ヘヴンリーブルー

ソラノリル

第1話



 卒業おめでとう。

 今日から君は、普通の人間だ。




 高度三千――いつもの仕事場に、私は上がってゆく。

「視界良好。傾斜、速度、風圧、すべて異常なし。指定空域で待機完了」

 声に出して確認すべし、と記載された業務手引書マニュアルに従い、私は脳裏に浮かべた確認事項チェックリストを読み上げていく。淡々と、機械的に――そう、至極、機械的に。手引書というものは網に似ている。詳細になればなるほど、自己流の入り込む余地はなくなる。夾雑物のない均質な勤仕サービス。綿密な手引書によって半自動化された機構システム。私という有機物は、この飛行機――およそ五百余りの人間を内包して飛ぶ巨大な無機物を、手引書プログラム通りに動かすために組み込まれた部品パーツにすぎない。

動力室エンジンルームへ指令。気流の波に備え、出力増加用意」

 動力室――この機体の腹に詰め込まれている同僚たちに、傲慢にも同情の念をいだきながら、私は伝声管の蓋を外し、指示を出す。了解、と応える声に、抑揚はない。私と同じだ。どこまでも無表情で、無機質。

 小さく息を吐き、天蓋キャノピィの先を見上げる。

 一面の青。

 目の醒めるような原色。

 気怠いにごりもよどみもない、混じりものの一切を濾過された蒼天。

(さしずめ自分たちが唯一の異物か)

 コツン、と指先が硝子にぶつかり、我に返る。無意識に手を伸ばしていた。蒼穹は、私の思考を容易たやすく吸い上げる。いっそ、この体ごと、果てしない青の中に引きこんで……すくい上げて、溶かし尽くしてくれれば良いのに。

(とんだ感傷だ)

 苦笑に自嘲を滲ませる。空は何もすくい上げたりなどしない。ふるい落とすだけだ。だからこんなにも完璧に澄みきったままで在りつづけることができるのだろう。永遠に透明な青。空は劣化しない。滅びない。地上と違って。人間と、違って。

 私は一度目を伏せ、再び頭上に目を凝らす。

(……来た)

 チカチカ、と、銀の光が明滅する。合図だ。私は再び、伝声管に手をかける。

「開幕まで秒読み開始。十、九、八……」

 私は意識を研ぎ澄ませる。ここからの操作は、着陸に次いで神経を使う。

「三、二、一」

 ふわり。下から吹きつける風に、機体がゆらりと大きく持ち上げられる。気流の波だ。私は出力の上がった動力を巧みに調整し、機体にぶつかる風のうねりをいなす。ここでいかに揺れを抑え、乗客の乗り心地を快適なまま保てるかが、操縦士である私の技量にかかっている。

(さすが、風の勢いが段違いだな)

 機体を取り巻く風に集中しながら、私は視線を風防の外へ投げる。辺りには、この機体以外にも、同業者が揃って機首を並べている。今日の遊覧飛行の動員は、先週までと比べて倍に近い。なぜなら今日は――

 瞬間、白い影が、目にも留まらぬ速さで、下から上へと視界を縦断していった。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……最初はまばらに、その後は細い列となって、影は遥か上空へと駆け抜けていく。矢のように速く、機体を揺らさんとするほど力強い一陣の風。これは余興だ。乗客の歓声を、旋風つむじかぜがさらっていく。白い影は、機体の上空で小さくまとまって集合し、数秒、間を溜めた後、ぱっと大きく散開した。定規で引いたように歪みのない幾何学模様の整列。綾をなす逆光が、木洩れ日のように光の雫をちりばめる。湧き上がる拍手と口笛。

 純白の衣装に身を包んだ、百人ほどの少年少女だ。彼らを乗せた風が止むと同時に、開幕を告げるがくが鳴り響く。上空に浮かんだ彼らは、そろって宙返りをして挨拶した。飛行機の背、客席から、歓声が上がる。拍手が落ち着くのを待って、ゆるやかに流れる前奏が、なめらかに観客の期待を引き継いでいく。

 ひらり。

 こどもたちが、舞いはじめる。

 ひら、ひら、と。

 澄みきった青の中に、真白の羽を散らしてゆくように。

 風使いのこどもたちによる、空中演舞だ。

 一糸乱れず統制された集団演技。個を感じさせない、無機的な美しさ。

 まとう白妙の衣装が花のようにひるがえる。

 空に咲き乱れる雪白の花。ただ、身ひとつで舞いつづけるのではない。機体後方の上空――先刻、開幕の合図が送られてきた、観客席からは死角となる舞台袖にあたる空域だ――から、色とりどりの光の雫が、こどもたちの上に、雨のように降り注ぐ。かれた光は大小様々で、小さいものは子供のこぶしほどだが、大きいものでは大人の頭の四倍ほどある。それは、宝石のように多面体に整えられた色硝子だった。こどもたちは両手を掲げ、それを空中に浮かせたまま受けとめる。複数の硝子片を、彼らは体の周りでくるくると巧みに操り、縦横無尽に舞いつづける。ひらひらと踊る白い影と、その周りできらめく光のかけら。その光景は、さながら蒼穹に展開する極彩色の万華鏡だった。

 やがて、ひときわ大きな拍手が、楽の音を刹那、掻き消した。くるりと円形に整列したこどもたちの輪の中心に、すっと小柄な影が躍り出る。

――イチノセ・悠惟ハルイ

 この国で、彼の名を知らない者はいない。国立空中舞踊学校首席にして、同附属舞踊団がひとつ、昊天こうてん組、過去最年少の主将――そんな長く重い肩書が広報誌を賑わせたのは四年前のことだ。以来、彼は空中演舞の世界の頂点に君臨しつづけている。

 華奢な少年だった。公式発表では、現在十一歳。透きとおった白磁の肌と、陽の光を弾いて輝く銀の髪、晴れ渡った真昼の空をそのまま嵌めこんだような青い瞳――風を操る能力が高いほど、肌の白さと髪の銀、瞳の青が鮮やかになる風使いにおいて、彼の容姿は別格だった。実際、その力は、途轍とてつもなかった。普通の風使いが操ることのできる硝子片はせいぜい十数個で、百個もつかえれば、以前なら、それだけで充分首席を狙える技量だった。

 しかし彼は、千の硝子を扱える。ひとりで、舞踊団一団分の華やかさを演出できてしまう。彼ひとりいるだけで、一個舞踊団の倍以上の風使いを抱えるのに等しい豪奢な演目が可能になるのだ。

 だから、彼が属する舞踊団、昊天組の人気は、群を抜いていた。国が抱える舞踊団には、蒼天そうてん組、昊天こうてん組、旻天びんてん組、上天じょうてん組の四つがあり、二月ごとに順番に公演を行うが、今月から始まる昊天組の公演の鑑賞券チケットは、発売日の当日に、全ての日程が完売したという。

 観客の歓声を、私は背中で聞く。

 青の舞台の中心で、彼は舞う。

 楽曲の緩急に乗って、まるで彼自身が音楽を奏でていくように。

 自在に。

 自由に。

 各舞踊団の中で、唯一、主将だけが舞うことのできる独演部ソロパート

 透明な無限の青の中で、彼だけがあらゆる統制から解放されていた。

 手引書に縛られることもなく。

 集団と揃えられることもなく。

 彼は舞える。

 彼自身として。

 腕の角度、指先の表情、爪先の所作、上体の捻り、視線の推移――己の体で、静の美しさを魅せながら。

 巧みに遣いまとう硝子の光で、動の美しさを演出する。

 個を排した集団の、無機的な死のような美でなく。

 個から生まれる、溢れるほど有機的な生々しい美。

 果てのない青の世界で、彼だけが今、自由だった。


 コツン、と、私の指先が、再び天蓋キャノピィの硝子にぶつかった。無意識に、また、空に手を伸ばしていた。厚い天蓋に遮られ、その向こうを流れる風に、指先ひとつ触れることはできない。一面に広がる透明な青に、この身を浸すことは叶わない。

 伸ばした指先を、ぐっと握りこむ。

 天蓋越しに、私の双眸は彼の姿を追いつづける。

 異次元の才能、風神の申し子、世紀に一人の逸材――様々な二つ名を背負いながら、彼は今日も軽やかに風を操り、硝子の光をまとい、自由自在に青の舞台で踊る。

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