ぶ力も消えていって、ただの人間に成り果てて……それなら、せめて、こどもでいられるあいだくらい、自由に飛ばせてくれたっていいじゃないか……!」
風使いの力は、おおよそ十五歳を
「……あなたは」
ぺたり、と頬に、濡れた彼の手が触れた。それは、ひんやりと冷たく、頬に上った熱をしんしんと鎮めていく。
「おとなになっても、自分を生かそうとしたんだね」
ぞっとするほど、おとなびた声音だった。
「……どういう意味だ?」
私は僅かに瞠目する。彼は私をまっすぐに見上げていた。澄みきった青い瞳が――私が願ってやまなかった蒼穹が、私を正面から見つめていた。
ふわりと、ひらく微笑。
「明日の正午、またここに来られる?」
軽い口調で、彼は言った。つとめて、そうしたようにも感じた。
「この羽織、返したいんだ」
「……ちゃんと外出許可をとって来るなら」
答えると、彼は「大丈夫」と小首をかしげて笑ってみせた。明るい笑みだった。
「日頃の行いが良いからね、ぼく」
悪戯っぽく片目を
身を起こそうと彼が
「それじゃ」
白い手が、ぱっとひらいて、ひらひらと別れの身振りをする。
返されるきびす。
湿った土を踏む、小さな足。
「イチノセ」
とっさに呼びとめていた。足が止まる。白い頬が振り返る。銀の
「悠惟がいい」
「え……?」
「ぼくの呼び名」
悠惟でいい、ではなく、悠惟がいい、と言った。
透きとおった青の瞳を、微笑のかたちに細めて。
「悠惟……」
響きを確かめるように、私の声が名を刻む。彼は満足そうに頷いて、私が呼びとめた理由を待っている。
寮まで送ると、言うべきなのだろうと、思った。おとなとして、それが、こどもにかけるべき言葉、正しい答えなのだと。
けれど、
「…………約束を、しよう」
私の口から放たれたのは、あどけない言葉だった。
「私は、明日、必ずここに来る。何があっても、絶対に来る。だから……」
それは結び目だった。未来を繋ぐ、幼い結い方だった。
悠惟の瞳が、すっと大きく、私を映す。それはひらりと瞬きを数え、薄く
細い喉が、頷く。
「ぼくも、約束する」
微笑に彩られたまなざしは、さっきよりもあどけなく、つくりもののようなこどもらしさは、微塵もなかった。
「必ず、あなたに会いに来るよ」
ふわり。内側から
夜空へ消えていく彼の背中を、私はしばらく見上げていた。
小さな背中だった。
こどもの体だった。
世紀に一人の逸材と
風神の申し子と持て
生きつづければ、やがて、おとなになる。
白銀の髪は灰色にくすんで。
蒼穹の瞳は
雪花の肌は土埃を被って。
『ぼく』は『私』に矯正されて。
無機物に囲われ、
人間の
人間のために、消費される。
普通の人間と、同じように。
(――だから、なのか?)
生きつづけても、飛べなくなるだけなら、
おとなになる前に、
飛べるうちに、終わりたかった?
自由自在に空を舞って。
(なぁ、悠惟?)
こどものまま、
幸福なうちに、その青を、
永遠に閉ざしてしまいたかった?
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