Trembling ~誰かがいた――――

花岡 柊

Trembling ~誰かがいた――――

 新生活が始まった。

 卒業が決まり、就職先が決まり、一人暮らしのための家も決めた。荷物を整理し、要るもの要らないものを決めて、家電も揃えて万事オーケー。

 これから始まる未来を夢見て、私は意気揚々としていた。

 仕事は、大変だった。

 学生の時のように大体な感じでやっていたら、痛い目を見る。当然のことだろうと思うかもしれないが、緩い中で暮して来ただけに、実際に経験してからでないと、何をどうしていればちゃんとできているのかなんて判らない。こんな事を言ってしまえば、“出たよ、ゆとり”、“これだから最近の奴らは”なんて常套句が容赦なく飛んで来る。

 しかたないじゃない。何がわからないのかわからないんだから。手取り足取り教えてほしいわ。そう言い返しそうになったけれど、脂テカテカの上司に手取り足取りされている図を想像したら、とてもじゃないが耐えられそうにないから、結局笑って誤魔化した。最終的には、何とかなるでしょ。みたいな。

 軽い? そうかな?

 だって、難しく考えたって、出来ることはできるし、無理なものは無理でしょ。そもそも、サービス残業って何? そんな勲章、何の役にも立たないから。

 こんな安月給でサービスまで強いられるなんて、あなた鬼でしょ。なので、定時には失礼します。また明日。

 明日できる事なら明日やればいいのよ。愚痴りたくても飲みに行く金銭的余裕も持てない給料を支給しておいて、これでもかってこき使う方がどうかしている。

あ、そういえば。昼間に経理の富谷さんが、こんなことを言っていた。

「一人暮らしなんだろう? 変なやつが多いから、気をつけなよ」

言葉だけを鵜呑みにすれば、富谷さんはいい人ってなるんだけど、そう言いながら私を見ていた目が爬虫類みたいに温度がなくて、すっごく気持ち悪かったんだ。

そうね、富谷さんみたいな目をした人には気をつけなくちゃって思ったくらい。

 まーいいや。コンビニ寄って、ご飯買って帰ろ。

 お弁当とデザートのプリンが入ったコンビニ袋を片手に、実家とは違い質素で簡素な部屋の鍵を開ける。中に入って明かりをつければ、狭い三和土にはこれでもかってくらい靴が溢れている。備え付けのシューズボックスに入りきらないパンプス達が、ホームセンターで購入した安くて簡易な棚の上にさらに並んでいた。今日履いて行った地味目のパンプスを、その簡易な棚へ戻そうとして首をかしげた。

 あれ? ルームシューズがない。

 スリッパの代わりに買ったフィット感のある可愛らしい小花柄のルームシューズは、今朝パンプスを履く時に玄関で脱いでいったはずだった。そのルームシューズが見当たらなくて、キッチン奥の部屋へと視線をやったら、そちらの敷居に脱ぎ捨てられていた。

 え? どうしてあんなところに?

 首をかしげながらキッチンを行き、部屋の前にあるルームシューズを履いた。

 それにしても、玄関上がってすぐキッチンなんて、本当に狭いよね。一人暮らしは嬉しいけれど、実家のような広さがないのはちょっとなぁ。

 アンティーク調の折れ脚がついた小さなローテーブルへコンビニ袋を置いてから、今度は別の違和感に気がついた。

「あれ。リモコン……」

 朝出る時、テレビのリモコンはボタンの方をテーブルに伏せて置いた。これはいつもやっていることで、ボタンの周りに埃がつくのが好きではないから伏せるようにしてる。こう見えて、意外と綺麗好きなんだ。ベッドだって出掛けるまでにはちゃんと整えておくし、洗い物だって片付けてから家を出る。その辺に脱いだものを散らかしたままなんて事はしない主義だ。朝使ったコーヒーマグだって、しっかり洗って洗いかごに伏せていった。

 手にしたリモコンを裏に返してからテーブルに置き、キッチンを振り返る。洗いかごへ視線をやって驚きに息を吸った。

 なんでっ!? 洗いかごの中に、マグが……ない。

 瞬時に血の気が引いていき、次にはドクドクと血流が慌ただしく動き出した。感覚的な恐怖にジワリと汗が滲む。

 足を忍ばせゆっくりとキッチンへ近づけば、かごに伏せていったはずのマグがシンクに置かれていた。しかも、使われた形跡がある。

「嘘でしょ」

 声に出すと、余計に血流が騒ぎだす。ドクドクとざわざわと。

 部屋の中に、人の気配は感じられない――――はず……。

 田舎から出てきた一人暮らしだから、隣近所に知り合いなど居ない。助けを求めても、誰も気づかなかったりするのだろうか……。

 そう考えると、余計に不安は掻き立てられていき、恐怖は止まらない。

 ゆっくりと部屋の中を見回した。玄関、戸棚、冷蔵庫。寝室兼リビングのカーテン、ユニットバス。狭い部屋でドアがあるのは、チェストと布団のしまってあるクローゼットにユニットバス。他は、狭いベランダに出る大き目の窓だけだ。

 心臓に手を当て、なるべくゆっくりと息を吸い吐き出した。それでも落ち着くことなく、心音は速い。

 ベッド脇に置いたバッグのそばへ行き、中から携帯を取り出して110番を表示させる。ボタン一つですぐに繋がるようにしたまま、ゆっくりとクローゼットへ近づき手をかけた。中には、冬に使う厚手の羽毛布団と洋服をしまってあるチェストが収まっている。人が隠れるスペースは、羽毛布団の上くらいだ。

 息を静かに吸い、ゆっくりとドアを開けた。部屋の明かりが入り込んだ中は、はっきりと見えた。

 チェストに羽毛布団……。他には何も、誰もいない。

 僅かに息を吐く。

 ドアを閉めてから、今度は締め切ってある窓に近づいた。出掛ける時に締めて行ったカーテンに手を掛け、ゆっくりと開く。カーテンレールの軽く滑る音が、やけに耳障りだ。開けたカーテンの先にある窓ガラスに、自分の姿がぼんやりと映っていてハッとする。

 やだ、自分の姿じゃん。

 なんとか笑ってみようとしたけれど、頬が引き攣りうまく笑えない。

窓ガラスに映る自分の姿の奥をのぞくように見てみても、怪しい人影など窺えない。

 次に窓の鍵へと視線を走らせた。

 大丈夫。鍵はかかっている。

 それでも手をやり、閉まっていた鍵を開けて、小さなベランダをそっと覗き込んだ。街灯の明かりと部屋の明かりでぼんやりと明るいベランダには、室外機が置かれている以外は、洗濯物のタオルなどが干したままになっているだけで誰もいない。

 ほっとした瞬間、突然の物音――――。

 タンタンッ!

 っ!!

 カラスが音を立てて、ベランダの手摺りの上に降り立ち、直ぐに飛び立っていった。

 心臓が止まりそうなくらいの驚きに言葉も出ない。ビクビクしている私を嘲笑うみたいに、わざと脅かしにでも来たんじゃないかとさえ思える。

「やめてよね……」

 カラスへの文句を口にすると、自分では制御できないくらい声がか細く震えていた。

 カラスのせいで余計に落ち着かなくなった心臓に手を当てながら、再び窓を閉め鍵もカーテンも閉めた。

 次は背後を振り返り、キッチンの方にあるユニットバスのあるドアを見て、ゴクリと唾を飲み込だ。

 残るはあそこだけだ。

 ラグを踏みしめ部屋からキッチンへ行き、ユニットバスのドアの前に立った。スイッチを確認する。

 電気は消えたままだ。気配は感じられない。だから、中に人などいるはずは、ない。

 居るわけがないと必死に言い聞かせても、心臓の音は激しく鳴り響き、さっきよりもずっと血流が煩い。

 耳のそばに心臓が来てしまったんじゃないだろうか。

 耳障りな心音と、恐怖に手足が冷えていく。

 震える手をドアノブに掛け、なるべく音を立てないように捻った。ゆっくりとドアを開けて中を覗く。ユニットカーテンは、開けられたままで中がよく見えた。トイレと湯船があるだけの狭い空間だ。人が隠れられるところなどない。

 ほら、やっぱり誰もいない。

 そこで漸くほっと息をついた。胸に手を当て、未だ騒がしい心臓を宥め賺す。それでも安心はできない。使われていたマグに、伏せたはずのテレビのリモコン。

 それから、不意に足元へと視線を向けた。

 朝、玄関で脱いだはずの小花柄のルームシューズを見て、急激に気持ちが悪くなった。帰って来たら、奥の敷居に転がっていたルームシューズそのもの自体がおぞましく感じ、あわてて脱ぎ捨てる。転がるルームシューズを、しばらく恐怖の対象のように見てから振り切るように視線をシンクへ向ける。キッチンの冷たい床の感触が、ルームシューズを脱いだ足の裏から背筋を伝わっていくようで身震いをした。シンクへと近づくと、置かれているコーヒーマグの底には茶色い染みがついていた。誰かが使っただろうマグを持ち上げようと触れてから、素早く手を離した。

 下手に触らないほうがいいだろうか。

 テレビドラマでよく目にする、現場保存という言葉が咄嗟に頭の中に浮んだからだ。

 そうだ、警察。

 左手に持ったままの携帯画面を光らせれば、110番が目に飛び込んで来た。

 私が留守の間、誰かが絶対この部屋にいたはず。警察に電話しなくちゃ。

 震える指先で通話ボタンを押そうとした時だった、突然玄関のドアが前触れもなく開いた!

 ひっ!

 声にならない声が漏れ、握っていた携帯が手からこぼれ落ちる。

 カタンタンッ。

 背を向けるように伏せて落ちた携帯の音に更にびくりとなったところで、誰かが無造作に侵入して来た。

「あら、明子おかえり。冷蔵庫、なんにもないんだもの~」

 シャカシャカとスーパーの袋を掲げると、のほほんと声を上げて笑う相手にストンと腰が抜けた。

「お、お母さん……」

 ペタリと座り込んだ私を、母が不思議そうに見て笑った――――。


「来るなら来るって、連絡くらいしてよね。泥棒かと思って、泣きそうになったじゃん」

 不安と心細さと怒りが入り混じって母に強く言ってみても、ごめんごめん。と笑っていて、然して気にしている風でもない。

「リモコンは伏せといてよね。埃ついちゃうじゃん」

「あら、ごめんなさい。こっちのテレビ、チャンネルが多くていいわね」

 たくさん観るものがあって羨ましいと、鼻歌交じりで話す母にほっとしながら笑みを洩らす。

 よかった。誰かが勝手に入り込んでいたらと思うと、気が気じゃないもの。

 脱ぎ捨て転がっているルームシューズに、誤解だったよ、ごめんね。と片目を瞑り履き直す。

 安堵してから、母が買って来た食材で何やら作ってくれるのを手伝いに、キッチンへと一緒に立った。マグを洗う母を横目に、袋の中からお肉や野菜を取り出していく。

「まったく。リモコンひとつで細かいのよ、明子は」

 呆れたように言いながらも、困った子ね。というように目尻を垂らして笑っているその顔に向かって少し膨れつつも笑みを向けた。

「リモコンのボタンについた埃って、結構掃除しにくいじゃん」

 少しばかり唇を尖らせると、母は肩をすくめて洗ったマグを洗いかごに伏せた。

「その割に、洗い物はそのままなんだから」

 笑いながらそう言った母の言葉に体が固まった。

「――――っ!?」

 そのままって、……言った?

 瞬間的に背筋に悪寒が走る。ザワザワっと一気に鳥肌が立っていく。

 ちょっと待ってよ、じゃあどうして洗ったはずのマグがシンクにあるの……?

「お母さん……、そのマグ使ったんだよね……?」

 今の言葉を撤回して欲しい。

 お願い、本当は使ったんだって言って笑って。

 恐る恐る願うように母へと訊ねた。私の脳内をしめている、最悪な想像を跳ね返してくれる答えを母に期待して。

「使ってないわよ」

 ――――っ!

 母の答えに、私は再び部屋中を見渡す。

 テレビもベッドもクッションもカーテンも。全てに自分以外の誰かが触れた気配がして、再び恐怖へと引き戻された。

 誰……、誰なのっ――――!

 まともに呼吸ができない――――。

 誰かが部屋にいるの?

 恐怖にガタガタと体が震える――――。


 クッ、クククッ。

 通信機器の耳障りな音と共に、下卑た男の笑い声が闇の中に漏れ聞こえている。

「だから、言ったろ。気をつけろって」

クククッ。

怪しい瞳が暗闇でギョロリと動く。

「コーヒー、ご馳走様――――。また、明日な」

クックックッ――――。

 母と娘の会話は、暗く雑然とした部屋にある機械から、雑音を混ぜて漏れ聞こえていた――――。

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