700円のラーメン

 きっとこの店の人は、お客の腹を一杯にさせることが最上の喜びと感じているのだろう。体力勝負の人間を相手にするなら、その理念は間違っていない。


 しかし、もし私がこの店の人間で、一目で観光だとわかるお客様に声をかけるなら、三種の海草か、あるいは魚介仕立てのスープの話をする。

 「三陸でとれた海の幸をふんだんに使用した」、その一言だけでラーメンは七〇〇円以上の価値を持つ。


 目先だけを考えれば、当然一五〇円の替え玉を頼ませたほうが一五〇円分の利益になる。しかしそこに発見がなければ、客はこの店の味を忘れるだろう。

 それよりかは、再び来店したファンが七〇〇円のラーメンを一杯頼むほうが、よっぽど互いが幸せになるではないか。

 ファンが知り合いを連れてきて「三陸でとれた海の幸を」とウンチクを垂らしてくれたら。考えるだけで嬉しくなる。



 売り手本意で考えては店は長く続かない。目の前のお客様が喜ぶことをする、それが生き延びる術なのだ。

 目先の利益だけ考えるのでなく長く息を続ける方法を実践しつづけたほうが、結果的に活気があふれる。

 店が潰れたら自身の飯が食えなくなるから……などという単純な話ではない。店が潰れたら商圏内の人々が不幸になってしまうからだ。



 このまちについてなにも知らない。だから考えるものも小売の話だけだ。本当は哀しい出来事がたくさんあるに違いない。楽しい思い出も、それ以上にあるはずだ。


 しかしその話を知りたいと思うには、知りたいと思いたくなるまちの人と会わなければならない。

 その人は役所の人間や僻地の人間ではいけない。店でいえばレジの人間だ。私のような無知の人間が立ち寄るような、まちの玄関口の人間が魅力的でなければ、いくら商品やラーメンや一本松が素晴らしいものでも、人は離れていってしまう。



「ありがとうございました。また、遊びに来てください」


 会計を済まして出ると、外は真夏の真昼間であることを思い出させる灼熱だった。



 陸前高田のことを見棄てようなどとは、微塵も思っていない。

 むしろその逆だった。なにもないからこそ、人間の魅力がわかりやすい。魅力はいくらでも積み重ねられる。仕事で学んだことだ。モニュメントはいつまでも変われないが、私はどうだろうか。


 日光に焼かれたハンドルを握りしめながら陸前高田というまちに熱くなっている自分に気がついた。二年前の自分が見たら呆れるだろうか。それはそれで心地いいものだ。



 彼に電話したらなんて言われることだろう。由利本荘で汗を流して働いていたら愚痴の一つや二つ出てきそうだ。いや、そうでなくても率直な感想を洩らしたら怒られそうな気もする。逆に大笑いして受け止めてくれるかもしれない。


 まあ、どちらでもいい。


 彼は東北に身を捧げると言った。私はそんな気、さらさらない。やはり一販売員なのだ。強いて捧げるとするなら、この身はお客様に捧げる。



 だとしても、だ。

 車は三陸の山道を進んでいる。窓を開けると松の林から蝉の鳴き声が聞こえた。来年もこの音を耳にしたら、車を走らせていることだろう。あの蒼い山と広い空の下にあるまちなみが、いつの間にか私の日常のなかにかたちづくられていた。



終幕

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替え玉 今田ずんばあらず @ZumbaUtamaro

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