第3話
同僚たちは打ち上げだとこぞって街に繰り出していったが、私はその集団には混じらず、足早に職場をあとにした。
向かう先は、街外れの岬。
過去には観光地として賑わいをみせていた時期もあったらしいが、今では見る影もなく寂れ、住人のいない家々と、雑草の生い茂った空き地、放棄された屋台群が潮風に朽ちて崩れているのが海岸線に沿って横たわるだけだ。黎明や黄昏の絶景が望めるわけでもない。この国の空は年に七日も晴れないから、美景に酔いたい人間は、それ専用の遊覧飛行を予約する。雲の上からなら、天候に左右されることなく、拝みたい景色をいつでも満喫することができるから。
つまり、この場所を訪れる人間など、滅多にいないということ。
ここは、私がひとりになりたいときに訪れる場所のひとつ。
日はとっぷりと暮れていた。季節は春の終わり。昼間は汗ばむほどだったが、夜になると肌寒い。吹き抜ける海風に肩を縮めながら、私は適当に引っかけていた
岬の先が近づいてくる。聞こえるのは、私の足音と、潮騒だけ。
(よかった、私ひとりだ)
そう、小さく安堵の息をついたとき――
ふわり。潮風とは異なる肌触りの風が、私の頬を撫でた。次いで、パシャン、と、かすかに水の跳ねる音が、私の
(……誰か、いる……?)
魚が跳ねただけではないかと、一瞬、脳裏をささやかな可能性が掠める。けれど、屋台群の廃墟を抜け、視界がひらけたとき、目の端をひらりと
「……え……?」
ここにいるはずのないこども。
まとう風に
華奢な体を取り巻くように流れ、輝く、色とりどりの硝子片。
イチノセ・
彼が、そこで、舞っていた。
協奏する
照明となる陽の光もない、
黒い海の上で。
たったひとりで。
「……なんで……」
茫然と、私は立ち尽くす。彼の演舞を、私は瞬きも忘れて見つめた。
しなやかに風を編み上げ、旋回。
水面近くまで
ひといきに気流を紡ぎ、上昇。
ぴんと整えた指先から風の糸を張り、
数珠のように硝子を並べる。
緩急をつけ、間を溜めてから、
宙返りと同時に、硝子片を一斉に正円に放つ。
それは瞬く間に集束し、
様々な幾何学模様に、目まぐるしく変化する。
個々の硝子に回転をかけ
雲が切れる。
清冽な月の雫が黒い水面に注ぎ、玻璃の破片を敷き詰めたように輝かせていく。
白銀に輝く海は、星の原の如くで。
彼のために、世界が舞台を
彼の舞は続く。
再び水面近くまで急降下。
すらりと伸びた脚の先に、集合させた硝子を寄せ、
寸分の狂いもない線対称の放物線を引いて、急上昇。
硝子の欠片が水を散らし、飛沫がきらきらと光の軌跡を辿る。
澱みのない所作。
滞りのない演技。
すべてが完璧に整えられた、ひとつの流れの線上にある。
合わせる音楽などなくても、彼自身が音色を奏でるような舞だった。
陽の光の照明などなくても、彼自身が闇夜を払うような
静寂を引き立てる波の音。
静謐に引き立つ白銀の光。
滑らかに弧を描きながら、低くたなびく雲の近くまで、彼は上がった。自身を包むように、硝子の欠片を球状に組み上げる。その数は、彼が普段舞台で遣っているより少ないようだ。おそらく、七百くらい。自主練習だろうか。いや、そんなことはありえない。彼らは学校に、最高の練習場が用意されている。第一、こんな夜更けに外出すること自体、たとえ許可を申請したとしても到底認められるものではない。
(何を、している……?)
彼は、私に気づいていないのか。
雲のすぐ下まで上がったところで、彼は自身を囲む硝子の籠の中で、
その刹那。
ふっ、と彼が、まとう風を止めた。
編み上げた硝子の
そういう技だと、最初、思った。
さっきのように水面ぎりぎりで旋回し、急上昇するものだと。
疑いもしなかった。
彼が、海に、墜ちるまでは。
「っ、な……」
私の背中に、冷たい電流が走る。
風の糸を切られた硝子片が、彼の体をめがけて、一斉に降り注いでいた。
「イチノセ!」
無意識に、片手を、伸ばしていた。
いや、両手を、掲げていた。
ざわり。肌がさざめく。
久しぶりの感覚。
封じていた激情。
衝動。
破裂する。
決壊する。
湧き立つ。
旋風。
(――ああ)
私は、笑っていた。
叫んでいた。
狂ったように。
いや、狂っていた。
その瞬間、私は、たしかに。
狂喜していた。
彼を切り刻むべき硝子が、
けたたましい音を立てて、跳ねのけられる。
私の紡いだ風だ。
わたしが、解放した風だ。
硝子どうしがぶつかり、粉々に砕けていく。
光の残骸が、黒い海に沈んでいく。
切り立つ岬の先から、私は身を躍らせていた。
風をまとい、
飛び立つ。
彼に向かって。
黒い水に浮かぶ白い体。
月の光を湛え、銀の
そのときの彼の表情を、私は、生涯、忘れることはないだろう。
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