第2話

 風使いの能力は遺伝しない。両親が風使いであっても、その子どもが風使いの力をもって生まれてくるとはかぎらない。逆も然り。だから風使いに、いわゆる血統サラブレッドは存在しない。

「あーあ、生で観たかったなぁ、イチノセくんの演舞」

 畳の上に行儀悪く横たわり、新聞を読んでいた姉さんが、ごろりとひとつ寝返りを打った。夕刊には、早くも昼間の公演の様子が一面に掲載されている。初日の公演は大成功。満員御礼。そんな太字が紙面の空白を狭めている。

「いいなぁ、あんたは、いつも間近で観られて。ねえ、鑑賞券チケットに従業員枠ってないの? 福利厚生とかさ」

 絡げた襦袢じゅばんから伸びる脚を交互に遊ばせながら、姉さんは私に上体を向ける。

「ないよ。っていうか、あるわけない」

 ただでさえ空中演舞の鑑賞券は競争率が高い。そんな優待なんてしたら、この国の人たちから袋叩きにされる。

「一応、公務員だもんね、あんたたち」

 姉さんは肩をすくめた。何かにつけて叩かれることの多い職業だ。品行方正、清廉潔白、清貧で在れ。理想が過ぎて、いっそ非実在的フィクショナルだ。安定しているものは叩かれやすい。安定しているから、叩きやすいのだろう。どれだけ叩いても壊れないと信じているから、存分に叩けるのかもしれない。叩いて、たたいて、叩き潰して壊れたら、この国の人たちは何て言うのだろう。「自分のせいじゃない」と怒鳴るのだろうか。「勝手に壊れたんだ」とわめくのだろうか。責任を負えない子供みたいに。

 国なんて、空に比べたら、ずっと不安定なのに。

 空は、究極に安定している。

 でも、空は叩かれない。

 空は傷つかない。

 人の手も声も届かないから。

 国がほろんでも、空は滅びない。

「ねえ、水晴スイセイ

 名前を呼ばれて、私は思考を引き戻される。姉さんが、瞳を輝かせて私を見上げていた。

「生で見たイチノセくんって、どう? やっぱりかっこいい? かわいい?」

「またその質問? 何とも言えないよ。そういう目で見たことないから」

 溜息とともにそう答えて、私は、はたと口をつぐむ。

(そういう目って?)

(どんな目?)

(私は、どんな目で、彼を見ている?)

 泡のように浮かびかけた自問は、再びかけられた姉さんの言葉でぱちんと弾けた。

「だって、気になるじゃない。空中舞踊の学校は全寮制だし、公演以外じゃ、ろくに外出もできないんでしょう?」

 生で見られるのは、彼が卒業した後だ。

 おとなに、なった後だ。

「どんなおとなになるのかなぁ、イチノセくん」

 姉さんが、うっとりと呟く。

 私には、姉さんの心情が理解できない。

(おとなになったら……)

 私は唇を引き結ぶ。

 白皙はくせきの肌はくすむだろう。

 銀糸の髪は煤けるだろう。

 紺碧の瞳はかげるだろう。

 そして、

 もう二度と、自由に飛ぶことはできなくなるのだ。

「……彼は、おとなになるのかな」

 私の唇から、ぽつりと呟きがこぼれた。

「え?」

 姉さんが首をかしげて聞き返す。なんでもない、と私は首を横に振る。

 目を閉じてうつむく。まぶたの裏の暗闇に、鮮烈な白の残像が、ひらひらと舞った。

「大丈夫? 水晴、顔色が悪いみたいだけど」

 白を通り越して、いっそあおいわよ。

「そうかな……少し疲れているのかも」

 もう寝るよ、と私は自室へときびすを返した。明日も仕事だ。

 明日も私は、雲の上に浮かぶ。無機物に覆われた、閉ざされた体で。

 そして明日も、彼は舞う。遮るもののない、開かれた空で。

「……イチノセ・悠惟」

 彼の名前を、そっと紡ぐ。

 緞帳カーテンをあける。窓から空を見上げようとして、硝子に映る自分に焦点ピントが合った。窓の外は暗く、硝子は私の体を鏡のように克明に映し出す。ざわり。私の胸の奥で、私が私にわらいかける。

――顔色が悪いのは、おとなだからだよ。

 煩い。うるさい。

 緞帳を引く。顔を伏せ、歯を食いしばり、湧き上がる激情を飲み下す。


 私は、彼のように飛ぶことはできない。

 死ぬまで、叶わない。

 私の空は、永遠に失われたままだ。


 固く目を閉じる。

 灰色の髪も、青褐色の瞳も、蒼褪めた肌も、見たくなかった。


 深く息を吸って、吐く。


 空が永劫、美しいのは、

 人から最も遠い存在であるからかもしれない。

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